仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(解剖室は空いたか)

2008年04月30日 | 文化

 渋谷のアップリンクXというミニシアターでかけていた『死化粧師オロスコ』という映画を観に行くつもりだったのに、上映期間を勘違いして見逃してしまいました。悔しさのあまり同系統の悪趣味映画『タクシデルミア』(@シアター・イメージフォーラム)を観に行くことに。
 監督はハンガリー出身のパールフィ・ジョルジという人で、映画の舞台もハンガリー。祖父・父・息子の三代がそれぞれ取り憑かれた過剰な欲望とその行き着く先を、グロテスクな幻想、ふてぶてしいユーモアで彩りつつ描く。一族にまつわる、残酷さを含んだ大法螺物語という体裁がマルケスの『百年の孤独』を思い起こさせる。解体された豚の肉塊のうえで種付けされたために豚の尻尾を備えて生まれ、蟻ではなく猫に貪られる父の造型などは、同小説の直接の影響によるものかも知れない。三世代の男たちは、ハンガリーのそれぞれの時代・社会を体現しているようであり、異常で突飛なシチュエーションでありながら、人物たちの心情は日本人にもリアルに響く。
 第二次大戦下の一兵士だった祖父は、上官に下男同然にこき使われていた。陰茎から火を噴くほどの性欲を持て余しひたすら妄想に耽っていたが、挙げ句の果て上官の妻と行為に及んでしまい、怒った上官の銃弾で頭を吹き飛ばされる。
 上官は、不倫によって産まれた赤ん坊を自分の子として育てる。堂々たる体躯とそれに見合う並はずれた食欲の持ち主となった彼は、共産主義時代のハンガリーで大食い競技の一流選手となった(この映画の世界では、架空の大食い競技がスポーツとして公認されているのだ)。国家の威信を背負い暴飲暴食と暴嘔暴吐を続けるが、ついに世界を制することはできず、道半ばで挫折する。
 彼と、同じ大食い選手の女性(もちろんかなりの肥満体、しかし笑顔が魅力的な美人)との間に生まれた息子は、両親に似つかぬやせぎすの青年となった。この息子の代で、作中の時代は現在に辿り着く。剥製師として動物の死体に囲まれて働く彼は、原始的な欲望に囚われた祖父・父と違い生命感が希薄だ。天職として自分の仕事に打ち込んではいるが、人間関係は不毛で鬱屈した日々を過ごしている。過去の栄光にしがみついているだけの無能者に成り果てながら、尊大に口喧しく息子を罵る父親は、文字どおりの重荷として彼にのしかかっていた。
 親子の諍いと息子のちょっとした不注意から父は死に(この「父の死」は、伏線がとてもわかりやすいためにあまり驚きがない)、それをきっかけに息子は自分の最後の作品に取りかかる。それは自分自身を作品にすることだった。解剖学的・即物的なあからさまさで映し出されるこの一連のシークエンスは、つくりものらしさを感じさせない精妙な美術と、ときおり挿まれる息子の恍惚と忘我の表情によって、直視に堪えないほどの生々しい痛みを催させる。神経の繊細な人ならしばらくは肉を食えなくなるだろう(特にレバ刺しとか)。
 しかし、その描写が衝撃的で凄惨なだけに、また、それまで綴られていた息子の心情に現実感があるだけに、両者の間に隔たりを感じずにはいられなかった。単調な日常から命懸けの芸術へと飛躍するまでの動機付け・説明が不足しており、素直に了解できないのである。
 「タクシデルミア=剥製術」というタイトルを付けたからには、息子が剥製作品を創り上げる場面、苦痛と死によって生命感を回復するという逆説こそ、この映画の制作者が最もやりたかったことだったのだろう。この「やりたかったこと」を性急に提示しようとするあまり前後の整合性への配慮を怠ったために、言い換えれば、一定の場面・観念に囚われすぎてそこに至るまでの道筋を整備できなかったために、この映画は最後の最後に消化不良の感を免れなかった。
 もっともこの映画は、以上のようなもっともらしい解釈をはぐらかし、立ち止まらせるしたたかさを忘れない。息子の最後の作品を発見した人物が、それについて信者?たちに解説する場面がこの映画のエピローグだが、その説明の信憑性はともかくとして、うさんくさい白装束を揃って身につけて、まがいものの神殿のような場所に集まっているかれらの俗悪な描写からは、創造された作品を批評するものへの悪意を感じる。息子と評論家との隔たりは、映画と観客との隔たりと並行しており、創造衝動というものをそう簡単に判ったようなつもりになってもらっては困るよ、という皮肉を読み取れるのだ。

やすいはなし(あっちの目こっちの目)

2008年04月10日 | 社会
 中国のチベット問題への抗議活動として、北京オリンピックの聖火リレーがヨーロッパ各地で妨害行為に遭いました。ロンドンやパリではトーチを消そうとしたり奪おうとしたりする者もいたとのこと。抗議のためにランナーに対して暴力を振るうのは行き過ぎだとは思う。しかし、中国の人権抑圧に対する反対の意志表明もさることながら、このような騒動がオリンピックそのものの権威の失墜につながればたいへん喜ばしい。俺にとってはオリンピックなんてファシズムの予行演習としか思えないので。
 各地で上記のような抗議を受けているにもかかわらず、中国政府はこれまでの方針を崩さず、チベットの最高指導者ダライ・ラマ十四世との対話を行なうつもりはないようだ。しかも、東京新聞によれば以下のようにこれまでの対チベット政策を正当化しようとしているらしい。


 共産党機関紙「人民日報」はチベット暴動の発生以降、「あなたに教える真実のチベット」と題した連載を開始。改革・開放政策でチベット自治区の経済は発展したと強調し、八日には「チベット民衆は政治的権利を享受している」と報じた。国営新華社通信も「チベットが歴史的に中国の一部だった十五の証拠」といった記事を配信し、キャンペーンを展開している。(2008年4月9日,東京新聞)

 この中国側の物言いを読んで、強烈な既視感に眩暈を催した。
「我々の統治によって被支配地の経済は発展した」
「被支配地の住民は差別されていない」
「被支配地はもともと我々の領土だった」
 どこかの国の人々が、かつての植民地について言っている(いた)ことそのままだ。侵略者が自己を正当化しようとするときの常套句ということだろうか。

やすいはなし(No Woman)

2008年04月08日 | 文化
 4月5日の某新聞朝刊に、坂東眞理子著『女性の品格』(PHP新書)の全面広告が掲載されておりました。言わずと知れたベストセラーではありますが、俺は読んでおりません。で、その広告には女優の山本陽子さんの顔写真とともに、「春の品格」と題された毛筆の一文が印刷されていました。
 春という新たな始まりの季節を迎える女性たちに、『女性の品格』を読んで「品格」を身につけようと勧める文章で、署名があるので山本さんの直筆であると判ります。そのように述べるからには、山本さんも同書の愛読者で、自身の品格を高めるべく日々研鑽しているに違いない。いわば、『女性の品格』の趣旨を体現している存在が「女優 山本陽子」ということであり、であるからこそ、わざわざ広告に起用されたのでありましょう。
 しかし、そこにはたいへんな落とし穴がありました。この新聞広告の最大の欠陥であり、かつ誰にでも一目瞭然の大失態とは。
それは、彼女の字が上手くも何ともないってことです(上掲写真参照)。
 精一杯きれいに見せようと努力しているようだけれど、如何せん気の毒なくらいへったくそなの。わざわざ毛筆で書いたはいいが、筆の運び方の基本がまるでなっていないので、見続けているとイラッとする。流麗とか高雅とか端正という言葉とは程遠く、鑑賞に堪える趣きや独特の面白みを伝えるものでもない、贔屓目に見ても、ちょっとしっかりした小学生が書いたぐらいのあか抜けない、要するに品格のない文字。
 いや、字が汚くったって精神的には品格のある人もいるでしょう。もしかしたら、「悪筆でも心のこもった手書きの文章がいい」というような教えが『女性の品格』の中に書いてあるのかも知れない。でも、これは広告なんだから、誰もが息を呑むような達筆の女性を連れてきて文章を書かせ、それを印刷して人々に訴えるべきではないだろうか。『女性の品格』を読んだ女性は、字まで美しくなるのかと錯覚させるぐらいに。
 しかし実際には、失笑を誘うような悪筆をわざわざ持ってきて広告の説得力を大幅に減じてしまった。同書の神通力も、女優の書く文字を改めさせるには至らないことを人々に見せつけてしまったのだ。そもそも、まともな審美眼と羞恥心を持ち合わせた人間ならば、こんな文字を全国紙に載せて衆目に晒そうとは思わないはずであり、もっとふさわしい文字で心に響く広告を尽力の末に作り上げたはずだ。それができなかったということは、この広告の制作者がまったく品格に欠けていることを意味する。よりにもよって品格を論じた書物の広告で、品格の欠如を露呈させてしまうとは、何という尻の抜けた話であろう。
 まさか、この広告の制作者は全員男性で、自分には品格なんて必要ないと思っているわけではあるまいな。『女性の品格』を読んでいないからはっきりとは判らないが、同書は、そんな男にとってだけ都合のいいメッセージを発しているのだろうか。そんな書物がベストセラーになるとは信じたくないが。