仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(奇妙奇天烈)

2009年01月21日 | 文化
 小ネタです。
 1月17日の朝日新聞に、軍事クーデターによって失脚したタイのタクシン元首相の会見記事が載っていた。その主なやりとりのうち「政治家になったことを後悔するか」という問いに対して彼はこう言ったという。
「その通り。財産も失った。前世の業かもしれない。私がのび太だったらドラえもんにやらせる仕事だった。」
 何だ、この答え。なぜそこで『ドラえもん』が出てくるか。日本の新聞社が相手だからサービスをしてみたのか。それとも、タイではポピュラーな言い回しなのか。あるいは単に『ドラえもん』が好きなだけか。
 国を逐われた亡命の身ともなれば、弱音の一つも吐きたくなるのだろうが、それにしたってふざけた発言だ。いやしくも一国の宰相まで務めた者が、かくも破廉恥な、およそ道理の欠片もないでたらめを口にするとは。まったくもって救いようもない愚物であって、彼が失脚したのも当然のことと断ぜざるを得ない。
 よりにもよって「ドラえもんにやらせる」だと?莫迦も休みやすみ言うがいい。ドラえもんは道具を出すだけで、のび太の代わりに何かをするわけではない。比喩として完全に間違っているではないか。『ドラえもん』のイデーを寸毫も理解せず、誤ったイメージを流布させるとは許し難い。
 藤子プロとテレビ朝日は亡命先から彼を連行し、F先生の墓前で「きこりの泉」にたたき込むべきである。そうして「きれいなタクシン」に取り替えてやれば、タイの人々にも喜ばれるに違いない。

やすいはなし(大災難)

2009年01月10日 | 社会
 1月9日の朝日新聞「天声人語」からの孫引きですが、報道写真家である広河隆一の著書『パレスチナ』(岩波新書)に、イスラエルで開いた「安全」と題する写真展の感想ノートに「私たちが安全を考えなかったとき、誰かが私たちの体から石鹸を作ったのだ」と書かれていたというエピソードがある。
 「天声人語」はこれについて「沈痛な思いだろう」と評するが、俺は、何ら顧みる価値がない妄言だと思う。それを書いた者は、いま「石鹸を作っ」ているのが自分たちの国であるという自覚も罪の意識もないからだ。よしんばその人がホロコーストの生き残りであったとしても、パレスチナ人に対する新たな虐殺行為を正当化できるはずがない。かれらが自国を正当化するためにホロコーストを持ち出したりするのは、死者を喰い物にしてその尊厳を損なう卑劣極まりない行為である。
 パレスチナ自治区ガザにおけるイスラエル軍の、「自衛」を名目とした民間人への容赦のない攻撃に表れているように、イスラエルの人々は、自国の利益のためには他者を犠牲にすることは許されるという、ナショナリズムの醜悪さ・酷薄さを剥き出しにしている。かれらは、過去の同胞の悲惨な境遇から遠く離れようとするあまりに、かつての敵、即ちナチスに匹敵する残酷さを身につけてしまったようだ。イスラエルは議会制民主主義を取っているが、そのことは、民主主義がナショナリズムの悪性を回避・抑制できないことを示している。
 『パレスチナ』の著者である広河は、約40年前の1967年、イスラエルのキブツ・ダリヤ(社会主義的な共同体)に住んでいたとき、その周辺で廃墟を見つけた。それが強制的に移住させられたパレスチナ人の村落の跡だった事を知り、「ホロコーストを経験したユダヤ人のキブツが、パレスチナ人の村の土地に建てられている」ことに衝撃を受けたという。以来40年間、彼が撮りためた写真・映像によるパレスチナの記録は膨大なものとなった。その一部が映画『NAKBA~パレスチナ1948』(公式サイト)にまとめられ昨年公開されたが、総時間40~50時間という途轍もないボリュームのアーカイブス版(完全版)のDVDボックスが完成し、今後発売の予定という。
 映画の方は、声高にイスラエルを非難し告発しようという押しつけがましさはなく、ひたすらパレスチナに寄り添って、そこで起きたこと・起こっていることを記録し続けようという、静かだが強固な意志に裏打ちされている。その中では、イスラエルがユダヤ人国家建設の障碍となるパレスチナ人を追放したこと、その過程で意図的・組織的に民族浄化、即ち虐殺を行なったこと、そしてそれは、現在も・常に・様々な形で継続されていることが淡々と述べられていく。この映画を見ると、イスラエルにとって、侵略と虐殺がその建国の時点からの隠れた国是なのではないかと思われてくる。少なくともそのありようは、まさに「ならずもの国家」そのものだといわざるを得ない。