『大東亜戦争小謡集』の発行は戦前のことですが、発行所のわんや書店は能楽専門の出版社として現在も存続しています。
わんや書店
替え歌作品を募集していた雑誌「宝生」も健在の様子。しかし、残念ながら『小謡集』の方は現在出版していないようです。戦後60年記念とか言って再版したらいいのに。
戦前のわんや書店は、戦争ネタの替えうた謡曲というアイディアにかなり力を入れていたらしく、『大東亜~』に先行して、日中戦争に材を採った『支那事変小謡集』を出版したと同書の「序」に書いてありました。気になるのでその本をときどき探したりしますが、未だに見つけることができません。
しかし、『本の雑誌』1999年5月号で、作家で古書収集家の北原尚彦氏がその内容を紹介しているのを見つけました。それによると、『支那事変小謡集』の発行は昭和12年11月20日。日中戦争の発端である廬溝橋事件が起こったのが同年7月7日だから、「なかなか機を見るに敏な刊行である」と北原氏は書いています。
掲載作品の引用を見る限り、姉妹編である『大東亜~』と同様の勇ましさで貫かれていたようです。
「あれご覧ぜよ揚子江に武備整うる皇軍のえいやえいやと攻め来るぞや」(海の荒鷲)
「汝亜細亜に住みながら侮日抗日その天罰の矢玉にあたって」(北支戦線)
といった調子。
その発行の趣旨は、日中戦争を直接 題材にした謡曲を作り、戦陣や銃後の士気を鼓舞するのに役立てることを目論んだものであるらしい。士気発揚というやや具体的な効果を狙っており、戦争を後方から支援するといったトーンが感じられる。これが『大東亜~』ではどうなったか。再び同書の序文を引用すると「われ等の感激と覚悟とを謡曲によって高らかに唱ってみたい」とあり、この戦争は「われ等の」ものという意識が前面に出ています。
この変化は、出版者側がマンネリを避けるためもあったかも知れないが、戦争に対する国民の支持・賛同の度合いが強まったことを示しているのではないか。その理由を『大東亜~』から推測するかぎりでは、日本に立ちはだかってきた米英に勝利を続けた痛快さや、南方の資源という経済的な利益に対する期待感、それに加えて大東亜共栄圏という大義が国民の心を捉えていたことが考えられます。もちろん、『小謡集』の作者たちのように熱心な人ばかりではなかったでしょうが、国民の側に、こうして戦争を肯定し受け容れる素地があったからこそ、戦争は始められ、続行されたのでしょう。
しかし、『支那』から『大東亜』に至る道は、自力では覆しようもない決定的な破滅へとつながっていました。緒戦でいくら勝ち続けても、依然として彼我の国力の差は歴然としていたし、きらびやかな大義も結局は役に立たなかった。意図的に追い込まれた側面もあるでしょうが、それにしても軽率で賭博的な政策・戦略を続けてしまったのではないか。それまで帝国主義のルールのなかでゲームを続けていながら、なぜこの結果を予測も回避もできなかったのだろう。
その有様を例えて言えば、パチンコの負けを取り返そうとして、自分の実力もわきまえずに賭け麻雀に手を出し、結局はカモにされて身ぐるみ剥がされたダメ人間のようなものです。「その1」に続いて司馬遼太郎先生の言葉を借りるなら、「じつにばかな人達が日本を運営してきた」のだから、こうした結果になるのも当然なのでしょう。そして、いかに情報が限られていたにせよ、このばかばかしさに気付くこともなく、むしろ支持・賛同してしまった人々を、単に巻き込まれただけとして片付けるのが妥当だとは思えません。
そして現代の我々も、二度と同じ轍を踏まないために「ばかな人達」とはきれいさっぱりサヨナラした方がいいと思う。かれらの同類でいいと言うなら、しょうがないけれど。
今回で、「戦後60年~あの夏を忘れない」というテーマは終わりになります。誰も憶えている人はいないでしょうが、そういうテーマで続けていたのですよ。やってみたら妙に疲れただけでしたが。
わんや書店
替え歌作品を募集していた雑誌「宝生」も健在の様子。しかし、残念ながら『小謡集』の方は現在出版していないようです。戦後60年記念とか言って再版したらいいのに。
戦前のわんや書店は、戦争ネタの替えうた謡曲というアイディアにかなり力を入れていたらしく、『大東亜~』に先行して、日中戦争に材を採った『支那事変小謡集』を出版したと同書の「序」に書いてありました。気になるのでその本をときどき探したりしますが、未だに見つけることができません。
しかし、『本の雑誌』1999年5月号で、作家で古書収集家の北原尚彦氏がその内容を紹介しているのを見つけました。それによると、『支那事変小謡集』の発行は昭和12年11月20日。日中戦争の発端である廬溝橋事件が起こったのが同年7月7日だから、「なかなか機を見るに敏な刊行である」と北原氏は書いています。
掲載作品の引用を見る限り、姉妹編である『大東亜~』と同様の勇ましさで貫かれていたようです。
「あれご覧ぜよ揚子江に武備整うる皇軍のえいやえいやと攻め来るぞや」(海の荒鷲)
「汝亜細亜に住みながら侮日抗日その天罰の矢玉にあたって」(北支戦線)
といった調子。
その発行の趣旨は、日中戦争を直接 題材にした謡曲を作り、戦陣や銃後の士気を鼓舞するのに役立てることを目論んだものであるらしい。士気発揚というやや具体的な効果を狙っており、戦争を後方から支援するといったトーンが感じられる。これが『大東亜~』ではどうなったか。再び同書の序文を引用すると「われ等の感激と覚悟とを謡曲によって高らかに唱ってみたい」とあり、この戦争は「われ等の」ものという意識が前面に出ています。
この変化は、出版者側がマンネリを避けるためもあったかも知れないが、戦争に対する国民の支持・賛同の度合いが強まったことを示しているのではないか。その理由を『大東亜~』から推測するかぎりでは、日本に立ちはだかってきた米英に勝利を続けた痛快さや、南方の資源という経済的な利益に対する期待感、それに加えて大東亜共栄圏という大義が国民の心を捉えていたことが考えられます。もちろん、『小謡集』の作者たちのように熱心な人ばかりではなかったでしょうが、国民の側に、こうして戦争を肯定し受け容れる素地があったからこそ、戦争は始められ、続行されたのでしょう。
しかし、『支那』から『大東亜』に至る道は、自力では覆しようもない決定的な破滅へとつながっていました。緒戦でいくら勝ち続けても、依然として彼我の国力の差は歴然としていたし、きらびやかな大義も結局は役に立たなかった。意図的に追い込まれた側面もあるでしょうが、それにしても軽率で賭博的な政策・戦略を続けてしまったのではないか。それまで帝国主義のルールのなかでゲームを続けていながら、なぜこの結果を予測も回避もできなかったのだろう。
その有様を例えて言えば、パチンコの負けを取り返そうとして、自分の実力もわきまえずに賭け麻雀に手を出し、結局はカモにされて身ぐるみ剥がされたダメ人間のようなものです。「その1」に続いて司馬遼太郎先生の言葉を借りるなら、「じつにばかな人達が日本を運営してきた」のだから、こうした結果になるのも当然なのでしょう。そして、いかに情報が限られていたにせよ、このばかばかしさに気付くこともなく、むしろ支持・賛同してしまった人々を、単に巻き込まれただけとして片付けるのが妥当だとは思えません。
そして現代の我々も、二度と同じ轍を踏まないために「ばかな人達」とはきれいさっぱりサヨナラした方がいいと思う。かれらの同類でいいと言うなら、しょうがないけれど。
今回で、「戦後60年~あの夏を忘れない」というテーマは終わりになります。誰も憶えている人はいないでしょうが、そういうテーマで続けていたのですよ。やってみたら妙に疲れただけでしたが。