仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(奇妙奇天烈)

2009年01月21日 | 文化
 小ネタです。
 1月17日の朝日新聞に、軍事クーデターによって失脚したタイのタクシン元首相の会見記事が載っていた。その主なやりとりのうち「政治家になったことを後悔するか」という問いに対して彼はこう言ったという。
「その通り。財産も失った。前世の業かもしれない。私がのび太だったらドラえもんにやらせる仕事だった。」
 何だ、この答え。なぜそこで『ドラえもん』が出てくるか。日本の新聞社が相手だからサービスをしてみたのか。それとも、タイではポピュラーな言い回しなのか。あるいは単に『ドラえもん』が好きなだけか。
 国を逐われた亡命の身ともなれば、弱音の一つも吐きたくなるのだろうが、それにしたってふざけた発言だ。いやしくも一国の宰相まで務めた者が、かくも破廉恥な、およそ道理の欠片もないでたらめを口にするとは。まったくもって救いようもない愚物であって、彼が失脚したのも当然のことと断ぜざるを得ない。
 よりにもよって「ドラえもんにやらせる」だと?莫迦も休みやすみ言うがいい。ドラえもんは道具を出すだけで、のび太の代わりに何かをするわけではない。比喩として完全に間違っているではないか。『ドラえもん』のイデーを寸毫も理解せず、誤ったイメージを流布させるとは許し難い。
 藤子プロとテレビ朝日は亡命先から彼を連行し、F先生の墓前で「きこりの泉」にたたき込むべきである。そうして「きれいなタクシン」に取り替えてやれば、タイの人々にも喜ばれるに違いない。

やすいはなし(勝つと思うな)

2008年08月25日 | 文化
 北京オリンピックがようやく終わりました。どうも、会期中よりも始まる前の方が盛り上がっていたような、異様な大会だった気がします。すべての競技にわたって俺はまったく興味がありませんでしたが、日本人選手が不甲斐ない結果に終わることだけは楽しみにしておりました。いや、選手には何ら含むところはないのだが、にわかにスポーツ好きになって訳も判らず日本の選手を応援している輩が、嘆いたり憤ったりの醜態を晒すのを見ると、腹の底から“ザマミロ&スカッとサワヤカ”の笑いが出てしょうがねーぜッ。
「何でそんなにマジなの?
 エッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッァッ!」
 そんな反日根性剥き出しの俺としては、男子柔道のダメさ加減を心から「よくやった」と讃えたい。日本のお家芸であるはずの競技で、史上最低のメダル二個獲得に終わった。まあ、あなた、金とはいえたったの二個。準国技というべき競技でメダル二個とは。期待していた奴らの泣きッ面が目に浮かぶぜ。気に入った!家に来て妹をファックしていい!!
 この凋落ぶりの一因は、国際大会においてこの競技は名実ともに「柔道」ではなく「JUDO」と化しており、タックルで倒したり組み合わずに逃げ回ったりしてポイント数による勝ちを狙うのではなく、あくまでも組み合いのうえ一本を取って勝つことに拘る、日本選手の伝統的なスタイルでは勝てなくなったことにあるという。そんなのは、ずいぶん前から危惧されていたことだろう。今になって「やっぱりそうなったか」では遅すぎる。このままでは近い将来に、日本選手がメダルを一個も取れないという事態になるかも知れない(それはそれで面白いけれど)。
 ことここに至って、国際大会であくまでもメダルという果実を狙うのならば、まず考えられる方策は、「本来の」柔道らしい戦い方で勝てるよう競技全体のルールを改変することだ。しかし、それだけの発言力・政治力が今の日本柔道界になく、国際的な趨勢を押し留めることができないのならば、逆に日本側が「JUDO」に対応するために自らの戦法を改変しなければならない。メダルという目的を果たすために、状況と自己のスタイルとの折り合いをつけるのは合理的な選択だろう。いままでのやり方をまったく変えてしまうか、折衷的に残すかどうかは別として。
 まったく別の選択肢としては、メダルなんて端から諦めてしまうという方向もある。勝とうが負けようが超然として現在のスタイルを貫くのだ。メダルなどをがつがつと欲しがって、そのために汲々とするなど浅ましく見苦しい、見よ、この高雅にして深遠なる精神美を、醜い勝者より美しい敗者たれ、とか何とか唱えちゃったりして、どんなに惨敗しても、試合には負けたが勝負には勝った、と嘯いて高笑いする。武士は食わねど高楊枝。太った豚より痩せたソクラテス。外国にはまったく通用しない価値観かも知れないが、日本の伝統としての柔道を国内で保存することはできるだろう。
 それでは内向きに過ぎる、やはり世界にアピールできる場が欲しいというのならば、新しい競技部門を創ってしまうのはどうか。呼び名は「トラディショナル」でも「ジャパニーズ」でも「クラシック」でも「オーソドックス」でも「コンサヴァティヴ」でもいいが、徹底的に「日本的」な「本来の」柔道としての優劣を競うための競技形態を打ち立てるのだ。
 具体的にどうするかといえば、試合をするところまでは従来と同じだが、その勝敗は、完全に採点制にして「礼節点」「技術点」「精神点」の総合で決める。一本を取っても、礼節を欠いていたり、技によらず力任せだったり、精神性が足りなかったりすると、採点で負けたりするのだ。山下泰裕が賢しげに語るような、相手が怪我をしていてもそこをわざと責めたりせず、あたかも怪我の存在を忘れたかのようにふるまう、なんてことをすると精神点がぐんと跳ね上がる。逆に、ガッツポーズをしたり飛び跳ねて喜んだりとかすると、礼節点・精神点ともに減点されてしまう。もちろん日常の素行も採点の対象になるので、問題発言をしたりスキャンダルを起こしたり犯罪を犯したりした過去があると試合に出場すらできない。一方で家が貧しいとか、両親が幼少期に亡くなっているとか、感動的な浪花節エピソードがあれば加点の対象になるのだ。審査員はこの「日本式」柔道の経験者・指導者でなければならず、必然的に日本人が大部分を占めることになる。
 勝てる。これで勝てなきゃもう言い訳のしようがない。少なくとも、しばらくは日本選手の独擅場になるだろう。何たって日本の選手がもっともなじんできた戦い方(のはず)なんだから。こうして「日本式」柔道の命脈を保っていくうち、あわよくば、この「日本式」の方を本流にすることもできるかも知れない。
 よしんばそれでも勝てなくなったとしても、日本の伝統は守られ、受け継がれていく。外国選手がこの「日本式」で勝ったとしたら、この競技で勝てるということは「名誉日本人」の資格の証明なのだから日本がメダルを取ったのと同じだ、あのメダルは実は日本のものだ、それ行け日本、やれ行け日本、一億国民がついているぞ、ということにして自尊心を保つことだってできるだろうさ。

やすいはなし(吹けよ風、呼べよ嵐)

2008年08月22日 | 文化
(上掲写真は、東京国立博物館の東洋館に展示されている『眼の偶像』。シリアから出土した紀元前3000年紀後半の遺物。何か好きなので載せてみたが、本文とはあまり関係がない。)

 もう展示は終わってしまいましたが、上野の東京国立博物館で開かれていた「対決-巨匠達の日本美術」(公式サイト)は見応えのある好企画でした。組み合わせられた作家の作品を対比し、そこから立ち上がってくる意味を読みとるには、こちらの教養と審美眼が追い付かなかったが、言わずと知れたビッグネーム達による、これまた名品と謳われる作品群を一度に観られるという滅多にない仕合わせに浸れた。以下、印象に残った「対決」について書いてみます。

[円空vs木喰]
 木彫の仏像対決。ともに民衆のために作られたものだが、アプローチがまったく対照的で、鋭角で峻厳な印象の円空仏に対し、木喰仏は丸っこく親しみやすい。たいそう偏った意見だと自覚しているけれども、俺は木喰に良い印象がない。何だか舐められているような気がするからだ。「お前らはこんなもんで喜ぶんだろう」と言われているような、言い換えれば、俗っぽく迎合した感じだ。作られた当時は、「民衆の仏像」として必要な表現だったのかも知れないが、今となればその判りやすさが鬱陶しい。円空の方が自己に没入した表現をしており、そのために却って観る側が主体的に近づいていける気がする。
 木喰は自分自身の姿を写した仏像を残しており、これにも何様のつもりかと言ってやりたい。自己顕示欲の強いイヤな奴だったんじゃないかと、彼の故事来歴などまったく知らないが勝手に思っている。

[若冲vs蕭白]
 京都画壇の奇想・異端派二人。表現の理知的な追求から、いつの間にか常軌を逸脱してしまった雰囲気の若冲よりも、最初から「ムチャクチャやったんぞ、オラー」という気合いを感じる蕭白の方が好み。彼の『唐獅子図』など、一気呵成に勢いで描いているように見えて、描線は驚くほど的確かつ巧緻で、紙一重で天才の凄みがある。あざとく狙ったようなところもあるが、それも可愛気と思わせるのは、全体に漂うユーモラスさのためだろう。木喰の憎々しさとはえらい違いだ(しつこいね、どうも)。
 必要以上に偏執的に毒々しく描かれた『群仙図屏風』など、そこに描かれた、子供達を引き連れた仙人の姿を見た欧米人が「Scary」「Kidnapping」と評していたほどの異形の作品で、突き抜けたブチ切れぶりが清々しい。

[宗達vs光琳]
 今回の企画全体の目玉といえるのが、この二人による同じモチーフ、ほぼ同一の構図による『風神雷神図屏風』の並列展示。経年によってさらに増したと思しき重みとともに軽妙な滑稽さを漂わす宗達作品と、発色鮮やかで計算された構成の光琳作品。オリジナルとしての強みを差し引くとしても、俺は前者に軍配を上げる。後者の方が構図の完成度は高いのだが、比べるとどこか軽薄に見える。その細部、例えば風神の右手などに、良くいえば勢いがあり、悪くいえば手癖で流したような感じがするためもあろう。
 光琳は、100年前の宗達の作品を基に自己の表現を試みたという。その結果、洗練され整理された作品にはなったが、絵としては面白みも迫力も乏しくなった。岡本太郎が『今日の芸術』で書いていたように、うまくて、きれいで、ここちよいことが芸術における価値とは限らないということがよく判る。

やすいはなし(フリーク・ショー)

2008年08月16日 | 文化
 63年目の終戦記念日、東京は猛暑となりました。毎年この日の靖國神社には、軍服姿も勇ましいコスプレ集団が、英霊に哀悼と感謝の念を示すために群がり集いて、愉快なパフォーマンスを繰り広げます。そのような奇矯な格好の人々以外にも、あっちでは署名集めに人々が奔走し、こっちでは国会議員が気勢を上げ、そっちでは左翼青年が追いかけ回されるという香ばしい光景を見ることができ、人によっては居心地の悪い異空間を存分に楽しめる。
 総じて、この日、この場所は、15年戦争と戦前の日本をできる限り肯定し讃美しようとする人々による祝祭の場になっているといえるだろう。映画『靖国』(公式サイト)の最大の美点は、このような靖國に集まる人々の言動を丹念に追うことで、靖國神社という場所がまさに政治的な意志の坩堝であることを示したことだ。神社側の言葉はないが、それは遊就館の展示によって語られている。
 この磁場に引き寄せられた人々は、軍服集団に限らず、また右だけでなく左も、熱く激しくむさ苦しくなっていく。作中もっとも激アツな場面は、神社の敷地内で行なわれている式典の、よりにもよって君が代斉唱の途中で、左翼青年が乱入するシーンだ。厳つい人々に袋叩きに遭い、流血しながらつまみ出される青年に、憤激した老人が執拗につきまとう。激昂のあまり思考が短絡してしまったのか、老人は「おまえ中国人か!」「中国に帰れ!」「とんでもない野郎だ!」の三フレーズをひたすら繰り返す。一方の青年は、警察を含む人々に取り囲まれ、自己陶酔気味に自分の主張を叫ぶ。そこに被さるエンドレステープのような老人の怒声。双方ともにどこかで理性の箍が外れてしまっているようだ。この二人はこの国の左右両派(の極端な部分)を代表し、その対立の構図を象徴しているとさえ思える。
 これほど名実ともに政治的な場所に、首相が訪れることは当然ながら政治的な意味を持つし、政治的な事柄である以上は、国内外における議論や批判の対象となって然るべきである。映画には、当時の小泉首相が「靖国参拝を政治的な問題にしない」と語る姿も出てくるが、魔法の呪文ではあるまいし、そう言ったからといって政治性が無くなるはずがない。それですべて済むと主張するのならば、どうしようもない馬鹿か嘘つきか、もしかしたらその両方に違いない。
 以上のように、この映画は、靖國神社の周辺については雄弁に語る。しかし、それがこれまでどんな役割を果たしてきたか、いまなぜこれほど政治的な場所になっているのか、過去・歴史まで掘り下げてその核心にまで迫ろうとはしない。単に、説明が足りないというだけならば、問題は少ない。それはこの映画の任ではない、あれもこれも盛り込むことはできなかった、と開き直れば済むことだ。
 しかしこの映画は、ある作為的な仕掛けによって靖國神社の本質を描いたつもりになっている。その中心になっているのは「靖國刀」最後の刀匠である老人だ。この人物を知ったとき、監督は心中で快哉を叫んだのではないか。美術品であると同時に殺傷のための武器である日本刀によって、政治性と宗教性が混在する靖國神社を、ひいては天皇を象徴させる。そして、この刀匠の映像を軸に据え、その間にさまざまな場面を配することで、靖國神社の何たるかを考えさせようという構成に至ったのだろう。一見して実に収まりがいい、整合性の取れたつくりであるように思える。
 だが、観ているとこれがどうもしっくり来ない。靖國刀が、メタファーとして働いていると実感できないのである。まず、靖國刀と靖國神社とのつながりがよく判らない。また、インタビュアーでもある監督と刀匠との信頼関係が十分に築かれていなかったのか、肝心の刀匠からは言葉を上手く引き出せていない。「野蛮な敵を鏖(みなごろし)」などというきわどい詩を吟じさせることはできたが、あとははぐらかすような沈黙と照れ笑いばかり。その沈黙に意味があるのかも知れないが、もしかしたら、語るべきことがもともと彼の中にはないのかとも思う。この刀匠を映画に登場させる必要が本当にあったのかどうか。彼の映像自体の価値はともかく、映画総体にとっては蛇足だったのではないか。
 結局、日本刀=靖國神社の構図をはっきりさせようとしたのか、日本刀を携えた天皇や軍人の映像をモンタージュにして、映画の終盤に延々と流すという、イメージ先行でごまかすような手法に出て、何となく判ったような判らないような気にさせてしまう。この雰囲気重視の安易なまとめ方は、こと靖國神社を語る際には、もっともそぐわないやり方ではなかったろうか。なぜなら、イメージだけで納得し、思考停止に陥ってその先を考えないあり方こそ、靖國神社が利用してきたものだからだ。例えば、国のために死ぬことは、国のために殺すことと表裏一体であると思い至らないこと、「政治的でない」といえばそうなると決めつけてしまうこと、「死者のため」といえばすべて許されると思い込むこと、そのような曖昧で不徹底な思考に、この映画が取った手法は通じている。
 靖國神社を肯定するにせよ否定するにせよ、イメージに流されて出した答えでは、自らそれに責任を持つことはできない。この映画の姿勢はそのような厳格さに欠けており、それは、単なる無内容なカッコつけというに留まらない、根本的な失策であると思う。

やすいはなし(死んだら神様か)

2008年08月06日 | 文化
 赤塚不二夫死去の報を聞き、手許にある『赤塚不二夫1000ページ』を読み直してみたりした。そこに収められた作品を評価するからこそ、彼の肉体の死には、いまさらそれほどの感慨が湧かない。もう何年も意識不明の状態が続いていたからではない。生活する個人としてはともかく、かつての天才漫画家 赤塚不二夫は、30年近く前に死んでいるからだ。もう少し表現を和らげるならば、作家としての使命を終えて、長い晩年を過ごしていたのだと思う。
 『レッツラ・ゴン』に我を忘れるほど笑い転げた身としては、「それからの赤塚不二夫」による索漠とした作品を読むのはやりきれないことだったし、呂律の回らない酔っぱらいが管を巻いているような姿をテレビなどで見せられると、何とも居心地の悪い感じがしたものだ。別に彼個人に責任があるわけではなく、偉業を成し遂げてしまった人の宿命なのだろうけれど。
 15年ほど前、「ダウンタウン汁」というダウンタウンらによる関東ローカルの番組にトークゲストとして出たときもそうだった。少し気むずかしげな様子で、若い芸人との丁々発止のやりとりにも、単に楽しくしゃべっているという雰囲気にもならず、ダウンタウンの二人ももてあまし気味だった記憶がある。
 そんな困った有り様の赤塚だったが、いま思い返すと、一瞬の光芒を閃かせてもいた。この番組では、若手の今田耕司・東野幸治・板尾創路・蔵野孝洋・山崎邦正らがゲストに質問することになっており、誰だかが、タモリを見出した赤塚に、この中で将来 売れるのは誰か判るか、と問うた。そのとき、赤塚が真っ先に指したのが今田で、次に指したのが東野だった(ちなみに山崎は、勢いだけの一発ギャグを臆面もなく披露して一蹴されていた)。
 板尾が好きな俺は甚だ不満だったが、15年後の現状を見れば、予言は当たったといえる。衰えたりとはいえさすがは赤塚不二夫、畏るべき炯眼というところだろう。

やすいはなし(名前を付けてやる)

2008年07月24日 | 文化
 現代美術の話を続けます。
 10年ほど前に東京都現代美術館で開かれた「ポンピドー・コレクション展」を観に行ったときのこと。『自転車の車輪』と『牛乳瓶掛け』というレディーメイド作品を見た中年女性が、「これのどこが芸術なの」と率直で月並みな感想を漏らす微笑ましい光景に出会った。この時の展示会場はけっこう混んでいて、人混みが嫌いな俺は「そんなこと言うぐらいなら最初から観に来るなよ」とイラついたものでしたが、いま思うに、ああいう人たちが「見る者に説明を要するような現代美術など無に等しい」なんてことを得々として口走ってしまう都知事を支えているんだろうな。
 便器をただ転がしただけのような、既製品をそのまま、あるいはわずかに加工しただけのレディーメイドは、いったい何を表現しているのか。色々と解釈はできるが、一つの側面として、「美術“作品”とはどのようなものか」という問い、さらに遡って「美術作品を“つくる”とはどのようなことか」という問いを投げかけているといえる。
 美術作品をつくる・制作するという行為は、作者と呼ばれる人物が、書いたり塗ったり切ったり貼ったり削ったりくっつけたりして、オリジナルな価値のある物をつくりあげることと考えられている(いた)。しかし、そのような手作業は作品の制作において真に本質的な・不可欠の要素だろうか。そんなことよりも、すべての作品が最終的に必ず経なければならない過程があるではないか。
 それは、あるものが「これは美術作品である」という主張のもとに呈示されることだ。言い換えれば、「作品として呈示されたものが作品だ」ということである。そんなの当たり前じゃないか、無意味なトートロジーだ、と思うでしょうが、そう感じられるということは、この命題が真理であることを示している。
 この「呈示」=「これは作品だ、と示す(だけの)こと」こそが制作の本質であり、「芸術的な価値」は後付けでかまわないとするならば、自ら加工していない既成品を日常から抜き出して、作品としてのパッケージを施せば、それだけで「作品をつくった」ことになるはずだ。
 レディーメイドとは以上のようなことを表現しているが、先述のとおりそれは一つの側面に過ぎない。それだけの意味しかないのであれば、レディーメイドは一つつくられた時点でその使命を終えてしまう。さらに芸術としての意味・価値を持つためには、何が・どのように呈示されるかによるだろう。たとえば『泉』が大きな物議を醸したのは、それが男性用小便器という、それまでの美術作品には有り得ない尾籠な代物だったからだ。
 そこで、「作品として呈示」するとはどういうことか、さらに突き詰めて考えてみたら、それは「名前を付けること」ではないか、と思ったわけですよ。「無題」なら「無題」という名前でもいい。命名した時点で、ある事物は「作品」としてパッケージされ、鑑賞の対象となる。では、「名前を付けた」ことを表現するには、即ち観る者に「名前を付けた」と伝えるにはどうするか。美術館・美術展という場に限っていえば、作品名の表示板さえあればそれが可能だ。つまり、表示板を何かにくっつければ、それで「作品をつくった」ことになるのである(単純な思いつきなので既に誰かがやっていそうだが、一応は前例がないものとして以下を書き進めることにする。どこかでそんな「作品」を見たことがある、という方は教えてください)。
 まず、どこでもいいから美術館に行って、そこにある物のどれを自分の作品にするか、また、それを何と命名するかを決める。しかるのち、その美術館で使われている作品名表示板と、サイズ・素材・字体・文字配置・記載事項などがすべて同じものを作る。もちろん自分で作らず、同じ業者に発注すればいいのである。あとはその板を貼り付けるだけで「作品」は完成だ。その気になれば、美術館中を自分の作品で埋め尽くせる。
 例えば、湿度計とか、順路案内の表示とか、階段とか、窓とか、照明のスイッチとか、監視している係員とか何だっていい。他の作品の表示板も餌食にできるし、自分の付けた表示板に表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて・・・という具合に好きなだけ繰り返すのもいいだろう。
 別に何に付けると考える必要もなく、ところかまわず手当たり次第に表示板をくっつけ、「作品No.1」「作品No.2」「作品No.3」・・・としていくのもいい。どれが作品なのか、どこからどこまでが作品なのかは観る側が考える。他の誰かの作品にだって容赦なく名前を付け、自分の作品にしてしまえるし、それどころか、美術館をまるごと自分の作品と主張することもできる。いや、もっとスケールを広げて、地球まるごと、宇宙まるごとだって、名前を付けさえすれば自分の作品にできるのだ。

やすいはなし(ぶるーん。)

2008年07月15日 | 文化
 最近観に行った美術展二題。
 一つ目は「アール・ブリュット/交差する魂」(@汐留ミュージアム)。
 「アール・ブリュット」(フランス語で「生(き)の芸術」)は、「アウトサイダー・アート」とも呼ばれ、通常の美術教育・訓練を受けていない人々によって、一般的な媒体・市場への発表を前提とせずにつくられた美術作品をいう。知的・精神的に障碍を持つ人々の作品も含まれるが、作者は必ずしもそれと限られているわけではない。とても大雑把にいえば「素人が創造衝動の赴くままびっくりするような作品をつくること」だろう。そのような作品群は、人間が持つ記述不能の創造衝動への信頼を喚起し、職業性・商業性・専門性が、美術作品を無個性で非創造的な状態に陥らせ、鑑賞する側の評価をも歪めることに警告を発する。
 美術展自体は、さほど広くない会場で、国内外の作家21名による100点以上の作品を展示しており、あまり知名度のない分野について紹介するカタログとして企画されているのだろう。そのため、俺にとっては正直なところピンとこない、というかちょっと力の入った落書きとしか思えないものもあったりした。しかし、何名かの作品は本当に凄い。簡単に列挙すると、カルロ(デフォルメされた人物や鳥がひたすら4つ並ぶ意味不明の説得力)、ヴィレム・ファン・ヘンク(雑然としているようで構成に優れた都市風景画)、アドルフ・ヴェルフリ(朴訥・荒削りな極私的宗教画)、レイノルド・メッツ(ステンドグラスのような透明感と絢爛さ)、西川智之(ミニマルな造型の反復が全体を築きあげる陶芸作品)、坂上チユキ(痛々しいほど精緻)といったところ。いちおう付け加えると、斯界最大のスターというべきヘンリー・ダーガーの作品はなかった。
 これらの作品は、技術的にはさほど洗練されていない作家たちが、独自の観点・コンセプトで作りあげたもので、結果的に現代美術として鑑賞・評価すべきものになっている。だから、「アウトサイダー・アート」という、特殊さを強調するような呼称を用いることが適当とは思えない。特殊性を意識させるという意味では、「アール・ブリュット」という呼称にも問題がないわけではないし、そのような作品は「素朴」で「純粋」で「無垢」で、だからこそ価値が高いという、偏見を裏返しただけの無分別な評価につながる虞れもあるが、少なくとも「アウト」という差別性・階級性による排除を前提にした言葉を使うよりはマシだろう。では、「アール・ブリュット」という概念を用いる積極的な理由は何かといえば、美術の新しい分野を確立することではなく、美術を巡る状況を活性化するという、政策的なものになるのではないか。
 アール・ブリュットについて、「現代美術として鑑賞・評価」と書いたからには、現代美術とは何かということを考えなければならない。というところで、美術展の2つ目は「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」(@森美術館)。
 イギリスの現代美術作品賞の歴代受賞者による作品を集めたもので、アール・ブリュットと違い、意識的・自覚的に美術作品としてつくられたものが並んでいるが、どうもコストパフォーマンスが悪かった。
 デミアン・ハーストの『母と子、分断されて』は、実物の牛を子牛を縦割りにしてホルマリンに漬けた作品。成牛の断面の間には人ひとり通れるぐらいの隙間があり、そこを通ることはかなりショッキングな体験といっていい。しかし、そのような鬼面人を驚かす気味のある作品よりも、一見地味なグレイソン・ペリーの壺の方が濃い印象を残す。骨董品のように優雅な形の壺であるが、それが微妙に歪んでおり、幼少期のトラウマとか、現代社会における暴力をテーマにしたと思しき絵がコラージュ風に描かれている。その絵が、ダーガーの世界に共通する残酷さを漂わせているのだ(ダーガーよりはるかに絵は上手いけどね。ちょっと山本容子にも似た繊細な画風)。一本取られたと思ったのが、マーティン・クリードの『作品227:ライトが点いたり消えたり』。そのタイトルのとおり、何もない部屋の照明が5秒ずつ明滅するだけなのだ。その状況が作品なのであって、「美術作品とは形あるもの」という思い込みを覆す。
 この『作品227・・・』に顕著だと思うが、現代美術とは、文脈を外し、常識をずらし、先入見を揺るがすものであって、平たくいえば作家たちはボケてきているのである。ということは、アール・ブリュットは天然ボケってこと。相手がボケたらどうするか。当然こっちはツッこまなければいけない。
 過去の有名作品でいえば、
「便器やないか!」(マルセル・デュシャン)
「漫画か!」(ロイ・リキテンスタイン)
「落書きとちゃうんか!」(ジャン=ミシェル・バスキア)
「色が違うだけや!」(アンディ・ウォーホル)
「女拓て!エロまっしぐらか!」(イヴ・クライン)
「ペンキがもったいないわ!」(ジャクソン・ポロック)
「贋札はあかんやろ!」(赤瀬川原平)
「ケツばっかりや!」(オノヨーコ)
「どのテレビを観たらええねん!」(ナムジュン・パイク)
「アメちゃんを粗末にしたらあかん!」(フェリックス・ゴンザレス=トレス)等々。
 もちろん、ツッコミはボケを生かすためにあるもので、せっかくボケているのに本気で怒り出したり文句を言い出したりしたらすべて台無しだ。作品について詳細に言語化・論理化するのは評論家の仕事だろうが、素人でも直感的にボケを理解してツッコミを入れ、漫才を成立させる必要がある。現代美術を観る側にも、それなりのリテラシーが要求されるのはそのためだ。

やすいはなし(ばらばらになって)

2008年05月03日 | 文化
 前回感想を書いた『タクシデルミア』に続いてハシゴしたのが『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』(@渋谷シネマライズ)。渋谷シネマライズといえば、かつて『エコール』というペドフィルまっしぐら映画を上映したことで名高い、幼児性愛にたいへん寛容な映画館である。今回の映画もダーガーの変態性を微に入り細を穿つように見せつけているのだろう、と思ったら、穏当で上品な出来の、NHKの放送にも堪えられそうな良質のドキュメンタリーで、悪趣味映画二連発のつもりがちょっと肩すかし。
 生前のダーガーを知る人々の証言を交えて構成され、彼の内面についても言及されてはいるが、どういうわけか性的な部分にはほとんど立ち入らない。フロイトばりの精神分析なんてもう流行らないのか、「ペニスの生えた幼女」という多形倒錯を読みとるのに恰好のイコンは、微笑ましいエピソード扱いであっさりと流されていたし、人体標本よろしく幼女を解体するあからさまな性的サディズムも、自分の願いを聞き入れない神への怒り・復讐という妙に高尚なまとめ方をされていた。それも間違いではないだろうけれど、その対象がなぜ幼女だったのか、生き別れの妹の存在についても語られるが、一面的でしかも気取りすぎのようで物足りない。
 ダーガーが全存在を傾注して作品を創り続けていた人であるだけに、映画の中で彼の作品について語る人々が、『タクシデルミア』のもっともらしい評論家先生に重なって見えもする。例えば、彼の家主で作品の発見者でもあるラーナー夫妻からも、かれらがダーガーの作品を保存し世に知らしめた功績は大きいとしても、やはり「創る人」と「語る人」との隔たりを感じずにはいられない。そしてそれは、この映画自体にもあてはまることだ。
 さらにこの映画の趣向の一つとして、ダーガーの絵を、たぶんCGでアニメにして動かした映像が随所に挿まれているが、これはモンティ・パイソンの切り絵アニメよりも動きが鈍いので過度の期待は禁物だ。そもそもダーガーの絵は色彩を含めた画面の構成美に特長があり、不用意に動かしたところでさして魅力が増すはずもない。かえって、元の絵に存在するデッサン力不足による歪みと描線の稚拙さのために、ぎこちなさが倍加して気色悪いことになっていた。
 むしろこの映画の見所は、ほとんど人間関係を築かずに孤立して暮らしながら、人知れず作品を創り続けていたダーガーという存在が、当時のアメリカの社会、ことに都市生活の産物だったというマクロな視点を示したことだろう。彼の人格のみならず、その作品群も、それを支えた技法もシカゴという都市を背景として成立したものとされており、件のアニメと実写映像との合成によってダーガーの描いた少女が当時の街中を徘徊する場面は、彼の妄想と外界との交差を判りやすく描き出してみせる。
 もう一つ興味深かったのは、『非現実の王国で』と題した長大な物語に、ダーガーが二種類の結末を設けたというくだり。正義の共和国が勝利するハッピーエンドと、悪の帝国が勝利するアンチハッピーエンドと。映画では、その理由は謎として観客に解釈が委ねられている。
 俺の「もっともらしい解釈」は、それは「終わらない物語」をつくるための一つの独創だったのではないか、というものだ。物語に明確な結末をつくらないためには、円環構造を用いたり、あえて尻切れにしたりといった手段を思いつくが、ダーガーは二種類の結末によって、その両極の間を揺れ動くことを望んだのかも知れない。自らが創り上げた妄想世界に永遠に生き続けるために。もちろん、単にどっちの結末がいいか決めかねただけかも知れないけれど。

やすいはなし(解剖室は空いたか)

2008年04月30日 | 文化

 渋谷のアップリンクXというミニシアターでかけていた『死化粧師オロスコ』という映画を観に行くつもりだったのに、上映期間を勘違いして見逃してしまいました。悔しさのあまり同系統の悪趣味映画『タクシデルミア』(@シアター・イメージフォーラム)を観に行くことに。
 監督はハンガリー出身のパールフィ・ジョルジという人で、映画の舞台もハンガリー。祖父・父・息子の三代がそれぞれ取り憑かれた過剰な欲望とその行き着く先を、グロテスクな幻想、ふてぶてしいユーモアで彩りつつ描く。一族にまつわる、残酷さを含んだ大法螺物語という体裁がマルケスの『百年の孤独』を思い起こさせる。解体された豚の肉塊のうえで種付けされたために豚の尻尾を備えて生まれ、蟻ではなく猫に貪られる父の造型などは、同小説の直接の影響によるものかも知れない。三世代の男たちは、ハンガリーのそれぞれの時代・社会を体現しているようであり、異常で突飛なシチュエーションでありながら、人物たちの心情は日本人にもリアルに響く。
 第二次大戦下の一兵士だった祖父は、上官に下男同然にこき使われていた。陰茎から火を噴くほどの性欲を持て余しひたすら妄想に耽っていたが、挙げ句の果て上官の妻と行為に及んでしまい、怒った上官の銃弾で頭を吹き飛ばされる。
 上官は、不倫によって産まれた赤ん坊を自分の子として育てる。堂々たる体躯とそれに見合う並はずれた食欲の持ち主となった彼は、共産主義時代のハンガリーで大食い競技の一流選手となった(この映画の世界では、架空の大食い競技がスポーツとして公認されているのだ)。国家の威信を背負い暴飲暴食と暴嘔暴吐を続けるが、ついに世界を制することはできず、道半ばで挫折する。
 彼と、同じ大食い選手の女性(もちろんかなりの肥満体、しかし笑顔が魅力的な美人)との間に生まれた息子は、両親に似つかぬやせぎすの青年となった。この息子の代で、作中の時代は現在に辿り着く。剥製師として動物の死体に囲まれて働く彼は、原始的な欲望に囚われた祖父・父と違い生命感が希薄だ。天職として自分の仕事に打ち込んではいるが、人間関係は不毛で鬱屈した日々を過ごしている。過去の栄光にしがみついているだけの無能者に成り果てながら、尊大に口喧しく息子を罵る父親は、文字どおりの重荷として彼にのしかかっていた。
 親子の諍いと息子のちょっとした不注意から父は死に(この「父の死」は、伏線がとてもわかりやすいためにあまり驚きがない)、それをきっかけに息子は自分の最後の作品に取りかかる。それは自分自身を作品にすることだった。解剖学的・即物的なあからさまさで映し出されるこの一連のシークエンスは、つくりものらしさを感じさせない精妙な美術と、ときおり挿まれる息子の恍惚と忘我の表情によって、直視に堪えないほどの生々しい痛みを催させる。神経の繊細な人ならしばらくは肉を食えなくなるだろう(特にレバ刺しとか)。
 しかし、その描写が衝撃的で凄惨なだけに、また、それまで綴られていた息子の心情に現実感があるだけに、両者の間に隔たりを感じずにはいられなかった。単調な日常から命懸けの芸術へと飛躍するまでの動機付け・説明が不足しており、素直に了解できないのである。
 「タクシデルミア=剥製術」というタイトルを付けたからには、息子が剥製作品を創り上げる場面、苦痛と死によって生命感を回復するという逆説こそ、この映画の制作者が最もやりたかったことだったのだろう。この「やりたかったこと」を性急に提示しようとするあまり前後の整合性への配慮を怠ったために、言い換えれば、一定の場面・観念に囚われすぎてそこに至るまでの道筋を整備できなかったために、この映画は最後の最後に消化不良の感を免れなかった。
 もっともこの映画は、以上のようなもっともらしい解釈をはぐらかし、立ち止まらせるしたたかさを忘れない。息子の最後の作品を発見した人物が、それについて信者?たちに解説する場面がこの映画のエピローグだが、その説明の信憑性はともかくとして、うさんくさい白装束を揃って身につけて、まがいものの神殿のような場所に集まっているかれらの俗悪な描写からは、創造された作品を批評するものへの悪意を感じる。息子と評論家との隔たりは、映画と観客との隔たりと並行しており、創造衝動というものをそう簡単に判ったようなつもりになってもらっては困るよ、という皮肉を読み取れるのだ。