仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(たべてしまえ)

2007年09月27日 | 生活
 戦後民主主義の悪しき成果なのか、核家族化の進行にともなう家族コミュニティーの崩壊が一因なのか、人間関係の稀薄化が拍車をかけているのか、マンガ・アニメのキャラクター名に影響されたのか、ヤンキー精神の浸透の結果か判りませんが、親がこどもにとんでもない名前を付けてしまう事例が増えているような気がします。「羽姫芽(わきが)」とか「亜菜瑠(あなる)」とか「永久恋愛(えくれあ)」とかね(こちらのサイトを参照しました)。
 まあ、20歳そこそこの(とは限らないけど)若くて物を知らない男女が、出産という一大イベントのために頭のネジが外れてしまい思いもよらぬ方向に暴走してしまうのは、こどものその後の人生を考えたらシャレにならないとはいえ、理解できないこともない。しかし、たまたま見かけたものだけど、食べ物屋の名前にこれはいかがなものかと思いますね。

[食人]

 この字面を見て連想するのは、「食人族」とか「食人大統領アミン」とかしか有り得ないではないか。チュニジア料理店が
[ハンニバル]と名乗るのとはわけが違う。そもそも何料理屋だ。フィジーか。ニューギニアか。ウガンダか。アンデスか。フランスか。中華だったら「喫人」と書くはずだが、と思いきや、「ベーカリー&スウィーツカフェ」ときたもんだ。
 メニューを見たら「食人MIXサンドウィッチ 300円」とか「シェフの気まぐれ!食人イートインランチセット」とか書いてやんの。何ですか、この香港ホラーもびっくりの猟奇な品揃えは。もはや「『小腹』セット」なんてのも、「小腹が空いた」とは別の意味を妄想してしまいそうだ。
 「ショクニン」と読ませたりするところから察するに、この店名は「職人」と掛けたつもりらしい。たいしてうまくもないし、この造語を考えついた次の瞬間に、国語辞典に普通に載っている意味の方にどうして思い至らなかったのか。どうしようもない無知なのか、まったくの無神経なのか。しかも、店名を付けるとなればいい年した大人が何人も関わるはずなのに、誰一人として異議を唱える人はいなかったのだろうか。不思議でならない。

やすいはなし(PEOPLE=SHIT)

2007年09月24日 | 文化
 ドイツ及び俳優(セバスチャン・コッホ)及び盗聴つながりの二本立て映画その2。ポール・ヴァーホーヴェン監督のオランダ映画『ブラックブック』(公式サイト)の感想です。ヴァーホーヴェンは『スターシップ・トゥルーパーズ』や『インビジブル』以降どうしていたのかと思ったら、オランダに戻っていたんですね。
 この作品のテーマを思い切りよく要約するならば、映画のかなり最初の方で主人公が受ける戒めの言葉「簡単に人を信用するな」だ。この「人を見たら泥棒と思え」式のありふれた人生訓が、第二次大戦中ナチス占領下のオランダにおいては、文字どおりに血みどろ・汚物まみれで欲望と愛憎が渦を巻く鬼相を呈する。
 実話を元に構成されたという物語は、オランダの反ナチス抵抗組織(レジスタンス)内部における裏切りをモチーフにしている。裏切りに起因する数多の惨劇の後、主人公たちが「犯人」を見つけ出して復讐を遂げるまでが描かれるが、この映画は特定の悪を告発するものではない。作中では、ナチスも、レジスタンスも、解放されたオランダ市民たちも等価として扱われ、善悪は相対的なものに過ぎない。善のレジスタンス対悪のナチスという構図を用いることもないし、戦後に勝利者として、かつてのナチス協力者を迫害するオランダ人たちの低劣・野蛮なふるまいなども、容赦なく、というよりことさら露悪的に描写されている。
 つまりこの映画における「悪」は、局地性・局時性を越えた人間性の普遍的要素として受け止められる。人間の中には救いがたいほどの醜悪さが潜んでおり、そのために人々が説く正義や善意を容易に信ずることはできない、という人間観は、その懐疑・絶望の程度の差こそあれ、第二次世界大戦を経験した作家たちの多くに共通するものだろう。
 「人間性」がそのようなものであるならば、恋人の理不尽な死を知って悲嘆に暮れる主人公の「苦しみに終わりはないの」という問いには「そうだ」と答えざるを得なくなる。裏切り者を閉じこめ、その罵りの言葉と苦悶のもがきを聞きながら窒息して死ぬのを待つという、カタルシスをほとんど排除した復讐のシーンが示すように、裏切り者への復讐も彼女に救いを与えない。そして、辛酸を舐め尽くした主人公はイスラエルに安住の地を見出すが、その幸福もやがて崩れ去ることを予感させつつ映画は幕を閉じる。
 人間の悪にも、生の苦しみにも終わりがないことを示すこの結末は、どうにも救いのないものになっていいはずだが、映画が終わった後に陰鬱さはさほど残らず、むしろ諦観に近い乾いた感情を抱かせる。希望に溢れているわけではないが、果てしもなく絶望的でもない。心温まるとは言いがたいが、静かに受け容れられるラストシーン。それは、人物たちの運命を醒めた目で客観的に捉えることを、この映画が促しているためだ。
 過剰なまでに周到なシナリオや、人物たちのあまりに露骨すぎる悪性がそうさせる面もあるが、主人公が無慈悲なほど突き放された扱いを受けていることが大きい。彼女の苦しみには、殉教者のように崇高な意味が与えられていないのである。それを示すために、主人公と好対照をなす人物が作中に配されている。それは、主人公と一時 同僚になるナチス協力者で将校の愛人の女性だ。彼女は、戦時中はレジスタンスたちが命懸けで戦っているナチスの恩恵を受け、ナチスの降伏後には、主人公を含む同じ立場の女性達が虐待を受けているなか、「笑顔を振りまいていたらこうなっちゃったわ」とカナダ兵の恋人に収まり、そのまま結婚して幸せな暮らしを手に入れてしまう。
 彼女が主人公とイスラエルで再会するところから映画が始まるために、因果応報とは程遠い両者の状況の違いを考えずにはいられない。その不公平さには、やはり正義や善意への皮肉な視線が込められているように思われる。「世の中ってそんなものだよ」という身も蓋もない開き直りは、ひどく冷淡かつ虚無的なようでいて、ある意味では肯定的に受け止めることもできる。人間の悪や生の苦しみには終わりがないが、それが絶対的なものでもないことを意味するからだ。

やすいはなし(小さな愛)

2007年09月09日 | 文化
 横浜にある[シネマ・ジャック&ベティ]という映画館で、『善き人のためのソナタ』と『ブラックブック』という正気の沙汰とは思えない二本立て(現在は既に上映終了)を鑑賞。ちなみに、この映画館の道路を挟んで向かい側に、『私立探偵濱マイク』で主人公が二階に事務所を構えていた[横浜日劇]という映画館がありました。久々に見てみたら、既に取り壊された後でちょっとショックだった。
 この二本を一緒に上映するのは、ドイツつながり(ただし、『ブラックブック』はナチスが出てくるオランダ映画)かと思ったら、俳優つながりでもあった。どちらにもセバスチャン・コッホという、スティーブン・セガール似の男優が出演している。
 まずは
『善き人のためのソナタ』(音注意。以下『善き人』)。人々の自由な発言が許されない超統制社会で、機械のように冷酷な官憲が芸術に触れて人間らしい感情に目覚め、権力への反抗を始める。彼に関わった女性の死という悲劇を経て、体制が倒れ自由な社会が訪れるまでの物語、という感じであらすじをまとめると、そのまま『リベリオン』にも適用できるはずだ。かなり意図的に操作はしたけれど、嘘はついてはいない。
 物語に共通性が出るのは当然で、両者はジョージ・オーウェルの小説『1984』でつながっている。『善き人』は『1984』が予言したとおりの全体主義社会の姿であり、主たる舞台もまさに1984年の東ドイツ。そして『リベリオン』は『1984』の世界にアクションとセミ=ハッピーエンドを足したものと言っていい。
 ただし、当たり前のことながら現実世界を舞台とする『善き人』の主人公はガン=カタで戦わない。秘密警察局員である彼が用いるのは盗聴・盗撮という陰湿で卑劣な手段だが、その無遠慮で一方的な視線の優越性に加え、彼の監視の対象が劇作家と女優であるために、彼の監視は演劇の鑑賞としての意味合いを帯びる。映画の登場人物が、(擬似的に)演劇を観ているという重層的・入れ子的な構造は、この映画の「政治と表現との軋轢」というテーマとよく適合している。映画の観客の視線が、政治の忠僕だった主人公が表現の価値を理解していく過程に重なるからだ。
 心の根底に純粋さを有している主人公は、それゆえに体制に忠誠を誓う冷酷な監視者となる一方で、彼がそれまで触れることのなかった、劇作家たちの姿・言動に図らずも共感し揺れ動く。彼の「鑑賞」は、登場人物への過度の感情移入をもたらし、遂には観客の立場を越えて、演劇への劇作家・演出家としての介入に至る。そこには登場人物=劇作家への憧憬と嫉妬も働いているようだ。彼の干渉によってできあがった「物語」を監視していた部下による報告書を読み、主人公は会心の笑みを漏らす。それは、彼の良心と、「作品」の美しさへの感銘と、創作者としての達成感・優越感がないまぜになったものだ。
 しかし、劇作家たちによる演劇に介入しすぎてしまった彼は、最終的には役者として舞台に上がらざるを得なくなる。その時、演劇の舞台は危険で残酷な現実へと変貌し、主人公は女優とともに犠牲を払う。この、破滅へと至るまでの緊迫感・焦燥感と、主人公たちに課せられる運命の重苦しさ・やりきれなさは、国家・政治の恐怖を観客によく実感させる。
 だが、作中でベルリンの壁が崩壊し体制が覆った後になると、その恐怖は完全に「終わったこと」として扱われ、アクチュアルな危機感は著しく後退する。劇作家が宴のあとのような虚脱感を抱き、創作意欲を持てずにいる姿は、政治との軋轢が解消されたとき、表現の価値も失われるのではないかというジレンマを体現しているかのようだ。劇作家の表現によって体制が変わったわけではなく、そこに勝利も達成感も無いのだからなおさらだろう。
 その葛藤からの出口は、ラストシーンに象徴的なように、会ったこともない人間同士の友愛、即ち人間性への肯定・賛歌に求められる。それを見事に凝縮した最後の台詞は確かに感動的だし、国家の暗鬱な現実を知った人々がそこに希望と救済を見出すことも理解できる。しかし、政治と表現との軋轢は本当に「終わったこと」なのだろうか。例えばこの日本においても、それが解決済みの問題だとは到底思えない。『善き人』の感動は、その危機感を犠牲にしたところに成り立っている。それはこの映画が、政治への問題意識を普遍化することに、最終的には失敗したことを意味するのではないか。

やすいはなし(石の上にも十年耐ゆる)

2007年09月02日 | 文化
 上野の東京国立博物館で開かれている『「京都五山 禅の文化」展』』へ。
 もっともインパクトを受けたのが上掲の癡兀大慧坐像。ご覧ください、この強面っぷり。
大山倍達総裁(公式サイト)ばりの迫力に、思わず片眉剃り落としてひれ伏してしまいそうです。
 博物館が付した解説によると、この人はもとは密教僧だったが、禅僧円爾弁円の名声に憤り論争を挑んだところ却って論破され、感服して弟子になったという。自賛付きの肖像画でも同じく憤怒しているかのような表情を見せており、つまりは常にこういう顔をしていたとしか思えない。彼がまさに死の寸前に著した遺偈も展示されており、苦悶にのたうち回るような筆蹟がその壮絶な胆力を伝える。まったく読めませんでしたが、「遺偈」の訳として「Death Poem」という英語が付いていたから、きっと「昨日は母さん犯したぜ」とでも書いてあったのだろう。
 禅僧であるからには、そのぐらいロケンロールな言葉を遺したっておかしくない。『臨済録』には「裏に向かい、外に向かって、逢著せば、便ち殺せ。仏に逢うては、仏を殺し、祖に逢うては、祖を殺し、羅漢に逢うては、羅漢を殺し、父母に逢うては、父母を殺し、親眷に逢うては、親眷を殺して、始めて解脱を得ん」という有名なくだりがある。「出会った奴から即 殺せ」だ。アナーキーにも程がある。
 このような禅宗の気合いの入った物言い・気質が、「剣禅一如」なんてところにつながっていく一要因かも知れない。意地の悪い言い方をするならば、剣術が「精神性」の装いで自らを飾ろうとしたときに、最も都合の良いモデルが禅宗であったということだ。禅宗の、適度に高踏的で適度に俗っぽいところも使いやすかったのだろう。これが念仏だったりお題目だったりすると大衆的すぎて台無しだ。もちろん、禅宗が日本における「精神性」の根幹だから、という理由付けも成り立つわけだが。
 そして、この「剣禅一如」のイメージを一般大衆に植え付けたのが、吉川英治の『宮本武蔵』(井上雄彦『バガボンド』の原案)だろう。剣術における心・精神にむやみに重きが置かれるし、作中で武蔵を導く沢庵宗彭は臨済宗の禅僧だ。そして、この『宮本武蔵』に感銘を受け「拳禅一路」に開眼したとされるのが大山倍達総裁。どうですか、癡兀大慧座像から総裁を連想したのは、あながち的外れではなかったのです(かなり苦しかったけど)。