仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(名前を付けてやる)

2008年07月24日 | 文化
 現代美術の話を続けます。
 10年ほど前に東京都現代美術館で開かれた「ポンピドー・コレクション展」を観に行ったときのこと。『自転車の車輪』と『牛乳瓶掛け』というレディーメイド作品を見た中年女性が、「これのどこが芸術なの」と率直で月並みな感想を漏らす微笑ましい光景に出会った。この時の展示会場はけっこう混んでいて、人混みが嫌いな俺は「そんなこと言うぐらいなら最初から観に来るなよ」とイラついたものでしたが、いま思うに、ああいう人たちが「見る者に説明を要するような現代美術など無に等しい」なんてことを得々として口走ってしまう都知事を支えているんだろうな。
 便器をただ転がしただけのような、既製品をそのまま、あるいはわずかに加工しただけのレディーメイドは、いったい何を表現しているのか。色々と解釈はできるが、一つの側面として、「美術“作品”とはどのようなものか」という問い、さらに遡って「美術作品を“つくる”とはどのようなことか」という問いを投げかけているといえる。
 美術作品をつくる・制作するという行為は、作者と呼ばれる人物が、書いたり塗ったり切ったり貼ったり削ったりくっつけたりして、オリジナルな価値のある物をつくりあげることと考えられている(いた)。しかし、そのような手作業は作品の制作において真に本質的な・不可欠の要素だろうか。そんなことよりも、すべての作品が最終的に必ず経なければならない過程があるではないか。
 それは、あるものが「これは美術作品である」という主張のもとに呈示されることだ。言い換えれば、「作品として呈示されたものが作品だ」ということである。そんなの当たり前じゃないか、無意味なトートロジーだ、と思うでしょうが、そう感じられるということは、この命題が真理であることを示している。
 この「呈示」=「これは作品だ、と示す(だけの)こと」こそが制作の本質であり、「芸術的な価値」は後付けでかまわないとするならば、自ら加工していない既成品を日常から抜き出して、作品としてのパッケージを施せば、それだけで「作品をつくった」ことになるはずだ。
 レディーメイドとは以上のようなことを表現しているが、先述のとおりそれは一つの側面に過ぎない。それだけの意味しかないのであれば、レディーメイドは一つつくられた時点でその使命を終えてしまう。さらに芸術としての意味・価値を持つためには、何が・どのように呈示されるかによるだろう。たとえば『泉』が大きな物議を醸したのは、それが男性用小便器という、それまでの美術作品には有り得ない尾籠な代物だったからだ。
 そこで、「作品として呈示」するとはどういうことか、さらに突き詰めて考えてみたら、それは「名前を付けること」ではないか、と思ったわけですよ。「無題」なら「無題」という名前でもいい。命名した時点で、ある事物は「作品」としてパッケージされ、鑑賞の対象となる。では、「名前を付けた」ことを表現するには、即ち観る者に「名前を付けた」と伝えるにはどうするか。美術館・美術展という場に限っていえば、作品名の表示板さえあればそれが可能だ。つまり、表示板を何かにくっつければ、それで「作品をつくった」ことになるのである(単純な思いつきなので既に誰かがやっていそうだが、一応は前例がないものとして以下を書き進めることにする。どこかでそんな「作品」を見たことがある、という方は教えてください)。
 まず、どこでもいいから美術館に行って、そこにある物のどれを自分の作品にするか、また、それを何と命名するかを決める。しかるのち、その美術館で使われている作品名表示板と、サイズ・素材・字体・文字配置・記載事項などがすべて同じものを作る。もちろん自分で作らず、同じ業者に発注すればいいのである。あとはその板を貼り付けるだけで「作品」は完成だ。その気になれば、美術館中を自分の作品で埋め尽くせる。
 例えば、湿度計とか、順路案内の表示とか、階段とか、窓とか、照明のスイッチとか、監視している係員とか何だっていい。他の作品の表示板も餌食にできるし、自分の付けた表示板に表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて、さらにそれに表示板を付けて・・・という具合に好きなだけ繰り返すのもいいだろう。
 別に何に付けると考える必要もなく、ところかまわず手当たり次第に表示板をくっつけ、「作品No.1」「作品No.2」「作品No.3」・・・としていくのもいい。どれが作品なのか、どこからどこまでが作品なのかは観る側が考える。他の誰かの作品にだって容赦なく名前を付け、自分の作品にしてしまえるし、それどころか、美術館をまるごと自分の作品と主張することもできる。いや、もっとスケールを広げて、地球まるごと、宇宙まるごとだって、名前を付けさえすれば自分の作品にできるのだ。

やすいはなし(ぶるーん。)

2008年07月15日 | 文化
 最近観に行った美術展二題。
 一つ目は「アール・ブリュット/交差する魂」(@汐留ミュージアム)。
 「アール・ブリュット」(フランス語で「生(き)の芸術」)は、「アウトサイダー・アート」とも呼ばれ、通常の美術教育・訓練を受けていない人々によって、一般的な媒体・市場への発表を前提とせずにつくられた美術作品をいう。知的・精神的に障碍を持つ人々の作品も含まれるが、作者は必ずしもそれと限られているわけではない。とても大雑把にいえば「素人が創造衝動の赴くままびっくりするような作品をつくること」だろう。そのような作品群は、人間が持つ記述不能の創造衝動への信頼を喚起し、職業性・商業性・専門性が、美術作品を無個性で非創造的な状態に陥らせ、鑑賞する側の評価をも歪めることに警告を発する。
 美術展自体は、さほど広くない会場で、国内外の作家21名による100点以上の作品を展示しており、あまり知名度のない分野について紹介するカタログとして企画されているのだろう。そのため、俺にとっては正直なところピンとこない、というかちょっと力の入った落書きとしか思えないものもあったりした。しかし、何名かの作品は本当に凄い。簡単に列挙すると、カルロ(デフォルメされた人物や鳥がひたすら4つ並ぶ意味不明の説得力)、ヴィレム・ファン・ヘンク(雑然としているようで構成に優れた都市風景画)、アドルフ・ヴェルフリ(朴訥・荒削りな極私的宗教画)、レイノルド・メッツ(ステンドグラスのような透明感と絢爛さ)、西川智之(ミニマルな造型の反復が全体を築きあげる陶芸作品)、坂上チユキ(痛々しいほど精緻)といったところ。いちおう付け加えると、斯界最大のスターというべきヘンリー・ダーガーの作品はなかった。
 これらの作品は、技術的にはさほど洗練されていない作家たちが、独自の観点・コンセプトで作りあげたもので、結果的に現代美術として鑑賞・評価すべきものになっている。だから、「アウトサイダー・アート」という、特殊さを強調するような呼称を用いることが適当とは思えない。特殊性を意識させるという意味では、「アール・ブリュット」という呼称にも問題がないわけではないし、そのような作品は「素朴」で「純粋」で「無垢」で、だからこそ価値が高いという、偏見を裏返しただけの無分別な評価につながる虞れもあるが、少なくとも「アウト」という差別性・階級性による排除を前提にした言葉を使うよりはマシだろう。では、「アール・ブリュット」という概念を用いる積極的な理由は何かといえば、美術の新しい分野を確立することではなく、美術を巡る状況を活性化するという、政策的なものになるのではないか。
 アール・ブリュットについて、「現代美術として鑑賞・評価」と書いたからには、現代美術とは何かということを考えなければならない。というところで、美術展の2つ目は「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」(@森美術館)。
 イギリスの現代美術作品賞の歴代受賞者による作品を集めたもので、アール・ブリュットと違い、意識的・自覚的に美術作品としてつくられたものが並んでいるが、どうもコストパフォーマンスが悪かった。
 デミアン・ハーストの『母と子、分断されて』は、実物の牛を子牛を縦割りにしてホルマリンに漬けた作品。成牛の断面の間には人ひとり通れるぐらいの隙間があり、そこを通ることはかなりショッキングな体験といっていい。しかし、そのような鬼面人を驚かす気味のある作品よりも、一見地味なグレイソン・ペリーの壺の方が濃い印象を残す。骨董品のように優雅な形の壺であるが、それが微妙に歪んでおり、幼少期のトラウマとか、現代社会における暴力をテーマにしたと思しき絵がコラージュ風に描かれている。その絵が、ダーガーの世界に共通する残酷さを漂わせているのだ(ダーガーよりはるかに絵は上手いけどね。ちょっと山本容子にも似た繊細な画風)。一本取られたと思ったのが、マーティン・クリードの『作品227:ライトが点いたり消えたり』。そのタイトルのとおり、何もない部屋の照明が5秒ずつ明滅するだけなのだ。その状況が作品なのであって、「美術作品とは形あるもの」という思い込みを覆す。
 この『作品227・・・』に顕著だと思うが、現代美術とは、文脈を外し、常識をずらし、先入見を揺るがすものであって、平たくいえば作家たちはボケてきているのである。ということは、アール・ブリュットは天然ボケってこと。相手がボケたらどうするか。当然こっちはツッこまなければいけない。
 過去の有名作品でいえば、
「便器やないか!」(マルセル・デュシャン)
「漫画か!」(ロイ・リキテンスタイン)
「落書きとちゃうんか!」(ジャン=ミシェル・バスキア)
「色が違うだけや!」(アンディ・ウォーホル)
「女拓て!エロまっしぐらか!」(イヴ・クライン)
「ペンキがもったいないわ!」(ジャクソン・ポロック)
「贋札はあかんやろ!」(赤瀬川原平)
「ケツばっかりや!」(オノヨーコ)
「どのテレビを観たらええねん!」(ナムジュン・パイク)
「アメちゃんを粗末にしたらあかん!」(フェリックス・ゴンザレス=トレス)等々。
 もちろん、ツッコミはボケを生かすためにあるもので、せっかくボケているのに本気で怒り出したり文句を言い出したりしたらすべて台無しだ。作品について詳細に言語化・論理化するのは評論家の仕事だろうが、素人でも直感的にボケを理解してツッコミを入れ、漫才を成立させる必要がある。現代美術を観る側にも、それなりのリテラシーが要求されるのはそのためだ。

やすいはなし(million miles)

2008年07月09日 | 生活
 たまたまテレビで[ほっともっと](旧[ほっかほっか亭])のCM(このページの「美大生編」)を見てしまい、しばらくいやあな気分に陥った。
 地味な雰囲気の青年が、[ほっともっと]ののり弁当を、家族の絵を見ながら独り無表情に黙々と食べているというもの。その不吉ささえ漂う虚ろなありさまに、一瞬 彼の家族はみんな死んだのだろうとさえ思った。それは考えすぎだとしても、どうにも陰々滅々たる情景のCMである。「幸福は~」云々というコピーが出てくるが、少しも幸福そうに見えない。独り飯なんてのはただでさえ索漠としたものなのに、あの白い発泡スチロールの容器をじっと見つめてしまったら、時々ふっと死にたくもなろうというものだ。
 「単身赴任編」というのもあるが、そっちもキッツイぞ。そこでは、単身赴任のオッサンが、買ってきた弁当を独りで食べている。彼の逆光気味の横顔から溢れ出す、逃げ場ナシの殺人的な陰惨さ。中年男の悲哀ここに極まれりといいたくなる。彼のこどもから電話がかかってくるところで何とか救われるが、あれを見て単身赴任の男性が自殺したとしても、俺は不思議とは思わない。
何だってあんな、
みじめで、
侘びしくて、
悲しくて、
寂しくて、
空しくて、
やるせなくて、
寄る辺なくて、
貧乏ったらしくて、
味気なくて、
痛ましくて、
酷たらしくって、
薄ら寒くって、
どうしようもないほど救いのない、
タチの悪いいやがらせのような広告を作ったのだろう。垣間見るだけで暗澹たる気持ちになる境遇に、わざわざ自らの身を置いてみようなどと誰が思うか。広告として完全に逆効果だと気付かない神経を疑うよ。
 あれをつくった人々は、「ホカ弁」(ブランド名が変わったことにより「ホモ弁」になってしまったが)という商品を過信したというか、それが人に与えるイメージを完全に読み間違えたのだろう。ホカ弁とは、食事を作ってくれる人もいなければ、自分で作る能もない、あるいは時間もない人のための、そもそもが「孤独」で「貧困」(必ずしも金銭的な面のみならず、文化的な意味合いも含む)な商品なのであり、それを顧客に気付かせてしまったらアウトなのだ。自分は、そんな悲しい商品を買う悲しい人間なのだと、買うたびに自覚させられ、不幸で残酷な現実に堪えなくてはならないとしたら、購買意欲など湧くはずがない。
 あのような食事の風景から、ホカ弁を食べてがんばっている人々の健気さを伝えようとしているのかも知れない。しかし、それを「健気」と感ずるのは、「そんな貧しい食事をしていながらも」という前置きによるものだ。つまりホカ弁のネガティブイメージを前提にしているのであって、広告としてはやはり失敗ではないか。どんな言葉で飾ろうとも、いかに情緒に訴えようとも、バックに菅野よう子の曲を流そうとも、発泡スチロールの容器がすべてを打ち砕くのだ。

やすいはなし(フェイク)

2008年07月02日 | 社会
 もはや何が始まりだったのか、いったい今までに何件あったのか思い出せないほど、次から次へと原材料やら産地やら加工日やらの食品偽装の問題が報じられる。
 既にウナギの産地偽装に関心が移りつつあるようだが(この問題で話題に上っている水産会社のインチキ社長の名前が「中谷彰宏」で思わず失笑)、岐阜県の食肉卸販売業[丸明]の飛騨牛偽装問題には、時間が逆戻りしたのではないかと錯覚するほどの既視感に襲われた。ぬけぬけとした偽装をし、発覚したらしたで社長は従業員が勝手にしたことで自分は指示していないと弁明し、マスコミに追及された末に実は自分が指示していましたと認めるという一連の経過。恰好の獲物を見つけたマスコミが、鼻息荒く社長を吊し上げて責め立てるさまも十年一日の如く変わりがないが、その自らの正義に何の疑いもない様子にはいささか違和感を覚える。
 偽装によって不正な利益を得ることは、確かに許し難い詐欺行為であり、そのことについて責任を問われることは当然だ。しかし、それが自身の指示ではないと企業のトップが弁明することは、単に保身のためとばかりはいいきれまい。なぜなら、一従業員が勝手にしたことならば、管理体制の一部の緩みとして再出発できる可能性もあるが、トップの指示による組織ぐるみの腐敗・堕落であったとしたら、その企業は倒れる虞れが高まるからだ。もしそうなれば、全従業員が職を失い路頭に迷うことになる。
 ミートホープや船場吉兆を見るがいい。トップの指示を認めたがために、廃業に追い込まれたではないか。小の虫を殺して大の虫を活かすという。企業のトップとして、従業員たちの生活を守るために、自らの責任を認めず一従業員に罪を負わせることが必要なときもあるのだ(これを成し遂げた稀有な例が、新銀行東京の問題における石原都知事である。銀行が巨額の損失を出したことについて、彼は自身の具体的な責任を最後まで認めず、見事に旧経営陣を切り捨て、銀行自体は存続させることに成功した)。
 しかし、報道に携わる人々には、社長の胸の内を察して自重するだけの品格の持ち合わせがなく、むしろ嗜虐心を剥き出しにして会社を潰しにかかる。それによって失職する人々のことなどまったく気に懸けようともしない冷酷さ・独善性には呆れるばかりだ。責任を負わされた従業員にも、社長の苦衷の真情を理解し、他の従業員たちのために自らが犠牲になろうという心の気高さがあったならば、社長の指示があったことは胸の内に秘して独り罪を背負うことだろう。日本人の魂から、そのような美しさが失われたことを嘆かずにはいられない。
 自己の責任を否定する社長の真の思いに、マスコミがいささかの惻隠の情も示さないどころか、そもそも自己保身のためと受け取ることしかできないのは、自己犠牲の精神、公に殉ずる心の価値を知らないからだろう。私利私欲を離れ天下国家に奉ずる志がなければ、目先の事柄に囚われない、将来を見とおす広い視野を持つことができないのだ。
 そのような、自己犠牲の美しさを解さず、卑しく狭量な心根ですべてを測ろうとするマスコミの姿は、戦時中の沖縄で起きた民間人の集団自決を、軍の強制とばかり決めつけるありさまを思い起こさせる。
 当時の沖縄は、軍民一体となって本土を守るための捨て石になろうとしていた。皇軍の戦いの妨げになるまい、あるいは虜囚の辱めを受けるまいとした人々は、老若男女を問わず自ら望んで従容として死へと赴いたのである。父が妻と我が子の首を切り、最後に自らも命を絶つ。何という感動的な光景だろう。ああ、もしも時を遡れるならば、私もその場に居合わせて、老いたる両親と我が善き伴侶と愛するこども達と、もろともに手榴弾で微塵となって四方に飛び散り、御国の誉れ高き礎となりたい。
 ところが、戦後民主主義などという利己心にまみれた虚妄に毒され汚れきった人々には、かつての日本人にそのような美しさ・清らかさがあったことすら理解できない。その魂の美を理解できないから、軍の強制によって死に追いやられたはずだと邪推するのだ。それが進んで自決した人々の崇高な意志への侮辱であることすら気付かずに。
 よしんば、軍の指示に基づいて死んだ者がいたとしても、そのような不名誉を暴くことに何の意味があるだろう。名誉の死、価値のある死を遂げたことにしておいた方が、死んだ当人にとっても喜ばしいことではないか。何よりも、我が国の過去の尊厳を守ることは、人々に誇りと気高さを持たせ、将来にわたって国を栄えさせることにつながる。自決した沖縄の人々を範とすることで、日本人は自己犠牲の精神を持ち続けられるのだ。我が国の神話を守るためには、醜い事実など人々に知らしめることはない。例え事実ではなくとも、美しい物語こそが必要なのである。
 同じように、国を思う心があれば、偽装した食品会社の社長の自己弁護も、日本人の神話として読み直すことができる。マスコミにそれができないというならば、われわれ真の愛国者が物語を紡ぐ責務を負わなければならないのだ。