仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(ストリッパー)

2008年09月26日 | 社会
 このCMの話ですが。



 最初に見たとき、リーバイスのジーンズの宣伝らしいということ以外、徹頭徹尾まったくさっぱり意味が判らなかった。
 木村拓哉が町なかで臆面もなく履いているズボンを脱ごうとすると、何者かにどやしつけられているのか、その度に後ろに跳ねとばされる。彼はこれを何度も繰り返すが結局ズボンは脱げず、それでも最後に挑発的な態度を見せる。一目瞭然、明らかな変態行為だが、それを「格好いいもの」として表現しているところを見ると、このCMは「挫けず、縛られず、恐れず、動じず、公衆の面前で下半身を露出しよう」と訴えていると考えるのが素直な解釈であろう。強いて肯定的に読みとろうとするならば、若者の権力への挑戦という意味があるのかとも思えるが、それでも露出狂を推奨している点では同じことだ。
 まさか、そんなことはあるまいと、この広告の関連サイトを見てみたら、こんな説明があった。


ボタンフライから派生したメッセージが「LIVE UNBUTTONED」。
ボタンフライを開けるという行為が、そのまま自己の解放を意味し、とらわれることなく、自由であり続けようと訴える。
そう、メッセージに込められた想いは、
「何事にもとらわれず、自らを自由に表現する」こと。
これこそLevi'sの精神そのものなのだ。


 なーるほど、そうか。そんな深いメッセージが込められていたんですね・・・って誰が納得するか、このバカタレが。
 そもそも、「服を脱ぐ=自己の解放」という、使い古され過ぎてもはや陳腐としかいいようのないメタファーを、恥ずかしげもなく持ち出すその無神経さからして救いようがない。さらに致命的なのは、そのメタファーの使い所を完全に踏み外していることだ。「ボタンフライを開けるという行為が、そのまま自己の解放を意味」するというのなら、いま着ている服は抑圧の象徴ってことになる。つまり、リーバイスのジーンズを履くと不自由になる、履いているのは何かにとらわれた、自らを自由に表現できていない奴だというのだ。だったら最初からリーバイスのジーンズなんて履かないよ。宣伝しようとしている商品を逆に貶めてどうするのか。
 このような底が浅い上に筋の通らないコンセプトに基づいて、(しかもおそらくは、その莫迦げたコンセプトを立てたのと同一の人々、すなわち、救いようのないノータリンであることはもはや折り紙付きの人々が)広告を作れば、箸にも棒にも掛からない代物になるのは当然の帰結である。そうしてできあがったのが上掲の、露出狂の破廉恥漢が登場するはなはだ反社会的・反教育的な内容のCMというわけだ。
 もちろん、そこからは、「何事にもとらわれず、自らを自由に表現する」などというたいそうなメッセージはいっさい伝わってこない。木村拓哉の股間からびっくりするようなものが跳び出してきたならば話は別だったろうが、そんなことをしたら商品のイメージは地に落ちる。メッセージと商品とが齟齬を来しているのだから、CMという枠組みの中ではそもそも表現のしようがないのだ。
 「CMの木村拓哉の行動はあくまでイメージであって、本当に町なかでズボンを脱げといっているのではない。そのように表面的にしか受け取れないこと自体が、『とらわれた』考え方であり、だからこそ『自己の解放』というメッセージが有効なのだ」という反論も予想されるが、どんな言葉を重ねようとも、宣伝すべき商品を否定しなければ伝わらないメッセージを掲げてしまった、根本的な過ちを糊塗することはできない。
 結局このCMは、メッセージも伝わらないうえ、商品の宣伝としても効果の乏しいものにならざるを得まい。ジーンズの前を半開きにして徘徊する奴ぐらいは出てくるかも知れないが、たいがいの人にとっては、「木村拓哉が出てるジーンズのCM」、あるいは、よけいな演出のために「木村拓哉が下着を見せようとするCM」という印象が残るだけだ。なかには下着のCMと思う人もいるだろう。
 よしんば、「何事にもとらわれず、自らを自由に表現する」などという御託宣を聞かされたとしても、「なに寝言いっちゃってんの?」と切り捨てられて終わりだ。その象徴的な意味の矛盾を探るまでもなく、CMそのものに何の説得力もないからだ。もしかしたら、こんなスットコドッコイなCMでも、何となく雰囲気でごまかされて納得してしまう人もいるのかも知れないが、少なくとも俺は、アホがうつりそうなのでリーバイスのジーンズを履く気すら失せてしまう。
 リーバイスの公式サイトを見ると、この「LIVE UNBUTTONED」と称するメッセージに基づいて、件のテレビCM以外にも、さまざまなプロモーションを展開していこうとしているようだ。つまり、商品を売って利潤を追求するはずの企業が、当の商品を否定するためのメッセージに、莫大な時間と資金と労力を費やしているということになる。神話的なまでの壮大な濫費であり、この社会における意味や論理や秩序を根底から破壊する虚無の伝道だ。的外れもここまでくると、滑稽を通り越して壮観であり、底なしの闇を覗くような恐怖を覚えさえする。
 もしかしたら、このCMを含む一連のキャンペーンの裏にはとんでもない詐欺師がいて、愚にも付かないでっちあげのメッセージと知りながら、無知で善良な人々を騙くらかして食い物にしているのかも知れない。いずれにせよ、CMを作るにあたっては、その経済性・営利性がシビアに検討されるべきものであるのに(何しろ「コマーシャル」なのだから)、あのようなできそこないを無分別に垂れ流すということは、その製作の過程でチェック機能がまともに働いていないということを意味する。すなわちこれは、組織的な病理の明らかな兆候であり、その病がリーバイスという企業本体にまで及んでいるとしたら、またいつか、別の形で症状が表れるに違いない。