仮名日記

ネタと雑感

彼はとってもG(その2)

2005年12月29日 | 文化
 前回は、映画『ゴジラ FINAL WARS』から轟天号つながりで『惑星大戦争』に話を移そうとしたところまででした。そもそも轟天号とは、1963年公開の東宝映画『海底軍艦』に登場した海中・空中・地中を航行可能な万能戦艦であり、そこでの設定は、旧日本軍の残党が戦争終結後に大日本帝国再建のためひそかに建造した、というものでした。小松崎 茂による簡潔で力強いデザインが秀逸で、艦首に備え付けられた巨大なドリルがこの上なく男ットコ前。
 そして『海底軍艦』公開から14年後の1977年、アメリカで『スター・ウォーズ』が、日本国内では『宇宙戦艦ヤマト』がヒットしました。このブームに便乗すべく、東宝が急遽製作・公開した宇宙SF映画が『惑星大戦争』なのです。ここでどういうわけか、物語上は何のつながりも無いのに、轟天号が艦首のドリルもそのままに宇宙戦艦として登場することになりました(全体のデザインはもちろん違う)。旧日本軍の秘密兵器こそ、アメリカから攻め込んでくる『スター・ウォーズ』を迎え撃つのにふさわしい、と考えたからかどうかは知りません。あるいは、旧日本軍の戦艦を復活させて宇宙に飛ばす、という『ヤマト』のアイディアに触発されたのかも。
 こうして大日本帝国の遺伝子を引き継いでしまったせいか、『惑星大戦争』の轟天号は苦境に立たされると、特攻を切り札として使い始めます。戦闘機による体当たりという由緒正しい作法を用いるのはもちろんのこと、物語のラストでは、実はミサイルにもなる艦首のドリルで艦長自ら特攻して、敵もろともに金星まるごと大爆発という豪快さ。
 『スター・ウォーズ』が心眼という東洋的境地で来るならば、こちらも日本の伝統芸であるカミカゼ・アタックで対抗しようということだろうか。アメリカ式の一点の陰りもないハッピーエンドよりも、自己犠牲による痛みをともなう勝利の方が日本人の琴線に触れるという考えだったのも知れない。残念ながら、映画全体の作りがあまりにも杜撰なので、何をやっても感動の呼び起こしようがないんだけれど。
 そんな特攻SF映画『惑星大戦争』で、戦闘機で敵に突撃して散華する若者を演じていたのが沖雅也でした。もはや知らない人も多いでしょうが、1983年、養父の日景忠男氏に「おやじ 涅槃で まってる」という凄絶な遺書を残し、高層ビルから飛び降りて自死した俳優。轟天号の乗組員で主人公(森田健作)の同僚という設定が、『ゴジラ FINAL WARS』のケイン・コスギと相似を成しており、物語半ばで特攻をして死んでいくのも同じです。『FINAL WARS』が参考にしたということではなく、安直な脚本は意識しなくても似通ってしまうという好例なのだろう。
 ただし、多くの共通点がありながら、両者の最期の印象は大きく異なります。コスギがむさくるしく絶叫して突っ込むのとは対照的に、沖が敵へと向かっていく姿はあくまでも静か。思い詰めているとも達観しているとも見える、真剣なようでいてうっすらと笑みを浮かべているような不可解な表情で彼は死んでいく。まるで自己犠牲による死にエクスタシーを感じているようであり、異様な不気味さが場面に漂います。
 その後の沖雅也の運命が、6年前のこの映画によって暗示されているのだと言ったら、たぶんどこからか判らないけれど怒られるでしょうが、のちに自ら死を選ぶ彼の心理的素質が、仲間のために己れの意志で命を捨てる役への過剰なまでの没入を促した可能性はある。だからこそ、自己犠牲のヒロイズムで観客の感情に訴えるはずだった特攻シーンが、死によって官能を荘厳するという三島由紀夫的境地へと逸脱していき、本来あり得ないはずの奇怪なスリルを生むことになってしまったのではないでしょうか。
 この『惑星大戦争』は、浅野ゆう子がボンデージっぽい格好をさせられ、チューバッカもどきの獣人に折檻されるという、いまひとつ意図がよく判らないサービスシーンで一部の人々の語りぐさになっていますが、もしかしたら、沖雅也の特攻の方に観念的なエロスを感じる人もいるかも知れません。どちらも、映画としてのプラスの評価にはまったくつながっていないのがイタいところです。

彼はとってもG(その1)

2005年12月25日 | 文化
 覚醒剤所持で日景忠男氏が逮捕されたので、映画『ゴジラ FINAL WARS』について書くことにします。
 最後のゴジラ映画と銘打たれたこの作品を、俺は2004年の公開時に映画館で観ました。実は、映画館でゴジラを観るのは『メカゴジラの逆襲』以来。1984年の復活が無ければ、それが最終作になっていたはず。しまった、『ゴジラvsデストロイア』も公開時に観ておけば、「最後のゴジラ映画」を3作全部劇場で観た、と自慢できたのに。
 それはさておき、『FINAL WARS』は、映画としては非常に欠点が多く、広くお薦めできるものではありません(実際に興行成績も振るわなかったらしい)。話が支離滅裂だ、他作品の模倣(インスパイヤでもオマージュでもパロディーでも何でもいいが)が多すぎる、アクションシーンが冗長だ、ヒロイン役の菊川怜がイモだ、キース・エマーソンの曲が安っぽい、衣装の生地がいくつかおかしい等々。はっきり言って大人の鑑賞には堪えられるものではない。しかし、そもそもこの映画は、賢い大人ではなく子供と特撮好きのアホが観るものとして作られているのだから、それで十分なのです。
 そのため肯定的な評価の理由も、ゴジラが強い、怪獣がいっぱい出る、ドン・フライがイカす、悪役が笑える、轟天号がドリル、と非常に頭の悪いことになります。物語もテーマも登場人物の内面も甚だしく薄っぺらく、深く考えるべきところなどは皆無と言っていい。どこかで使用済みのパーツの組み合わせ・積み重ねで成り立っており、その手際と思い切りの良さが見どころです。ありふれた記号が現れては消えていくのを、刹那的に楽しめればそれでいい。そうした基準で評価するならば、見事な出来映えとさえ言えるでしょう。
 この壮大な空虚さを体現しているのが、ドン・フライが演じた、万能戦艦轟天号艦長のゴードン大佐(「ゴーテン」の艦長だから「ゴードン」と命名されたのだろうか)。ドン・フライの演技は、強面で睨むことと不敵に笑うことの2種類しかないけれど、それで十分成立してしまうぐらいにこのキャラクターの実質は薄い。行動力と闘争心によって物語を推進する機能であり、他にやることといったら、要所要所で格好良くキメて場面を引き締めるだけ。それ「だけ」に徹しているからこそ、この映画の中での彼は魅力的なのです。ちなみにこのキャラクター、玄田哲章による吹き替え版で観るとアホらしさが増してさらに素敵。
 もうひとり、別の意味で注目すべきなのがケイン・コスギ(彼の日本語のたどたどしさについては軽く流すことにします。ドン・フライと同じく吹き替えにすればよかったのに、などという酷いことはとても言えません)。彼の役どころは、主人公の松岡昌宏の同僚で轟天号の乗組員。マッチョでスパルタンでストイックな人物なんだけれど、これがどうにもゲイっぽい。早い話が松岡に片思いをしているように見えます。松岡をライバル視して何かというと突っかかる姿は、想いを懸けた人が自分の理想どおりに行動してくれないことに苛立っているよう。菊川怜の護衛についた松岡にわざわざイヤミを言いに来るところなど、嫉妬心むきだしの見苦しさ。
 彼が松岡との和解を経て、敵の宇宙船に攻め込む血路を開くべく、戦闘機で特攻をして最期を迎えるのも、愛による究極的な献身であるとともに、死によって、相手の中での自らの価値を永遠のものにすることを意図した行動と解釈できます。異性愛者への叶わない気持ちを締めくくるためにそうせざるを得なかった、彼の悲痛な心情を汲みとって欲しい。如何せん、この映画ではまともに情緒が描かれないので、彼の死はその場限りであっさりと流されてしまうけれど。
 この特攻の場面は、『スター・ウォーズ』と『インディペンデンス・デイ』を足して4か5ぐらいで割ったようなしょぼさで失笑を誘いますが、直系のルーツと言うべき作品があることはある。それは、同じく東宝が製作し、同名の戦艦轟天号が登場する『惑星大戦争』。1977年に公開された宇宙モノの特撮映画で、似たような特攻の場面がちゃんと出てくるし、さらに言えば、映画としての底の抜け具合もよく似ています。
(続く)

アート・アート・アート

2005年12月15日 | 文化
 横浜の山下埠頭をメイン会場とする横浜トリエンナーレに行ってきました。この現代芸術の展覧会、もう今週(12/18)で終わりだけどね。どうですか、この乗り遅れ感プラス役立たずぶり。

横浜トリエンナーレ公式サイト

 このイベントの第1回は2001年に開催されました。「トリ」エンナーレだから3年に1回のはずなんだけど、4年後の今年になってしまったことが、開催に至るまでの紆余曲折(会場が決まらなかったり、ディレクターが計画途中で交替したり)を物語っています。
 第1回では、1日がかりでも観きれないぐらいの膨大な作品数で、1枚の入場券で日を分けて2回入場可というシステムを採っていたほどでしたが、それと比べるとかなり規模が小さくなりました。そのために、「アート・サーカス(日常からの跳躍)」というテーマを掲げながら、祝祭性は前回より薄くなった。これは予算が最大の原因だろうから、企画の問題とばかりは言えません。しかし、テーマを具現するはずの観客体験型・参加型の作品のいくつかが必ずしも質をともなっていないために、ときに学園祭的な寒さを感じたりもしました。
 もちろん、批判すべきところばかりではありません。十分に刺激的な作品もあり、総体としては満足できるものでした。何より、縮小したとはいえあれだけの規模で、かつ国外からも参加を得て現代芸術展が開かれることには大きな意義があるはずです。
 この催しを定着・継続させるために、次の第3回は名前どおりに2008年に開催して欲しい。開催が遅れたのは、主催者側が愚直・誠実に(悪く言えば青臭く)展覧会のあり方を模索した結果なのかも知れない。おざなりに作品を並べ、宣伝して客を集めるだけになるよりはましですが、開催時期ぐらいは安定していないと、結局は展覧会の質を確保できなくなるのではないだろうか。
 さらに第1回との違いを挙げると、作品数が減ったせいもあるでしょうが、笑いの要素を含んだものや、日本産のマンガ・アニメなどの影響下にある作品が少なくなった印象がありました。現代芸術にネタを求めている俺のような人間には好ましくない傾向と言わねばなりません。とりあえず一番くだらなかったのが写真(手ブレのせいで不鮮明ですが)の、トイレットペーパーを積み上げて作った「考える人」。あの像は確かにトイレで苦吟しているようにも見えますが、使われているトイレットペーパーの商品名が「RODIN(ロダン)」、という実にしょーもないオチがついていました。
 それだけならわざわざ特筆するほどのこともないけれど、よく見たらこの「RODIN」の製造元が久保田製紙株式会社なんですよ。と言っても何のことやら判らないでしょうが、靖國神社の遊就館に置かれているトイレットペーパー「MIZUHO」を作っているのと同じ会社なのです。

(参照)
この会社のネーミングセンスは、あるいは狙っているのではないかと。美術館に置いてもらうために「RODIN」、愛国者をターゲットにして「MIZUHO」と名付けたのかも知れない。この調子で、病院向けに「NIGHTINGALE」、映画館向けに「KUROSAWA」、左翼向けに「MARX」、図書館向けに「NATSUME」、マンガ喫茶向けに「TEZUKA」とかあるのかも。

窓の外には疫病

2005年12月04日 | 生活
 どうも、寄せられるコメントが本文とまるで関係がない、というこじゃれた嫌がらせを受けている者です。「賭け麻雀」という単語に反応しているのでしょうが、この引きこもりブログを一体どうやって嗅ぎつけたものでしょうか。コンピューターにもネットの世界にもさして詳しくない私には、その手段がどのようなものかまったく見当がつきません。
 まるでgooの回し者のようですが、いまご覧のブログ程度のことをするには、コンピューターに関する高度な知識や技術などは不要です。パソコンで文章が打てればそれで十分なわけで、そんなことはいまや特別な技能でも何でもない。HTMLなどという得体の知れないものが、山のあなたの空遠くに住んでいると人から聞いたことはありますが、あえて訪ねてゆく気にはなりません。
 ほかにやるべきことといえば冒頭に載せるデジタル写真の加工をするぐらいですが、使っているソフトはプリンターのおまけに付いてきたやつと言えば、私の技術レベルを推し量れるでしょう。
 そんなデジタル生態系の最底辺で蠢いているはかない微生物の身には、ウィンドウズのTVコマーシャルで自らのパソコン活用法を語っている人々は、もはや神の化身としか思えないほどに光り輝いて見えます。あのシリーズが何パターンあるのか知りませんが、パソコンで漫画を描いてネットで公開したり、幼児なのに文字を憶えて絵本を書けるようになったり、遙か遠くの天体について調べあげたり、こどもを撮影したビデオを編集してDVDにしたり、サッカーの相手チームの弱点を分析したりと、目も眩むような高みに立っている人々ばかり。
 たいがいのCMに出てくるのは、この商品はこんなに凄いと礼賛するしか能の無い、宣伝している商品に跪いている人々ばかりなのに、かれらは商品を支配し手足の如く使いこなしています。こんなことができる自分は凄いと何の迷いも無く断言できるのも当然です。そのさまを見て不愉快に思ったりするのは、天に唾する愚行というものでしょう。
 かれらのような天上人たちが、われわれ凡愚のともがらに、こんなに素敵な境地があるのだとご託宣を下すあのCMはまさに、迷える人々に救いをもたらす福音そのものです。即ち、ビル・ゲイツ会長は教祖、マイクロソフト社は神殿、ウィンドウズと対応ソフトは教典であり、CMに登場するかれらは尊い教えを広めるために遣わされた使徒たち。かれらの陰りの無い満ち足りた表情は、宗教的熱情・使命によって突き動かされていることの証なのです。マインド・コントロール臭がして気色悪いなどと不届きなことを言う輩は即刻 火炙りの刑。
 この世のすべての人が、かれらのように自分のやっていることを自信たっぷりに語れるようになれたなら、まことに素晴らしいことと言わねばなりません。ウィンドウズ搭載のパソコンを買ってソフトを操る技術に習熟しさえすれば、その表現の中身がどんなに取るに足らないものであっても、目をキラッキラさせながら自慢話ができるほどに安定し充足した自我を手に入れられるのです。「人間性の回復」、何という崇高な響きでありましょうか。
 涙に濡れた民衆の顔を歓喜に輝かすことができるウィンドウズ。その無辺広大にして至高清浄の力によって、誰ひとりとして苦悩に沈むことも悲嘆に暮れることもない、念じるだけで家が建ち車椅子の老人も歩けるようになる究極理想の世界が実現される日も近いでしょう。その暁には、ウィンドウズよりももっと訳の判らない代物を使いこなして自己満足に浸っている特権階級気取りのしゃれのめした異教徒どもは残らず地獄行きになるのです。
 万歳!未来社会を照らす偉大なる太陽、ビル・ゲイツ万歳!複製技術時代における至高の聖典、ウィンドウズ万歳!