北京オリンピックがようやく終わりました。どうも、会期中よりも始まる前の方が盛り上がっていたような、異様な大会だった気がします。すべての競技にわたって俺はまったく興味がありませんでしたが、日本人選手が不甲斐ない結果に終わることだけは楽しみにしておりました。いや、選手には何ら含むところはないのだが、にわかにスポーツ好きになって訳も判らず日本の選手を応援している輩が、嘆いたり憤ったりの醜態を晒すのを見ると、腹の底から“ザマミロ&スカッとサワヤカ”の笑いが出てしょうがねーぜッ。
「何でそんなにマジなの?
エッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッァッ!」
そんな反日根性剥き出しの俺としては、男子柔道のダメさ加減を心から「よくやった」と讃えたい。日本のお家芸であるはずの競技で、史上最低のメダル二個獲得に終わった。まあ、あなた、金とはいえたったの二個。準国技というべき競技でメダル二個とは。期待していた奴らの泣きッ面が目に浮かぶぜ。気に入った!家に来て妹をファックしていい!!
この凋落ぶりの一因は、国際大会においてこの競技は名実ともに「柔道」ではなく「JUDO」と化しており、タックルで倒したり組み合わずに逃げ回ったりしてポイント数による勝ちを狙うのではなく、あくまでも組み合いのうえ一本を取って勝つことに拘る、日本選手の伝統的なスタイルでは勝てなくなったことにあるという。そんなのは、ずいぶん前から危惧されていたことだろう。今になって「やっぱりそうなったか」では遅すぎる。このままでは近い将来に、日本選手がメダルを一個も取れないという事態になるかも知れない(それはそれで面白いけれど)。
ことここに至って、国際大会であくまでもメダルという果実を狙うのならば、まず考えられる方策は、「本来の」柔道らしい戦い方で勝てるよう競技全体のルールを改変することだ。しかし、それだけの発言力・政治力が今の日本柔道界になく、国際的な趨勢を押し留めることができないのならば、逆に日本側が「JUDO」に対応するために自らの戦法を改変しなければならない。メダルという目的を果たすために、状況と自己のスタイルとの折り合いをつけるのは合理的な選択だろう。いままでのやり方をまったく変えてしまうか、折衷的に残すかどうかは別として。
まったく別の選択肢としては、メダルなんて端から諦めてしまうという方向もある。勝とうが負けようが超然として現在のスタイルを貫くのだ。メダルなどをがつがつと欲しがって、そのために汲々とするなど浅ましく見苦しい、見よ、この高雅にして深遠なる精神美を、醜い勝者より美しい敗者たれ、とか何とか唱えちゃったりして、どんなに惨敗しても、試合には負けたが勝負には勝った、と嘯いて高笑いする。武士は食わねど高楊枝。太った豚より痩せたソクラテス。外国にはまったく通用しない価値観かも知れないが、日本の伝統としての柔道を国内で保存することはできるだろう。
それでは内向きに過ぎる、やはり世界にアピールできる場が欲しいというのならば、新しい競技部門を創ってしまうのはどうか。呼び名は「トラディショナル」でも「ジャパニーズ」でも「クラシック」でも「オーソドックス」でも「コンサヴァティヴ」でもいいが、徹底的に「日本的」な「本来の」柔道としての優劣を競うための競技形態を打ち立てるのだ。
具体的にどうするかといえば、試合をするところまでは従来と同じだが、その勝敗は、完全に採点制にして「礼節点」「技術点」「精神点」の総合で決める。一本を取っても、礼節を欠いていたり、技によらず力任せだったり、精神性が足りなかったりすると、採点で負けたりするのだ。山下泰裕が賢しげに語るような、相手が怪我をしていてもそこをわざと責めたりせず、あたかも怪我の存在を忘れたかのようにふるまう、なんてことをすると精神点がぐんと跳ね上がる。逆に、ガッツポーズをしたり飛び跳ねて喜んだりとかすると、礼節点・精神点ともに減点されてしまう。もちろん日常の素行も採点の対象になるので、問題発言をしたりスキャンダルを起こしたり犯罪を犯したりした過去があると試合に出場すらできない。一方で家が貧しいとか、両親が幼少期に亡くなっているとか、感動的な浪花節エピソードがあれば加点の対象になるのだ。審査員はこの「日本式」柔道の経験者・指導者でなければならず、必然的に日本人が大部分を占めることになる。
勝てる。これで勝てなきゃもう言い訳のしようがない。少なくとも、しばらくは日本選手の独擅場になるだろう。何たって日本の選手がもっともなじんできた戦い方(のはず)なんだから。こうして「日本式」柔道の命脈を保っていくうち、あわよくば、この「日本式」の方を本流にすることもできるかも知れない。
よしんばそれでも勝てなくなったとしても、日本の伝統は守られ、受け継がれていく。外国選手がこの「日本式」で勝ったとしたら、この競技で勝てるということは「名誉日本人」の資格の証明なのだから日本がメダルを取ったのと同じだ、あのメダルは実は日本のものだ、それ行け日本、やれ行け日本、一億国民がついているぞ、ということにして自尊心を保つことだってできるだろうさ。
「何でそんなにマジなの?
エッヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッァッ!」
そんな反日根性剥き出しの俺としては、男子柔道のダメさ加減を心から「よくやった」と讃えたい。日本のお家芸であるはずの競技で、史上最低のメダル二個獲得に終わった。まあ、あなた、金とはいえたったの二個。準国技というべき競技でメダル二個とは。期待していた奴らの泣きッ面が目に浮かぶぜ。気に入った!家に来て妹をファックしていい!!
この凋落ぶりの一因は、国際大会においてこの競技は名実ともに「柔道」ではなく「JUDO」と化しており、タックルで倒したり組み合わずに逃げ回ったりしてポイント数による勝ちを狙うのではなく、あくまでも組み合いのうえ一本を取って勝つことに拘る、日本選手の伝統的なスタイルでは勝てなくなったことにあるという。そんなのは、ずいぶん前から危惧されていたことだろう。今になって「やっぱりそうなったか」では遅すぎる。このままでは近い将来に、日本選手がメダルを一個も取れないという事態になるかも知れない(それはそれで面白いけれど)。
ことここに至って、国際大会であくまでもメダルという果実を狙うのならば、まず考えられる方策は、「本来の」柔道らしい戦い方で勝てるよう競技全体のルールを改変することだ。しかし、それだけの発言力・政治力が今の日本柔道界になく、国際的な趨勢を押し留めることができないのならば、逆に日本側が「JUDO」に対応するために自らの戦法を改変しなければならない。メダルという目的を果たすために、状況と自己のスタイルとの折り合いをつけるのは合理的な選択だろう。いままでのやり方をまったく変えてしまうか、折衷的に残すかどうかは別として。
まったく別の選択肢としては、メダルなんて端から諦めてしまうという方向もある。勝とうが負けようが超然として現在のスタイルを貫くのだ。メダルなどをがつがつと欲しがって、そのために汲々とするなど浅ましく見苦しい、見よ、この高雅にして深遠なる精神美を、醜い勝者より美しい敗者たれ、とか何とか唱えちゃったりして、どんなに惨敗しても、試合には負けたが勝負には勝った、と嘯いて高笑いする。武士は食わねど高楊枝。太った豚より痩せたソクラテス。外国にはまったく通用しない価値観かも知れないが、日本の伝統としての柔道を国内で保存することはできるだろう。
それでは内向きに過ぎる、やはり世界にアピールできる場が欲しいというのならば、新しい競技部門を創ってしまうのはどうか。呼び名は「トラディショナル」でも「ジャパニーズ」でも「クラシック」でも「オーソドックス」でも「コンサヴァティヴ」でもいいが、徹底的に「日本的」な「本来の」柔道としての優劣を競うための競技形態を打ち立てるのだ。
具体的にどうするかといえば、試合をするところまでは従来と同じだが、その勝敗は、完全に採点制にして「礼節点」「技術点」「精神点」の総合で決める。一本を取っても、礼節を欠いていたり、技によらず力任せだったり、精神性が足りなかったりすると、採点で負けたりするのだ。山下泰裕が賢しげに語るような、相手が怪我をしていてもそこをわざと責めたりせず、あたかも怪我の存在を忘れたかのようにふるまう、なんてことをすると精神点がぐんと跳ね上がる。逆に、ガッツポーズをしたり飛び跳ねて喜んだりとかすると、礼節点・精神点ともに減点されてしまう。もちろん日常の素行も採点の対象になるので、問題発言をしたりスキャンダルを起こしたり犯罪を犯したりした過去があると試合に出場すらできない。一方で家が貧しいとか、両親が幼少期に亡くなっているとか、感動的な浪花節エピソードがあれば加点の対象になるのだ。審査員はこの「日本式」柔道の経験者・指導者でなければならず、必然的に日本人が大部分を占めることになる。
勝てる。これで勝てなきゃもう言い訳のしようがない。少なくとも、しばらくは日本選手の独擅場になるだろう。何たって日本の選手がもっともなじんできた戦い方(のはず)なんだから。こうして「日本式」柔道の命脈を保っていくうち、あわよくば、この「日本式」の方を本流にすることもできるかも知れない。
よしんばそれでも勝てなくなったとしても、日本の伝統は守られ、受け継がれていく。外国選手がこの「日本式」で勝ったとしたら、この競技で勝てるということは「名誉日本人」の資格の証明なのだから日本がメダルを取ったのと同じだ、あのメダルは実は日本のものだ、それ行け日本、やれ行け日本、一億国民がついているぞ、ということにして自尊心を保つことだってできるだろうさ。