仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(million miles)

2008年07月09日 | 生活
 たまたまテレビで[ほっともっと](旧[ほっかほっか亭])のCM(このページの「美大生編」)を見てしまい、しばらくいやあな気分に陥った。
 地味な雰囲気の青年が、[ほっともっと]ののり弁当を、家族の絵を見ながら独り無表情に黙々と食べているというもの。その不吉ささえ漂う虚ろなありさまに、一瞬 彼の家族はみんな死んだのだろうとさえ思った。それは考えすぎだとしても、どうにも陰々滅々たる情景のCMである。「幸福は~」云々というコピーが出てくるが、少しも幸福そうに見えない。独り飯なんてのはただでさえ索漠としたものなのに、あの白い発泡スチロールの容器をじっと見つめてしまったら、時々ふっと死にたくもなろうというものだ。
 「単身赴任編」というのもあるが、そっちもキッツイぞ。そこでは、単身赴任のオッサンが、買ってきた弁当を独りで食べている。彼の逆光気味の横顔から溢れ出す、逃げ場ナシの殺人的な陰惨さ。中年男の悲哀ここに極まれりといいたくなる。彼のこどもから電話がかかってくるところで何とか救われるが、あれを見て単身赴任の男性が自殺したとしても、俺は不思議とは思わない。
何だってあんな、
みじめで、
侘びしくて、
悲しくて、
寂しくて、
空しくて、
やるせなくて、
寄る辺なくて、
貧乏ったらしくて、
味気なくて、
痛ましくて、
酷たらしくって、
薄ら寒くって、
どうしようもないほど救いのない、
タチの悪いいやがらせのような広告を作ったのだろう。垣間見るだけで暗澹たる気持ちになる境遇に、わざわざ自らの身を置いてみようなどと誰が思うか。広告として完全に逆効果だと気付かない神経を疑うよ。
 あれをつくった人々は、「ホカ弁」(ブランド名が変わったことにより「ホモ弁」になってしまったが)という商品を過信したというか、それが人に与えるイメージを完全に読み間違えたのだろう。ホカ弁とは、食事を作ってくれる人もいなければ、自分で作る能もない、あるいは時間もない人のための、そもそもが「孤独」で「貧困」(必ずしも金銭的な面のみならず、文化的な意味合いも含む)な商品なのであり、それを顧客に気付かせてしまったらアウトなのだ。自分は、そんな悲しい商品を買う悲しい人間なのだと、買うたびに自覚させられ、不幸で残酷な現実に堪えなくてはならないとしたら、購買意欲など湧くはずがない。
 あのような食事の風景から、ホカ弁を食べてがんばっている人々の健気さを伝えようとしているのかも知れない。しかし、それを「健気」と感ずるのは、「そんな貧しい食事をしていながらも」という前置きによるものだ。つまりホカ弁のネガティブイメージを前提にしているのであって、広告としてはやはり失敗ではないか。どんな言葉で飾ろうとも、いかに情緒に訴えようとも、バックに菅野よう子の曲を流そうとも、発泡スチロールの容器がすべてを打ち砕くのだ。

やすいはなし(映画通り)

2008年01月30日 | 生活
 CD販売店の[すみや 渋谷店]が1月31日に閉店とのこと。店舗は小さいが映画サウンドトラック専門店として他店にはない品揃えが魅力の店でした。東宝ミュージックの通販ベースの商品とか、不気味社のインディーズ商品を取り扱っていたり、史上最大の赤字を出したと伝えられる統一教会ご推奨映画『インチョン』のサウンドトラック(限定盤の筈だが、1月27日現在、まだ店頭に何枚も並んでいた。映画は大滑りしたがジェリー・ゴールドスミスの音楽は緊迫感があり恰好いい)のような珍品が常時おかれていたり。こういう独自性の強い、何かの拍子に気になって覗きたくなるような店が無くなるのはとても残念です。
 というわけで、最後の買い物へ。目当ては『50th アニバーサリー・ゴジラ・サウンドトラック・パーフェクトコレクション BOX 5』。本来は1月31日発売のところ、メーカーの好意により閉店の少し前にフライングで販売することになったそうで。9枚組10500円(税込み)というマニア向け商品なので広くお薦めはできないが、伊福部作曲の『ゴジラvsメカゴジラ』『ゴジラvsデストロイア』他に加えて、特典盤として『伊福部昭 OSTINATO《オスティナート》』と『伊福部昭 SF特撮映画音楽の夕べ(実況録音盤)』が付く大サービスの内容。この時期の映画自体は腑抜けた出来であまり評価できないけれど、伊福部氏の音楽だけは素晴らしい。
 なお[すみや 渋谷店]は冒頭に書いたように31日に閉店しますが、1月30日は定休日なので休業するとのこと。30年の歴史の幕を閉じる前日に休んでしまうという、感傷をはぐらかすような妙な力の抜け方も、この店らしいといえるかも知れない。

やすいはなし(6 FEET DEEP)

2008年01月16日 | 生活
 遅ればせながら、あけましておめでとうございます。新年早々から暗い妄想で始めてみたいと思います。

 伊藤園のお茶の缶などに一般公募による俳句が書かれているのを見たことがあるでしょう。『伊藤園 お~いお茶新俳句大賞』というコンテストの受賞作品とのことで、現在は第19回の作品を募集中らしい。
 俳句にあまり興味のない俺は、それらを今までじっくり読むことはありませんでしたが、ある日買った1リットルサイズのペットボトルに書かれていた句が、あまりにも禍々しいもの揃いだったので、心中うめき声を発してしまいました。選者が何を思ってこれらを佳作としたのか、まったくもって理解に苦しむ。実物の写真は上に掲げたとおりですが、ピンとこない人のために、そのおぞましさを逐一説明していきます。


「すずなりだ 住む人のない家の 柿」
 これは怖い。おそらくは普通の住宅街に、住む人のない家があるのだ。柿の木が植わっているような庭があるのだから、そこそこ大きい家である。それがなぜ無人になったのか。相続人がいなかったのか。家人が失踪したのか。
 それどころではないだろう。そこにはもっと酷たらしい事情があるに違いない。言うまでもなく、それは殺人事件である。かつてその家では、何者かによって一家全員がみな殺しという流血の惨事があったのだ。それはちょうど柿が生る秋のこと。柿の赤色は流された血を暗示している。柿の木の下には死体が埋まっているのだ。
 そして住む人がいなくなった後も、その家は処分されずに放置され続けている。周りの住人は、こどもでさえその家に寄りつくことはない。夜になると誰もいないはずのその家から、家族の団欒の声が聞こえるのだ。今年も生った柿の実を、いつになったら採ろうかと親子が楽しげに相談している声が。


「妹と おんぶバッタの関係だ」
 驚異のド変態俳句である。
 オンブバッタの生態と照らし合わせてみよう。オンブバッタのおんぶは、人間の親が歩き疲れたこどもを背負ってやっているのとは意味が違う。オンブバッタの場合は上に乗っかっているのがオス、乗っけているのがメスであり、離ればなれにならないようにして将来の交尾に備えているのである。つまり子孫を残すための戦略なのだ。
 であるから「妹とおんぶバッタの関係」ということは、いつかは妹と性的関係を結ぶつもりだということを意味する。しかも、おんぶされているのは妹であるから、妹がオスの如く犯す側なのである。かてて加えて、この俳句の作者は女子であるから、姉が妹を背負いながら、いつか彼女に犯されることを妄想しているということになる。年端もいかぬ妹に対して己の倒錯した欲望を刷り込もうという、淫らで邪な情念のありようにおののかずにはいられない。


「鉄道の線路いろどるヒガンバナ」
 これも恐ろしい句である。
 ヒガンバナは漢字で「彼岸花」と書き、墓地に咲いているのがよく見られる花だ。一説には、有毒植物であるため「食べたら彼岸へ逝く」という意味でこの名が付いたという。つまり、この花には死のイメージが否応なくつきまとっている。
 地域によっては、鉄道の線路の土手にヒガンバナが植えられているのかも知れないが、よくあるような光景ではなく、むしろ特異なものというべきであろう。線路脇に咲くヒガンバナという異様な情景が暗示するもの、無論それは電車による人の死だ。人身事故か、あるいは飛び込み自殺か。
 そこで惨事が起こった次の年から、誰が植えたかヒガンバナが咲くようになったのだ。飛び散った血を思い起こさせずにはおかない、真っ赤なヒガンバナがあたり一面に咲く。非業の死を遂げた死者の怨念が、凄惨な光景を人々の記憶に蘇らせようとしてるかのように。

 次の二つは無難なものなのでとばすとして、最後の句。これは最凶だ。

「墓参り 祖母の手をとり 暮れる秋」
 一見して、心にしみいるような秋の情景が描かれているかのようである。祖母を気遣う孫娘(この句の作者は女子なので、ここは「孫娘」と解釈する方が絵が浮かびやすい)の姿は、失われかけている家族の絆の大切さを雄弁に訴えているとも思われる。
 しかし、衰えた祖母の手をとる孫娘の胸中でどのような思いが渦巻いているか。
 おそらく祖母は、手をとって助けねばならない肉体とともに、頭脳も弱っているであろう。早い話がぼけてきているのだ。家族にとって彼女の介護が重荷になりつつあり、早く死んで欲しいという願いが、皆の心の底に黒く沈殿し続けている。
 「暮れる秋」は、祖母の人生の黄昏を示しており、それが近いうちに終わりを迎えることを示唆する。終わりに導くのは誰か。言うまでもなく彼女の手をとっている孫娘だ。
 つまり、墓に祖母を連れて行くのは、彼女をそこに葬ろうという孫娘の意識の表れなのである。墓には祖母の夫、孫娘にとっては祖父が眠っているのだが、その祖父を手にかけたのもおそらくこの孫娘だ。
 殺人鬼である孫娘。しかし、彼女を止めるものはいない。彼女の両親は、娘の祖父殺しによって介護の重荷からの解放と祖父の遺産相続という恩恵を受けており、結果としてそれを黙って受け容れてしまったことによって、家族のあいだで既に娘に主導権を握られてしまっている。娘が祖母を殺そうと計画していることを知りながら、それを止めるのではなく、逆に彼女に従おうとしている。それは何より、かれらも心の底では祖母の死を願っているからだ。
 そして、殺される側である祖母は、靄の中に薄れつつある理性の奥で何を思っているか。あるいは、孫娘にもたらされるであろう死を従容として受け容れる覚悟を固めているのかも知れない。夕暮れの陽に染まりながら墓参りをする二人の姿には、あまりにも凄惨な人間模様が秘められている。

 以上のとおり、パッケージに掲載された6作のうち4作が暗黒俳句というこの高打率ぶりには、何者かの悪意が潜んでいるとしか思えない。何気ない日常の中に恐怖はいつの間にか紛れ込んでいて、うかつにお茶を買ったりすると、ドス黒いクレバスが足下でバリバリ裂けていくのです。

やすいはなし(たべてしまえ)

2007年09月27日 | 生活
 戦後民主主義の悪しき成果なのか、核家族化の進行にともなう家族コミュニティーの崩壊が一因なのか、人間関係の稀薄化が拍車をかけているのか、マンガ・アニメのキャラクター名に影響されたのか、ヤンキー精神の浸透の結果か判りませんが、親がこどもにとんでもない名前を付けてしまう事例が増えているような気がします。「羽姫芽(わきが)」とか「亜菜瑠(あなる)」とか「永久恋愛(えくれあ)」とかね(こちらのサイトを参照しました)。
 まあ、20歳そこそこの(とは限らないけど)若くて物を知らない男女が、出産という一大イベントのために頭のネジが外れてしまい思いもよらぬ方向に暴走してしまうのは、こどものその後の人生を考えたらシャレにならないとはいえ、理解できないこともない。しかし、たまたま見かけたものだけど、食べ物屋の名前にこれはいかがなものかと思いますね。

[食人]

 この字面を見て連想するのは、「食人族」とか「食人大統領アミン」とかしか有り得ないではないか。チュニジア料理店が
[ハンニバル]と名乗るのとはわけが違う。そもそも何料理屋だ。フィジーか。ニューギニアか。ウガンダか。アンデスか。フランスか。中華だったら「喫人」と書くはずだが、と思いきや、「ベーカリー&スウィーツカフェ」ときたもんだ。
 メニューを見たら「食人MIXサンドウィッチ 300円」とか「シェフの気まぐれ!食人イートインランチセット」とか書いてやんの。何ですか、この香港ホラーもびっくりの猟奇な品揃えは。もはや「『小腹』セット」なんてのも、「小腹が空いた」とは別の意味を妄想してしまいそうだ。
 「ショクニン」と読ませたりするところから察するに、この店名は「職人」と掛けたつもりらしい。たいしてうまくもないし、この造語を考えついた次の瞬間に、国語辞典に普通に載っている意味の方にどうして思い至らなかったのか。どうしようもない無知なのか、まったくの無神経なのか。しかも、店名を付けるとなればいい年した大人が何人も関わるはずなのに、誰一人として異議を唱える人はいなかったのだろうか。不思議でならない。

やすいはなし(豚の賭)

2007年02月28日 | 生活
 某雑貨店の化粧品売り場に上掲のポスターが貼ってありました。コーセーのファシオという化粧品ブランドの宣伝用であるらしい。「絶滅」とは言葉がどぎついが、「パンダ目(め)」が生物学上の分類の「目(もく)」と懸かっているのだろう。たしかにパンダは絶滅が危惧されているし、よくできたコピーだと思う。もっともパンダはネコ目で、パンダ目という分類は存在しないようだけれど。
 ところで、そのポスターの真横に倖田來未の顔写真をアップにしたポスターが貼ってあったのは店員のウケ狙いかと思ったが、同じコーセーのヴィセというブランドの宣伝に彼女が起用されているのでした。
 なるほど、世の女性が彼女を手本にして化粧をすれば必然的にマスカラとかアイライナーとかを大量に消費せざるを得ない。そうなれば商品が売れて売れて笑いが止まらないことだろう。そのうえ、彼女の顔を見れば商品の力がどれほど凄いかが一目瞭然であり、どんなナチュラルメイクの信奉者も折伏されてしまうこと請け合いだ。
 実に的確な人選と言うべきですが、そこには彼女への悪意が働いているような気がしてならない。客寄せパンダとして利用しつつ、側面から「パンダ目、絶滅」と呪詛を投げつけるのだから、これはコーセーの倖田來未に対する相当に手の込んだいやがらせではないだろうか。
 このような陰湿かつ公然たるいじめ行為をこれ以上つづけさせないため、コーセーにはファシオとヴィセの広告を即刻とりやめるよう強く訴えたい。そして、いわれのない苦痛を受けた倖田來未には、「顔を洗って出直してこい」と温かく親身な励ましの言葉を贈ろうと思う。

やすいはなし(土曜日の本)

2006年10月30日 | 生活
 神保町でやっている神田古本まつり(11月1日(水)まで開催)に行ってまいりました。
「また貧乏くさいというか、地味っぽいイベントだなあ。どうせ大した買い物なんてしないんでしょうが。」
 いいじゃないの、毎年行ってるんだし。参加することに意義があるんだよ。
「それで、何か掘り出し物はあったのかね。毎年行ってるくせに、まともなものを掴んできた試しが無いよね。」
 俺は古本マニアじゃないんだから、稀覯本とか見つけ出すつもりもないんだって。読みたかった本が安く買えればいいんだ。そのうえちょっとネタにできればもっといいけどね。もともとイベント自体が、そんなマニア限定のものでもないし。
「今日び、神保町ってだけで普通の人から見れば充分マニアックだと思うけどな。で、今回の収穫は?」
 正確には古書じゃなくて、不良在庫整理のための新本特価だけど。
 きだみのるの『気違い周游紀行』(冨山房)。600円也。
「何だって?」
 だから『気違い周游紀行』。
「最初の方が聴き取れないんだけど」
 耳が悪いんじゃないの?「気違い」だよ。

きーちーがーいッ!
「なーんだ、『気違い』か。」
 そう、「気違い」。
「『気違い』だが仕方がない。」
 それ、「てにをは」が間違ってるよ。まあ、「気違い」は「気違い」だけどさ。
 ・・・と、書名だけでこれだけ遊べる本も少ないでしょう。売り場のオッサンに「お買い得ですよ。何たって書名が放送禁止だから」と言われたし。まだ読み終わってないから、内容については一切書けないけどな。

 上にも書きましたが、俺は少し本が好きという程度の人間なので、この手の古書市とか即売会に行列を作って並ぶような真似はしません。それでも、ときどき暇があれば足を運んだりもするわけです。その経験から言わせてもらうならば、古本が好きな人間なんてものにロクな奴はおりません。奴らはもう、本ッ当に、どーしようもない出来損ない揃いです。
 小さい子供をお持ちの親御さん。悪いことは言いません。本をたくさん読めば立派な人になれるなどという古臭い言葉を信じて、子供に読書を勧めるようなことは絶対に止めてください。そんなことをすれば、我が子を社会不適合者にするだけだ。健全な魂を育てたいならば、読書なんてさせてはいけないのです。
 嘘だと思うなら、一度古書市の類に行ってみるがいい。そこに集まっている輩がいかにまっとうでないかは見る目があればすぐに判るだろう。どいつもこいつも自意識が間違った方向に発達し、後戻りができなくなった奴ばかりです。

 例えば、
「例えば、何?」
 あれっ、何でまた出てくるの。最初のツカミだけの趣向じゃなかったのか。
「このままじゃ、単なる愚痴になって収拾がつかなくなりそうだから。」
 困ったな、キャラクターの書き分けなんてまったく考えてないよ。
「まあ、『ツッコミ』という人格ってことにしとけばいいだろう。」
 ということは、俺よりも理性的で常識的ってことか。
「伝統的にはそういうことになるね。」
 伝統はよそうよ。
「じゃあ方法と言い換えてもいい。」
 メソッドの伝統か。
「こんなネタは誰も判らないから話を先に進めろ。」
 怒られたよ。で、何を書いてたんだっけ。
「古本が好きな奴は生存する価値の無い社会のクズで、蛆虫と比べるのも惜しいような下等で忌まわしい生き物だから、今すぐこの世から抹殺するべきだって話だったな。皆殺しにして畑の肥やしにするのが最終的に正しい解決だと。」
 そこまでは言ってなかったと思うけど(コイツ本当に俺より常識的なのかな)。
「それで、その主張の根拠を示そうとしてたんだろう。」
 ああ、そうだった。それでですね、大概の古書市とかでは、平たいワゴンや机に背表紙を上にした古本がずらっと陳列されます。そうして膨大かつ無秩序に書名が並んでいる中から、「これは」という本を猛禽類の眼で見つけ出すのが醍醐味であり、限られた時間の中で成し遂げるべき責務なのです。
 然るに!その背表紙の上にだね、手に取った本の中身をチェックするあいだ、その本から外した外箱だとか、買おうとして既に抱えていた本とかを軽々しく置いて平然としている奴がいるのだよ。
 そんなことをしたら背表紙が見えなくなるではないか。どうしてくれるのだ、こっちは必死こいて書名を読みとろうとしておるのに。そもそも、自分も本を見に来ていながら、自分がやられたら不快に思うであろうことを何故できるのか。手前勝手にもほどがある。これこそ、古本好きと称する連中が、道義心の欠片さえ持ち合わせていないことの証左と言わずして何と言おう。
「そのぐらい放っといて先に進めばいいだろうに。」
 馬ッ鹿モーン。もしかしたらその隠された下に、二度とお目にかかれないようなお宝が潜んでいるかも知れないではないか。それをみすみす見逃すような真似をできるわけがないだろうが。
「(ダメだ、コイツ)で、そんなときはどうするの。」
 彼奴が置いた本なり外箱なりをこれ見よがしにどかしてやるね。それで「すいません」とおのれの非に気付く奴はまだマシなんだが、俺が動かした本とかを慌てて奪い返したり、睨んできたりする奴もいるのだよ。
「外箱ならともかく、抱えてた本の場合は横取りされると思うのかもね。」
 だったら気楽にワゴンの上に放置したりするなってえのよ。自分が確保したものだってことを明示していないんだから、横から取られたって文句は言えないはずなんだ。日本人の平和ボケの好例だな。危機意識というものがあるのかと言いたいね。
「じゃあどうしろって言うのさ。」
 ちゃんと脇に抱えるなり手に持つなりするんだな。股に挟むのもいいかも知れん。
「それ、自分は実践してんの?」
 当然だ。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ、と孔子も言っておる。
 ともかくね、ワゴンに置かれた本の背表紙は絶対に隠すなと。この程度の気遣いをことさらに訴えなければならないなんて情けない限りだけど、これが古書市におけるマナーとして、今後 定着することを切に願うね。そして、これを守れないような禽獣にも劣る連中は、その場で眼玉を抉り出し、鼓膜を突き破り、指をすべて切り落としてやるんだ。
「何でそこまでせにゃならんのよ。」
 字も読めず、音読も聴けず、点字も判読できなくするためだよ。奴らがこよなく愛する本に接したくても、金輪際できないようにしてやるのさ。そうやって生き地獄を味わわなければ、奴らの汚れきった魂は浄化されないよ。
「あんたの特殊な主張に賛同する人がそうそういるとは思えないけどね、とりあえずこれを読んだ人にはよく伝わったと思うよ(あんたがものすごく心の狭いダメ人間だってことが)。」
 そうかな?

ダーティー・ワーク

2006年01月13日 | 生活
 まことに遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
 新春早々に申し訳ありませんが、今回は下ネタです。猥雑な言葉に溢れていますので、心の清らかな人は読まないでください。
 
 皆さん、消費者金融のアイクのテレビCMが変わったことにお気づきでしょうか。CM全体の雰囲気はほとんど同じですが、ブランド名がディックに変更されています。これにともない、CMのシメに若い女性が朗らかに「ア・イ・ク」と言っていたのが、「ディーック」になりました。気になるのは、この言葉(dick)が男性器を意味する英語のスラングだということ。ディック側が定めている綴りは「dic」らしいが、CMでバンバン声に出して言っちゃってたら、あまりフォローにはならないでしょう。
 ここは日本だし、顧客の大部分は日本人だろうし、そんな4文字言葉を知っているような数少ない下賤の輩などは相手にする必要はないと言えばそれまでですが、より知名度がある(と思われる)「アイク」からわざわざ変更する理由が判らない。単に知らなかっただけなのか。この国際化の時代に、ちょっとうかつなんじゃなかろうか。何よりも、年がら年中この言葉を連呼しなければいけない、この会社の女性社員たちが心配になってしまいます。よけいなお世話か。

 ディックの公式サイトを見てみたら、アイクとディックはともに以前から使われているブランド名で、会社名は別にあることが判りました。で、サービスの充実のためにアイクの主な支店名をディックに統一したと。どうしてそっちに?という疑問は解けないまま、会社概要のページを開いてみたら、さらに驚きの事実が。
 あれ?代表取締役の名前がどう見ても欧米人ですよ?そのほか役員の大半が外国人名じゃないの。どういうことかと思ったらこの会社、本社の所在地は東京になっているものの、アメリカの金融グループの一員なのですね。
 えーっと。これはどう考えたらよいのでしょうか。会社の上層部の人々が、自社の使っているブランド名を知らないとは思えない。大半はアメリカ出身だろうから、「ディック」というスラングの意味するところも判っているでしょう。だとしたら、なぜそれを変えることもなく、むしろあらためて前面に押し出そうとしているのか。
 日本国内で使われるだけならば別にかまわないという判断なのか、やっぱり「dic」だから気にならないのか、破天荒なまでに広い心の持ち主たちなのか、本気で訳が判らなくなってしまいました。もしかしたら、会社を挙げて大人のジョークを世の中に対してぶちかましているのかも知れません。傾奇者の巣窟なのでしょうか、この会社は。
 もっとも、アメリカ人にこの「ディック」という言葉がどう聞こえているのか、どのぐらいのヤバさなのかは、ネイティブではない俺にはちょっとイメージしづらいものがあります。スラング=隠語であるからには、誰にでも通じるというほどではないのかも。つまり、CMの最後に
「チーンコ」
と女性がはっきり言っているとは受け取られていないのかも知れません。
 だとしたら、どう訳せば最もニュアンスが近いのでしょうか。「ディック」というのは一般には男性の名前ですが、日本語でこれに類する言葉がどうにも思いつきません。「得手吉」なんてのは人名っぽいけれど、いまどきこの言葉に男性器の意味があると知っている日本人がどれだけいるか。もしかしたら「ディック」より判りにくいかも。まさにlost in translation。まさにってどこが。
 この「ディック」に限らず、日本人にとっては何でもなくても、外国ではとんでもない意味になってしまう言葉というのはけっこうありまして、有名なところでは東京 高田馬場にある「BIG BOX」は「大きな女性器」の意味になるらしい。「カルピス」は「cow piss=牝牛の小便」に通じるので、アメリカでは名前を変えて発売されているそうです。ブッシュ大統領の「bush」には「陰毛」の意味があり、ブッシュ大統領をネタにした「That's My Bush!」というアメリカのテレビ番組のタイトルはそれを狙ったもの。
 これまた知っている人は多いようですが、サザエさんの「カツオ」はイタリア語の「男性器」とほぼ同じ発音になるらしい。ブラジル(ということは公用語のポルトガル語?)では、「サカナ」が「オナニー」、「メシを食う」が「尻の穴をいじる」、「マンマを食う」が「尻の穴を吸う」に聞こえると小説家の開高 健が書いています。「フデといったら命とり」とも書いてありますが、相当に下品な言葉ということでしょうか。
 外国語から離れるけれど、そういう開高 健の「開」という文字は女性器を意味する隠語です。本人はもちろんそれを知っていて、この珍しい姓を残していく文化的意義を訴えておりました。彼の場合は名字だからそうも言えるでしょうが、「宍戸 開」となるともはや目も当てられません。最初にこの名前をテレビで知った時には「正気か、宍戸 錠」と思ったぐらいです。
 知らないということは恐ろしいもので、宝塚の女優が自分の芸名を「たまな めい」とか「たま せいき」と付けようとして、先輩に止められたという話もあります。最近だと「ボボタウ」という名前の音楽グループにもびっくりしましたね。「ぼぼ」といえば九州地方の方言で女性器のこと。広辞苑(第三版)にさえ「女陰の異称」と載っているぐらいなのに、よりにもよって「ぼぼ」で「たう」んですよ、お客さん。いったいどこで歌うつもりなのかと。誰か注意する大人はいなかったのか。
 小説家の町田 康は、かつて「腐れおめこ」という名前のバンドで活動していたし、アメリカには「アナル・カント」というグラインドコアのバンドもありますが、これはパンクでロケンロールなスピリットの発露であって、知らずに名乗ったのとは訳が違います(ボボタウの人々が「ぼぼ」の意味を知っていた可能性も否定できないが)。それとも、いまや九州人でもあまり使わない言葉なのでしょうか。かつてプロレスラーのボボ・ブラジルは、九州巡業では名前を変えたというのに。昭和は遠くなりにけり。
 こうして思いつくままキッツイ例を挙げていくと、「ディック」なんて別に驚くほどのものではないんじゃないかという気がしてきます。もともとよくある人名だし、ディック・トレイシーなんて映画もあったし、ディック・チェイニーは堂々とアメリカ副大統領を務めているし、古くはディック・ミネという歌手もいた。こんなにありふれた名前を使うのに、遠慮しなければならないなんておかしな話です。
 きっとディックの関係者はみんな、童子の如く純粋な心の持ち主か、小事にとらわれない剛毅な人柄かのどちらかなのですよ。だからディックがどんな意味を持っていようと、気にすることなく泰然としていられるのです。そんなかれらの寛闊さに比べたら、つまらないことを追及する自分がどれほど卑小な存在かを思い知らされます。
 こうして生まれ変わったように平らかな心を胸に、あらためてディックのサイトを見てみました。サイトには「ディックが大きくなって生まれ変わります」なんて書いてあります。この天衣無縫ぶりがまた心洗われるような清々しさではありませんか。いかにも清潔感のある若い女性が広告に起用されているのも、この会社の廉直さを示しているかのようです。仮に内実は違ったとしても、そうありたいという高い志の表れなのでしょう。大がかりなセクハラなどではけっしてありません。

窓の外には疫病

2005年12月04日 | 生活
 どうも、寄せられるコメントが本文とまるで関係がない、というこじゃれた嫌がらせを受けている者です。「賭け麻雀」という単語に反応しているのでしょうが、この引きこもりブログを一体どうやって嗅ぎつけたものでしょうか。コンピューターにもネットの世界にもさして詳しくない私には、その手段がどのようなものかまったく見当がつきません。
 まるでgooの回し者のようですが、いまご覧のブログ程度のことをするには、コンピューターに関する高度な知識や技術などは不要です。パソコンで文章が打てればそれで十分なわけで、そんなことはいまや特別な技能でも何でもない。HTMLなどという得体の知れないものが、山のあなたの空遠くに住んでいると人から聞いたことはありますが、あえて訪ねてゆく気にはなりません。
 ほかにやるべきことといえば冒頭に載せるデジタル写真の加工をするぐらいですが、使っているソフトはプリンターのおまけに付いてきたやつと言えば、私の技術レベルを推し量れるでしょう。
 そんなデジタル生態系の最底辺で蠢いているはかない微生物の身には、ウィンドウズのTVコマーシャルで自らのパソコン活用法を語っている人々は、もはや神の化身としか思えないほどに光り輝いて見えます。あのシリーズが何パターンあるのか知りませんが、パソコンで漫画を描いてネットで公開したり、幼児なのに文字を憶えて絵本を書けるようになったり、遙か遠くの天体について調べあげたり、こどもを撮影したビデオを編集してDVDにしたり、サッカーの相手チームの弱点を分析したりと、目も眩むような高みに立っている人々ばかり。
 たいがいのCMに出てくるのは、この商品はこんなに凄いと礼賛するしか能の無い、宣伝している商品に跪いている人々ばかりなのに、かれらは商品を支配し手足の如く使いこなしています。こんなことができる自分は凄いと何の迷いも無く断言できるのも当然です。そのさまを見て不愉快に思ったりするのは、天に唾する愚行というものでしょう。
 かれらのような天上人たちが、われわれ凡愚のともがらに、こんなに素敵な境地があるのだとご託宣を下すあのCMはまさに、迷える人々に救いをもたらす福音そのものです。即ち、ビル・ゲイツ会長は教祖、マイクロソフト社は神殿、ウィンドウズと対応ソフトは教典であり、CMに登場するかれらは尊い教えを広めるために遣わされた使徒たち。かれらの陰りの無い満ち足りた表情は、宗教的熱情・使命によって突き動かされていることの証なのです。マインド・コントロール臭がして気色悪いなどと不届きなことを言う輩は即刻 火炙りの刑。
 この世のすべての人が、かれらのように自分のやっていることを自信たっぷりに語れるようになれたなら、まことに素晴らしいことと言わねばなりません。ウィンドウズ搭載のパソコンを買ってソフトを操る技術に習熟しさえすれば、その表現の中身がどんなに取るに足らないものであっても、目をキラッキラさせながら自慢話ができるほどに安定し充足した自我を手に入れられるのです。「人間性の回復」、何という崇高な響きでありましょうか。
 涙に濡れた民衆の顔を歓喜に輝かすことができるウィンドウズ。その無辺広大にして至高清浄の力によって、誰ひとりとして苦悩に沈むことも悲嘆に暮れることもない、念じるだけで家が建ち車椅子の老人も歩けるようになる究極理想の世界が実現される日も近いでしょう。その暁には、ウィンドウズよりももっと訳の判らない代物を使いこなして自己満足に浸っている特権階級気取りのしゃれのめした異教徒どもは残らず地獄行きになるのです。
 万歳!未来社会を照らす偉大なる太陽、ビル・ゲイツ万歳!複製技術時代における至高の聖典、ウィンドウズ万歳!

飲んだくれていたい男(その3)

2005年06月27日 | 生活
 いつまで酒関係のネタを続けるのか、と思われるかも知れませんが、もう一回だけ。
 「その1」で書いた天羽飲料の「ハイボールの素」が、東京渋谷の東急ハンズで売られていると知り、のこのこ出向いてみました。しばらく探したあげくパーティー用品売り場で発見。店によっては600円台といわれるところ、一升瓶で1050円と高めでしたが、知名度の高い大型店で売られる宣伝効果はあるでしょう。それに、周辺地域の人間にとっては便利に、かつ安心して入手できます。本来は、家ではなく居酒屋で飲むのが正しいスタイルなのかも知れませんが。
 とりあえず、重いのも厭わず買って帰り、いろいろと観察。
 ラベルには、「清涼飲料水(き釈用)無果汁」と書いてある。あと〈原材料〉として「砂糖・酸味料・香料・着色料(黄4、赤2、青1)・保存料(安息香酸Na)」とあります。天然素材だの無農薬だのオーガニックだのがなんぼのもんじゃと言わんばかりのケミカルぶりが清々しい。
 その他に飲み方・使用法の説明はまったくありませんが、これは業務用だからでしょう。代わりに、ハンズが作ったと思われる説明書が一枚付いていました。
 そこに書いてあるとおり、原液・甲類焼酎・炭酸を1:2:3の比率で混ぜて連日飲み続けてみましたが、いくら飲んでもその味をうまく表現できそうにないのはどうしたものか。
 酸味も甘みも少なく、「天羽の梅」という名前に反して、いわゆる梅味・梅風味ではない。ウィスキーに似ているようなそうでもないような。ウィスキーの味を構成する一部分を取り出したような感じでしょうか。味覚の表現は本当に難しいですね。開高 健先生、私に力を。
 判りにくいボケはともかく、一升もあるのに、ただ甲類焼酎とだけ合わせるのも芸がないので、色々やってみました。
○ そのまま
 まずは原液で。色はウィスキーに近い。これはさすがにエグいかな、と思いつつ一口含んだところ、驚くべし、たいして味はしません。少し酸味を感じるぐらいで、あとは何となくポカリスウェット風の匂いだけ。ハイにしたときの味はほとんど甲類焼酎と炭酸に因っていたのだということが判りました。
○炭酸のみ
 6倍に薄めてみました。かなり薄味になったものの、爽やかな風味・酸味でまさに清涼飲料水。最初から炭酸入りで売れば、焼酎割りでもそのままでも飲めて便利じゃないかと思いましたが、天羽飲料にはそんな技術力も意思もないのでしょう。まことに奥ゆかしい。
○ ストリチナヤ・ウォッカと合わせて
 要するに焼酎だし、ホッピーには一番合う(と思っている)のでやってみた。が、ウォッカの匂いがうるさくてダメ。微妙なものです。
○ 安いウィスキーと合わせて
 「タモリ倶楽部」でタモリがやっていた飲み方。居酒屋「遠太」にもありました。使ったのはニッカウヰスキーの「ブラックニッカ」。ウォッカと同じように駄目かと思いきや、これがけっこうおいしい。ウィスキーだけの場合、つまり普通のハイボールの足りない部分が補われているような気がします。個人的には甲類焼酎よりもいいと思う。実は、「ハイボールの素」にはウィスキー用が別にあるのですが、そちらはハンズには売っていなかった。ともかく、焼酎用でも何ら問題はありません。
 本当は、ウィスキーと混ぜたらあまりピンと来なくて、色々試してみたけど、やっぱり焼酎と合わせるのが一番だなぁ、はっはっは、こいつはおかしいや、もうおとうさんたらのんきなんだから、という予定調和なオチにしようと思っていたのですが、そういうわけにはいかなくなってしまいました。いくら策を弄しても人間には限界があるということですね。それを理解できただけでも良しとしましょう。必要なのは策ではなく真実を語る勇気なのです。

飲んだくれていたい男(その2)

2005年06月21日 | 生活
 えー、前回大仰なヒキを入れてしまいましたが、要するに私が飲んだのは実はドブサワーではなかったのではないか、ということ。
(「な、なんだってー!?」とか入れるところでしょうか)
 前述のサイト「酔わせて下町」には、ドブサワーは最初から炭酸入りで、ビールのように瓶のまま供されるように書かれています。しかるに私の行った店では、別の炭酸水で割ったものがグラスで出てきました。この明らかな違いはどういうことなのか。
 サイトの記述が正しいとして、考えられることは、
1.ドブサワーの製法が炭酸入りからナシに変わった
2.瓶を開けたままにして炭酸が抜けたので補った
3.別の液体(普通のにごり酒?)をドブサワーの瓶に詰め替えて炭酸割りで出している
 生産中止になったという話もあるぐらいだし、もしかしたら答え3(現実は非情である)なのかも知れません。ドブサワーが入手困難になったために取られた苦肉の策なのでは。仮にそうだとすれば、虚偽表示になるのでしょうが、そんなことは追及してはいけない。小さなことに目くじらを立てては酒がまずくなるし、この場合はそんなうさんくささも楽しみのうちでしょう。
 真相はどうあれ(もはや調べる意思ナシ)、このドブサワーを知名度が低いまま終わらせるのは惜しい。現物が手に入らないとしても、にごり酒を炭酸で割れば近いものができあがるはずです。このドブサワーもどきが広く知られるようになれば、ドブサワーの発想・精神が生かされたと言えるでしょう。ことによれば、本家の普及にもつながるかも知れない。
 ということで、さっそく自宅で試してみました。使ったにごり酒は三輪酒造の「白川郷 純米にごり酒」。
http://www.miwashuzo.co.jp/product/index.htm
これは米の成分が濃厚すぎてそのままでは飲みにくいぐらいなので、炭酸で割るにはまさにもってこい。なんだか会社の回し者のようになっていますが、何の経済的関係もありませんよ。
 大きめのグラスに氷を入れ、先に炭酸水をグラス半ばまで注ぎ、さらに白川郷を入れて静かに混ぜる。酒を先に、つまりは下に入れると比重が大きいので少し混ぜにくくなります。飲んでみると、かなり本物(私が飲んだのが本物だとして)に近いできばえで、なかなかいける。いや、ドブサワーを知らなくとも、にごり酒の飲み方の一種として通用するだけの可能性がありそうです。酒の銘柄によって味の好みに合わせることもできるし、にごり酒の配分を変えればアルコール度数・味の濃さも自在に調節できます。このフレキシビリティーも魅力たり得るでしょう。
 決めました。三輪酒造でもどこでもいいからにごり酒のメーカーを抱き込み、この飲み方を全国の飲食店に売り込みに行くことにします。名前は「白サワー(シロサワー。シラサワーでも可)」としたい。見た目を的確に表現するとともに、親しみやすく呼びやすい秀逸な名前ではありませんか。ドブサワー?何それ。そんなヘドロ臭い名前じゃ売れねえよ。
 難点は、まず作り方が面倒くさい、原価が高い、グラスに米の跡がついて見た目にきれいではないうえ、洗うのに手間がかかる等々。全国的な知名度を獲得するには少々不安材料が多いですね。
 ともあれ、興味のある方は一度この「白サワー」をお試しください。梅雨のうっとうしさや夏の暑さを払うのにうってつけですよ。