仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(不浄理の唄)

2007年01月25日 | 社会
 非常に迷惑なことに、安倍内閣は教育改革を最重要課題として位置づけています。これに取り組むために内閣に設置された教育再生会議が、1月24日に第1次報告をまとめました。流し読みした限りでは、さすが途中で内閣側からテコ入れがあっただけに色々と大胆な改革案が並んではいるけれども、一貫性の乏しい寄せ集めという印象が強い。本会議やら分科会で出た意見を、委細かまわずぶち込んででっち上げた感がある。これを現実に具体化して実施できるのだろうか。そのまま持ち込まれたら、現場となる学校は堪ったもんじゃない。国会やら文部科学省の役人やらに、結局は骨抜きにされていくんだろうけれど。
 寄せ集めの一例を示せば、教育再生会議の分科会の一つ、
規範意識・家族・地域教育再生分科会の資料「子供の「心の成長」のために」(議論のたたき台(修正版))にあった、子供の心を豊かにするために「コーラスの指導をするのが良い」「自然の中に行って写生するのが良い」「体育で30人31脚をやらせよう」などという居酒屋のおっさんレベルの案が、報告にはもれなく取り込まれている(12ページ)。さすがに、「生徒にルールを教えるため、エビデンスのあるコンフリクト・レゾリューションやアンガーマネジメント・トレーニングを導入しよう」(「子供の「心の成長」のために」8ページ)という「欧米かッ」とツッコミたくなるような文言は入れなかったようだけれど。帰国子女風のイイ発音で読んでみてください。ちょっとクセになりますよ、“イーヴィデンスのあるカンフリクト・ゥレゾリューション”。何だかわからんがとにかくすごそうだ。
 安倍総理大臣や山谷えり子担当室事務局長らしさが出ていると思ったのは、第1次報告12ページの(2)「父母を愛し、兄弟姉妹を愛し、友を愛そう」という項題。どこかで似たようなフレーズがあったよな、と記憶を探ったら
教育勅語ではありませんか。「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」を「愛する」に変えたらほぼ同じだ。「夫婦相和シ」を除いたのは子供に教えるのはちょっと早いという判断か。「夫婦で愛しあい」はまずかろう。
 これが元ネタというのは考えすぎ?しかしこの項題、以下の「体験活動の充実」という内容とはかけ離れすぎている。どうしてもこの文言をどこかにねじ込みたいという恣意が、こういう不自然さをもたらしたのではないか、と妄想する次第です。

やすいはなし(世界に誇る日本の味)

2007年01月23日 | 社会
「あるある大事典」の納豆ダイエットで捏造 関西テレビ(朝日新聞) - goo ニュース 『発掘!あるある大事典』の、納豆にダイエット効果があるという放送内容に虚偽があった、と番組を制作した関西テレビが記者会見で発表したとのこと。放送後に納豆がバカ売れして店頭から消えるなどという浅ましい現象が起こったが、これであっという間に収束するだろう。テレビが起こした騒動に、これほど早く、しかもこれほど綺麗にオチがついたことは無かったんじゃないかと思う。あまりの爽快さに、今だに半笑いになっているぐらいだ。この騒ぎでは、番組をつくった側もバカなら、それに踊らされた側もおしなべてバカだった。自分がバカであることを理解するいい機会だというのに、騙された、許せないなどと憤っている奴は恥を知れ。小泉武夫教授に鉄拳制裁を喰らわされてこい。
 この報道を受けて1月21日の同番組の放送は見送られ、その時間帯に関西テレビのアナウンサーによる5分ほどの弁明・謝罪番組が放送された(関西テレビのサイトにも
お詫びの文章が掲載されている)。性格のねじ曲がった俺はそういうことが当然あるだろうと予測して、その放送をまんまと見てやりましたよ。真面目で実直そうなアナウンサーが神妙な表情で話してはいたけれど、そこかしこに姑息さが顔を出す、卑怯未練の臭気紛々たる内容でありました。
 番組の大きな流れと称して、構成の元になった3つの学説(の一部分?)についてまず説明していた。まったく別の人による、個々に独立した見解ではあるが、それらを組み合わせると、理論上は「納豆を食べると痩せる」という結論が導かれる。この前置きによって、番組の内容は総論として正しかった、と言いたかったのだろうが、それは学説を切り貼りした推論に過ぎない。それだけでは放送に堪えないから、虚偽のデータや被験者の写真や専門家のコメントを捏造し、その推論が科学的に証明されたかのように見せかけたのが問題なんだろうに。
 百歩譲って推論自体は正しかったとしても、それでどの程度の効果があるかに視聴者は注目したわけでしょう。確かに効果はあるけれど、納豆を150トン食ったら1グラム痩せるなんて微々たるものだったら誰も跳びつかない。劇的な効果を示して視聴者を惹きつけようとした、そのために虚偽を用いたのだから、これは根幹部分の捏造にあたる。にもかかわらず、各論部分の誤りとして印象づけようとするのは二重に捏造を働く詭弁ではないか。
 さらに、「捏造」という言葉をどうしても使いたくないらしく、「恣意的に創作」と言い換えていた。「創作」というと何となくクリエイティブな感じがしてかっこいいでしょってか。虚偽を発表した記者会見でも、関西テレビの社長は番組全体について「捏造」と認めることにしぶとく抵抗したらしい。悪意をもって視聴者を騙そうとした、という印象を何とか薄めたいのだろう。そんな小手先の操作をいくら弄したってもう手遅れで、かえって印象を悪くすることに気付かないのだろうか。こうしてほじくり返して喜ぶ奴もいるというのに。
 事ここに及んで何とか言い逃れをしようったって、傷口を広げるだけだろう。危機管理がなっていないにもほどがある。もっとも、ここでまともな判断をする能力がかれらにあるならば、最初からこんな不祥事は起きなかったのかも知れない。

やすいはなし(とても・愚かしい)

2007年01月21日 | 社会
 さーて、経団連の発表したビジョン『希望の国、日本』の悪口を書き続けますよ。ありがとう、経団連。あなたたちのトンチキな文書のおかげで、俺は楽しくって仕方ないぜ。

 ここで批判を試みているのは、主にビジョンの第3章「『希望の国』の実現に向けた優先課題」の第5節「教育を再生し、社会の絆を固くする」という箇所です。その最初の項では国民への愛国心教育が異様な熱心さで訴えられ、次の項では企業のCSR(社会的責任)の展開と企業倫理の確立がおざなりに唱えられています。そして3番目の項では「政治への積極的参画」が論じられている。
 ここでの、「最も憂慮されるのは参政権を行使しない国民が多いこと」という見解に異論はありませんが、そのすぐ後に続く「政治への積極的な参画は国民の義務」というくだりがもういけない。「参政権」という言葉のとおり、民主主義の建前において国民の政治参加は第一義的には権利であり、行使するかどうかは、その内容も含めて本人の意思に関わるものです。この基本的な権利を放棄するのは非常にもったいないことであると同時に、政治に対する意識の低さを推定させるものではあるが、それに業を煮やして国民に義務づけようとすれば民主主義の前提を崩してしまう。国民が、自ら統治のあり方を決めることを権利として認識していないならば、その国の民主主義は形骸に過ぎません。
 したがって、「義務として政治に参加せよ」という、自発的な意志を否定する物言いは、「健全な民主政治」の根本を経団連が理解していないことを示しています。このような認識に基づいて「政党政治・政治参加の重要性に関する国民意識を高め」ようとしても、民主主義の成熟は望めないでしょう。さらに付け加えるならば、ビジョンが求めるとおりに国旗掲揚と国歌斉唱をやらされすぎて愛国心脳にされてしまった国民に、まともな政治的判断ができるかどうか、はなはだ疑問です。
 ことほどさように民主主義についての浅い理解しか持たずに、政治参画という概念を弄ぶとどういうことになるか。これに続く箇所で早くも明らかになります。
 簡単にまとめると、「健全な政治を、自らの負担で育てる」ためには政治献金を盛んにせねばならず、政党は「改革を徹底していく」ための斬新な政策を企画立案しせねばならない、二点ともに現状は不十分だ、だから経団連はこれに積極的に関わっていく、と書いてある。何のことはない、投票率向上などは単なる前置きで、経団連が政治に口を出したいだけじゃねえか。民主主義の根幹である民意よりも、企業の政治参加の方に重きを置いているらしい。
 その証拠に、前回・前々回と同じように第4章の「今後5年間に重点的に講じるべき方策」を見てみると、そこに並んでいる方策はほとんど経団連のやりたいことばかりだ。「経団連は」「経団連は」「経団連は」と鼻息荒く畳みかけるところなどまさに圧巻です。これほど露骨に企業側に偏った提案をして平然としていられる愚かさ・卑しさ・厚かましさに、呆れ果てずにはいられない。
 献金を含む企業の政治参加がまったく許されない、と言うつもりはありません。言論として政策を主張することは自由だ。しかし、政・財が癒着し、企業が献金をちらつかせて政党の政策をねじ曲げるようなことは回避しなくてはならない。まして、前回書いたとおり一般国民に厳しく企業には甘いという基本姿勢を持つ経団連には、いくら警戒してもし過ぎるということはないでしょう。放っておけば私利私欲に走って国民を食い物にしかねない。
 ビジョンの「序」には「国・地方、企業、国民が取り組むべき具体策を書き込むことに力を注いだ」とありますが、ときおり上記のように、ここぞとばかりに「経団連がやりたいこと」が恥も外聞も無く書き連ねてあります。こうしたちぐはぐさを見ると、このビジョンは経団連の今後の行動指針なのか、それとも「序」にあるように社会全体への提案なのか判らなくなる。「やりたいこと」については欲求がありあまって抑えきれずに噴き出してしまうのか、それともある課題については経団連が関わることが最善であり公正だと信じきっているのか。いずれにせよこのような見苦しい破綻は、書き手が知性のみならず品性にも欠けていることを如実に示しています。
 さて、第3章 第5節の最後に置かれた項が「憲法改正」です。ところでこの節のタイトルは?「教育を再生し、社会の絆を固くする」でした。何でこの節に憲法改定が入れられているのでしょうか。憲法を「社会の絆」というテーマで括るのは相当に無理がありそうです。憲法の改定についてどうしても言っておきたいから、最後に無理やりねじ込んでしまえ、というところだったのか。あるいは、教育再生・・・教育基本法改定・・・憲法改定という連想ゲームの産物か。こういう杜撰なやり方が、憲法改定という重大なテーマを論ずるのにふさわしいとは思えない。
 そして、このビジョンにおける憲法改定とは、安全保障及び自衛隊の国際貢献活動に関わること、即ち第9条の改定論議という非常に限定されたものです。それも確かに重要ではあるけれど、憲法について関心があるのがそこだけというのは、いかにも浅薄でスケールが小さい。「政治の基本的な枠組みは憲法である」と言いながら、本当にその意味を理解しているのだろうか。
 そもそもよく判らないのは、経団連がなぜこれほど軍事に関心を示すのか、ということ。自身の利益をビジョンに盛り込まずにはいられない経団連の浅ましさを見せつけられてきたせいか、そこに何らかの下心を疑わずにはいられない。すぐ思いつくのは、軍需を商売のチャンスとして狙っているという推測。自衛隊の国際貢献活動(これは言葉としても矛盾しているね、「気前のいいドケチ」みたいな感じだ)ならば、国内には被害を及ばさず、盛大に有効需要を生み出してくれるだろう。
 もう一つ思いついたのは、定職に就けない貧困層の受け皿として自衛隊を機能させようとしている、というもの。自衛隊を憲法で認めて活動範囲を広げ、我が国の安心・安全を守るとともに国際平和にも寄与する存在としてその存在感を高めれば、格差社会における再チャレンジの選択肢として広く受け止められるようになる。企業が切り捨てた労働者を自衛隊が吸収し、だぶついてきたところで海外の紛争地域で消費して靖國の神にしてしまう。愛国心教育もここで効果を発するでしょう。何と無駄のない美しいシステムでありましょうか。きっとこれも、「序」で語られているようにアメリカの現状から示唆を受けたものなのだろうな。
 この軍事に偏った憲法改定案のみならず、愛国心を強調する教育改革や、経済成長重視と称して企業の利益を優先させる姿勢は、安倍内閣の方針と非常に近しいものに見えます。事実、
安倍首相との対談で経団連会長の御手洗氏は「『美しい国』と『希望の国』には相通ずるものがあります」と発言している。「死ね、お国のために」の総理大臣と、企業の利益ばかりを優先させる経団連会長が意気投合しているさまには、お先真っ暗な気分にさせられます。少なくとも俺にとっては、「美」だの「希望」だのといった言葉とはほど遠い絶望的な光景だ。
 この這い上ってくるようなおぞましさをどう表現すればいいかと考えて、思い出したのが泉鏡花『高野聖』の次の一節。
《およそ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨国の樹林が蛭になるのが最初で、しまいには皆 血と泥の中に筋の黒い虫が泳ぐ、それが代がわりの世界であろう》
 いや、「人間が滅びる」というのは大げさとしても、経団連が示したビジョンの行き着く先は「血と泥の中」としか思えない。

 おまけの話。この『希望の国、日本』は、経団連のサイトで全文を閲覧できますが、そのままでは印刷できないようにPDFに細工が施してあります。テキストのコピーもできないので、引用するために打ち込むのがとても面倒くさかった。
 紙文書として読むには1月25日に発行される冊子を購入せよとのこと。で、
その価格が税込み1260円。高ッ。「序」には「できるだけ多くの国民に、本ビジョンをご一読いただき」と書いてありながらこのお値段。いったい誰が買うんだ。御手洗氏が会長を務めるキャノンの社員か。キャノンでは、派遣・・・じゃない請負の労働者に至るまで、これを買わされたりするのだろうか。

やすいはなし(とても・やりきれない)

2007年01月16日 | 社会
 経団連の発表したビジョン『希望の国、日本』について、さらに続けます。

 前回触れたのは、第3章「『希望の国』の実現に向けた優先課題」のうちの第5節「教育を再生し、社会の絆を固くする」の最初の項「教育の再生、公徳心の涵養」でした。ここでは、個人の美徳や公徳心が不十分であると国民を批判し、人々がこれらを備えるためには愛国心が必要不可欠であるとしています。共同体としての国を愛する心があれば、国民はみな高潔な人間性を獲得し、社会はモラルに満ち溢れ、国際平和までが実現される。まさに希望に満ちた薔薇色の未来が描かれていました。
 ビジョンの考え方によれば、愛国心は人倫の根拠であり、ある人間が愛国心を持てないのは、その人自身に原因がある=悪であるという図式が成り立ちます。したがって国にも、彼を取り巻く状況にも理由を求めてはならない。逆に言えば、愛国心を持っている限りその人は善人である、少なくともその可能性があるということになる。「愛国心はならずものの最後の逃げ場」とはよく言ったものです。
 こうして愛国心原理主義を国民に信奉するよう説いた次の項では、「CSRの展開・企業倫理の展開」について触れられています。なお、CSRとは企業の社会的責任のこと。なるほど、企業も社会の一員として、愛国心に基づく公徳心に溢れた行動を求められるからね。経済に関係ないことがいっぱい書いてあるので忘れそうになっていたけれど、思えばこれは、企業によって構成された団体が出したビジョンでした。「ひとびとに希望を与え、夢を実現する道筋を・・・記す」という、崇高かつ壮大な意志のもとに経団連が世に問うたものなのです。そのビジョンのなかで企業のなすべき課題を明らかにするというのだから、感動の涙を催さずにはいられないほどの利他と奉仕の精神で、これでもかこれでもかと、あんなこともこんなことも、途中で腹一杯になってとてもじゃないけど食べきれませんというぐらいに書いてあるだろうと思いきや、この節はわずかに2ページしかありません。しかも「企業行動憲章」という既存の文書を貼り付けて1ページをまるまる埋めており、やる気の無さを真正面から見せつけます。
 いや、文章の長さが問題ではない、重要なのはその中身だ、というまっとうな意見もありましょうが、その中身がまた笑ってしまうほど薄いうえに、どうしようもなく卑しいんだ。前回も書いたとおり耳を洗いたくなってきますよ。
 前項の「教育の再生、公徳心の涵養」では、個人の美徳や公徳心が欠如していると一般国民を厳しく弾劾していました。曰く「自己中心的な考えが蔓延し・・・最低限のモラルも確立されているとは言いがたい」「法や社会規範の遵守さえ確保されていない事例が少なくない」「自らの社会を自らの手で支えようという気概や・・・公徳心も十分に育っていない」。ひどいものです。日本人は何と低劣な国民なのでありましょうか。もうこの国はおしまいだ。
 では、企業の現状についてはどのように分析しているか。ダメ人間の国のダメ人間が働く企業であるにもかかわらず、どういうわけか否定的な評価はまったく見当たらないのです。むしろ「企業はこれまでも・・・公共的な課題の解決に貢献している」「社会貢献活動や地域社会との共生、環境負荷の軽減などに努めている」と誉めちぎっている。
 これはどういうことだろう。同じ国・社会にありながら、一般国民は腐りきっている一方で、企業は聖者の如く社会正義のために尽くしていると言うのでしょうか。批判されるべき点は何一つ無いエリートの集団だとでも言うのでしょうか。ふざけるな、と言いたいね。企業の不祥事や犯罪行為、労働者に対する酷薄な処遇など、企業の公徳心を疑わせるに足る事柄はいくらでもあったはずだろう。企業だけは汚れていないと何で自信を持って言えるのか。
 前項で一般国民をぶっ叩いたなら、企業も等しくぶっ叩くべきだ。企業のふるまいについていっさい目をつぶるのは明らかにバランスを失しているし、これまでの企業不祥事について、企業全体の問題として捉える意志はまったく無いということになる。労働者や消費者・顧客・地域の住民にまで広汎かつ重大な影響力を持つ、社会的権力として企業が機能していることを考えれば、その行動にともなう責任については、常に厳しい見方が必要であるはずなのに。このような、「企業に問題はない」という、ブラジルの丸くて黄色いお菓子よりも甘い前提から今後の課題を考えていくとすれば、ビジョンに掲げられたCSRの展開も企業倫理の確立もまったくの画餅に終わるでしょう。
 このことは、同じビジョンの第4章「今後5年間に重点的に講じるべき方策」の対応する箇所を見ればはっきりしています。そこには、経団連が「『企業行動憲章』に掲げた精神を会員企業に周知徹底するため」の方策が並んでいる。つまり、「精神を」(具体的な行動ではない)周知徹底したら、その後は企業任せ。ときどき憲章の『実行の手引き』や『CSR推進ツール』を提供するという。マニュアル配って「ハイ、終わり」か。かなり生ぬるい気がしますが、「企業性善説」を前提にすれば、企業の自助努力で事足りるという腑抜けた結論になるのは当然のことです。行政やNPOなどの外部からの監視や制裁を提案できるはずもない。
 また第4章には、「CSRのグローバルな展開に向けて、リーダーシップを発揮していく」とも書いてある。途上国・アジア諸国を含めた世界中に、CSRの何たるかを教えてやろうというわけだ。いつの間にこの国は、世界に範を垂れられるほどのCSR先進国になったのか。まず自国における定着・確立を図る方が先だろうに、そのハードルは既にクリアした(だから国内企業に関しては現状維持で足りる)と決めつけてしまっている。だいたい「CSR」なんて横文字を使う時点で、欧米から輸入された概念であることが明確だというのに、どうしてこうも思い上がることができるのだろう。日本企業が世界に先駆けて実施したために、経済用語として広まったものといえば「kanban」と「karohshi」ぐらいしか思いつかないのだが。
 このような、一般国民に厳しく企業に甘い姿勢は、経団連が自己の利益を露骨に優先させたことを示しています。経団連として身内の非を認めるわけにはいかないし、ましてや財界の構造的病理だなどと考えられるわけもない、企業にとって、経団連にとって不利な内容を盛り込めば、それを言質に取られて後々に累を及ぼしかねない、そんな判断が働いたのでしょう。利潤を追求することが本旨である企業からなる団体が、不利益を避けようとするのは当然のようにも見えます。しかし、そもそもそのような意図を抑えることができないのであれば、国のあるべき姿などという大それたものを、あたかも公正無私であるかのような面付きで世に問う資格などは、経団連には最初から無かったのです。
 一般国民には、「希望の国」に至るため痛みも覚悟しなければいけない、愛国心で乗り越えろと言いながら、企業の負担は可能な限り軽くしようとする。ビジョンの別の箇所では、消費税の税率引き上げは避けられないが、経済成長のために法人税率は引き下げるべきだと虫のいいことを言っているし、サービス残業などの不法な労働の実態も踏まえずにホワイトカラー・エグゼンプションの導入を唱えている。こんな手前勝手で恥知らずな二重基準にまみれたビジョンは根本的に信頼できないし、これを自信満々で公表する経団連の「人間性」自体が疑わしくなってくる。
 結果としてこのビジョンは、経団連のモラルの低さを露呈させてしまいました。企業団体が私利私欲を剥き出しにしてほしいままに振る舞うさまが、どれほど人々の公徳心を傷つけるか想像に難くないはずですが、そのような指摘を封じるための布石がビジョンには打たれています。思い出してください。国民が公徳心を持てないのは愛国心が足らないからだ、と書いてありました。企業のせいでもない、それを野放しにする行政のせいでもない、国を愛することができないおまえ自身が悪いんだ、企業や行政を批判している暇があったら、国旗掲揚・国歌斉唱して愛国心を顕せ、共同体のために働く「よき国民」でいろ、ということになる。国民は黙ってお上の言うことに従ってればいいんだ、という独裁制や官僚専制国家と実質的にどれほど違いがあるというのか。これが「希望の国」ならば、そんな祖国は要りません。

やすいはなし(とても・迷信的)

2007年01月11日 | 社会
 遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
 年の初めといえば明るくおめでたい話題の一つも取り上げてご機嫌をうかがうべきなんでしょうが、逆に気の滅入るようなことを聞かされて、耳を洗いたくなっているところです。
 それは1月1日付で日本経済団体連合会(経団連)が発表した
『希望の国、日本』と称する、今後10年間の日本の進むべき道筋を示したというビジョン。その中には、安倍首相も大好きな教育改革に関する提言が含まれています。経済団体が、経済に直接 関係の無い事柄にまで上から目線で言及すること自体に「何様のつもりだ」と言いたくなるが、それはひとまず措きましょう。ここで問いたいのは、昨年末の教育基本法改定から晴れずにいる気持ちをさらに曇らせるような、とてつもなく杜撰で軽率で粗放としか思えない内容であること。本気でこれが「国・地方、企業、国民が取り組むべき具体策」と信じているのだろうか。
 このビジョンでは、行財政改革を促進し、経済成長重視の方策を選択していけば、「希望の国」というものが到来するとされています。その「国柄」は、「精神面を含めより豊かな生活」・「開かれた機会、公正な競争に支えられた社会」・「世界から尊敬され親しみを持たれる国」という3点に要約される(「国柄」という曖昧模糊とした表現で国のあり方を定義するところが何とも奥ゆかしい)。そしてこの「『希望の国』の実現に向けた優先課題」の一つとして、「教育を再生し、社会の絆を固くする」という節が設けられています。
 この節の混乱ぶりといいますか、まとまりの欠如はまったく目も当てられませんが、最も紙幅を費やして力説されているのが愛国心教育の重要性です。なぜそうなるのか論旨ををまとめると、
1.「個人的な美徳に加え・・・公徳心がなければ、どのような社会も成立しない」
2.「こうした美徳や公徳心は・・・基本的な価値観を共有する共同体の一員であるという自覚を持つことにより育まれる」
3.「教育を通じ、共同体としての日本を愛する心と、その一員としての誇りと責任感を培っていくことが求められる」
 いかがですか。2から3へのつながりがいかにも苦しいことがお判りでしょうか。共同体への帰属意識を持つことが、社会人としての責任ある行動につながる、という考え方はまあ妥当なところでしょう。その共同体が人々の幸福を保障するために有用である限りにおいては。しかし、共同体がいきなり日本に限定され、帰属意識が即ち「愛」とか「誇り」という情緒的なものにまでならなければいけないのはなぜか。論理もヘチマもない飛躍としか思えない。おまえの要約が悪いと言われるかも知れませんが、1から3までのカギカッコ内はすべてビジョンからの引用であり、わずか200字強の一段落を一部省略したに過ぎないのです。つまりほとんど原文ママ。それでこのアリサマ。おまえナニサマ。やることなすことすべてイカサマ。タワゴト垂れ流してオツカレサマ。アルバムを出すぜnext summerrrrrrrrr-ahhhhhhh-a-ahhhhhhh。
 すいません、オール・ダーティー・バスタードの霊が降りてきてしまいました。話を戻しますと、2から3に至る道筋は、経団連の人々にとっては説明不要の真理なのかも知れません。それは、当然そうでなければならない事柄であり、もはや合理性を越えた宗教的な教義のようなもの。共同体の一員は、共同体への愛を理屈抜きに、無条件に持たなければいけない。究極の共同体は国であるから、人間は愛国心を持たなければいけない。そこには、人々に愛されるような国とはどのようなものか、愛される国をどのようにして築くか、という視点がまったく欠落している。その愛に合理的な理由も価値も必要ないのだから、もはや理性を超越した信仰そのものです。
 そして、このような愛国心こそがすべての倫理的価値の淵源であり、愛国心が無い限り個人の美徳や公徳心は人に備わらないという、凄まじい愛国心原理主義が展開されていきます。「美しい薔薇が健やかな枝に咲くように、美徳や公徳心は愛国心という肥沃な大地から萌え出る。」見よ、この麗々しく格調高い詩的表現を。自ずから薫り立つ宗教性にむせかえって窒息しそうだ。
 ビジョンでは、こんなに無邪気に信じきっていいのかと思うほどに愛国心のすばらしさが謳い上げられており、それを毫も疑う様子が見えない。「愛国心は、侵略や軍国主義とは無縁である。」歴史を見る限り無縁どころかはなはだ親和性が高いように思えますが、そうした弊害はまったく目に入らないようです。「他国の国民と対等に接し、協力・協調すること」が、狭苦しい愛国心だけで実現できるとは思えないのですが。
 最終的に愛国心は、このビジョンが説く改革のために不可欠な前提と位置づけられます。「国民に国を愛する心がなければ『希望の国』に至る道筋を歩み続けることはできない。」これほど愛国心に依存しなければならないとは。「希望の国」という将来像自体を目標として、人々が努力をしてくれるという自信はまったく無いようです。それほどに魅力も説得力も無い未来だということか、愛国心で駆り立てなければ動かないほど人々は怠惰で無能だと諦めているのか。いずれにせよ、「具体策」にはほど遠い空疎な精神論と言わねばなりません。
 もっとも、ビジョンの説く愛国心は無条件の信仰であるため、神懸かりの精神論に至るのは当然の成り行きです。第4章の「今後5年間に重点的に講じるべき方策」でも、国の持つ価値を高めることによって人々の愛国心を喚起するという発想は微塵もなく、したがって実質的な福利をもたらす方策はこれっぱかりも見当たらない。最も重んじられているのは中身の無い宗教的な儀式です。即ち国旗掲揚と国歌斉唱。かれらが目指すものは、入学式・卒業式でたまに日の丸を飾って裏声で君が代を歌うなんてものではありません。「社会のさまざまな場面で日常的に国旗を掲げ、国歌を斉唱し」なければならないのです。
 想像してください。毎朝社員が集合して国旗掲揚・国歌斉唱。会議の前には国旗掲揚・国歌斉唱。忘年会といっては国旗掲揚・国歌斉唱。社員旅行で国旗掲揚・国歌斉唱。結婚式でも葬式でも国旗掲揚・国歌斉唱。レストランに入れば1時間ごとに国旗掲揚・国歌斉唱。子供が生まれました、当然国旗掲揚・国歌斉唱。月9の新しいドラマが始まるぞ、すかさず国旗掲揚・国歌斉唱。娘が初潮を迎えました、国旗掲揚・国歌斉唱して祝わねばなりません。クララが立った!ハイジ!国旗掲揚・国歌斉唱!!行くところまで行けばこのぐらい気色悪いことになるかも知れない。あるいは次の段階として、御真影が持ち出されるおそれもありそうだ。
 第4章にはこんな方策も書かれています。「日本の伝統や歴史、文化に関する教育を充実し、国を愛する心や国旗・国歌を大切に思う気持ちを育む。」国旗や国歌を重視するあまり、愛国心と同列になってしまいました。両者がどのような関係にあるのか、説明が付けられそうにありません。また、日本の伝統等に関する教育を充実すれば、国を愛する心が生まれるというのも短絡しすぎではないか。知れば知るほど厭になることもあるだろうに。
 結局このビジョンには、国が人々に愛されるためにはそれだけの実質的な価値が備わっていなければならない、という考え方は最後まで出てこない。「国は人間に先立つ」というのが、ビジョンにおける絶対のテーゼなのでしょう。そうでなければ「無条件に国を愛していればそれでいいのだ」という確信は持てない。そして、この確信を受け容れる人々もけっこういるのでしょう。愛国心とは本来そういうものなのだろうし。俺にとっては、「国を愛する」なんて宗教でなければフェティシズムの一種としか思えないが、これは超少数派の考え方に過ぎない。しかしながら、スティービー・ワンダーの言葉を借りてこれだけは言っておきたい。「訳の判らないものを信じたりするとひでえ目に遭うぜ。」