仮名日記

ネタと雑感

爆心地で大騒ぎ(その3)

2005年11月12日 | 文化
 『大東亜戦争小謡集』の発行は戦前のことですが、発行所のわんや書店は能楽専門の出版社として現在も存続しています。

わんや書店

 替え歌作品を募集していた雑誌「宝生」も健在の様子。しかし、残念ながら『小謡集』の方は現在出版していないようです。戦後60年記念とか言って再版したらいいのに。

 戦前のわんや書店は、戦争ネタの替えうた謡曲というアイディアにかなり力を入れていたらしく、『大東亜~』に先行して、日中戦争に材を採った『支那事変小謡集』を出版したと同書の「序」に書いてありました。気になるのでその本をときどき探したりしますが、未だに見つけることができません。
 しかし、『本の雑誌』1999年5月号で、作家で古書収集家の北原尚彦氏がその内容を紹介しているのを見つけました。それによると、『支那事変小謡集』の発行は昭和12年11月20日。日中戦争の発端である廬溝橋事件が起こったのが同年7月7日だから、「なかなか機を見るに敏な刊行である」と北原氏は書いています。
 掲載作品の引用を見る限り、姉妹編である『大東亜~』と同様の勇ましさで貫かれていたようです。
「あれご覧ぜよ揚子江に武備整うる皇軍のえいやえいやと攻め来るぞや」(海の荒鷲)
「汝亜細亜に住みながら侮日抗日その天罰の矢玉にあたって」(北支戦線)
といった調子。
 その発行の趣旨は、日中戦争を直接 題材にした謡曲を作り、戦陣や銃後の士気を鼓舞するのに役立てることを目論んだものであるらしい。士気発揚というやや具体的な効果を狙っており、戦争を後方から支援するといったトーンが感じられる。これが『大東亜~』ではどうなったか。再び同書の序文を引用すると「われ等の感激と覚悟とを謡曲によって高らかに唱ってみたい」とあり、この戦争は「われ等の」ものという意識が前面に出ています。
 この変化は、出版者側がマンネリを避けるためもあったかも知れないが、戦争に対する国民の支持・賛同の度合いが強まったことを示しているのではないか。その理由を『大東亜~』から推測するかぎりでは、日本に立ちはだかってきた米英に勝利を続けた痛快さや、南方の資源という経済的な利益に対する期待感、それに加えて大東亜共栄圏という大義が国民の心を捉えていたことが考えられます。もちろん、『小謡集』の作者たちのように熱心な人ばかりではなかったでしょうが、国民の側に、こうして戦争を肯定し受け容れる素地があったからこそ、戦争は始められ、続行されたのでしょう。
 しかし、『支那』から『大東亜』に至る道は、自力では覆しようもない決定的な破滅へとつながっていました。緒戦でいくら勝ち続けても、依然として彼我の国力の差は歴然としていたし、きらびやかな大義も結局は役に立たなかった。意図的に追い込まれた側面もあるでしょうが、それにしても軽率で賭博的な政策・戦略を続けてしまったのではないか。それまで帝国主義のルールのなかでゲームを続けていながら、なぜこの結果を予測も回避もできなかったのだろう。
 その有様を例えて言えば、パチンコの負けを取り返そうとして、自分の実力もわきまえずに賭け麻雀に手を出し、結局はカモにされて身ぐるみ剥がされたダメ人間のようなものです。「その1」に続いて司馬遼太郎先生の言葉を借りるなら、「じつにばかな人達が日本を運営してきた」のだから、こうした結果になるのも当然なのでしょう。そして、いかに情報が限られていたにせよ、このばかばかしさに気付くこともなく、むしろ支持・賛同してしまった人々を、単に巻き込まれただけとして片付けるのが妥当だとは思えません。
 そして現代の我々も、二度と同じ轍を踏まないために「ばかな人達」とはきれいさっぱりサヨナラした方がいいと思う。かれらの同類でいいと言うなら、しょうがないけれど。

 今回で、「戦後60年~あの夏を忘れない」というテーマは終わりになります。誰も憶えている人はいないでしょうが、そういうテーマで続けていたのですよ。やってみたら妙に疲れただけでしたが。

爆心地で大騒ぎ(その2)

2005年11月06日 | 文化
 仙台市若林区には[ろりぽっぷ保育園]と[ろりぽっぷ幼稚園]という名前の保育施設があるそうです。仙台の人は清らかな心の持ち主ばかりなのだと感心する。よからぬ連想をするのは魂が穢れている証拠です。

 話変わって、「その1」で予告したとおり、今回は『大東亜戦争小謡集』の内容をご紹介。実物には、漢文の訓点のような記号が本文の横に書き加えられており、これが唱法を表しているらしい。しかし、俺にはまったく意味が判らないうえ再現が困難なので省略します。謡曲ファンの方々ごめんなさい。
 太平洋戦争が主題であるからには、幕開けを飾るのはもちろん真珠湾攻撃。
「高鳴るやこの朝明けに聞くラジオ、この朝明けに聞くラジオ、月も師走の八日の日、真珠の海の嶋陰や、遠く馬来におし寄せて、はや米英をうちにけり早米英をうちにけり」(十二月八日)。
これの原曲は「高砂」。かつては婚礼の席などでよく唱われた曲と言われれば、何となく想像がつくが、その調子にこの文句を乗っけるとなると、相当珍妙なものになりそうです。作った本人は大真面目なんだろうけれど。
 真珠湾ネタでもう一作。
「軍港を見れば嬉しやな、太平洋の艦隊は、オクラホマ・アリゾナ・メリイランドやバアジニア(略)亜米利加の本国に、ハルこそ誇らんルーズベルトも傲るらん、さるにても此朝は、萎れ果てなん哀れさよ(略)捷ちたる戦果を無電して、我艇と共々水漬く屍と自爆の用意ぞととのえける」(特別攻撃隊)
おいおい、もう特攻か。余力ゼロか、キミらは(実際には、真珠湾に侵入した潜航艇は戦果を上げる前に撃沈されたらしい)。
 ともあれ、緒戦は日本軍が連戦連勝して優勢に立っていました。
「悪逆を重ねし敵も、皇威を背く天罰にて、皇軍攻むれば忽ち亡び失するぞかし(略)即ち搾取の張本人の、敵は亡びにけりこれ、大君のご威光なり」(敵前上陸)
「日の丸高く照りはえて、一宇にかえる亜細亜の之ぞ稜威の、光なり之ぞ稜威の光なり」(落下傘部隊)
 男たちが兵士として、
「君にささぐるますらおの、いで立つ時は、家も思わず御楯となりて」(出征壮行)
「うけ継ぎし、よろず代までのやまとだましい、たたかい勝たで、生きては帰らじ」(出征壮行)
と戦場に赴けば、悲しいけどこれ戦争なので死ぬこともあります。遺された子供たちは靖国神社に詣で、
「父も今こそ護国の神、われは栄えある神の子ぞ」(靖国の遺児)
「神鎮まれる父上に、お逢い申せば心解けかねがねの想いを晴らしける」(靖国遺児)
と感慨に浸る。そしてその母親は、
「わすれがたみの男の子等もまた国のためにささげんや」(遺族)
と物騒な決意をします(遊就館の前に『母の像』という、遺児三人を連れた母親の銅像がある。彼女の心中がこんな風だとしたら慄然とする)。
 戦勝に沸く国民は、敵国とその指導者たちを罵倒して悦に入ります。
「チャーチルは夢さめて、緒戦の惨敗の、知らせも忽ちに唯茫然と、ちから抜けて(略)ルーズベルト驕るこそ、わが為にはさいわいなり(略)自業自得や米英の、没落ぞと悟らせて、望み叶えし東亜かな」(米英後悔)。
「げにこれも蒋の夢(略)迷夢覚めざる介石の身の果ていかになるやらん」(蒋介石)。
 この戦争の目的として掲げられていたのが大東亜共栄圏の理念であり、
「イギリス人こそ追払え、友はアジアなれ、疾く共栄に加盟せよ、さのみなら独立の良き時こそは来たらん」(印度独立)
とインド国民に呼びかけたり、
「共に栄ゆる民のちかい、手を組み合いてアジア民族、世界のひがしに栄ゆらん」(大東亜共栄圏)
この辺はまあいいとして、
「お互不自由耐え忍べば皇化は遍し辺土蛮界げに誉あり」(大東亜共栄圏)
「稜威の下にうち靡き皆も同じ大東亜、互いの為の共栄圏、覇を駆りし米英いまアジアよりは消え失せて、唯頼め頼もしき国の父の大日本」(大東亜共栄圏)
「主は昔の住民なれども朝日の旗はいまここに(略)いまとても里人は、昔に変わる日の本にすでに馴れぬる心かな」(南方楽土)
となると帝国主義が顔を出す。そもそも、「共栄」といいながらその実態は日本による南方の権益・資源確保であったため、
「資源幾万国土豊饒、七宝充満の宝もみのり」(大東亜共栄圏)
「共栄の国々資源は多けれども、取り分き望みは末かけて開発無限のスマトラやビルマやジャワやフィリッピン」(南方楽土)
と下心を覗かせもします。やたら「共に栄えよう」と強調するのも、資源目当ての後ろめたさ・やましさを取り繕うためのように思えてならない。嬉しさのあまり妙なテンションになっているのもあり、
「地下の資源は金銀の、銅鉄アルミ錫鉛、石炭石油やボウキサイト」(南方資源)
うむ、『ゴジラ対へドラ』か。あやうく「水銀・コバルト・カドミウム~」と歌い出しそうになります。
 戦時下にあって国民生活も変わっていき、ゾルゲ事件などの影響か、
「油断はあらじ口と筆、敵の謀略の魔の眼玉、光るは物の暗きかげ」(防諜)
はずむ話で軍機が漏れたら大変だからね。また隣組制度によって、
「空襲は告げんといいし隣組、使は来たり水に砂むしろはよきか火たたきは」(隣組防空)
と、空襲への備えも始まっていたようです。まことに涙ぐましいのは
「かほどの薄給なりしだに、月にはいくらかゆとりあり(略)月給の時には天引貯金内職は其儘貯金にくり入れ銃後の道の貯金帳、(略)はや買うたりや国のために、貯蓄報国、債券を」(貯蓄)
戦争を続けるのも大変だ。というか、この調子で日本は何年保つのかと疑問に思うべきだったのかも。

 最後はやや貧乏くさくなりましたが、『小謡集』の全編には、意気軒昂にして気宇壮大な高揚感が漲っており(その自己陶酔気味な調子の高さが空転して、おかしみを誘いもしますが)、この戦争によって日本は、アジアの解放者にして盟主という名誉ある地位を確立し、政治・経済・軍事において世界に冠たる超大国へと変貌を遂げるのだ、と国民も信じて歓喜・熱狂していたことが看て取れます。その姿は、単純素朴なナショナリズムの成せる業であり、戦争に勝つことがいかに快楽的で人間を酔わせるかを示すものでもある。しかし、こうして国民が無邪気に浮かれ弾んでいるあいだに、すでに日本軍は勝敗の岐路を過ぎて敗勢へと転じていたのです。
 『小謡集』の発行は昭和18年6月30日。昭和17年6月のミッドウェー海戦で日本軍はアメリカ軍に敗北して制海権・制空権を失い、昭和18年2月にはガダルカナル島から敗退していました。編集から発行までのタイムラグがあるとしても、各作品の誇らしげな雄壮さは戦争の実情から甚だしく乖離しています。当時の国民には、戦況を判断できるだけの情報が与えられていなかったためかも知れないが、戦争には負けることもあること、そして、戦争では敵も味方も、兵士も民間人も酷たらしく死ぬということに思い至るだけの想像力が、かれらに欠けていたことは確かです。
 国民が勝利・栄光を信じてあられもなくはしゃいでいる一方で、祖国は暗い破滅の淵へと着々と歩み寄っていく。その対照的な構図は滑稽でもあり悲惨でもあります。その後 戦況がますます悪化し、おびただしい被害・犠牲を出したのち、ついには敗戦に至る過程において、天下国家を勇ましく謳い上げていた『小謡集』の作者たちは何を思ったか。兵士となり勝ち目の無い戦闘に加わった人もいただろうし、本土空襲によって焦土と化した町を逃げまどったり、戦争直後の窮乏のなか空腹に喘ぎ苦しんだりもしたでしょう。傷を負い、家や財産を失っただけでなく、親しい人々を亡くした者も、自らの命を落とした人もいたかも知れない。その辛酸・苦渋に満ちた体験から生まれる絶望・悲嘆・悔恨・怨嗟等々の感情は、烈々たる忠君愛国の志にも勝る詩作の源泉となり得たはずです。おそらく作られてはいないでしょうが、もしも敗戦を題材にして『大日本敗亡小謡集』が編まれていたならば、前作よりも心を打つ傑作になっていたかも知れません。