仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(ばかだなあ 04)

2006年08月23日 | 社会
 てれびのにゅーすで、こうたいしのおくさんがびょうきになったので、がいこくでお休みをするといっていました。なんだかこうたいしのおくさんは、いつでもお休みをしているようなきがします。
 どんなびょうきなのかおとうさんにきいたら、あたまがおかしくなったんだとおしえてくれました。こうぞくの人たちは、いろんなところにあそびにいったり、えらい人たちとごちそうをたべたりするのがしごとだときいたことがあります。すごくたのしそうなのにどうしてあたまがおかしくなるのかよくわかりません。もしかしたら、あんまりたのしすぎておかしくなっちゃったのかもしれません。
 おとうさんとおかあさんにそういったら、おかあさんは、
「こうたいしのおくさんのあたまがおかしくなったのは、あの人にふさわしいしごとをさせてあげなかったせいだ。」
といいました。
 おとうさんは、
「そうなるのはさいしょからわかりきっていたことだ。それなのにけっこんしたんだから、いまさらきちがいになるのはあまったれているしょうこだ。あのおんなはどうしようもないできそこないだ。」
といいました。それから、
「こうたいしも、もともとじぶんのかんがえがあまいからこうなったのにひとのせいにしている。ごくつぶしのくせになにをのぼせあがっているんだ。」
とわるくちをいいました。
 おかあさんは、
「こうぞくでもじぶんにふさわしいしごとをするけんりがあるはずだ。」
といいました。そうしたらおとうさんは、
「こうぞくにそんなけんりがあるものか。あいつらはけんりなんてものとはほどとおいやつらだ。」
といいました。
「けんりってなに」ときこうとおもったけど、おとうさんもおかあさんもきいてくれそうにありませんでした。
 おかあさんは、
「あなたはおんなをおとこのせわをさせてこどもをうませるだけのどうぐだとおもっているの。」
と、おとうさんにつめよりました。
「こうぞくというのはそういうかんがえかたをみとめるためにあるものだ。けんりなんてことをいいだすぐらいなら、こうぞくなんてなくすことをまっさきにかんがえろ。」
「このひこくみん。きょうさんとう。」
「だまれ、うよくのきょうしんしゃめ。」
 おとうさんはおこっておかあさんをなぐりとばしました。おかあさんがたおれたところにおとうさんはうまのりになって、もっとなぐりつづけました。たくさんなぐったので、おかあさんはぐったりしてうごかなくなりました。そのあとおとうさんはどこかにでかけていきました。
 しばらくしておかあさんがおきあがったので、こっぷでみずをのませてあげました。
 ぼくはおかあさんに
「どうしてりこんしないの。」
とききました。おかあさんは、
「おとなのことはむずかしいからこどもにはわからないのよ。」
そういってぼくをだきしめ、ながいあいだなきつづけました。
 でも、やすんでばかりでやくにたたないおくさんとりこんしないのは、すごくそんだとおもいます。はやくりこんして、もっとあそびにいったり、ごちそうをたべるのがすきなおくさんをみつければいいとおもいます。それなのにいつまでもいまのおくさんとりこんしないなんて、こうたいしはばかだなあとおもいました。

やすいはなし(心を何に例えよう)

2006年08月17日 | 文化
 原作は著名なファンタジー小説であり、大店のスタジオジブリ制作でありながら、監督が素人という異例の人事で公開前から否が応にも不安感をかき立てた映画『ゲド戦記』(音注意)。果たして観客の評価はあまり高くないようですが、俺も少しばかりもの申したい。ただし、映画本体ではなくてそのテレビCMについて。
 俺は当の映画を観に行ってもいないし、原作すら読んでいない。手掛かりはCMと立ち読みの雑誌の記事ぐらい。だから思い切り的外れなことになるかも知れませんが、CMだけを見る人間は山ほどいるので、その立場からの印象を論じる意味はあるでしょう。あえてこれ以上は調べもせずに書き進めます。
 問題にしたいのは、CMで流れる、主人公らしき暗ーい感じの少年に少女が
「命を大切にしない奴なんて大ッ嫌いだ!」
と言う場面。少女はテルーという名で、CMの別バージョンで意味深げなようであからさまな講釈を垂れている菅原文太がタイトルロールのゲドということは知っているが、少年の名が判らない。仕方ないので、ヤツのことは以後「ヘタレ」と呼ぶことにします。
 で、テルーによればこのヘタレは「命を大切にしない奴」らしい。どんな風に命を大切にしないのだろうか。もしかしてヘタレは、『殺し屋1』のごとくばっさばっさ人を殺してエクスタシーを感じるキャラクターなのかと思ったが、さすがにそれはないだろう(もしそうだったら観てみたい)。たぶんヘタレは「他人の」でなく「自分の」命を大切にしない奴で、それを知ってテルーは憤っているわけだ。
 他人であれ自分であれ、「命を大切にしない」ことは間違ったことであり、それを非難するのは正しいことのように思える。しかし、CMのテルーの台詞を聞くたびに、俺は嫌あな気持ちになります。「大ッ嫌い?それで?」と言い返したくなる。おまえに嫌われて俺が困るとでもいうのか、と。要するに、言い方がどうにも独善的で不愉快なんですね。内容が正しければ、どんな言い方をしても許されるというものではないし、内容の実質的な正しささえ疑わしくなることもある。
 試しに、テルーの糾弾する内容をことさら卑近で極私的でくっだらないことに変えてみましょう。
「目玉焼きにソースをかける奴なんて大ッ嫌いだ!」
「そばつゆにそばをどっぷりつける奴なんて大ッ嫌いだ!」
「私の車に土足で乗る奴なんて大ッ嫌いだ!」
 どうですか、すごくいやな奴でしょう。自分の偏った価値観を押し付けてくる甚だしい勘違い女です。テルーの主張が一般的な道徳観念として正しいとしても、こんな言い方をされて、「はい、そうですか」と大人しく聞き入れる気にはなれない。むしろ、相手の人格を疑ってみるのが気の利いた反応というものだ。
 「正しいことを言っているのだからいいではないか」と反論されるかも知れません。しかし、あの場面で彼女がしているのは、個人的な好悪の感情を相手にぶつけているだけのことです。相手の言動が自分の価値観に合致していないことが、自分にとって不愉快だと言っているだけで、相手への気遣いはまったく感じられない。善意の押し売りも不愉快だけれど、自分の正しさを信じ切って遠慮会釈なしに勝手な怒りをぶつけられるのはもっと不愉快だ。
 「命を大切にせよ」というのがいかに正しいメッセージだとしても、相手のことを慮ってそれを伝えようとしているのでなければ、何の意味もありません。それは、相手の価値を無視しているのも同然なのだから、メッセージ自体の主旨にも反している。こんな実の無い言葉に、やすやすと乗せられるほどおめでたくはない。聖書にもあるでしょう。「ドンナニウツクシイコトバモ、ココロニアイガナケレバ、アイテノムネニヒビカナイ。」もっとも、あの不躾で不作法な台詞を、「美しい言葉」だとはけっして思わないけれど。
 あの台詞だけから単純に解釈すれば、テルーには、相手によかれと思って忠告をするような親切心は一切無いと考えた方が良さそうです。「命を大切にしない奴」は自分の敵だ、だからひたすらに嫌い憎む、というだけであり、好戦的で排他的な人道主義者、という矛盾した性格の持ち主ということになる。主張と行動が乖離してしまう人物、それも、輝かしい理念を掲げながら他者の尊厳を軽視する人物というのは、現在の国際状勢に鑑みれば非常にタイムリーな諷刺に使えそうですが、CMでは彼女は一種の模範として扱われているようであり、そんなややこしいアナロジーがあるとは思えません。
 さらに言えば、これほど自己中心的で自分勝手で底の抜けた人間の倫理観を、そもそも信頼してよいものだろうか。たまたまあの場面では正しいことを言ってみせただけで、いつ「折り曲げ式ストローの蛇腹を伸ばす奴なんて大ッ嫌いだ!」と、訳の判らない理由で激昂し始めるか知れたもんじゃない。彼女の言うことはまず疑ってみた方がいいし、正しいことを言っている時は、誰もがそう判断するであろうような、取るに足らない判りきった内容である可能性が高い。おまけに、自分の好き嫌いをただ言い放って満足しているだけなのだから、もはや始末に負えません。
 もしかしたら、あのような言い方が忠告として最も効果があるという判断なのかも知れないが、これまた腹の立つ話です。「自分に嫌われることをあなたは望まないだろう、だから私の思いどおりに動け」というわけだから。こんな思い上がった人間に、倫理を説かれる謂われはさらに無いな。彼女が物語のヒロイン格のキャラクターである(らしい)ことを考え合わせると、「私は可愛いでしょ、好きになって欲しいでしょ」といういやらしい底意がありそうで、むかつくことこの上ない(テルーは顔に火傷の痕が有るという設定らしいが、画を見る限り大したものではないので、考慮する必要はない)。
 以上のように、CMのあの台詞だけから判断すれば、テルーという少女は、胸が悪くなるほどに傲慢で鬱陶しくて傍迷惑な人物であるという疑いが生じます。この違和感によって視聴者を惹きつけることを狙ったのだとしたら、実によくできたCMと言えるでしょう。映画の中で、あのような言動を取らざるを得ないようなテルーの内発的な動機が語られ、違和感が解決されるのであれば、さらに見事ということになる。
 しかし、少なくともCMの制作者には、そのような企みは無さそうです。そもそも、あの台詞の問題性に気付いてはいないでしょう(問題にしているのはおまえだけだ、というもっともな意見は措いといて)。まっとうなメッセージを、真剣に、ストレートに伝えているつもりなのかも知れません。CMを見る限り、その伝え方を間違っているか、そもそもその内容自体を理解できていないような気がしてならないのですが。
 実際どうなのかは、映画を観て判断しなければなりませんが、俺はアニメを30分間以上見続けると、鳥肌が出っ放しになり、耐え難い残尿感に襲われる特異体質なので、残念ながらそれは叶いません。本当のところは、大して観たくないだけなんだけど。

やすいはなし(神とともに逝け)

2006年08月16日 | 社会
 小泉首相が靖國神社を参拝しました。
 首相官邸のサイトに載っている
8月15日付のインタビューの、相も変わらずの薄っぺらさ+視野狭窄+強弁ぶりが可笑しくてしょうがない。特定アジアにおけるしょーもない騒動の一つの締めくくりにふさわしいもので、これだけ安っぽいと、靖國神社にとってはかえってマイナスなんじゃないかという気もしたが、それは杞憂に過ぎないと思い直す。これこそが国民に届く、国民が今まさに望んでいる言葉なのではないか。
 彼の反論を読んでいると、「他人の言うことなんて聞きたくない」「自分が加害者だとは思いたくない」「少数派よりも多数派でいたい」「ややこしいことは考えたくない」「自分は正しいと思いたい」そんな国民の内向きの声を代弁しているようだ。日本が民主主義国家であることを実感できますね。

 ここで、彼の薄っぺらさに付き合って、俺も薄っぺらい話をしてみる。中国や韓国の言いなりになるのか、と彼は感情的に反論しています。しかし、なぜ言いなりになってはいけないのでしょうか。既にイヤと言うほどアメリカの言いなりになっているのに。アメリカは良くって中韓はダメというのは人種差別的ではありませんか?アメリカに追随するのは国益のためだ、と言うならば、国益のために中韓に追随することも辞さないのが一貫した姿勢というものです。何が国益か、というのは判断が難しいところですが、この東洋の老小国に悩んでいる暇はありません。アメリカとは価値観を共有しているから?中韓とも文化的価値観を共有しているでしょう。靖國神社などは北朝鮮とも価値観を共有しています。何の遠慮が要るものか。

木綿100パーセント(その4)

2006年08月06日 | 文化
(太田裕美『木綿のハンカチーフ』(音注意)への悪口の続き。「その3」からそうとう間が空いてしまったので、何のことやら判らなくなってしまいました。やはり見切り発車はよろしくない、と反省しきりでございます)
 この曲を一聴すると、男ではなく、女の側の意見を正しいものと主張していると感じられるでしょう。歌詞の内容だけではなく、曲そのもののつくりが、そう了解するように聴き手を導いています。
 男の言葉を女がいちいち否定した後、男にはそれに対する反論の機会すら与えられないこと。女の語りの最後では言葉の繰り返しが用いられ、しかも後の部分のメロディーはより起伏が大きくなっているため印象が強められていること(男側の語りの末尾、繰り返し部分の貧弱さを見よ)。歌っているのが太田裕美という(発売当時は)若くてかわいらしい女性歌手であり、女の訴えを肯定するよう促していること。男女それぞれのパートを太田裕美はほとんど同じ調子で歌っているため、男からの私信を女が読み上げているように聞こえることも、これを女側の歌として考えるように働きかけている。
 歌詞の内容の面でも、男にだけ田舎に帰る義務が負わされ、女の方には都会に会いに行くという選択肢が免除されているなど、女側への一方的な肩入れが見られます。また明らかに、男よりも女の方が美化され、優れた人間であるかのように描かれています。都会礼賛を無自覚に繰り広げる男に比べると、田舎を自己の居場所と定め、都会嫌悪を堅固な意志で貫き続ける女からは知性的・理性的な印象を受けるでしょう。好き勝手をして最後には一方的に謝るばかりの男に対し、「木綿のハンカチーフ」というキメ台詞を毅然として叩きつける彼女の方が立派な意見の持ち主に思えるのも無理からぬことです。
 こうしてこの曲は、都会否定論者である彼女の言い分を受け容れよと聴き手に迫りますが、歌詞をよく見ていくと、彼女がなぜそれほど都会を嫌悪し執拗に批判するのか、なぜ都会が否定されなければならないのか、その具体的な根拠はほとんど示されておらず、したがってその主張がひどくあやふやでつかみどころがないことに気付きます。
 彼女には都会が奢侈・虚飾・浮薄・享楽といった悪徳に満ちた世界として見えており、それを攻撃する主張の根幹は、変化を嫌う保守主義や質素を至上とする禁欲主義などの精神論であるようです。それは古風な道徳観として、一般的には妥当な面もあるかも知れません。しかし、そのような信念の裏付けとなる実質が、彼女の中に備わっていると言えるかどうか。言い換えるならば、そのような信念を標榜し、都会を批判する資格が彼女にあるかどうか。この歌詞の中でそれが表されているとは言い難い。
 彼女のように都会の刹那的・享楽的な面を頭ごなしに否定するには、その正反対の価値を体現した、実直で素朴で勤勉で倹約的で、まるで『にほん昔話』の登場人物のような生活をしている必要があるでしょう。そうでなければ、批判された方も納得できない。しかし彼女が対置するものは、「あなたのキス」・「草にねころぶあなた」・「木綿のハンカチーフ」など、過度にロマンチックなばかりで、そのような生活感にはおよそ乏しいと言わざるを得ません(どうして手拭いではなくハンカチーフなどというこじゃれた代物が出てくるのか)。
 都会で浮薄な楽しみに耽る男よりも、自分は精神的に一段高い位置にあると女は思い込んでいるようですが、現実の生活の裏付けがない以上は、頭でっかちで実の無い戯言を弄んでいるに過ぎず、ほとんど説得力を持たない。その主張は都会に対する条件反射的な否定と、非実用的な代案でできあがっており、厳めしいだけで中身のない、こけおどしのはりぼてでしかありません。
 このように田舎の生活感が欠落しているために、この女性が田舎でふだん何をしているのかが最後まで判らず、第一次産業に従事している可能性どころか、不労の疑いが湧いてくるのです。男は都会で遊んでばかりで、勤勉実直とはとても言い難い人物ですが、それでも「スーツ」・「ビル街」などの単語から就労の気配が感じられる。彼女に比べれば、男の生活の方がよほど地に足がついていると言えるかも知れません。女の言葉に乗せられて男が田舎に帰っていたら、二人して一族郎党のお荷物になり、ごくつぶし呼ばわりされていたことでしょう。
 彼女が都会を嫌うのは、恋人を都会に奪われてしまう予感からだ、という理由も成り立ちそうですが、彼女の都会嫌悪の信念はそれ以前からできあがっていたものと考えた方が自然です。前回書いたとおり、この『木綿のハンカチーフ』はそもそもラブソングではないので、恋愛感情を理由としてここで持ち出す必要性も少ない。むしろ、ラブソングとしての見かけは、彼女の主張を受け容れさせるための作為・演出と解釈できます。別れ話を一方的に持ち出された気の毒な女性の言うことであれば、(いまやっているように)細かく詮議したりせずに黙って聞いてあげよう、同意してあげようという同情的心理を利用しているのではないか。逆に言えば、このような粉飾をしなければならないほどに、彼女の言い分は危ういものだということになります。
 これほど登場人物の主張が説得力を欠き、しかもそれを妥当なものとして押し付けるという偏向を示しているにもかかわらず、実際にはこの『木綿のハンカチーフ』は大ヒットを記録しました。これは、曲の内容に聴き手が共感を示さなければ有り得なかったことです。しかも、批判の対象になっている都会に住む人間が支持しなければ(購買層とならなければ)そうはならなかったでしょう。
 不当に誰かを批判している様子を見れば、ましてそれが自分の側に向けられたものであれば、通常は不快感を覚えるはずなのに、なぜ人々はこの曲を受け入れたのでしょうか。語っている内容の妥当性はどうあれ、その語り方・表現方法に説得力があったからか。自分に向けられた批判とは受け取らなかったからか。それらも要因ではあるでしょうが、何より、彼女の意見が不当ではあっても、聴き手にとって心地よいものだったからではないかと思うのです。
(まだ続く。次回ぐらいには終わらせたいなあ)