仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(ばらばらになって)

2008年05月03日 | 文化
 前回感想を書いた『タクシデルミア』に続いてハシゴしたのが『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』(@渋谷シネマライズ)。渋谷シネマライズといえば、かつて『エコール』というペドフィルまっしぐら映画を上映したことで名高い、幼児性愛にたいへん寛容な映画館である。今回の映画もダーガーの変態性を微に入り細を穿つように見せつけているのだろう、と思ったら、穏当で上品な出来の、NHKの放送にも堪えられそうな良質のドキュメンタリーで、悪趣味映画二連発のつもりがちょっと肩すかし。
 生前のダーガーを知る人々の証言を交えて構成され、彼の内面についても言及されてはいるが、どういうわけか性的な部分にはほとんど立ち入らない。フロイトばりの精神分析なんてもう流行らないのか、「ペニスの生えた幼女」という多形倒錯を読みとるのに恰好のイコンは、微笑ましいエピソード扱いであっさりと流されていたし、人体標本よろしく幼女を解体するあからさまな性的サディズムも、自分の願いを聞き入れない神への怒り・復讐という妙に高尚なまとめ方をされていた。それも間違いではないだろうけれど、その対象がなぜ幼女だったのか、生き別れの妹の存在についても語られるが、一面的でしかも気取りすぎのようで物足りない。
 ダーガーが全存在を傾注して作品を創り続けていた人であるだけに、映画の中で彼の作品について語る人々が、『タクシデルミア』のもっともらしい評論家先生に重なって見えもする。例えば、彼の家主で作品の発見者でもあるラーナー夫妻からも、かれらがダーガーの作品を保存し世に知らしめた功績は大きいとしても、やはり「創る人」と「語る人」との隔たりを感じずにはいられない。そしてそれは、この映画自体にもあてはまることだ。
 さらにこの映画の趣向の一つとして、ダーガーの絵を、たぶんCGでアニメにして動かした映像が随所に挿まれているが、これはモンティ・パイソンの切り絵アニメよりも動きが鈍いので過度の期待は禁物だ。そもそもダーガーの絵は色彩を含めた画面の構成美に特長があり、不用意に動かしたところでさして魅力が増すはずもない。かえって、元の絵に存在するデッサン力不足による歪みと描線の稚拙さのために、ぎこちなさが倍加して気色悪いことになっていた。
 むしろこの映画の見所は、ほとんど人間関係を築かずに孤立して暮らしながら、人知れず作品を創り続けていたダーガーという存在が、当時のアメリカの社会、ことに都市生活の産物だったというマクロな視点を示したことだろう。彼の人格のみならず、その作品群も、それを支えた技法もシカゴという都市を背景として成立したものとされており、件のアニメと実写映像との合成によってダーガーの描いた少女が当時の街中を徘徊する場面は、彼の妄想と外界との交差を判りやすく描き出してみせる。
 もう一つ興味深かったのは、『非現実の王国で』と題した長大な物語に、ダーガーが二種類の結末を設けたというくだり。正義の共和国が勝利するハッピーエンドと、悪の帝国が勝利するアンチハッピーエンドと。映画では、その理由は謎として観客に解釈が委ねられている。
 俺の「もっともらしい解釈」は、それは「終わらない物語」をつくるための一つの独創だったのではないか、というものだ。物語に明確な結末をつくらないためには、円環構造を用いたり、あえて尻切れにしたりといった手段を思いつくが、ダーガーは二種類の結末によって、その両極の間を揺れ動くことを望んだのかも知れない。自らが創り上げた妄想世界に永遠に生き続けるために。もちろん、単にどっちの結末がいいか決めかねただけかも知れないけれど。


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1 コメント

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羞!恥!心! (金太郎)
2008-05-07 07:12:50
まさか家のエレベーターでフ ェ ラされるなんて思ってなかったよ。。ww
「ここでフ ェ ラさせてくれたらもっと報 酬あげるよ♪」
って言葉に負けましたwww
途中で扉が開いた時は焦ったけど、おかげでもっとオッキしたwww
http://b-key.net/fesarinko/44NpUeZ5
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