今回も『木綿のハンカチーフ』への悪口を書き続けます。ゴールデン・ウィークなどまるで存在しなかったかのように。ちょっとだけ出かけもしましたが、それについてはまた今度。
この曲で語られているのは、離れて暮らすようになった恋人たちが、意思のすれ違いの末に別れてしまうまでの経緯です。しかし、この二人の気持ちが離れてしまったのは、男の転居により直にコミュニケーションが取れなくなったためというよりは、男が中央=都市、女が地方=田舎に住み、都会を肯定するか否定するか、受け容れるか否かで決定的に意見・態度が食い違ったことが原因となっています。遠距離恋愛に仮託して都会に対する見解の対立を描いた曲であり、純粋な恋愛感情が中心に据えられているわけではない。登場人物が恋人同士として設定されていることは、必ずしも不可欠な要素ではないため、実はラブソングではないとさえ言えるかも知れません。例えば、これが家族や友人の関係だったとしても、「都市肯定/否定」というこの曲の社会時評的な主題は成り立つからです。
男は、どの程度の僻地かは判りませんが、田舎から「東へと」旅立ちます。この場合の「東」は方角ではなく、東京を指しているのでしょう。彼は恋人と離れることに寂しさを覚えつつも、「はなやいだ街」に憧れを持ち、そこに住むことに浮き立ってもいる。「流行の指輪」や「見間違うようなスーツ」といった都会らしい商品に簡単に心を躍らせる安っぽさ・無邪気さを彼は持っています。こうした類型的な反応から、彼が平凡でありふれた田舎者の青年であることが判る。何の面白みもない「普通」の反応を示すということは、彼が世間的にはとても「正常」な若者であることを意味しています。
この男に比べると、女の方はかなり特異な人物です。彼女は都会のすべてを嫌悪しており、男がそこへ行くことを深く懸念している。それは遠く離れてしまうからだけではなく、女にとって都会とは邪悪の世界そのもので、「都会の絵の具に染ま」ることは汚れることとしか思っていないからです。その理由は詳しく語られませんが、彼女の都会嫌悪の信念は恐ろしく揺るぎないもので、終始一貫して変わることがありません。男が得意満面に示した指輪もスーツも彼女にとっては何の価値も無いらしく、言葉は柔らかくとも真っ向から全否定されます。恋人に対してさえ一切の妥協をしないこのかたくなさは、その内容の是非善悪は別として、若い女性としては「普通ではない」言動であり、「異常」な偏向をしていることは確かです。
男は、女の危惧したとおりに都会の習俗に馴染んでいき、その様子を何のためらいもなくあからさまに女に伝えます。女がそれに対してどう感じるかはまったく考えてはいないらしい。もちろん女は男の変節ぶりを苦々しい思いで受け止め、それをまったく許容することなく、たしなめるように男の言動を否定し続ける。これほど思いの通じ合わない二人が、そもそもどうして恋人同士になれたのか不思議なほどです。
男が何かを伝えては、女がそれを拒むという不毛なやりとりの果てに、二人の関係は修復できないほどに破綻し、男の方から別れを告げます。その原因について、男が都会での生活によって変化し、女の印象が薄れたから、と男はここで自覚します。有り体に言えば、都会で暮らす楽しさに比べたら、田舎と、そこに留まっている女性がつまらなく見えるようになったからです。それほど魅力が無いのは女の責任と居直ることもできるはずですが、男は「僕を許して」と言う。自分が「変わってく」ことに責任を感じて謝ってしまうところに、男の意志薄弱なお人好しぶりがよく出ている。また、彼のそれまでの「都会化」が、確たる信念もなく目の前の楽しみに飛びついただけの無自覚なものだったことも判ります。
ここで、悲運に直面した女が意外なことを言い出す。これまでまったく物欲を見せなかった、むしろ嫌悪していた彼女が、「贈りものをねだる」のです。何かと思えば、「涙拭く木綿のハンカチーフ」が欲しいと言う。もちろん本当にそれを贈ってきて欲しいということではなく、この言葉によって彼女は、自己の意志・信念を意図的・作為的にアピールしているのです。
「涙拭く」のは、別れを悲しくは思うが、訣別を受け容れるということ。それが「木綿のハンカチーフ」という飾り気のない素朴なものであることは、男が魅入られた都会の虚飾・奢侈・享楽に自分は動かされず、あくまでも自分は己の信念を貫くのだという決意表明です。また同時に、自分が不変である以上は、恋が終わったのは変わってしまった相手の責任なのだと主張してもいます。
この「木綿のハンカチーフ」こそが彼女のアンチ都会主義者としての信念の象徴であり、彼女自身が自分に似つかわしいアイテムとしてこれを挙げていることから、このような信念を持ち、それに基づいて自己の言動を規律することについて、彼女は非常に意識的・自覚的であるということになります。わざわざこの言葉によって、別れた男に自己の信念を伝えねばならないほどに。ここで彼女は、男との恋ではなく己の信念の方を選ぶと言っているかのようです。
歌詞である以上は、レトリックが凝らされるのは当然のことです。「木綿のハンカチーフ」というキーワードが出てくるこの部分が、同曲の最大の見せ場として設定されていることを考えると、過剰なほどの技巧と意味が込められていても不思議ではない。だから、まわりくどいメタファーで意図を伝えようとしたとしても、それが発言者である女性の性格の悪さを意味するとまでは言えないかも知れません。それにしても、恋人との別れのときに、ただ悲しいと伝えたり恨み言を吐露するのではなく、都会嫌悪の信念をあらためて表明してみせることは、果たして自然な行動と言えるかどうか。これが単なるラブソングではなく、「都市肯定/否定」をテーマとした社会時評の曲として捉えるべき一つの根拠がここにあります。恋愛感情よりも社会生活上の信念の方を優先させるラブソングなんて、そもそも語義に反しているのです。
(まだしつこく続く)
この曲で語られているのは、離れて暮らすようになった恋人たちが、意思のすれ違いの末に別れてしまうまでの経緯です。しかし、この二人の気持ちが離れてしまったのは、男の転居により直にコミュニケーションが取れなくなったためというよりは、男が中央=都市、女が地方=田舎に住み、都会を肯定するか否定するか、受け容れるか否かで決定的に意見・態度が食い違ったことが原因となっています。遠距離恋愛に仮託して都会に対する見解の対立を描いた曲であり、純粋な恋愛感情が中心に据えられているわけではない。登場人物が恋人同士として設定されていることは、必ずしも不可欠な要素ではないため、実はラブソングではないとさえ言えるかも知れません。例えば、これが家族や友人の関係だったとしても、「都市肯定/否定」というこの曲の社会時評的な主題は成り立つからです。
男は、どの程度の僻地かは判りませんが、田舎から「東へと」旅立ちます。この場合の「東」は方角ではなく、東京を指しているのでしょう。彼は恋人と離れることに寂しさを覚えつつも、「はなやいだ街」に憧れを持ち、そこに住むことに浮き立ってもいる。「流行の指輪」や「見間違うようなスーツ」といった都会らしい商品に簡単に心を躍らせる安っぽさ・無邪気さを彼は持っています。こうした類型的な反応から、彼が平凡でありふれた田舎者の青年であることが判る。何の面白みもない「普通」の反応を示すということは、彼が世間的にはとても「正常」な若者であることを意味しています。
この男に比べると、女の方はかなり特異な人物です。彼女は都会のすべてを嫌悪しており、男がそこへ行くことを深く懸念している。それは遠く離れてしまうからだけではなく、女にとって都会とは邪悪の世界そのもので、「都会の絵の具に染ま」ることは汚れることとしか思っていないからです。その理由は詳しく語られませんが、彼女の都会嫌悪の信念は恐ろしく揺るぎないもので、終始一貫して変わることがありません。男が得意満面に示した指輪もスーツも彼女にとっては何の価値も無いらしく、言葉は柔らかくとも真っ向から全否定されます。恋人に対してさえ一切の妥協をしないこのかたくなさは、その内容の是非善悪は別として、若い女性としては「普通ではない」言動であり、「異常」な偏向をしていることは確かです。
男は、女の危惧したとおりに都会の習俗に馴染んでいき、その様子を何のためらいもなくあからさまに女に伝えます。女がそれに対してどう感じるかはまったく考えてはいないらしい。もちろん女は男の変節ぶりを苦々しい思いで受け止め、それをまったく許容することなく、たしなめるように男の言動を否定し続ける。これほど思いの通じ合わない二人が、そもそもどうして恋人同士になれたのか不思議なほどです。
男が何かを伝えては、女がそれを拒むという不毛なやりとりの果てに、二人の関係は修復できないほどに破綻し、男の方から別れを告げます。その原因について、男が都会での生活によって変化し、女の印象が薄れたから、と男はここで自覚します。有り体に言えば、都会で暮らす楽しさに比べたら、田舎と、そこに留まっている女性がつまらなく見えるようになったからです。それほど魅力が無いのは女の責任と居直ることもできるはずですが、男は「僕を許して」と言う。自分が「変わってく」ことに責任を感じて謝ってしまうところに、男の意志薄弱なお人好しぶりがよく出ている。また、彼のそれまでの「都会化」が、確たる信念もなく目の前の楽しみに飛びついただけの無自覚なものだったことも判ります。
ここで、悲運に直面した女が意外なことを言い出す。これまでまったく物欲を見せなかった、むしろ嫌悪していた彼女が、「贈りものをねだる」のです。何かと思えば、「涙拭く木綿のハンカチーフ」が欲しいと言う。もちろん本当にそれを贈ってきて欲しいということではなく、この言葉によって彼女は、自己の意志・信念を意図的・作為的にアピールしているのです。
「涙拭く」のは、別れを悲しくは思うが、訣別を受け容れるということ。それが「木綿のハンカチーフ」という飾り気のない素朴なものであることは、男が魅入られた都会の虚飾・奢侈・享楽に自分は動かされず、あくまでも自分は己の信念を貫くのだという決意表明です。また同時に、自分が不変である以上は、恋が終わったのは変わってしまった相手の責任なのだと主張してもいます。
この「木綿のハンカチーフ」こそが彼女のアンチ都会主義者としての信念の象徴であり、彼女自身が自分に似つかわしいアイテムとしてこれを挙げていることから、このような信念を持ち、それに基づいて自己の言動を規律することについて、彼女は非常に意識的・自覚的であるということになります。わざわざこの言葉によって、別れた男に自己の信念を伝えねばならないほどに。ここで彼女は、男との恋ではなく己の信念の方を選ぶと言っているかのようです。
歌詞である以上は、レトリックが凝らされるのは当然のことです。「木綿のハンカチーフ」というキーワードが出てくるこの部分が、同曲の最大の見せ場として設定されていることを考えると、過剰なほどの技巧と意味が込められていても不思議ではない。だから、まわりくどいメタファーで意図を伝えようとしたとしても、それが発言者である女性の性格の悪さを意味するとまでは言えないかも知れません。それにしても、恋人との別れのときに、ただ悲しいと伝えたり恨み言を吐露するのではなく、都会嫌悪の信念をあらためて表明してみせることは、果たして自然な行動と言えるかどうか。これが単なるラブソングではなく、「都市肯定/否定」をテーマとした社会時評の曲として捉えるべき一つの根拠がここにあります。恋愛感情よりも社会生活上の信念の方を優先させるラブソングなんて、そもそも語義に反しているのです。
(まだしつこく続く)