前回は、映画『ゴジラ FINAL WARS』から轟天号つながりで『惑星大戦争』に話を移そうとしたところまででした。そもそも轟天号とは、1963年公開の東宝映画『海底軍艦』に登場した海中・空中・地中を航行可能な万能戦艦であり、そこでの設定は、旧日本軍の残党が戦争終結後に大日本帝国再建のためひそかに建造した、というものでした。小松崎 茂による簡潔で力強いデザインが秀逸で、艦首に備え付けられた巨大なドリルがこの上なく男ットコ前。
そして『海底軍艦』公開から14年後の1977年、アメリカで『スター・ウォーズ』が、日本国内では『宇宙戦艦ヤマト』がヒットしました。このブームに便乗すべく、東宝が急遽製作・公開した宇宙SF映画が『惑星大戦争』なのです。ここでどういうわけか、物語上は何のつながりも無いのに、轟天号が艦首のドリルもそのままに宇宙戦艦として登場することになりました(全体のデザインはもちろん違う)。旧日本軍の秘密兵器こそ、アメリカから攻め込んでくる『スター・ウォーズ』を迎え撃つのにふさわしい、と考えたからかどうかは知りません。あるいは、旧日本軍の戦艦を復活させて宇宙に飛ばす、という『ヤマト』のアイディアに触発されたのかも。
こうして大日本帝国の遺伝子を引き継いでしまったせいか、『惑星大戦争』の轟天号は苦境に立たされると、特攻を切り札として使い始めます。戦闘機による体当たりという由緒正しい作法を用いるのはもちろんのこと、物語のラストでは、実はミサイルにもなる艦首のドリルで艦長自ら特攻して、敵もろともに金星まるごと大爆発という豪快さ。
『スター・ウォーズ』が心眼という東洋的境地で来るならば、こちらも日本の伝統芸であるカミカゼ・アタックで対抗しようということだろうか。アメリカ式の一点の陰りもないハッピーエンドよりも、自己犠牲による痛みをともなう勝利の方が日本人の琴線に触れるという考えだったのも知れない。残念ながら、映画全体の作りがあまりにも杜撰なので、何をやっても感動の呼び起こしようがないんだけれど。
そんな特攻SF映画『惑星大戦争』で、戦闘機で敵に突撃して散華する若者を演じていたのが沖雅也でした。もはや知らない人も多いでしょうが、1983年、養父の日景忠男氏に「おやじ 涅槃で まってる」という凄絶な遺書を残し、高層ビルから飛び降りて自死した俳優。轟天号の乗組員で主人公(森田健作)の同僚という設定が、『ゴジラ FINAL WARS』のケイン・コスギと相似を成しており、物語半ばで特攻をして死んでいくのも同じです。『FINAL WARS』が参考にしたということではなく、安直な脚本は意識しなくても似通ってしまうという好例なのだろう。
ただし、多くの共通点がありながら、両者の最期の印象は大きく異なります。コスギがむさくるしく絶叫して突っ込むのとは対照的に、沖が敵へと向かっていく姿はあくまでも静か。思い詰めているとも達観しているとも見える、真剣なようでいてうっすらと笑みを浮かべているような不可解な表情で彼は死んでいく。まるで自己犠牲による死にエクスタシーを感じているようであり、異様な不気味さが場面に漂います。
その後の沖雅也の運命が、6年前のこの映画によって暗示されているのだと言ったら、たぶんどこからか判らないけれど怒られるでしょうが、のちに自ら死を選ぶ彼の心理的素質が、仲間のために己れの意志で命を捨てる役への過剰なまでの没入を促した可能性はある。だからこそ、自己犠牲のヒロイズムで観客の感情に訴えるはずだった特攻シーンが、死によって官能を荘厳するという三島由紀夫的境地へと逸脱していき、本来あり得ないはずの奇怪なスリルを生むことになってしまったのではないでしょうか。
この『惑星大戦争』は、浅野ゆう子がボンデージっぽい格好をさせられ、チューバッカもどきの獣人に折檻されるという、いまひとつ意図がよく判らないサービスシーンで一部の人々の語りぐさになっていますが、もしかしたら、沖雅也の特攻の方に観念的なエロスを感じる人もいるかも知れません。どちらも、映画としてのプラスの評価にはまったくつながっていないのがイタいところです。
そして『海底軍艦』公開から14年後の1977年、アメリカで『スター・ウォーズ』が、日本国内では『宇宙戦艦ヤマト』がヒットしました。このブームに便乗すべく、東宝が急遽製作・公開した宇宙SF映画が『惑星大戦争』なのです。ここでどういうわけか、物語上は何のつながりも無いのに、轟天号が艦首のドリルもそのままに宇宙戦艦として登場することになりました(全体のデザインはもちろん違う)。旧日本軍の秘密兵器こそ、アメリカから攻め込んでくる『スター・ウォーズ』を迎え撃つのにふさわしい、と考えたからかどうかは知りません。あるいは、旧日本軍の戦艦を復活させて宇宙に飛ばす、という『ヤマト』のアイディアに触発されたのかも。
こうして大日本帝国の遺伝子を引き継いでしまったせいか、『惑星大戦争』の轟天号は苦境に立たされると、特攻を切り札として使い始めます。戦闘機による体当たりという由緒正しい作法を用いるのはもちろんのこと、物語のラストでは、実はミサイルにもなる艦首のドリルで艦長自ら特攻して、敵もろともに金星まるごと大爆発という豪快さ。
『スター・ウォーズ』が心眼という東洋的境地で来るならば、こちらも日本の伝統芸であるカミカゼ・アタックで対抗しようということだろうか。アメリカ式の一点の陰りもないハッピーエンドよりも、自己犠牲による痛みをともなう勝利の方が日本人の琴線に触れるという考えだったのも知れない。残念ながら、映画全体の作りがあまりにも杜撰なので、何をやっても感動の呼び起こしようがないんだけれど。
そんな特攻SF映画『惑星大戦争』で、戦闘機で敵に突撃して散華する若者を演じていたのが沖雅也でした。もはや知らない人も多いでしょうが、1983年、養父の日景忠男氏に「おやじ 涅槃で まってる」という凄絶な遺書を残し、高層ビルから飛び降りて自死した俳優。轟天号の乗組員で主人公(森田健作)の同僚という設定が、『ゴジラ FINAL WARS』のケイン・コスギと相似を成しており、物語半ばで特攻をして死んでいくのも同じです。『FINAL WARS』が参考にしたということではなく、安直な脚本は意識しなくても似通ってしまうという好例なのだろう。
ただし、多くの共通点がありながら、両者の最期の印象は大きく異なります。コスギがむさくるしく絶叫して突っ込むのとは対照的に、沖が敵へと向かっていく姿はあくまでも静か。思い詰めているとも達観しているとも見える、真剣なようでいてうっすらと笑みを浮かべているような不可解な表情で彼は死んでいく。まるで自己犠牲による死にエクスタシーを感じているようであり、異様な不気味さが場面に漂います。
その後の沖雅也の運命が、6年前のこの映画によって暗示されているのだと言ったら、たぶんどこからか判らないけれど怒られるでしょうが、のちに自ら死を選ぶ彼の心理的素質が、仲間のために己れの意志で命を捨てる役への過剰なまでの没入を促した可能性はある。だからこそ、自己犠牲のヒロイズムで観客の感情に訴えるはずだった特攻シーンが、死によって官能を荘厳するという三島由紀夫的境地へと逸脱していき、本来あり得ないはずの奇怪なスリルを生むことになってしまったのではないでしょうか。
この『惑星大戦争』は、浅野ゆう子がボンデージっぽい格好をさせられ、チューバッカもどきの獣人に折檻されるという、いまひとつ意図がよく判らないサービスシーンで一部の人々の語りぐさになっていますが、もしかしたら、沖雅也の特攻の方に観念的なエロスを感じる人もいるかも知れません。どちらも、映画としてのプラスの評価にはまったくつながっていないのがイタいところです。