仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(フェイク)

2008年07月02日 | 社会
 もはや何が始まりだったのか、いったい今までに何件あったのか思い出せないほど、次から次へと原材料やら産地やら加工日やらの食品偽装の問題が報じられる。
 既にウナギの産地偽装に関心が移りつつあるようだが(この問題で話題に上っている水産会社のインチキ社長の名前が「中谷彰宏」で思わず失笑)、岐阜県の食肉卸販売業[丸明]の飛騨牛偽装問題には、時間が逆戻りしたのではないかと錯覚するほどの既視感に襲われた。ぬけぬけとした偽装をし、発覚したらしたで社長は従業員が勝手にしたことで自分は指示していないと弁明し、マスコミに追及された末に実は自分が指示していましたと認めるという一連の経過。恰好の獲物を見つけたマスコミが、鼻息荒く社長を吊し上げて責め立てるさまも十年一日の如く変わりがないが、その自らの正義に何の疑いもない様子にはいささか違和感を覚える。
 偽装によって不正な利益を得ることは、確かに許し難い詐欺行為であり、そのことについて責任を問われることは当然だ。しかし、それが自身の指示ではないと企業のトップが弁明することは、単に保身のためとばかりはいいきれまい。なぜなら、一従業員が勝手にしたことならば、管理体制の一部の緩みとして再出発できる可能性もあるが、トップの指示による組織ぐるみの腐敗・堕落であったとしたら、その企業は倒れる虞れが高まるからだ。もしそうなれば、全従業員が職を失い路頭に迷うことになる。
 ミートホープや船場吉兆を見るがいい。トップの指示を認めたがために、廃業に追い込まれたではないか。小の虫を殺して大の虫を活かすという。企業のトップとして、従業員たちの生活を守るために、自らの責任を認めず一従業員に罪を負わせることが必要なときもあるのだ(これを成し遂げた稀有な例が、新銀行東京の問題における石原都知事である。銀行が巨額の損失を出したことについて、彼は自身の具体的な責任を最後まで認めず、見事に旧経営陣を切り捨て、銀行自体は存続させることに成功した)。
 しかし、報道に携わる人々には、社長の胸の内を察して自重するだけの品格の持ち合わせがなく、むしろ嗜虐心を剥き出しにして会社を潰しにかかる。それによって失職する人々のことなどまったく気に懸けようともしない冷酷さ・独善性には呆れるばかりだ。責任を負わされた従業員にも、社長の苦衷の真情を理解し、他の従業員たちのために自らが犠牲になろうという心の気高さがあったならば、社長の指示があったことは胸の内に秘して独り罪を背負うことだろう。日本人の魂から、そのような美しさが失われたことを嘆かずにはいられない。
 自己の責任を否定する社長の真の思いに、マスコミがいささかの惻隠の情も示さないどころか、そもそも自己保身のためと受け取ることしかできないのは、自己犠牲の精神、公に殉ずる心の価値を知らないからだろう。私利私欲を離れ天下国家に奉ずる志がなければ、目先の事柄に囚われない、将来を見とおす広い視野を持つことができないのだ。
 そのような、自己犠牲の美しさを解さず、卑しく狭量な心根ですべてを測ろうとするマスコミの姿は、戦時中の沖縄で起きた民間人の集団自決を、軍の強制とばかり決めつけるありさまを思い起こさせる。
 当時の沖縄は、軍民一体となって本土を守るための捨て石になろうとしていた。皇軍の戦いの妨げになるまい、あるいは虜囚の辱めを受けるまいとした人々は、老若男女を問わず自ら望んで従容として死へと赴いたのである。父が妻と我が子の首を切り、最後に自らも命を絶つ。何という感動的な光景だろう。ああ、もしも時を遡れるならば、私もその場に居合わせて、老いたる両親と我が善き伴侶と愛するこども達と、もろともに手榴弾で微塵となって四方に飛び散り、御国の誉れ高き礎となりたい。
 ところが、戦後民主主義などという利己心にまみれた虚妄に毒され汚れきった人々には、かつての日本人にそのような美しさ・清らかさがあったことすら理解できない。その魂の美を理解できないから、軍の強制によって死に追いやられたはずだと邪推するのだ。それが進んで自決した人々の崇高な意志への侮辱であることすら気付かずに。
 よしんば、軍の指示に基づいて死んだ者がいたとしても、そのような不名誉を暴くことに何の意味があるだろう。名誉の死、価値のある死を遂げたことにしておいた方が、死んだ当人にとっても喜ばしいことではないか。何よりも、我が国の過去の尊厳を守ることは、人々に誇りと気高さを持たせ、将来にわたって国を栄えさせることにつながる。自決した沖縄の人々を範とすることで、日本人は自己犠牲の精神を持ち続けられるのだ。我が国の神話を守るためには、醜い事実など人々に知らしめることはない。例え事実ではなくとも、美しい物語こそが必要なのである。
 同じように、国を思う心があれば、偽装した食品会社の社長の自己弁護も、日本人の神話として読み直すことができる。マスコミにそれができないというならば、われわれ真の愛国者が物語を紡ぐ責務を負わなければならないのだ。


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