仮名日記

ネタと雑感

木綿100パーセント(その3)

2006年05月24日 | 文化
 今回も『木綿のハンカチーフ』への悪口を書き続けます。ゴールデン・ウィークなどまるで存在しなかったかのように。ちょっとだけ出かけもしましたが、それについてはまた今度。
 この曲で語られているのは、離れて暮らすようになった恋人たちが、意思のすれ違いの末に別れてしまうまでの経緯です。しかし、この二人の気持ちが離れてしまったのは、男の転居により直にコミュニケーションが取れなくなったためというよりは、男が中央=都市、女が地方=田舎に住み、都会を肯定するか否定するか、受け容れるか否かで決定的に意見・態度が食い違ったことが原因となっています。遠距離恋愛に仮託して都会に対する見解の対立を描いた曲であり、純粋な恋愛感情が中心に据えられているわけではない。登場人物が恋人同士として設定されていることは、必ずしも不可欠な要素ではないため、実はラブソングではないとさえ言えるかも知れません。例えば、これが家族や友人の関係だったとしても、「都市肯定/否定」というこの曲の社会時評的な主題は成り立つからです。

 男は、どの程度の僻地かは判りませんが、田舎から「東へと」旅立ちます。この場合の「東」は方角ではなく、東京を指しているのでしょう。彼は恋人と離れることに寂しさを覚えつつも、「はなやいだ街」に憧れを持ち、そこに住むことに浮き立ってもいる。「流行の指輪」や「見間違うようなスーツ」といった都会らしい商品に簡単に心を躍らせる安っぽさ・無邪気さを彼は持っています。こうした類型的な反応から、彼が平凡でありふれた田舎者の青年であることが判る。何の面白みもない「普通」の反応を示すということは、彼が世間的にはとても「正常」な若者であることを意味しています。
 この男に比べると、女の方はかなり特異な人物です。彼女は都会のすべてを嫌悪しており、男がそこへ行くことを深く懸念している。それは遠く離れてしまうからだけではなく、女にとって都会とは邪悪の世界そのもので、「都会の絵の具に染ま」ることは汚れることとしか思っていないからです。その理由は詳しく語られませんが、彼女の都会嫌悪の信念は恐ろしく揺るぎないもので、終始一貫して変わることがありません。男が得意満面に示した指輪もスーツも彼女にとっては何の価値も無いらしく、言葉は柔らかくとも真っ向から全否定されます。恋人に対してさえ一切の妥協をしないこのかたくなさは、その内容の是非善悪は別として、若い女性としては「普通ではない」言動であり、「異常」な偏向をしていることは確かです。
 男は、女の危惧したとおりに都会の習俗に馴染んでいき、その様子を何のためらいもなくあからさまに女に伝えます。女がそれに対してどう感じるかはまったく考えてはいないらしい。もちろん女は男の変節ぶりを苦々しい思いで受け止め、それをまったく許容することなく、たしなめるように男の言動を否定し続ける。これほど思いの通じ合わない二人が、そもそもどうして恋人同士になれたのか不思議なほどです。
 男が何かを伝えては、女がそれを拒むという不毛なやりとりの果てに、二人の関係は修復できないほどに破綻し、男の方から別れを告げます。その原因について、男が都会での生活によって変化し、女の印象が薄れたから、と男はここで自覚します。有り体に言えば、都会で暮らす楽しさに比べたら、田舎と、そこに留まっている女性がつまらなく見えるようになったからです。それほど魅力が無いのは女の責任と居直ることもできるはずですが、男は「僕を許して」と言う。自分が「変わってく」ことに責任を感じて謝ってしまうところに、男の意志薄弱なお人好しぶりがよく出ている。また、彼のそれまでの「都会化」が、確たる信念もなく目の前の楽しみに飛びついただけの無自覚なものだったことも判ります。
 ここで、悲運に直面した女が意外なことを言い出す。これまでまったく物欲を見せなかった、むしろ嫌悪していた彼女が、「贈りものをねだる」のです。何かと思えば、「涙拭く木綿のハンカチーフ」が欲しいと言う。もちろん本当にそれを贈ってきて欲しいということではなく、この言葉によって彼女は、自己の意志・信念を意図的・作為的にアピールしているのです。
 「涙拭く」のは、別れを悲しくは思うが、訣別を受け容れるということ。それが「木綿のハンカチーフ」という飾り気のない素朴なものであることは、男が魅入られた都会の虚飾・奢侈・享楽に自分は動かされず、あくまでも自分は己の信念を貫くのだという決意表明です。また同時に、自分が不変である以上は、恋が終わったのは変わってしまった相手の責任なのだと主張してもいます。
 この「木綿のハンカチーフ」こそが彼女のアンチ都会主義者としての信念の象徴であり、彼女自身が自分に似つかわしいアイテムとしてこれを挙げていることから、このような信念を持ち、それに基づいて自己の言動を規律することについて、彼女は非常に意識的・自覚的であるということになります。わざわざこの言葉によって、別れた男に自己の信念を伝えねばならないほどに。ここで彼女は、男との恋ではなく己の信念の方を選ぶと言っているかのようです。
 歌詞である以上は、レトリックが凝らされるのは当然のことです。「木綿のハンカチーフ」というキーワードが出てくるこの部分が、同曲の最大の見せ場として設定されていることを考えると、過剰なほどの技巧と意味が込められていても不思議ではない。だから、まわりくどいメタファーで意図を伝えようとしたとしても、それが発言者である女性の性格の悪さを意味するとまでは言えないかも知れません。それにしても、恋人との別れのときに、ただ悲しいと伝えたり恨み言を吐露するのではなく、都会嫌悪の信念をあらためて表明してみせることは、果たして自然な行動と言えるかどうか。これが単なるラブソングではなく、「都市肯定/否定」をテーマとした社会時評の曲として捉えるべき一つの根拠がここにあります。恋愛感情よりも社会生活上の信念の方を優先させるラブソングなんて、そもそも語義に反しているのです。
(まだしつこく続く)

木綿100パーセント(その2)

2006年05月01日 | 文化
 公私ともに少々忙しかったため、「その1」からちょっと間が空いてしまいました。まあ、私用というのはこれだけどな。システムの面で物足りないところは多々あれども、ストーリーの荒唐無稽ぶりが楽しい作品でした。『帝都物語』-「平将門」+『海底軍艦』+「変形巨大ロボ」という感じ。
 今回も引き続き、
『木綿のハンカチーフ』(音注意)について。前回は何が引き金になったのか、完全に取り乱してしまいましたが、今回は冷静に考えてみます。
 
 『木綿のハンカチーフ』の最大の特色は、男性と女性が交互に語る形式が取られていることでしょう。全部で4番までありますが、前半は男、後半は女という順番が守られており、全コーラスに亘って男女それぞれの語りの分量は一定になっている。単調と言いたくなるほどに確固とした構成で、変則的・過剰な箇所がまったくありません。
 この曲には他にも決まり事が設けられており、男側は出だしで「恋人よ」と語りかけ、これに対して女はまず「いいえ」と受ける。男女それぞれの語りの最後では、「探す 探す」「君に 君に」「染まらないで帰って 染まらないで帰って」「からだに気をつけてね からだに気をつけてね」等、必ず言葉の繰り返しがあります。
 これらの一種の定型は、歌の中で語られている意味内容と密接につながっており、聴き手への理解を助け、印象を強めるべく機能しています。
 まず、出だしの決まり文句と終わりの繰り返しによって、男女それぞれの語る部分に区切りが設けられる。同じ作りが2番以降も続くため、聴き手はこの区切りを意識することで、語り手がどちらであるか、すぐに理解できるようになっています。
 さらに、「恋人よ」というはじまりにより、男の語りでは女への提案・呼びかけが行なわれること、その後に続く女の「いいえ」という明確な否定の言葉によって、女の語りは、それに対する批判・反駁であることが認識でき、歌詞の意味内容に対する理解が助けられる。また、その構成が繰り返されるということは、この曲全体が、男女二人の考え方の食い違い・対立を語っていることを示しています。
 そして、この食い違い・対立が繰り返され積み重なっていく様子を聴き手が見て取ることで、二人の破局は必然的なものであると感じられるようになる。このことは、物語としての整合感・調整感を高める効果を持ちます。
 この曲は、各コーラスで異なるエピソードを叙述してイメージをふくらませ、男女が離れて暮らすようになってから、恋が終わるまでの物語を完結させています。この内容を過不足なく伝えるためには、単に印象的で刺激の強い言葉・フレーズを繰り返すだけの漠然とした歌詞では充分ではない。しかし、説明的に過ぎる言葉は文章の朗読と変わりが無く、歌として聴かれる際の印象を弱めることにつながります。この物語性と歌謡性との矛盾を解決するために、言葉の最小限の繰り返しを効果的に配しつつ、男女が交互に語る構成を積み重ねる定型が要請されたと言えるでしょう。

 この曲の巧緻さは、自ら定型を設けて活用したことだけではありません。終結部では、この定型を破ることさえも、逸脱ではなく効果として成立させています。
 4番の末尾に至って、男から別れを告げられた女は、それまでの「いいえ」ではなく「あなた」と相手に呼びかけ、その直後に、一見して彼女にふさわしくない言葉が続きます。男からの贈り物のような都会的習俗を拒否・否定していた女が「贈りものをねだる」と言い出す。今までとは様子が違う、と聴き手の注意を惹きつけた後で、「涙拭く木綿のハンカチーフ下さい」と女は続けます。後で詳しく書きますが、それが実に彼女らしい物言いであるため、鮮やかな謎解きのように聴き手の腑に落ち、「そういうことだったのね」と納得して聴き終えることができるようになっている。またこの箇所は、曲タイトルが最初で最後に現れ、その言葉に込められた意味が開示されるという、もう一つの謎解きとしても働いています。
 こうしてこの曲は、物語・修辞の両面で、提示した疑問・課題のほとんどに収拾をつけ、完成された結末へと聴き手を導いていく。逆に言えば、聴き始めたら最後まで聴かないと収まりがつかない。前回 口汚く罵ったとおり、ものすごく不愉快な内容とは思うけれど、実に巧妙で、よくできた曲と言わねばなりません。技巧の面で優れていることが、かえってタチが悪くてむかつくとも言えますが。
(続く)