仮名日記

ネタと雑感

神聖な場所には何も無い(その2・ばかだなあ)

2005年08月25日 | 社会
 きょう、お父さんとやすくにじんじゃというところに行きました。出かけるまえにお母さんは、そんなところに子どもをつれて行くなと言いました。お父さんが、おまえのようなたんじゅんなやつにはいみがわからないんだと言ったので、お母さんは「どうせわたしはぱちんこやのむすめよ」と言っておこりだしました。お父さんはたのしそうにわらっていました。
 やすくにじんじゃはとても大きいじんじゃでした。きんじょのあきばじんじゃよりも大きくてきれいです。とくにいりぐちのとりいはすごく大きくてかっこいいです。おまいりをするところもとてもりっぱで、おさいせんがたくさんあつまるだろうなあと思いました。
 ここにいるかみさまは、せんそうで死んだにほんの兵たいさんたちだそうです。かみさまになれるなんてすごいなあ。きっとてきをたくさんころしたとか、わるいやつをやっつけたとか、とくべつすごいことをした人たちなんだねとお父さんに言ったら、せんそうで死んだらみんなかみさまになれるんだとお父さんは言いました。
 いいこともしてないのに、死ぬだけでかみさまになれるなんてかんたんだなあ。せんそうはみさいるとかせんしゃとかがあぶないので、死ぬのはそんなにむずかしくないと思います。きっとこうつうじこよりもかんたんです。かんたんなことをしただけなのにかみさまになれるのはへんです。うんどう会のれんしゅうでも、がんばる子とがんばらない子がいます。がんばる子はほめられるし、がんばらない子はおこられます。せんそうでもがんばった人だけかみさまにしてあげればいいと思います。そうしないとかみさまのなかになまけものでわるい兵たいさんもまざってしまいます。そんなかみさまはちっともえらくありません。
 じんじゃでおまいりしている人たちのなかにぼうそうぞくがいました。うるさくてめいわくなぼうそうぞくがどうしてかみさまをすきになるのかよくわからなかったので、お父さんにどうしてかときいたら、あの人たちはぼうそうぞくじゃなくてにほんが大すきな人たちなんだとおしえてくれました。じぶんのくにだけをすきになることで、あのひとたちはきもちよくなれるのだそうです。このじんじゃはそういう人たちににんきがあって、にほんがきらいな人たちにはにんきがないんだとお父さんは言いました。
 とくにちゅうごくやかんこくの人はにほんがだいきらいなので、このじんじゃがだいきらいなんだそうです。にほんの兵たいさんがむかしちゅうごくやかんこくの人をいじめたので、わるい兵たいさんをかみさまにしているともんくを言っているそうです。でもかみさまにもんくを言ったらばちがあたるんじゃないかとお父さんに言ったら、むかしはちゅうごくもかんこくもにほんだったから、もんくなんて言えなかったよ、とおしえてくれました。どうしてちゅうごくやかんこくがにほんじゃなくなったのかときいたら、にほんがせんそうにまけたからだ、とお父さんは言いました。
 なあんだ、にほんはせんそうにまけたのか。ぼくはがっかりしました。さっかーのしあいとかでもまけたほうはかっこわるくて、かったほうがえらいです。それにまけたせいでもんくを言われるんだから、せんそうにはかたないといけないと思います。
 せんそうにまけたのはきっと兵たいさんがよわむしだったからです。よわむしのくせにかみさまになるなんてずうずうしいなあ。そんなよわむしのかみさまにいくらおまいりしても、つぎにせんそうをしたときにはかてないと思います。やすくにじんじゃにおまいりにくる人たちはせんそうにかちたくないのかなあ。せんそうにはかったほうがいいにきまってるのに、そんなこともわからないなんてばかだなあと思いました。

神聖な場所には何も無い(その1)

2005年08月19日 | 社会
 8月15日、公約どおり靖國神社に行ってきました。とりあえずは見たものをごく簡単に報告します。

靖國神社

 10時頃、地下鉄の九段下駅に着。地上に出てむやみに巨大な大鳥居方面に向かう。よく晴れて暑い。かなりの人出。普通の観光地などと変わらない人々に混じる鼻息の荒い右翼の集団・軍服を着たお年寄り・警備の警察官と機動隊員。ビラ配りや署名集め、のぼりを立てて演説する人々はいるものの、街宣車による大音量でのアピールは神社近くには見当たらない。
 むやみに幅広い参道を歩いていくと、むやみに高いところに立てられた大村益次郎像の向こうに、「終戦60年国民の集い」というイベントのための特設ステージあり。その横を抜けると車道を挟んでまた鳥居、その奥の銅板葺きの黒い門(神門)をくぐったあたりから拝殿まで、びっしりと行列ができていた(写真をご覧ください)。
 これはつきあってられないと思い、脇を通って善男善女が参拝するさまを斜め(祭儀所前付近)からしばし眺めた後、付属の歴史資料館である遊就館の前まで行ってみたが、当然の如くかなりの混雑。ここには2度ほど入ったことがあるので、無理はせずに千鳥ヶ淵戦没者墓苑(海外無名戦没者の墓)に徒歩で向かう。この時点で10時30分頃。
 途中で、右翼の人々と報道関係者か市民団体と思われる人々との小競り合いをいくつか目撃。警察がすぐに収めてしまうので大した騒ぎにならず。
 10時45分頃、墓苑に着。


千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 靖國神社とはうって変わって人が少なく静穏な雰囲気。木々に囲まれた壁のない六角堂に、遺骨が納められた陶器の棺が据えられている。その前で一礼をした後、休憩所前の説明版を読んでいたら、黒い背広の一団が参拝を終えて後ろを通り過ぎた。中心に見覚えのある人物がいるな、と思ったら橋本龍太郎氏だった。
 靖國に戻る途中の千鳥ヶ淵沿いの道路で人混みに出くわす。10人近い警察官が1人の男を横にして抱え、車まで運んで押し込んでいくところだった。2、3人がそうして連れて行かれただろうか。その先で小規模なデモ隊を警察官が取り囲んでいる。何があったかはよく判らないが、さらに向こうには警察官に阻まれている右翼の一団がいたので、彼らとデモ隊がもめたのかも知れない。右翼のうちの1人が、いきり立ってデモ隊に向かってしきりに挑発していた。年長の仲間が苦笑いしつつ宥める。微笑ましきかな(翌日の新聞に公務執行妨害で活動家・右翼8人逮捕という記事があったが、この騒ぎのことだろうか)。

 11時45分頃、再び靖國神社拝殿の斜め前に着。正午まで待つことにする。右翼の2グループほどがその付近に陣取る。目の前にいる黒い背広でキメた右翼の若者がコントのように大量の汗を流していた。次からは白い背広にしてはどうか。白装束といえば格好もつくだろうし。
 正午、アナウンスとともに黙祷。物音と話し声が消える。蝉の声と車の音が聞こえるばかりのしばしの「静寂」。その敬虔で厳粛な雰囲気をいいものだと思った。自分自身は参加する気にならないけれど。

 その後、すぐ近くにある昭和館(戦中・戦後の国民生活に係る資料館)へ。通常は月曜休館だがさすがに開いていた。


昭和館

 常設展に入る。戦中・戦後の生活用品などが展示されていてそれなりに興味深いけれど、戦争による被害については内容が薄い。特別企画展で空襲の記録などがあり、そのあたりは補われていたが、「国民生活上の労苦」を知らしめるのに常設展示があれでは迫力不足。

 神保町まで歩いていき、中華料理店でバイキング形式の昼食。お粥の薬味に腐乳が置かれているのが珍しい。古書店をいくつか眺めた後、三たび靖國へ。
 15時頃になっていたが、未だ人出は衰えず。特設ステージで中年にしてお下げ髪の女性歌手が「あなたにまた会える」とか歌っていた。森山良子調の歌い方で、時おり調子を外す。拝殿の様子をまたも斜めから見物した後、遊就館へ。相変わらずの混雑のため、入るのは諦めて帰途に就いた。
 
【付記】翌日の新聞によると、15日の靖國神社参拝者は20万5千人とのこと。小泉首相は靖國を参拝せず、千鳥ヶ淵の墓苑を訪れた。

個人崇拝vs.飢えたろくでなし

2005年08月14日 | 文化
 前回は、映画の登場人物達をムキになって罵倒するというかなりイタい行為に熱中した結果、妙なテンションになってしまいました。おかげで「戦後60年」というテーマは忘却の彼方に。今回こそはこのテーマに沿った文章を書きたい、と言いながらまたもや映画の感想です。採り上げるのは、同じ日にハシゴして観てきた政治的題材の映画2本。

 まず一つめは「ヒトラー~最期の12日間~」。


公式サイト入口

 第二次世界大戦末期、ベルリンの地下要塞に籠もったヒトラーとその周囲の人々の「最期の日々」を、史実を元にしてあくまでもリアルに真正面から捉えた作品です。並行して地下要塞の外、苛烈な戦場となったベルリンでの市民達の惨状も描かれ、歴史劇としての厚みが加わっています。
 作中では、時間・空間ともに限定された状況下に置かれた人物像や出来事を丹念に叙述することによって、「事実」を伝えることに力点が置かれています。そのため、ヒトラーやナチスを明確に批判する言葉は少ないのですが、そうした特定の過去への批判よりも根元的・普遍的と思われるメッセージを、二人の登場人物に仮託して発しているようです。
 一人はヒトラーの若い女性秘書で、物語の狂言回しの役割を担っているトラウドゥル・ユンゲ。この映画の元になった証言を残した実在の人物です。映画の最後で老いた彼女自身が(映画の中では本人という注釈は無いけれど)「若かったことは言い訳にはならない。目を見開いていれば(ナチスの犯罪に)気づけたはずだ」と語ります。政治に関わった者はそれぞれの責任を負わなければならない、ということでしょう。
 もう一人の人物は、武器も満足に無い状態でベルリンを防衛しようとする民兵に参加した少年。ヒトラーが少年兵たちを激励する実際の記録映像を見たことがありますが(映画でも役者を使って再現されています)、そこから創作された人物でしょう。無謀な戦いの中で彼の仲間たちは空しく死んでいき、民兵に参加しなかった彼の家族は非国民として同胞に処刑されてしまう。そんな過酷な体験を経てもなお、無益に戦って死ぬよりも生き延びることに価値がある、と彼の存在は示しています。
 この少年とユンゲとの出会い、敵兵の包囲から抜け出そうとするユンゲを、少年が機転によって助け出す場面は、緊迫した状況と相まって映画の中でも特に鮮やかな印象を残します。地下要塞の中で独裁政権の崩壊を見つめ続けたユンゲと、破壊と無惨・瓦礫と死体に溢れた外の世界を彷徨い続けた少年。この二人の背負う運命が劇的に転換し、「戦後」へと踏み出していくさまを表しているようでした。

 この暗くて重苦しい映画を観た後、精神的なバランスを取るべく観たのが「チーム☆アメリカ ワールド・ポリス」。


公式サイト入口(「ENTER~」で入ると音声が出ます)

 世界の治安を乱すテロリスト達に立ち向かう「世界警察」〈チーム・アメリカ〉の活躍を、なぜか「サンダーバード」調の操り人形を使って描く、皮肉と風刺と悪趣味な笑いに満ちたアクション・コメディー映画。「アメリカが世界の中心」「アメリカの軍事力こそが世界の安定をもたらす」というアメリカ右派の世界観を極端に誇張し、そこに下ネタと暴力描写をありったけぶち込んで形にしたものと言えばよいでしょうか。表現が過激すぎたためか18禁になっています。
 現実の世界状況をネタにしてはいますが、この映画はそれに対する左右両派の言説をことごとく虚仮にしており、どちらにも与しません。テロリストに対して過剰な暴力で対抗し、無関係の民間人・建物の犠牲も厭わない、というか眼中に無いチーム・アメリカの恐るべき無思慮さはブッシュ政権などの戯画化だし、それを批判するリベラル派のハリウッド俳優たちも、現実離れしたおめでたさを振りまく勘違い野郎でしかない。「華氏911」のマイケル・ムーアなどは社会主義者のテロリストシンパ扱いされており、文字どおり木っ端微塵にされます。
 わざわざ作り物であることが一目瞭然の操り人形を使ったのは、陳腐かつ空疎なストーリーで薄っぺらいヒロイズムを謳い上げる、最近の大作映画のパロディーとしての意味合いもあるようですが(だから物語の骨格自体は類型的)、この映画に出てくる主義・主張がすべて虚偽であることを示してもいるのでしょう。強いて言えば、「すべてのイデオロギーを簡単に信用するな」という消極的なメッセージが根底にあるとも考えられます。
 現在の緊迫した状況下において政治的態度を明らかにしないのは無責任な逃避だ、という批判も成り立つでしょう。しかし、それは他人から強いられて決めることではないし、そう言って迫る人々に嘘くささを嗅ぎつけるのも一つの見識と言えます。もっとも、この映画は政治をネタにして笑うこと自体が第一の目的であって、笑いでメッセージを伝えようという意図はそもそも薄いようですが。
 
 この「政治的題材」で括るのはいささか無理があるほどに対照的な2作品、「チーム・アメリカ」の方が圧倒的に明るく楽しく、かなり悪趣味とはいえ大笑いできることは言うまでもありません。というか「ヒトラー」には逃げ場ナシの深刻さが渦巻いており、観ていて素直に笑えるようなシーンはまったく無い。にもかかわらず、作中で「希望」が描かれているのは「ヒトラー」の方なのです。
 その希望はやはり民兵の少年に託されています。物語の結末まぎわ、彼とユンゲが自転車で何処かへ向かう姿を正面から捉えたシーンは、見通しのつかない先行きに厳しい現実が待っていることを暗示しつつも、新しい時代への解放感・期待感へとつながっていくようです。虚脱と不安の中の希望。それは戦後のドイツの人々が現実に感じていたものではないでしょうか。
 一方の「チーム・アメリカ」。「アメリカ、ファック イエー!」という決め文句さながらに快活で威勢のいいハッピーエンドなのに、どうにも後味の悪さが残ります。それもそのはずで、最後に勝利を収めるチーム・アメリカが、結局は手に負えない単細胞のままで、今後も好き放題に他国をファックし続けることには変わりがないのだから。現実の世界に思いを馳せれば、大して変わらない状況であることを再認識させられてしまい、やりきれない気分にならざるを得ないのです(ブッシュ政権の支持者は違うのでしょうが)。作中で、チーム・アメリカの一人が「We have no intelligence!」と叫びますが、それがしゃれになってないところが考えてみれば恐ろしい。現実のチーム・アメリカ達が、「俺たちは無能だ!」と自覚する時は来るのでしょうか。

 さて明日は8月15日、言わずと知れた「終戦記念日」です。もちろん靖國神社を公式参拝する所存でございます。小泉首相の参拝は見送られるかも知れませんが、それでも今年は、最近の国際情勢までが絡んで抜群の盛り上がりを示すこと請け合いであります。どんな面白い物が見られるかと今から胸が躍ります。

逝け遙か遠く、銀河系を越えて(その2)

2005年08月04日 | 文化
【前回までのあらすじ~ブッシュ政権批判という政治的メッセージが多分に含まれた「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」。それに釈然としないのは「ジェダイがアホだから」という噴飯物の理由を掲げてしまった俺。これからどうやって収拾をつければいいのでしょうか。】
 
 エピソード2でもそうでしたが、今作のジェダイ達は、政治的にはどうしようもなく愚鈍なでくのぼう揃いです。大きな権限を持っていながら、それを有効に使うだけの賢明さにまったく欠けており、結果として自らの責任を果たすことができません。長老のヨーダも含めて彼らは、目の前の戦争に気を取られてばかりで、内政においてはまるで役に立たず、民主主義に則った手続きを取ろうともしない。何やら意味深げな言葉を口にするけれども、最後はライトセーバーの一振り、即ち暴力で解決しようとし、そこに赤心・誠心があればそれで良いと思っている浅薄さ・未熟さにおいて、テロリストと大差はありません。
 そんな体たらくなので、むやみに大がかりなだけに粗放で無駄が多く、賭博的で見え透いた暗黒卿の陰謀にも彼らはあっさりとはまり、いいように利用された挙げ句にあっけなく滅びます。ただ自滅するだけなら自業自得で済むところですが、彼らがクーデターまがいの安直な行動を取ったために、暗黒卿が易々と皇帝の地位に就くことになってしまったのだからその罪は大きい。ジェダイは悪だ、とアナキンに言われてジェダイの騎士オビ=ワンは逆上しますが、これだけの失態を犯しておきながら怒り出すのは逆ギレもいいところです。自らの救い難いほどの愚かさのために悪を助けてしまったのだから、少なくとも過失の責任は認めるべきなのに。
 そんな始末に負えない能無しのアホどもが偉そうに政治や民主主義を語る姿が、いかに滑稽で不愉快なことであるか、半ば自分でぶち壊しにしておきながら民主主義を守るだの民主主義のために戦うだのと言われても、それがいかに空しいたわごとに聞こえるか、よく判ろうというものです。
 彼らがこれほど愚かになった理由の一つは、物語の結末が既に決まってしまっていることにあるでしょう。できあがっているエピソード4の舞台を整えるために、ジェダイが滅び、暗黒卿が支配する悪の独裁帝国が成立するのは動かせない決定事項です。しかしながら、そこに至るための筋立て、もっと細かく言えば暗黒卿の陰謀があまり上等なものではなかっために、それに否が応でも引っ掛からなければいけないジェダイ達は、必然的に無思慮で頭の中身が気の毒な人達にならざるを得なかったのです(暗黒卿の策略が判りやすいのは、観客の理解に配慮したためかも知れないが、それにしてもあいつはあからさまに怪しすぎる)。
 もう一つの理由は、ジェダイがライトセーバーを振り回さないと話が面白くならないということにあります。彼らが政治的に正しい集団で、多数派工作のために議員達に根回しをしたり長時間の演説をやったり牛歩戦術をしたりして、議会で暗黒卿が独裁権力を握るのを阻止しようとするところなんて誰も見たくない。暴力で解決するのも、事ここに至ってはやむを得ないという言い訳がすぐに成り立ちます。娯楽映画なんだから、劇的な演出を優先させるのは当然のことでしょう。
 しかし、そうした作劇上の要請を考慮に入れたとしてもなお、ジェダイ達の無自覚さ・無責任さ、作中における、彼らへの批判的な視点の稀薄さには首を傾げざるを得ません。暗黒卿はもちろんのこと、暗黒面に走ったアナキンのジェダイ批判は説得力を持ち得ないし、ジェダイ達はあくまでも不運で悲劇的な英雄達のごとく描かれています。そこには、彼らが政治を語り民主主義を語ること自体が誤りであるという認識が欠けており、その欠落ゆえに観ている者の違和感が拭えないのではないでしょうか。自ら民主主義を形骸化させ、ファシズムへの道を拓こうとしているのに、そのことにまるで気付いていないのだから。
 あるいは、このジェダイへの違和感によって、さらに深いメッセージを発しているのかも知れません。民主主義を本当に守りたいのなら、破滅を回避したいなら、ジェダイのように浅薄で無自覚であってはならないと。たとえジェダイのような超人でなくとも、もう少しましな行動が選べるはずだと。反ブッシュのメッセージを穿り出すだけで満足している場合ではないのだと。