仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(土曜日の本)

2006年10月30日 | 生活
 神保町でやっている神田古本まつり(11月1日(水)まで開催)に行ってまいりました。
「また貧乏くさいというか、地味っぽいイベントだなあ。どうせ大した買い物なんてしないんでしょうが。」
 いいじゃないの、毎年行ってるんだし。参加することに意義があるんだよ。
「それで、何か掘り出し物はあったのかね。毎年行ってるくせに、まともなものを掴んできた試しが無いよね。」
 俺は古本マニアじゃないんだから、稀覯本とか見つけ出すつもりもないんだって。読みたかった本が安く買えればいいんだ。そのうえちょっとネタにできればもっといいけどね。もともとイベント自体が、そんなマニア限定のものでもないし。
「今日び、神保町ってだけで普通の人から見れば充分マニアックだと思うけどな。で、今回の収穫は?」
 正確には古書じゃなくて、不良在庫整理のための新本特価だけど。
 きだみのるの『気違い周游紀行』(冨山房)。600円也。
「何だって?」
 だから『気違い周游紀行』。
「最初の方が聴き取れないんだけど」
 耳が悪いんじゃないの?「気違い」だよ。

きーちーがーいッ!
「なーんだ、『気違い』か。」
 そう、「気違い」。
「『気違い』だが仕方がない。」
 それ、「てにをは」が間違ってるよ。まあ、「気違い」は「気違い」だけどさ。
 ・・・と、書名だけでこれだけ遊べる本も少ないでしょう。売り場のオッサンに「お買い得ですよ。何たって書名が放送禁止だから」と言われたし。まだ読み終わってないから、内容については一切書けないけどな。

 上にも書きましたが、俺は少し本が好きという程度の人間なので、この手の古書市とか即売会に行列を作って並ぶような真似はしません。それでも、ときどき暇があれば足を運んだりもするわけです。その経験から言わせてもらうならば、古本が好きな人間なんてものにロクな奴はおりません。奴らはもう、本ッ当に、どーしようもない出来損ない揃いです。
 小さい子供をお持ちの親御さん。悪いことは言いません。本をたくさん読めば立派な人になれるなどという古臭い言葉を信じて、子供に読書を勧めるようなことは絶対に止めてください。そんなことをすれば、我が子を社会不適合者にするだけだ。健全な魂を育てたいならば、読書なんてさせてはいけないのです。
 嘘だと思うなら、一度古書市の類に行ってみるがいい。そこに集まっている輩がいかにまっとうでないかは見る目があればすぐに判るだろう。どいつもこいつも自意識が間違った方向に発達し、後戻りができなくなった奴ばかりです。

 例えば、
「例えば、何?」
 あれっ、何でまた出てくるの。最初のツカミだけの趣向じゃなかったのか。
「このままじゃ、単なる愚痴になって収拾がつかなくなりそうだから。」
 困ったな、キャラクターの書き分けなんてまったく考えてないよ。
「まあ、『ツッコミ』という人格ってことにしとけばいいだろう。」
 ということは、俺よりも理性的で常識的ってことか。
「伝統的にはそういうことになるね。」
 伝統はよそうよ。
「じゃあ方法と言い換えてもいい。」
 メソッドの伝統か。
「こんなネタは誰も判らないから話を先に進めろ。」
 怒られたよ。で、何を書いてたんだっけ。
「古本が好きな奴は生存する価値の無い社会のクズで、蛆虫と比べるのも惜しいような下等で忌まわしい生き物だから、今すぐこの世から抹殺するべきだって話だったな。皆殺しにして畑の肥やしにするのが最終的に正しい解決だと。」
 そこまでは言ってなかったと思うけど(コイツ本当に俺より常識的なのかな)。
「それで、その主張の根拠を示そうとしてたんだろう。」
 ああ、そうだった。それでですね、大概の古書市とかでは、平たいワゴンや机に背表紙を上にした古本がずらっと陳列されます。そうして膨大かつ無秩序に書名が並んでいる中から、「これは」という本を猛禽類の眼で見つけ出すのが醍醐味であり、限られた時間の中で成し遂げるべき責務なのです。
 然るに!その背表紙の上にだね、手に取った本の中身をチェックするあいだ、その本から外した外箱だとか、買おうとして既に抱えていた本とかを軽々しく置いて平然としている奴がいるのだよ。
 そんなことをしたら背表紙が見えなくなるではないか。どうしてくれるのだ、こっちは必死こいて書名を読みとろうとしておるのに。そもそも、自分も本を見に来ていながら、自分がやられたら不快に思うであろうことを何故できるのか。手前勝手にもほどがある。これこそ、古本好きと称する連中が、道義心の欠片さえ持ち合わせていないことの証左と言わずして何と言おう。
「そのぐらい放っといて先に進めばいいだろうに。」
 馬ッ鹿モーン。もしかしたらその隠された下に、二度とお目にかかれないようなお宝が潜んでいるかも知れないではないか。それをみすみす見逃すような真似をできるわけがないだろうが。
「(ダメだ、コイツ)で、そんなときはどうするの。」
 彼奴が置いた本なり外箱なりをこれ見よがしにどかしてやるね。それで「すいません」とおのれの非に気付く奴はまだマシなんだが、俺が動かした本とかを慌てて奪い返したり、睨んできたりする奴もいるのだよ。
「外箱ならともかく、抱えてた本の場合は横取りされると思うのかもね。」
 だったら気楽にワゴンの上に放置したりするなってえのよ。自分が確保したものだってことを明示していないんだから、横から取られたって文句は言えないはずなんだ。日本人の平和ボケの好例だな。危機意識というものがあるのかと言いたいね。
「じゃあどうしろって言うのさ。」
 ちゃんと脇に抱えるなり手に持つなりするんだな。股に挟むのもいいかも知れん。
「それ、自分は実践してんの?」
 当然だ。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ、と孔子も言っておる。
 ともかくね、ワゴンに置かれた本の背表紙は絶対に隠すなと。この程度の気遣いをことさらに訴えなければならないなんて情けない限りだけど、これが古書市におけるマナーとして、今後 定着することを切に願うね。そして、これを守れないような禽獣にも劣る連中は、その場で眼玉を抉り出し、鼓膜を突き破り、指をすべて切り落としてやるんだ。
「何でそこまでせにゃならんのよ。」
 字も読めず、音読も聴けず、点字も判読できなくするためだよ。奴らがこよなく愛する本に接したくても、金輪際できないようにしてやるのさ。そうやって生き地獄を味わわなければ、奴らの汚れきった魂は浄化されないよ。
「あんたの特殊な主張に賛同する人がそうそういるとは思えないけどね、とりあえずこれを読んだ人にはよく伝わったと思うよ(あんたがものすごく心の狭いダメ人間だってことが)。」
 そうかな?

やすいはなし(プリテンダー)

2006年10月16日 | 文化
 『弓』という韓国映画が日本で上映中です。
 この映画の広告を最初に見た時、まさかあの『弓』が映画化されるとは、と驚くとともに、あんな筋金入りの「反日」物語を日本で公開するとは勇気のある人々がいるものだ、危険度においては
『太陽』など問題にならないぞ、と思いきや、題名が同じまったく別のお話でした。映画の公式サイトであらすじを読みましたが、これにはまったく食指が動かない。何だ、あのジジイは。どんな七面倒くさい理由をつけようと、要するにただのド変態ではないか。韓国で『弓』と言ったら李賢世の漫画と決まっているだろう。それをこんなオ芸術映画の題名に使いおって。壬申倭乱を忘れたか。
 俺の言う『弓』とは日帝時代の朝鮮を舞台にした漫画で、日本でも1980年代に晶文社から翻訳が出版されました。豊臣秀吉による朝鮮侵略の時代に、朝鮮側の裏切り者を処刑したと伝えられる弓と、それを受け継いだ若者を巡る物語。日本人は加害者で朝鮮人は被害者という図式が基盤にあるものの、弓にまつわる逸話が示すように、侵略者・支配者に迎合・従属しようとする朝鮮人の存在が中心的な主題になっており、単純な日本批判だけのお話ではありません。
 それだけに、途中までは爽快感が乏しくけっこう陰鬱で、読んでいるとかなり気が滅入る。主人公は朝鮮人内部の密告者を探し出すために、ノーテンパーのダメ人間のふりをするのですが、これが明らかにやりすぎで読者さえも欺く徹底ぶり。誰も見ている者がいないようなところでも演技を続けており、もはや本物の既知外としか思えない。この演技によって彼自身が売国奴の汚名を被り、母親に見捨てられ恋人を失うという、本当にここまでやる必要があるのかいなという悲惨な状況に陥りますが、その甲斐もあって彼は密告者の正体を突き止めるとともに、日本のために働いた(=朝鮮を裏切った)功労者として日本人の朝鮮総督に直に会う機会を得ます。
 この、総督府へと主人公が向かう姿と同調して、物語はクライマックスへと進行していきます。ここから結末までは、哀切でしかも緊迫感に満ち、漫画の終結部としては稀有な完成度を見せる。
 主人公による母や恋人への惜別の想いを連ねた心中のモノローグによって、長いあいだ周囲を欺き続けるために表に出せなかった彼の苦衷が読者には明らかになります。この静かな感情表出の後、愚か者のふりをしつつ総督に会見する場面で、彼は秘められた荒ぶる意志を次第に露わにしていく。自らを抑えつけていた主人公が解放されていくカタルシスと、敵役がいつの間にか窮地へと追いやられていくサスペンスとが複合し増幅しあって、物語を高調させるのです。
 遂には「これが俺の本当の姿だ」と言いながら、伝説の弓を携えて見得を切る主人公。ウヒョー!カッチョイー!!この勢いで裏切り者の朝鮮人も、朝鮮総督の部下も次々と射殺していき、最後に残されて命乞いをする総督の「何が望みだ」という問いに、静かに「朝鮮の独立だ」と答え、総督のドタマを見事に矢でブチ抜くのでございます。惨殺の後に涙を流しながら立ちつくす主人公。血生臭く鬼気迫るシーンでありながら、不思議なほどの静謐さに息を呑む。
 この漫画の周到さは、エピローグに最もよく表れています。裏切り者と侵略者を討った主人公は、その後逃げ延びることはできず、官憲に捕らわれて処刑されるのです。自ら従容として捕らわれたとさえ思われるあっけなさ。生き延びて朝鮮独立のために戦いを続けるのは、主人公が助けた別の若者の役割になっています。主人公の行動にいかなる理由があろうともテロリズムであることに変わりはなく、それゆえに英雄になるべきではなかったということだろうか。
 これ映画化して欲しいなあ。主人公の既知外演技をこれでもかとやり倒した後、思い切りリアルに殺人劇を描き出て欲しい。きっと、笑って済まされないようなことになるだろうに。