仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(ひとりファシズム)

2008年05月31日 | 社会
 5月31日はWHO(世界保健機関)が定めた「世界禁煙デー」です、という書き出しを3年前にも使いました。わずか3年前と比べても、公共の場における喫煙に対する規制はより厳しくなっていると思われます。飲食店やタクシーが禁煙化されたり、路上喫煙防止条例が各自治体で制定されたり、俺のような嫌煙者にとってはとてもありがたいことですが、そのような動向を批判するために一部の喫煙者が使うのが、
「禁煙ファシズム」
という言葉です。
 このような用語を使うということは、どうやら喫煙者たちは、自分たちをナチスに迫害されるユダヤ人のように感じているらしい。この、自らの罪悪に対する無自覚ぶり、倫理観の致命的欠落ぶりには心底うんざりさせられる。この異常性が喫煙によって惹き起こされたものなのか、それとも、もともと異常な素質を持っているから公共の場における喫煙の「権利」を声高に主張するようになるのか。
 ユダヤ人はユダヤ人でも、パレスチナ人民に対する残酷な抑圧者であるイスラエルに喫煙者は例えるべきだろう。いや、イスラエルのユダヤ人には人種による迫害の経験と記憶が確かにあるが、喫煙者にはそれがない。かれらはこれまで、そして現在も一貫して加害者であり続けているのであって、それが被害者意識を抱いて批判に抗おうとしているさまは、イスラエル以上に醜悪である。
 かつてこの社会は、「喫煙ファシズム」どころか、それ以前の「喫煙身分制」でした。嫌煙者は下層の被差別階級として抑圧され、不快で有害なタバコの煙という暴力に日常的かつ無防備に曝され続ける忍苦と屈従の日々を強いられていたのです。しかし、今ようやく暗黒の時代は終わりつつあり、暴虐に脅かされることのない安寧な生活、即ち文明社会に生きる人間として当然の権利を嫌煙者は実現しようとしています。これを妨げようとする喫煙者たち、公共の場での喫煙を固守しようとする者たちは、圧制と迫害によって利益を貪る旧体制の残滓といわねばならず、かれらに復権の機会を与えることなど、断じてあってはならないことです。
 そもそも、社会に直接的な利益をもたらさない個人的な快楽、それもニコチン依存による禁断症状を緩和するために、無関係の人間に不快感を与え、健康に悪影響を及ぼすことがなぜ放置されているのか。強姦魔を逮捕せず野放しにして、被害者たちに泣き寝入りしろといっているようなものだ。薬物依存症のために見境なく恣に暴力を振るう者と、何の責めもないのに一方的に暴力を振るわれる者と、ごく平明に考えてどちらの利益を守るべきか、答えは明らかなはずだ。
 しかも、喫煙という行為が必ず煙を周囲に撒き散らすものである以上、喫煙者は、嫌煙者に対して常に一方的に暴力を振るいうる脅威的存在なのである。つまり喫煙者は、必然的・宿命的・生来的な加害者であって、加害者を優先させるべきであるというような逆転した認識に立たない限り、公共の場においては当然に制限されなければならない。
 もちろん、喫煙という個人の嗜好による行為そのものを、それが健康に害があり、しかも実態としては広義の精神障害である薬物依存症ではあっても、一律に禁止し撲滅することが正しいとは思わない。誰に迷惑もかけない個人の楽しみである限り、喫煙は権利であり自由であって、それを法的に禁ずるような行き過ぎをファシズムに例えることも間違いではないだろう。
 しかし、公共の場における喫煙は、その不快さと危険さ、そして社会的価値の乏しさゆえに、要するにその悪性・加害性ゆえに、「自由」や「権利」と呼ぶに値しない。したがって、それを許容することが「多様性」や「中庸」などの肯定的な評価に結びつくことも有り得ない。
 それがどの程度規制されるべきか、について議論されるべきではある。しかし、喫煙者が本質的に加害者である以上、制限されるべきは常に喫煙者の側であって、嫌煙者が「寛容」や「受忍」を求められること自体が甚だしい倒錯なのだ。それは、無辜の民に向かって、差別を甘受せよと説くに等しい。規制の程度の問題として、一律に全面禁止をするのではなく、分煙によって喫煙の場を確保するとしても、そのための負担は喫煙者が全面的に負うべきであることは言を俟たない。
 喫煙規制に対する個別の批判として、自動車の排気ガスと対比して不平等とする見解もあるが、至近距離で浴びせかけられることの多いタバコの煙は、往々にして自動車の排気ガスより不快であって、そもそも平等である必要がない。さらに、自動車の排気ガスがまったく規制されていないわけでもないし、社会的有用性において自動車とタバコでは比べものにならない。また、同じ嗜好品である酒と比較されることもあるが、飲酒が必ずしも迷惑行為には結びつかないのに対し、喫煙は必ず悪臭を撒き散らすため、これまた同列に論ずるべきものであるはずがない。さらに、体臭や口臭などと並列して論ずる意見さえある。しかし、本人の責任には帰しがたい体質によるものと、自らの意思・選択の結果として陥った薬物依存症とを同等に扱うのは不自然だ。
 以上のような比較論は、タバコへの規制が不健全なものへの排除の論理であり、同じく不健康で迷惑とされるものの排除へと、例えばワキガの規制などへと際限なくエスカレートするおそれがあると危惧するものだが、そのような発想自体が、公共の場における喫煙の特異な悪性、即ち一方的かつ利己的な加害の責任に対する認識欠如の表れであり、結果としてただの見苦しく甘ったれた言い訳にしかなっていないのである。
 いずれにしても、公共の場での喫煙が単なる権利侵害である以上は、それを擁護する意見の核心にわずかでも正当性が宿るはずはなく、すべて偽善か異常かのどちらかにならざるを得ないのだ。

やすいはなし(ばかだなあ 05)

2008年05月30日 | 社会

 ちゅうごくで大きなじしんがあったので、こまっている人たちのために、がっこうでぼ金をあつめることになりました。ぼくはお金をもっていくのをわすれたので、ぼ金ばこにお金を入れなかったら、みんなに
「やーい、ケチンボ、ケチンボ。」
といわれました。
 とりいくんは、千円もいれていたので、みんなに
「やーい、ぎぜんしゃ、ぎぜんしゃ。」
といわれていました。
 そのあと、がっきゅうかいで、ぼ金であつめたお金でなにをしたらいいかはなしあいました。「けがをした人たちをなおすためにつかったらいい」とか、「たてものがこわれたのであたらしいたてものをつくるためにつかったらいい」とか、「たべものをかっておくってあげたらいい」とか、「じしんよちのけんきゅうのためにつかったらいい」とか、いろいろいけんがでたので、たすうけつできめようとしたら、たかはしくんがてをあげて、
「ちゅうごく人はわるい人たちだから、お金はあげないほうがいいとおもいます。」
といいました。たかはしくんはいつもさいごにそういうことをいいだすので「ちょうくうきよめねー」といわれているけれど、たかはしくんはきがついていません。
「ちゅうごくの人がこまっているのに、たすけないのはよくないとおもいます。」
とよしださんがいいました。よしださんは、たかはしくんのいうことにいつもはんたいするのです。たかはしくんとよしださんのいいあいになって、そのうちにみんながいろんなことをいいだしました。
「ちゅうごく人はどくやさいとかどくぎょうざをつくってにほんにおくってきたり、ぐんたいをつよくしてにほんにせめてこようとかかんがえているんだから、たすけたらだめだ。」
「そうだ、ちゅうごく人をたすけたら、にほんがそんをするんだ。」
「こまっている人をたすけるのに、そんするとかとくするとかいうのはよくないです。」
「たてものがこわれたのは、ちゅうごく人がいいかげんだったからで、じごうじとくだ。」
「にほんはちゅうごくよりお金もちだから、かわいそうな人たちにお金をあげてもいいとおもう。」
「ちゅうごくにもお金もちがいるから、おかねをあげるひつようなんてない。」
「せっかくお金をあげるんだから、にほんがとくするようにしたほうがいい。」
「にほんのお金でたてたたてものにひのまるをつけておけば、ちゅうごく人もにほんにかんしゃのきもちをわすれないとおもいます。」
「ちゅうごく人をたすけてやればにほんにおんがえしをするだろうから、たすければとくになる。」
「ちゅうごく人はにほんのことがきらいだから、おんがえしなんてしないとおもう。」
「ちゅうごくの人がにほんのことをきらいなのは、むかしにほんの兵たいさんがちゅうごくでわるいことをしたからなので、ちゅうごくの人のわるくちをいうのはよくないとおもいます。」
「にほんの兵たいさんはわるいことなんてしない。ぜんぶちゅうごく人のうそだ。うそつきのちゅうごく人なんてほっとけばいいんだ。」
「それに、ちゅうごく人はちべっとの人たちをいじめているんだから、わるいのはちゅうごく人だ。」
「そうだ、ちゅうごく人なんてみんなしねばいいんだ。」
「そんなことをいってたら、いつまでたってもにほんとちゅうごくはなかよくなれません。おとなりのくになんだからなかよくしたほうがいいです。」
「ちゅうごくはてきなんだから、なかよくしなくたっていい。」
 みんながいろいろいって、さいごはけんかみたいになりました。ぼくもなにかいおうとおもったけれど、「ぼ金もしないケチンボがえらそうなことをいうな」といわれるかもしれないとおもったので、だまっていました。けっきょくいけんがきまらずに、じかんがおわってしまいました。
 そのあとで、たんにんのどいせんせいが、
「ちゅうごくでは、じしんで、ひとがすんでいるいえやがっこうがこわれてしまいました。みんなとおなじ子どもが、たくさんつらいおもいをしています。みんなには、ちゅうごく人だとかにほん人だとかはかんけいなく、こまっている人をおもいやるきもちをもてる人になってほしいとおもいます」
といいました。よしださんが、たかはしくんのほうをみて、「わたしがかった」みたいなかおをしていました。
 でもせんせいは、ちゅうごく人はばかだとか、うそつきだとか、わるものだとか、にほんのてきだとか、いつもみんなにおしえています。子どもでもちゅうごく人なんだから、いきなりおもいやりをもてといわれてもむりです。それに、おもいやりがある人は、さいしょからあんなふうに人のわるくちはいわないとおもいます。
 せんせいがむちゃくちゃなことをいうので、ぼくたちにおもいやりのある人になってほしいのか、なってほしくないのかわからなくなってしまいました。おとななのに、いちばんむちゃくちゃなことをいっているせんせいは、ばかだなあとおもいました。

やすいはなし(ばらばらになって)

2008年05月03日 | 文化
 前回感想を書いた『タクシデルミア』に続いてハシゴしたのが『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』(@渋谷シネマライズ)。渋谷シネマライズといえば、かつて『エコール』というペドフィルまっしぐら映画を上映したことで名高い、幼児性愛にたいへん寛容な映画館である。今回の映画もダーガーの変態性を微に入り細を穿つように見せつけているのだろう、と思ったら、穏当で上品な出来の、NHKの放送にも堪えられそうな良質のドキュメンタリーで、悪趣味映画二連発のつもりがちょっと肩すかし。
 生前のダーガーを知る人々の証言を交えて構成され、彼の内面についても言及されてはいるが、どういうわけか性的な部分にはほとんど立ち入らない。フロイトばりの精神分析なんてもう流行らないのか、「ペニスの生えた幼女」という多形倒錯を読みとるのに恰好のイコンは、微笑ましいエピソード扱いであっさりと流されていたし、人体標本よろしく幼女を解体するあからさまな性的サディズムも、自分の願いを聞き入れない神への怒り・復讐という妙に高尚なまとめ方をされていた。それも間違いではないだろうけれど、その対象がなぜ幼女だったのか、生き別れの妹の存在についても語られるが、一面的でしかも気取りすぎのようで物足りない。
 ダーガーが全存在を傾注して作品を創り続けていた人であるだけに、映画の中で彼の作品について語る人々が、『タクシデルミア』のもっともらしい評論家先生に重なって見えもする。例えば、彼の家主で作品の発見者でもあるラーナー夫妻からも、かれらがダーガーの作品を保存し世に知らしめた功績は大きいとしても、やはり「創る人」と「語る人」との隔たりを感じずにはいられない。そしてそれは、この映画自体にもあてはまることだ。
 さらにこの映画の趣向の一つとして、ダーガーの絵を、たぶんCGでアニメにして動かした映像が随所に挿まれているが、これはモンティ・パイソンの切り絵アニメよりも動きが鈍いので過度の期待は禁物だ。そもそもダーガーの絵は色彩を含めた画面の構成美に特長があり、不用意に動かしたところでさして魅力が増すはずもない。かえって、元の絵に存在するデッサン力不足による歪みと描線の稚拙さのために、ぎこちなさが倍加して気色悪いことになっていた。
 むしろこの映画の見所は、ほとんど人間関係を築かずに孤立して暮らしながら、人知れず作品を創り続けていたダーガーという存在が、当時のアメリカの社会、ことに都市生活の産物だったというマクロな視点を示したことだろう。彼の人格のみならず、その作品群も、それを支えた技法もシカゴという都市を背景として成立したものとされており、件のアニメと実写映像との合成によってダーガーの描いた少女が当時の街中を徘徊する場面は、彼の妄想と外界との交差を判りやすく描き出してみせる。
 もう一つ興味深かったのは、『非現実の王国で』と題した長大な物語に、ダーガーが二種類の結末を設けたというくだり。正義の共和国が勝利するハッピーエンドと、悪の帝国が勝利するアンチハッピーエンドと。映画では、その理由は謎として観客に解釈が委ねられている。
 俺の「もっともらしい解釈」は、それは「終わらない物語」をつくるための一つの独創だったのではないか、というものだ。物語に明確な結末をつくらないためには、円環構造を用いたり、あえて尻切れにしたりといった手段を思いつくが、ダーガーは二種類の結末によって、その両極の間を揺れ動くことを望んだのかも知れない。自らが創り上げた妄想世界に永遠に生き続けるために。もちろん、単にどっちの結末がいいか決めかねただけかも知れないけれど。