仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(蕎麦屋・蕎麦ー屋)

2009年09月12日 | 社会
 前回の続きのようなもの。
 自民党の現状を、自民党のネットCMに倣って、例え話風にしてみます。

 とある町でのお話。
 町の大通りに面して、最近とみに味が落ちたため、客足が遠のきつつある老舗の蕎麦屋がある。
 三代前の店長の時代は人気があったが、その頃に出した、痛みを伴うほどしょっぱい蕎麦つゆのせいで、体力の弱い人々が立ち直れなくなってしまったことも、今の不人気の原因の一つだと言われている。その次の代の店長は、こどもの客が来ると、頼まれもしないのに「美しい蕎麦の食べ方」を講釈しだすので、たいそう迷惑がられたし、先代の店長の、何となく人を小ばかにしたような態度も反感を買った。
 今の店長は、常に口をへの字に曲げてべらんめえ口調で喋る男で、客を客とも思わない態度を時折みせるので評判が悪い。客があれこれ注文を付けると、
「蕎麦ってのはこういうもんなんだよ。黙って食えよ。」
とすごんだりする。怒りだした客には、
「うちはねえ、代々この味を守ってきているんだよ。気に入らねえんだったら、出てってくれ。」
などと言いながら、塩の固まりをぶつけてくるので始末に負えない。
 蕎麦屋の、通りを挟んだ向かいにはラーメン屋があり、最近この店が、行列ができるほどの人気になってきたことが、への字口の店長はどうにも気に入らないのだった。
「あそこのラーメンなんてたいして美味くもねえのに、あんなに流行るっておかしくねえか。雑誌なんかがあることないこと書くから、みんなそれに踊らされてんだな。食い物の味の判んねえ奴らが多すぎるんだよ。」
客に向かってそんなことを口走ったりして、ますます蕎麦屋の人気を落としているのだが、本人はそのことに気が付かないようだ。
 町内には他に、以前はそこそこの人気があったけれども、今は見る影もなく寂れたオムライス屋とか、唐辛子を大量にぶち込んで何でもかんでも真っ赤にしてしまう激辛料理専門店がある。この激辛料理の店はマニアックなファンに何とか支えられているが、蟹を使ったメニューを出したところ、すこしだけ話題になったりした。また、最近 突如として全国展開したうどんのチェーン店が開店の準備をしていたが、採算を考えない無理な経営が祟ったらしく、店を開く前に撤退してしまった。
 さらに、表はおでん屋だが裏に回ると寺になっていて、ときどき壁越しにお題目が聞こえてくる珍妙な店もある。このおでん屋と蕎麦屋とは、ここしばらくは客を分け合うほど仲が良いが、そのためにおでん屋の持ち味が薄れたと惜しむ人もいるという。
 蕎麦屋は人気を取り戻すためにいろいろと策を講じるが、何をやっても評価してもらえずに客はどんどん減っていき、もはや店を移転して出直さなければならないか、という状況に至って、への字口店長がついにブチギレる。
 彼は、向かいのラーメン店に開店前から並んでいる人々のところへ怒りを露わにして乗り込んでいき、青筋立ててまくし立てる。
「お前ら日本人だろうが!日本人なら蕎麦を食えよ!
 ラーメンなんか食いやがって、お前ら中国人か!
 中国に帰れ、中国に!とんでもない奴らだ!!」
 あまりの剣幕にしばし唖然とするラーメン店の客たち。しかし、相手が蕎麦屋のへの字口と気付き、いっせいに罵りだす。
「うるせえ、もう蕎麦なんて飽きたんだよ!」
「漢字もろくに読めないくせに偉そうにするな、できそこない!」
「帰って漫画でも読んでろ、この役立たず!」
「二度と面を見せるな!!」
 人々に取り囲まれ、袋叩きにされるへの字口。蕎麦屋の店員達は、入口の戸の隙間からその様子を横目で見ながら、次の店長を誰にすればいいのか相談している。誰が店長になってもうまくいかなそうで、なかなか決まらない。「自分がなる」と鼻息荒く手を挙げようとしたら、古株の店員に羽交い締めで制止される慌て者もいる……。
 今後、この蕎麦屋がどうなるのか、俺にはよく判りません。通ぶった一部のマニアだけが喜ぶ「伝統」を守った蕎麦を出すのは止めて欲しいけどね。もっと本音を言えば、食中毒で死人を出す前にさっさと潰れちまえ、と思っていますが。

やすいはなし(君が、壊れた)

2009年09月09日 | 社会
自民党のネットCM二つ。

【プロポーズ篇】



【ラーメン篇】



 衆議院選挙から一週間以上も過ぎた時点で何ですが、自民党による上の二つのCMは、言いたいことを判りやすく伝えているという点で、良くできたものだったと思います。ただ、選挙の結果を見るかぎりでは、あまり効果がなかったのでしょう。ネガティブキャンペーンとは、選択肢が限られている場合に、「あっちよりこっちの方がまだマシだ」と思わせるためのものですが、これらのCMによって、かえって自民党の問題点を意識させることになったのではないだろうか。「根拠がある」は「決まり切ったことしかしない」、「揺るぎない」は「聞く耳を持たない」と言い換えることができる。「責任力」なんてのも、さんざん無責任な姿を晒した後では、まさに噴飯物のフレーズだった。
 それらの広告は笑って済ませられましたが、選挙当日の8月30日、自民党が出した新聞の一面広告にはどうしようもなくむかついた。大きな、しかも致命的な問題を孕んでいると感じたからです。
 引用すると、
「あなたのために。この国のために。
 景気を後退させ、日本経済を壊してはいけない。
 バラマキ政策で、子供たちにツケを残してはいけない。
 偏った教育の日教組に、子供たちの将来を任せてはいけない。
 特定の労働組合の思想に従う、"偏った政策"を許してはいけない。
 信念なき安保政策で、国民の生命を危機にさらしてはいけない。
 
日本を壊すな。
 (以下略)」
 それぞれの「~してはいけない」は、民主党の政策に対する警告として挙げられているのだろう。民主党に政権交代したら本当にそうなるのか、という疑問は措くとして、最初の二つは「おまえが言うな」というレベルのこと。そして後の三つは、政治的な意見・価値観の相違に過ぎない。それで良い結果になるだろうと考え、選択する自由が国民にはあるはずなのに、そんなことをしたら「日本」が壊れるとまでかれらは言う。
 ここに示されているのは、自民党にとってかくあるべきものとされた「日本」像であり、この「日本」に当てはまらない者たちを敵視する偏狭な姿勢である。これは、自分達の考え方に賛同しない者は「日本」人とは認めない、「日本」には不要だ、という、思想・良心の自由の否定へとつながっていくだろう。戦前のような思想統制を思い起こさせ、仮にも政権党がこのような物言いをしたことに、危機感を覚えざるを得ない。
 さらに、そもそも「壊すな」という命令形の言葉は誰に向けられたものか。選挙当日に新聞に載せられているということは、当然、国民にだろう。国民がまさに主権者として権利を行使しようとしているその日に、恫喝まがいの強い調子で、しかも「あなたのために」という押し付けがましさまで付け加えながら、国民に対して居丈高に命令をする無神経さ。支持率の低下について自省することもなく、ただ国民の無理解のせいと決めつけ、あたかも、火遊びをするこどもを叱りつけるかのように、国民の間違った選挙権の使い方を正してやろうという傲慢な態度である。主権者への敬意をあまりにも欠いているし、その国民に選ばれて政権党になったということを忘れ、自らの地位の根拠を否定する考え方だ。つまりは、国民主権という大原則を、かれらは根本から理解していないということである。
 宣伝文句だから、インパクト重視で多少刺激的な言い方になるのは仕方がない、と大目に見るべきだろうか。あるいは、単なる広告の一節を自民党の総意とするのは強引な決めつけだろうか。だが、活字にまでなっているものを失言の類と同等に扱う必要はない。しかも、これは選挙の当日に、国民に対して示された言葉である。どれほど重く深刻に受け止めても足りないことはないし、これをあえて看過すること自体が、選挙の意義、参政権の意義、すなわち民主主義の意義を軽視するものである。
 人間は苦境にあるとき、その地金が出る。普段は自分の欠点を取り繕う余裕もあるけれど、その余裕が無くなったとたんに品性の下劣さ・器量の小ささ・自制心の欠落ぶりを露呈し、出してはいけない本音を漏らしてしまう。選挙後のぶら下がり取材で、記者達に見苦しい八つ当たりをして見せた麻生首相のように。
 政権交代により野党に転落するか、という当日に出された一面広告。まさに追いつめられたその時に表明された言葉によって、自民党は、思想・良心の自由を尊重せず、国民主権を軽視する政党であるということが判った。要するに、民主主義の否定に向かうのが自民党の本性だったのであり、このことを、次の選挙まで覚えておかなくてはならないと思う。

やすいはなし(教えてくれ、偽善者)

2009年08月22日 | 社会
 突然ですが、問題です。
 まず、JTの公式サイトからこちら(音注意)、あるいはこちらの「分煙ポリシー」篇をご覧ください。
 このCMには間違いが一つあります。それは何でしょう。

 答え(反転してご覧ください):
出てくるのは分煙をしている店だけで、「完全禁煙」を実施している店が出てこない。

 このことから、本気でタバコの害を防ごうという意欲を、JTが持っていないことがよく判る。最も効果的な手段をことさらに排除してしまっているのだから。
 JT公式サイトのトップには「私たちJTグループの使命。それは、自然・社会・人間の多様性に価値を認めお客様に信頼される「JTならではのブランド」を生み出し、育て、高め続けていくこと。」とある。この「使命」を、上記のCMと併せて読むと、「多様性」の美名の下に、公共の場での喫煙という暴力を許容するよう訴えているように見える。抑圧されているのは非喫煙者の側だということを、かれらがまったく理解していない証拠だろう。

やすいはなし(しあわせ)

2009年07月20日 | 社会
 明日には衆議院解散と言われているところなので、選挙に関するネタを。
 公職選挙法では、立候補届出前の選挙運動は事前運動として禁止されています。したがって、選挙用のビラの配布とかは当然許されないわけですが、数日前、新聞の折り込みチラシに幸福実現党のビラが入っておりました。地域の本部副代表という青年と、党首の大川きょう子氏の写真(この大川氏の写真は、『まぼろしの邪馬台国』の吉永小百合の写真と、肌の質感とかがよく似ている。なぜだろう。こどもだからよくわかんないや)が並んでおり、「第一党をめざします。」と書いてある。
 おいおい、これは明らかに事前運動だろう(のちほど、幸福実現党の公式サイトで確認したら、件の青年は、俺の住んでいる選挙区から立候補することになっていた)、と思いながら、チラシを見返したら、名前の前に「弁士」と付いていて、別の箇所には小さく「講演会 とき 12月7日(月)17時」と書いてある。
 はっはっはっ。こりゃ一本取られたね。12月なら衆議院選挙も終わっているわな。そんな時期にやる講演会のお知らせなんだから、事前運動ではありません、ということでしょうな。12月の催しに関するチラシを7月に配るのは非常に不自然だけれど、やっていけないということはない。
 一生懸命に知恵を使って、法の抜け穴を突いてみせたところなんでしょう。でも、こんな姑息でみみっちいことをしている人物・政党が、国民に信用されるとは思えないんだけどね。もしかして、この党は全国で同じようなことをしているのだろうか。

やすいはなし(浸み浸みや)

2009年02月24日 | 社会
 ローマでのG7におけるあのおぼろげな会見の直後、中川昭一前財務相はバチカン博物館でも奇行を繰り広げていたとのこと。深酒か薬の飲み過ぎか時差ボケか健康不良かそれらすべてなのか判りませんが、人前でそういう訳の判らない状態に陥ってしまうような人はゆっくり休みを取るのが望ましいわけで、財務相だけでなく国会議員も辞任して静養に入るよう勧めてあげなくてはならない。財務相を辞任すべきではなかったなどというのは、血も涙もない冷血漢の言い様である。
 それにしても、あのような異常な状態になった真の理由は何だったのか。いろいろと取り沙汰されましたが、「風邪薬を普段の2倍ほど飲んだことが原因だと思う」という彼の弁明を聞いて俺はピンと来ましたね。普通の風邪薬では倍量を飲んだからってああはなるまい。彼が飲んだという「風邪薬」は、実は咳止め薬なのではないか。
 今は成分が変わったようですが、昔の咳止め液は一気飲みするとラリることができました。リン酸コデインとエフェドリンという成分がいい感じで作用するらしく、一時期(約20年前)、薬局・薬店では咳止め液がじゃんじゃん売れたそうです。
 中川氏はこの昔ながらの咳止め液を、国会議員の権力を利用してストックしており、秘かに常用しておったのだ。きっと北海道中の薬局・薬店からかき集めたに違いない。もしかしたら父の代からかも知れないぞ。その秘蔵の咳止め液をいつもは1本一気飲みして楽しんでいたのだが、G7の大舞台に臨み、景気付けに2本やっつけてしまったのだね。「風邪薬を普段の2倍」ってのはそういう意味に違いない。これが覿面に効いてあの体たらくとあいなったわけだ。
 教訓としては、医薬品は用法・用量を守って正しくお使いくださいってことです。中川氏みたいに、思わぬ失敗をしてからでは遅いですよ。

やすいはなし(大災難)

2009年01月10日 | 社会
 1月9日の朝日新聞「天声人語」からの孫引きですが、報道写真家である広河隆一の著書『パレスチナ』(岩波新書)に、イスラエルで開いた「安全」と題する写真展の感想ノートに「私たちが安全を考えなかったとき、誰かが私たちの体から石鹸を作ったのだ」と書かれていたというエピソードがある。
 「天声人語」はこれについて「沈痛な思いだろう」と評するが、俺は、何ら顧みる価値がない妄言だと思う。それを書いた者は、いま「石鹸を作っ」ているのが自分たちの国であるという自覚も罪の意識もないからだ。よしんばその人がホロコーストの生き残りであったとしても、パレスチナ人に対する新たな虐殺行為を正当化できるはずがない。かれらが自国を正当化するためにホロコーストを持ち出したりするのは、死者を喰い物にしてその尊厳を損なう卑劣極まりない行為である。
 パレスチナ自治区ガザにおけるイスラエル軍の、「自衛」を名目とした民間人への容赦のない攻撃に表れているように、イスラエルの人々は、自国の利益のためには他者を犠牲にすることは許されるという、ナショナリズムの醜悪さ・酷薄さを剥き出しにしている。かれらは、過去の同胞の悲惨な境遇から遠く離れようとするあまりに、かつての敵、即ちナチスに匹敵する残酷さを身につけてしまったようだ。イスラエルは議会制民主主義を取っているが、そのことは、民主主義がナショナリズムの悪性を回避・抑制できないことを示している。
 『パレスチナ』の著者である広河は、約40年前の1967年、イスラエルのキブツ・ダリヤ(社会主義的な共同体)に住んでいたとき、その周辺で廃墟を見つけた。それが強制的に移住させられたパレスチナ人の村落の跡だった事を知り、「ホロコーストを経験したユダヤ人のキブツが、パレスチナ人の村の土地に建てられている」ことに衝撃を受けたという。以来40年間、彼が撮りためた写真・映像によるパレスチナの記録は膨大なものとなった。その一部が映画『NAKBA~パレスチナ1948』(公式サイト)にまとめられ昨年公開されたが、総時間40~50時間という途轍もないボリュームのアーカイブス版(完全版)のDVDボックスが完成し、今後発売の予定という。
 映画の方は、声高にイスラエルを非難し告発しようという押しつけがましさはなく、ひたすらパレスチナに寄り添って、そこで起きたこと・起こっていることを記録し続けようという、静かだが強固な意志に裏打ちされている。その中では、イスラエルがユダヤ人国家建設の障碍となるパレスチナ人を追放したこと、その過程で意図的・組織的に民族浄化、即ち虐殺を行なったこと、そしてそれは、現在も・常に・様々な形で継続されていることが淡々と述べられていく。この映画を見ると、イスラエルにとって、侵略と虐殺がその建国の時点からの隠れた国是なのではないかと思われてくる。少なくともそのありようは、まさに「ならずもの国家」そのものだといわざるを得ない。

やすいはなし(cheerful insanity)

2008年12月26日 | 社会
 うっかり3カ月も更新を怠ってしまいました。前回から今まで何をしていたのかといいますと、主にコレ(音注意)。ちなみに現在は2周目の最終章。
 真正面から倫理・道徳を主題としながら、押しつけがましさや嘘くささを感じないところが非常に気に入った作品でした。またいつか詳しく述べたいと思いますが、とりあえず、牛が怪物にさらわれていく場面は何度みても笑える。ここでこの牛くんに感情移入してしまうので、その後のかれの悲劇的な運命にけっこうショックを受けてしまう。
 そんなこんなで、ちょっとした引きこもり状態を続けながらも、毎年恒例の鳥肌実(公式サイト。音注意)の時局講演会にはちゃんと出向きました(12/22@九段会館)。
 ネタそのものは、良くも悪くも相変わらず。爆発的に面白い妄想世界を繰り広げる一方で、話の落ち着く先が定まらずに尻つぼみに収束したりする。最大の見物は、もうすぐ停止されるアナログ放送を全部買い取って、「出撃!アドマチック帝国」(子連れ狼スタイルの薬丸裕英と山田五郎が、竹島や尖閣諸島を練り歩き、中国人や朝鮮人にシブガキをぶつけて嫌がらせをする)などの番組を垂れ流したい、というネタ。
 前航空幕僚長の田母神氏にも触れていましたが、どうもうまくネタにしきれず、中途半端なことになっていた。そもそも、アパグループの懸賞論文に表された田母神氏の主張が、鳥肌のネタと大差がないのだから、扱いに困るのも当然だろう。
 その田母神氏は、参議院での参考人招致後も、しばらくテレビや雑誌のインタビューに応えてメディアに登場していた。それらを見たところでは、彼の一つのキーワードは「元気」であるようです。「航空自衛隊を元気にする10の提言」と題した論文を著したり、NHKのインタビューで「先輩が侵略行為や残虐行為をしたとか言われていては元気になれない」と語ったりしていた。
 だから、日本が侵略をしたというのは濡れ衣だし、残虐行為はでっちあげだ、ということになるのだが、そのように考えたところで、本当に日本人は「元気」になれるだろうか。
 考えてもみよ。戦前の日本が、陰謀によって他国に攻め込まざるを得なくなったというのなら、そんなに簡単に騙され乗せられて、挙げ句の果て窮地に陥った人々は、とんでもない抜け作ということになるではないか。そのような屈辱的で自虐的な見方を認めることができるはずがない。我らの先達は、もっとタフでクレバーでアグレッシブでなければならないのだ。
 そこで、もっと「元気」になれる考え方がある。それは「侵略しましたが何か?残虐行為をしましたが何か?」である。
 日本はかつて侵略をしたとか、残虐行為を行なったとか、取り憑かれたように非難をする人々がいる。他方で、侵略ではなかった、残虐行為はなかった、と躍起になって否定する人々もいる。両者は一見して正反対のようだが、侵略や残虐行為が悪だと認識している点で、同じ前提に立っている。しかし、そもそもそれらは本当に「悪」だったのか。根本から考え直してみる必要があるのではないか。
 日本を愛する皆さん。皆さんは中国や朝鮮が嫌いでしょう。存在することが許せないでしょう。だったら、それを日本にしてしまうのは正しいことではないのか。同様に、皆さんは中国人や朝鮮人が嫌いでしょう。同じ人間とは思っていないでしょう。だったら、かれらを殲滅することは、日本にとって正しく有益なことではないのか。そう考えたならば、戦前の日本が行なったことは、ありのままで、すべて正しかったということになる。
 本心を偽ると主張は弱くなり、元気は失われる。本心と主張との間にねじれがあるのだから、説得力を持ち得ないのは当然のことだ。自らの偽らざる本心を肯定し、その正しさを堂々と訴えることができるならば、それが向かうべき帰結もまた正当なものであると主張するのに、何らためらうことはない。
 田母神氏は、「日本は良い国だと言ったら解任された」と述べたが、実は戦前の日本の「良さ」「正しさ」を十分に理解していなかった。侵略し、残虐行為を行なった日本は正しかった、そういいきれる者こそが真の愛国者なのだ。やることなすこと、すべてが正しい日本。これほど元気になれるテーゼはない。

やすいはなし(ストリッパー)

2008年09月26日 | 社会
 このCMの話ですが。



 最初に見たとき、リーバイスのジーンズの宣伝らしいということ以外、徹頭徹尾まったくさっぱり意味が判らなかった。
 木村拓哉が町なかで臆面もなく履いているズボンを脱ごうとすると、何者かにどやしつけられているのか、その度に後ろに跳ねとばされる。彼はこれを何度も繰り返すが結局ズボンは脱げず、それでも最後に挑発的な態度を見せる。一目瞭然、明らかな変態行為だが、それを「格好いいもの」として表現しているところを見ると、このCMは「挫けず、縛られず、恐れず、動じず、公衆の面前で下半身を露出しよう」と訴えていると考えるのが素直な解釈であろう。強いて肯定的に読みとろうとするならば、若者の権力への挑戦という意味があるのかとも思えるが、それでも露出狂を推奨している点では同じことだ。
 まさか、そんなことはあるまいと、この広告の関連サイトを見てみたら、こんな説明があった。


ボタンフライから派生したメッセージが「LIVE UNBUTTONED」。
ボタンフライを開けるという行為が、そのまま自己の解放を意味し、とらわれることなく、自由であり続けようと訴える。
そう、メッセージに込められた想いは、
「何事にもとらわれず、自らを自由に表現する」こと。
これこそLevi'sの精神そのものなのだ。


 なーるほど、そうか。そんな深いメッセージが込められていたんですね・・・って誰が納得するか、このバカタレが。
 そもそも、「服を脱ぐ=自己の解放」という、使い古され過ぎてもはや陳腐としかいいようのないメタファーを、恥ずかしげもなく持ち出すその無神経さからして救いようがない。さらに致命的なのは、そのメタファーの使い所を完全に踏み外していることだ。「ボタンフライを開けるという行為が、そのまま自己の解放を意味」するというのなら、いま着ている服は抑圧の象徴ってことになる。つまり、リーバイスのジーンズを履くと不自由になる、履いているのは何かにとらわれた、自らを自由に表現できていない奴だというのだ。だったら最初からリーバイスのジーンズなんて履かないよ。宣伝しようとしている商品を逆に貶めてどうするのか。
 このような底が浅い上に筋の通らないコンセプトに基づいて、(しかもおそらくは、その莫迦げたコンセプトを立てたのと同一の人々、すなわち、救いようのないノータリンであることはもはや折り紙付きの人々が)広告を作れば、箸にも棒にも掛からない代物になるのは当然の帰結である。そうしてできあがったのが上掲の、露出狂の破廉恥漢が登場するはなはだ反社会的・反教育的な内容のCMというわけだ。
 もちろん、そこからは、「何事にもとらわれず、自らを自由に表現する」などというたいそうなメッセージはいっさい伝わってこない。木村拓哉の股間からびっくりするようなものが跳び出してきたならば話は別だったろうが、そんなことをしたら商品のイメージは地に落ちる。メッセージと商品とが齟齬を来しているのだから、CMという枠組みの中ではそもそも表現のしようがないのだ。
 「CMの木村拓哉の行動はあくまでイメージであって、本当に町なかでズボンを脱げといっているのではない。そのように表面的にしか受け取れないこと自体が、『とらわれた』考え方であり、だからこそ『自己の解放』というメッセージが有効なのだ」という反論も予想されるが、どんな言葉を重ねようとも、宣伝すべき商品を否定しなければ伝わらないメッセージを掲げてしまった、根本的な過ちを糊塗することはできない。
 結局このCMは、メッセージも伝わらないうえ、商品の宣伝としても効果の乏しいものにならざるを得まい。ジーンズの前を半開きにして徘徊する奴ぐらいは出てくるかも知れないが、たいがいの人にとっては、「木村拓哉が出てるジーンズのCM」、あるいは、よけいな演出のために「木村拓哉が下着を見せようとするCM」という印象が残るだけだ。なかには下着のCMと思う人もいるだろう。
 よしんば、「何事にもとらわれず、自らを自由に表現する」などという御託宣を聞かされたとしても、「なに寝言いっちゃってんの?」と切り捨てられて終わりだ。その象徴的な意味の矛盾を探るまでもなく、CMそのものに何の説得力もないからだ。もしかしたら、こんなスットコドッコイなCMでも、何となく雰囲気でごまかされて納得してしまう人もいるのかも知れないが、少なくとも俺は、アホがうつりそうなのでリーバイスのジーンズを履く気すら失せてしまう。
 リーバイスの公式サイトを見ると、この「LIVE UNBUTTONED」と称するメッセージに基づいて、件のテレビCM以外にも、さまざまなプロモーションを展開していこうとしているようだ。つまり、商品を売って利潤を追求するはずの企業が、当の商品を否定するためのメッセージに、莫大な時間と資金と労力を費やしているということになる。神話的なまでの壮大な濫費であり、この社会における意味や論理や秩序を根底から破壊する虚無の伝道だ。的外れもここまでくると、滑稽を通り越して壮観であり、底なしの闇を覗くような恐怖を覚えさえする。
 もしかしたら、このCMを含む一連のキャンペーンの裏にはとんでもない詐欺師がいて、愚にも付かないでっちあげのメッセージと知りながら、無知で善良な人々を騙くらかして食い物にしているのかも知れない。いずれにせよ、CMを作るにあたっては、その経済性・営利性がシビアに検討されるべきものであるのに(何しろ「コマーシャル」なのだから)、あのようなできそこないを無分別に垂れ流すということは、その製作の過程でチェック機能がまともに働いていないということを意味する。すなわちこれは、組織的な病理の明らかな兆候であり、その病がリーバイスという企業本体にまで及んでいるとしたら、またいつか、別の形で症状が表れるに違いない。

やすいはなし(フェイク)

2008年07月02日 | 社会
 もはや何が始まりだったのか、いったい今までに何件あったのか思い出せないほど、次から次へと原材料やら産地やら加工日やらの食品偽装の問題が報じられる。
 既にウナギの産地偽装に関心が移りつつあるようだが(この問題で話題に上っている水産会社のインチキ社長の名前が「中谷彰宏」で思わず失笑)、岐阜県の食肉卸販売業[丸明]の飛騨牛偽装問題には、時間が逆戻りしたのではないかと錯覚するほどの既視感に襲われた。ぬけぬけとした偽装をし、発覚したらしたで社長は従業員が勝手にしたことで自分は指示していないと弁明し、マスコミに追及された末に実は自分が指示していましたと認めるという一連の経過。恰好の獲物を見つけたマスコミが、鼻息荒く社長を吊し上げて責め立てるさまも十年一日の如く変わりがないが、その自らの正義に何の疑いもない様子にはいささか違和感を覚える。
 偽装によって不正な利益を得ることは、確かに許し難い詐欺行為であり、そのことについて責任を問われることは当然だ。しかし、それが自身の指示ではないと企業のトップが弁明することは、単に保身のためとばかりはいいきれまい。なぜなら、一従業員が勝手にしたことならば、管理体制の一部の緩みとして再出発できる可能性もあるが、トップの指示による組織ぐるみの腐敗・堕落であったとしたら、その企業は倒れる虞れが高まるからだ。もしそうなれば、全従業員が職を失い路頭に迷うことになる。
 ミートホープや船場吉兆を見るがいい。トップの指示を認めたがために、廃業に追い込まれたではないか。小の虫を殺して大の虫を活かすという。企業のトップとして、従業員たちの生活を守るために、自らの責任を認めず一従業員に罪を負わせることが必要なときもあるのだ(これを成し遂げた稀有な例が、新銀行東京の問題における石原都知事である。銀行が巨額の損失を出したことについて、彼は自身の具体的な責任を最後まで認めず、見事に旧経営陣を切り捨て、銀行自体は存続させることに成功した)。
 しかし、報道に携わる人々には、社長の胸の内を察して自重するだけの品格の持ち合わせがなく、むしろ嗜虐心を剥き出しにして会社を潰しにかかる。それによって失職する人々のことなどまったく気に懸けようともしない冷酷さ・独善性には呆れるばかりだ。責任を負わされた従業員にも、社長の苦衷の真情を理解し、他の従業員たちのために自らが犠牲になろうという心の気高さがあったならば、社長の指示があったことは胸の内に秘して独り罪を背負うことだろう。日本人の魂から、そのような美しさが失われたことを嘆かずにはいられない。
 自己の責任を否定する社長の真の思いに、マスコミがいささかの惻隠の情も示さないどころか、そもそも自己保身のためと受け取ることしかできないのは、自己犠牲の精神、公に殉ずる心の価値を知らないからだろう。私利私欲を離れ天下国家に奉ずる志がなければ、目先の事柄に囚われない、将来を見とおす広い視野を持つことができないのだ。
 そのような、自己犠牲の美しさを解さず、卑しく狭量な心根ですべてを測ろうとするマスコミの姿は、戦時中の沖縄で起きた民間人の集団自決を、軍の強制とばかり決めつけるありさまを思い起こさせる。
 当時の沖縄は、軍民一体となって本土を守るための捨て石になろうとしていた。皇軍の戦いの妨げになるまい、あるいは虜囚の辱めを受けるまいとした人々は、老若男女を問わず自ら望んで従容として死へと赴いたのである。父が妻と我が子の首を切り、最後に自らも命を絶つ。何という感動的な光景だろう。ああ、もしも時を遡れるならば、私もその場に居合わせて、老いたる両親と我が善き伴侶と愛するこども達と、もろともに手榴弾で微塵となって四方に飛び散り、御国の誉れ高き礎となりたい。
 ところが、戦後民主主義などという利己心にまみれた虚妄に毒され汚れきった人々には、かつての日本人にそのような美しさ・清らかさがあったことすら理解できない。その魂の美を理解できないから、軍の強制によって死に追いやられたはずだと邪推するのだ。それが進んで自決した人々の崇高な意志への侮辱であることすら気付かずに。
 よしんば、軍の指示に基づいて死んだ者がいたとしても、そのような不名誉を暴くことに何の意味があるだろう。名誉の死、価値のある死を遂げたことにしておいた方が、死んだ当人にとっても喜ばしいことではないか。何よりも、我が国の過去の尊厳を守ることは、人々に誇りと気高さを持たせ、将来にわたって国を栄えさせることにつながる。自決した沖縄の人々を範とすることで、日本人は自己犠牲の精神を持ち続けられるのだ。我が国の神話を守るためには、醜い事実など人々に知らしめることはない。例え事実ではなくとも、美しい物語こそが必要なのである。
 同じように、国を思う心があれば、偽装した食品会社の社長の自己弁護も、日本人の神話として読み直すことができる。マスコミにそれができないというならば、われわれ真の愛国者が物語を紡ぐ責務を負わなければならないのだ。

やすいはなし(異常行為前夜)

2008年06月06日 | 社会
 世界禁煙デーの5月31日から始まった禁煙週間は6月6日までということなので、前回に引き続き、公共の場における喫煙への憤怒と憎悪をぶつけてみたいと思います。

 公共の場での喫煙がいくら法的に規制されたところで、喫煙者の規範意識が変わらないことには、その実効性は常に薄弱なものとならざるを得ない。しかしかれらは、薬物依存症に冒されていながらその病識がないために、喫煙への欲求が異常なことであるとは気づかず、罪悪感など感じないおそれがある。簡単にいえば自覚のないヤク中なので、まともに是非を判断することができないのだ(したがって、ことタバコに関して喫煙者が正しいことをいうはずがないのであって、かれらの意見は基本的に無視してよい、むしろ無視するべきだ、ということになる)。
 おまけに、タバコという暴力を手にしている心理的優位から、他人の痛みなど想像するべくもない頑迷さ・傲慢さに陥っている者もいる。まさに既知外に刃物。狂気+凶器=虐殺である。加害者としての自覚をこれっぱかりも持たずに「禁煙ファシズム」などと口走る、度し難いほどに醜悪で愚劣で自己中心的な反社会性人格障害の持ち主たちが、臆面もなくのうのうとしていられるのもそのためだ。
 そこで、単に罰金などで規制するだけではなく、それが嫌悪され忌避されるべき迷惑行為であることをかれらに理解させ、破廉恥漢としての自己認識を促すために、さまざまな策を講じていかねばなりません。そのことが、無残な畜生道に堕ちた、生存の価値なき者どもに、正道に立ち返るための一筋の光明を投げかけることになるでしょう。
 まずは、タバコの商品名を改めます。
 今後、イメージが先行した片仮名の商品名をタバコに付けることなどいっさい許さない。漢字を使う場合は、
「屁・尻・屍・死・癌・病・糞・愚・悪・醜・垢・尿・膿・腐・劣・痰・汚・蟲・臭・厭・嫌・屎・葬・痛・痒・苦・悲・卑・猥・雑・粗・毒・疣・瘡・喪・駄・廃・恥」
などネガティブで不快なイメージを催す文字を使用させる。「病苦」とか「糞蟲」とか「腐臭」とか「死屍」とか「醜女」なんてタバコが店頭に並ぶわけさ。買うだけで恥ずかしい思いをするし、町中で取り出す気も失せるだろう。
 もちろん、いま売られているタバコも容赦なく改名してしまう。
「ハイライト」は「クロンボ大会」
「セブンスター」は「転落」
「マイルドセブン」は「打撲」
「ホープ」は「絶望」
「ピース」は「不安」
「セーラム」は「屁糞葛」
「ラーク」は「毒マムシ」
「ラッキーストライク」は「不運続き」
「パーラメント」は「変態集団」
「キャメル」は「瘤」
「ケント」は「ほくろ毛」
「マールボロ」は「助平人間」などなど。
 「メンソール」と付く場合は、すべて「インポテンツ」と言い換える。同様に「ライト」は「できそこない」、「マイルド」は「ごまかし」で統一。例えば、「セーラム ライト メンソール」などは「屁糞葛のできそこないのインポテンツ」と呼ばなければならない。
 このような恥ッ晒しの名前を考えるために、嫌がらせが三度の飯よりも大好きな、超人的なドSで性格のねじ曲がりきった人々を有識者の中から選んで、「醜名審議会」を組織しよう。喫煙者たちにより不快な思いをさせるために、審議会の委員たちは悪知恵をふり絞るのだ。
 また、タバコを持ち歩くのが問題なのだから、パッケージを物理的に携帯「しにくく」せねばならない。ペラッペラの茶封筒にご飯粒で封をし、中途半端にへたくそな文字で商品名を書いておく。使われている紙がたいへん粗悪で破れやすいので、不用意に開けようとすると、十中八九は中身を盛大にぶちまけてしまうことになる。とてもじゃないが、屋外で開けることなどはできない。タバコケースに入れ替えればそれまでだが、ある程度は抑制的効果があるだろう。
 もっと直接的に、路上で喫煙しているような輩を見かけたら、即座に水をぶっかけて火を消して良い、という慣習を定着させるのもいい。これは単なる正当防衛なので、法的には何ら問題がない。都合良く咄嗟に水を調達できない場合は、喫煙者の持つタバコに、つまり多くの場合は顔面付近に向かって唾を吐きかける。文字どおり唾棄すべき存在にはふさわしい扱いだ。
 これらの嫌がらせ策の最大の欠点は、マゾには効果がないどころか、逆に喜ばせてしまうことである。ヘタすると喫煙者にその素質を開花させてしまいかねない。そもそもかれらは、体内に毒物を摂取するのを好む破滅的傾向の持ち主たちなので、心の奥底にそのような素質を潜ませているおそれは十分にある。そうなったら完全に逆効果で、わざと街頭で「蛆虫」(商品名)を吸った挙げ句に、人々に唾をひっかけられ罵られ白眼視されて恍惚とする輩が続出してしまう。
 正々堂々と心ゆくまで差別を楽しみたいという向きもあるかも知れないが、あくまでも喫煙による被害を防ぐのが第一の目的であって、勢い余って沼正三ばりのSM世界が築かれてしまうのはいただけない。もっとも、公共の場での喫煙がほぼ野放しの現状だって、悪臭を吐き出して嫌煙者を虐待して喜びに浸っているドS喫煙者様や、その逆に悪臭を吸わされて被虐の快感に悶え震えているドM嫌煙者が潜む異常世界なのかも知れないのだが。