仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(STOP!_その後)

2008年03月20日 | 社会
 グランドプリンスホテル新高輪(プリンスホテルグループ公式サイト)が、日本教職員組合(公式サイト)の教育研究全国集会のための会場使用を拒否した問題で、3月14日に日教組は、プリンスホテルに対し3億円あまりの損害賠償と新聞への謝罪広告掲載を求める訴えを東京地方裁判所に提起しました。
 訴訟にあたっての日教組側の主張と、これに対するホテル側のコメントを見ると、例によって「どっちもどっち」と言わざるを得ない。
 日教組側は相変わらずの独善ぶりを発揮しており、「集会の自由」や集会を開く意義ばかりを強調し、ホテル側が示した「宿泊客・周辺地域の安全・安心を守るため」という使用拒否の理由について、どのように考えているのか説明をしていないようだ。ホテル側の理由付けが、例えウヨクの暴力に屈したということであろうとも、一定の説得力を持って受け止められているというのに、なぜ応えようとしないのか。
 一方、プリンスホテル側の偽善には、ますます磨きがかかった。新聞各紙の報じたホテル側のコメントはほぼ同様のため、ここでは毎日新聞(2008年3月15日)から引用する。


日教組との契約を解除したのは、当日近隣で行われた入試に臨む約7000人の受験生に対する多大な迷惑を第一に考えた結果であり、教育にかかわる教職員の皆様だからこそ、ご理解いただきたいと考える。

 入試に対する悪影響を「第一に考えた」などとは、ホテル側が発表した文書(2月1日,5日,26日)のどこにも書かれていない。ここでこの理由を前面に押し出し始めたのは、相手が教職員の団体だから、痛いところを突いたつもりなのだろう。以前の説明では「近隣」に半径2キロメートル圏内まで含めており、「多大な迷惑」を誇大に見せようとしているようでもある。卑劣というか姑息というか悪辣というか。
 また、ホテル側の主張がたとえ事実だったとしても、契約の相手方である日教組ではなく、周辺の入試環境を「第一に」考えることは、商業契約上妥当なことだろうか。少なくとも、両者の均衡を考えたならば、一方的に解約するという手順は有り得ないはずだ。
 訴訟の被告になるという事態に至っても、ホテル側がこのような法律的にはまったく無意味な主張を続けるわけは、「誰でも面倒な争いごとは避けたいでしょう」と世情に訴えて賛同を得ようとしているのかも知れない。仮に敗訴したとしても(東京地裁は既に会場使用を認めるべきとの判断を示しているため、その可能性は高い)、それは裁判所が一般的感情から乖離しているためであり、あくまでホテル側には落ち度はなかったと印象づけようという、遵法精神もへったくれもない企みではないだろうか。
 先述のような、日教組側の硬直的な姿勢が人々に与えるであろう印象と併せみれば、ホテル側の主張が奏功する可能性もある。ただし、そうしてホテル側が自分のイメージを守ることに汲々としていることは、この問題の真の勝利者であるウヨクをますます利することになるだろう。いくら「安全・安心を守るのだ」とカッコつけてみても、ウヨクの暴力に屈したことに変わりはないのだから、「ごめんなさい、ウヨクが怖かったんです」と謝ってしまった方が潔いし、今後のプリンスホテルにおけるコンプライアンス体制の確立に資することになったと思う。

やすいはなし(知られちゃいけない)

2008年03月16日 | 文化
 さて、一部地域の皆さん、テレビ放映された映画『デビルマン』はご覧になりましたでしょうか。俺は性懲りもなく観てやりました。いやあ何度観てもひどいね。観れば観るほどひどい。
 観ていて気づきましたが、放映時間の関係と、テレビではまずいような残酷性の高いシーンがあるためか、上映版からかなりカットされていました。ただし、話がつながっていないように思われるところは、ほとんどが仕様です。例えば、デビルマンを追いつめたはずのシレーヌが、何の説明もないまま唐突に消えましたが、これは編集のせいではありません。本当にその後シレーヌは消息を絶つのです。編集前の姿を知りたい人は、この「宇宙一詳しいデビルマンのあらすじ」あたりを読んでください。
 普通の映画は、テレビ放送のために無理な編集をすると齟齬が出るものですが、この『デビルマン』に関しては、ろくでもないシーンがカットされたおかげで、少しマシになったように思えます。編集された箇所を挙げると、デーモンが出現したために疑心暗鬼になった人々が残虐性と差別意識を剥き出しにするようになった、という荒廃した状況の表現が、頭のおかしいデブ三人が暴れ回ったり、ショッピングモールでマシンガンの露天販売が始まったり、という訳の判らなさ。脈絡もなく出て来ていろいろと説明をする小林幸子の無駄な熱演なんてのも。要するにこの映画はどこをとってもダメなところばかりなので、切れば切るほど良くなる道理だ。
 そのほか、生首のアップやら胴体がちぎれている場面などもカットされていました。本来ならばこれらの描写こそ、「デビルマン」のキモであるはずなのだが、この映画の中ではどーでもよくなってしまう。数少ない格闘シーンの一つも消えていたけれど、これまたさして惜しくない。むしろ、「ほあーん」のくだりがまるまるカットされていたのが残念だ。あれこそ映画『デビルマン』を象徴する場面であり、あれを観ないことには醍醐味が半減するほどの衝撃力を備えているというのに。
 公開当時さんざんいじられたので、あえて前回は触れませんでしたが、この「ほあーん」は本当に凄い。何度も観ると確実に病む。ここだけは実物を観て欲しいけれど、レンタルも惜しいという人々のために、前後の状況も含めて少し詳しく説明します。
 主人公のデビルマン=不動明は、牧村という一家に身を寄せている孤児。世の中にはデーモンと称される怪物が人間の姿を装って潜むようになっており、デーモンと疑われた人間はそれだけで連行されたり処刑されたりしています。人心は荒廃し、世界中で戦争が頻発している(もっとも、映画からそんな緊迫感はまるで伝わってこないが)。
 そんな異常な状況のなかで、不動明は牧村父に、自分がデーモンの体を持つことを知られてしまう。天涯孤独の少年が、父親代わりの存在に自分が人間ではないと知られたとき、彼の取った行動とは!
 突如として立ち上がり!
 青空をバックに天を仰ぎ!
 バストアップになりつつ!
 何なら少しスローモーション気味に!
 この上なく間の抜けた声で!
「ほわぁぁぁぁぁん!」
 あまりのことに毒気を抜かれたか、これを目の当たりにした牧村父はすべて無かったことにしてしまう。観る者の度肝を抜くこの超演出を誰が想像できただろうか。その発想はなかったわ。

 もう一つ、見直してよく確認できたことがあります。それは、原作者の永井豪がなぜ、主人公たちが訪れる教会の神父役で出ていたのか、ということ。主人公たちを意味ありげに見遣ったり、デーモンの出現をきっかけに世界が崩壊しつつあると報じる新聞を難しい顔をして読んでいた童顔の人物ね。原作ファンへのちょっとしたサービスかと思いきや、それ以上の意味が隠されていたのです。
 ラスト近く不動明は、暴徒によって無惨に殺された恋人の生首を、かつて二人で訪れた教会の祭壇に捧げる(教会ってそういうことをするところではないと思うが)。そこへいきなり乱入する、不動明の親友にして正体はデーモンの統領サタンである飛鳥了。そして開口一番
「神はいたかー!?」。
 こういう大上段の台詞を吐かせるためには、もっと重厚な世界観を積み上げておく必要があったのだが、もはや後の祭り。何わけの判んないこと口走っちゃってんの、としか思えない。
 意余って力足らずというか、たいそうな理念はあるようだが、その表現方法をまったく間違えているために、もともとの理念を台無しにしてしまうどころか、それを本当に理解できていたのか疑わしくなる、というのがこの映画の特徴だ。不動明と飛鳥了の宿命的関係を表すために双子に演じさせたけれど、二人には致命的に演技力がなかった、なんてのが判りやすい例でしょう。
 で、この登場時の飛鳥了をよく見ると、神父服を着ているのです。ということは、あの神父は飛鳥了の変身した姿。だとすれば、主人公たちを必要以上に見つめたりしていたことも辻褄が合う。つまり・・・永井豪の正体はサタンだったんだよ!
 という映画制作者たちの小粋な遊び心が仕掛けられていたわけですが、そういう遊びは、やるべきことをちゃんとやっているからこそ面白みが感じられるもので、この映画の場合は、ほかの無意味な有名人出演と同じく単なる悪ふざけとしか思えない。

やすいはなし(誰も知らない)

2008年03月15日 | 文化
 本日(3月15日)深夜1時50分からテレビ朝日で、2004年公開の映画『デビルマン』が放送されます。
 公開時には、その壮絶な出来により「デビルマン祭り」が繰り広げられたこの伝説的作品を、俺は映画館で観ています。その日最後の回の上映だったとはいえ、観客は10人にも満たなかった。ちなみにその映画館、現在は撤退してしまい営業しておりません。デーモンの呪い、恐るべし。
 とにかく何から何までどうしようもない映画で、人間とはここまでひどい間違いを犯すものか、こうなる前に誰か止めることはできなかったのかと思わされる。観に行った後、俺は知人に次のようなメールを送りました。「これは絶望的な喜劇です。この映画をつくった人々は、自分たちのふるまいによって「人間への絶望」という原作のテーマを表現しきったのです。」
 主要人物を演じた俳優のうち、最もまともなのがススムという少年を演じた子役(染谷将太)で、次点が、原作ではちょい役のミーコというデビルマンの少女(渋谷飛鳥)。二人とも本来の主役ではないところが凄い。
 この二人が、デビルマンとデーモン軍団との最終戦争(といっても、陳腐などつきあいの末に、あっという間に終わってしまうけれど)のあとに生き残り、新世界のアダムとイブになる(らしい)、というのがこの映画のラストシーンである。演技がまともなおかげで二人には感情移入できるため、惨憺たる場面が連続した後では救いさえ感じられるが、これが「デビルマン」のラストでござい、と見せられたら、やはり納得できません。
 その他の見所は、鳥肌実がデーモンの嫌疑をかけられて追いかけ回され、捕まって連行される一連のシーン。それを見ていた宇崎竜童の「彼は変わり者だが仕事はできる男だった」という台詞だけは唯一自然に笑うことができます(その他の笑いは失笑ばかりなので)。

やすいはなし(おめでたい人たち)

2008年03月13日 | 文化
【児童ポルノ規制強化を 日本ユニセフがキャンペーン】
 日本ユニセフ協会などが11日、「なくそう!子どもポルノキャンペーン」を始めた。「子どもポルノ大国」といわれる日本で、はんらんする子どもポルノへの規制を強めようとのねらい。
 同協会やNPO、民間企業のマイクロソフト、ヤフーなど23団体、25人が呼びかけ人・賛同団体に名を連ね、要望書への署名を呼びかけている。
 要望書は児童買春・児童ポルノ禁止法を改正し、(1)子どもポルノの単純所持を禁止し、処罰の対象とする(2)アニメ、漫画、ゲームソフトなども規制の対象とする(3)18歳以上が子どものふりをしたものも規制する――などを求めている。
(2008/3/11 asahi.comより)


 現に被害者の存在する写真・ビデオ等ならばともかく、アニメ・漫画・ゲームまで同等の規制をかけるというならば、表現の自由の観点から、明らかに行き過ぎだろう。
 このニュースについての東京新聞の記事(3月12日)に、「デスクメモ」という、記者のコメントが付されていた。これがあまりにも凄かったので、全文引用してみる。


 女の子を犯し続けると抵抗から喜びへ―。ロリコン漫画の筋の一つだ。取材で何冊も見たが、ありもしない不自然な描写に気持ちが悪くなった。虐待の“美化”も表現の自由か。触発され性犯罪者も出ているのに。作者は顔を出さず隠れたままだ。匿名なんてネットの書き込みと同じ。表現を語る資格はないよ。(呂)

 どうですか、皆さん。新聞記者ともなるとこうも勘違いできるものかね。
 どうやらこれを書いた人物は、漫画家が顔と実名を出して記者会見でもしないと表現を語る資格ナシと見倣すらしい。しかし、漫画家にとって最も重要な表現は作品そのものではないか。仮にペンネームであっても、また劣情に訴える不道徳な内容を含んでいても、商業ベースで作品を発表し、その生活を賭けている漫画家には十分に表現を語る資格があると思う(そもそも、表現の自由は民主主義の根幹であって、語る資格のない人間なんていないはずだ)。
 だいたい(呂)ってのは何なんだ。名字の可能性もあるが、たぶんこれも一種の匿名だろう。自分自身は匿名で、ネットの書き込みのような内容を書きなぐっていても、表現の自由を語る資格があると信じて疑わないらしい。
 自分が携わっているのは報道だから、漫画「なんか」よりも価値がある。価値ある報道を行なう新聞記者は、漫画家「なんか」と違って表現を語る資格がある、そんな思い上がったエリート意識が上掲の文章には現れている。
 そのような姿勢は、漫画などのフィクションへの規制を安易に認めることにつながるだろう。しかし、そうして不用意に規制への道を広げることが、報道の分野へと累を及ぼすおそれは十分にある。新聞記者たるもの、いかなる表現であれ、それに対する規制の動きが自分自身に跳ね返ってくるのではないかという危機感を持って然るべきだが、この呂氏にはまったくそれがないようだ。己れの首を絞めることになるかも知れないというのに、行き過ぎた規制のお先棒を担ごうとは、おめでたい限りというべきではないか。

やすいはなし(STOP!_その2)

2008年03月12日 | 社会
(グランドプリンスホテル新高輪による、日教組の教研集会のための会場使用拒否について、前回からの続き)
 プリンスホテル側が、会場使用拒否の根拠として憲法上の権利を持ち出したのは、民事上の契約においても憲法上の価値が尊重されなければならない、この問題では、集会の自由よりも、宿泊客と周辺の住民・施設の平穏に暮らす権利を重視して解約に至ったのだ、ということだろうか。そうだとしたら今回のホテル側の判断は、集会の自由も平穏に暮らす権利も、将来にわたってともに危険にさらす最悪のものだろう。これがウヨクの街宣活動の実績となり、その迷惑行為を助長することになるからだ。基本的人権を尊重するというならば、ホテル側の判断はあまりにも軽率だったといわねばなるまい。
 有り体にいって、ホテル側が、憲法上の価値に与える影響を熟慮したうえで今回の判断を下したとは思えない。おそらくそれをまともに考える意志も能力もなかっただろう。ホテル側が憲法を持ち出したのは単なるカッコつけでしかなく、そのためにかえって自分たちの無責任さと浅薄さをさらけ出しただけだ。
 会見で「結果として右翼団体を助けたことになるのではないか」という質問に対して、プリンスホテルの親会社 西武ホールディングスの社長は「そんな思いは毛頭ない」と答えたという。この答えが「そんな結果をもたらす意図はなかった」という意味ならば、質問を誤解あるいは曲解している。質問者が訊きたかったのは、日教組の集会中止という結果に対するホテル側の認識、そしてその結果責任であって、社長の意図がどうであったかではあるまい。また、「ホテルの判断がウヨクを助けたとは思っていない」という意味だとしたら、この社長がどうしようもない節穴であるか、単に嘘をついているだけかのどちらかである。まさにウヨクの目論見どおりになったことは一目瞭然なのだから。
 同様に、2月5日付けの文書にある「右翼団体等をおそれて解約したのでも決してございません」という文言も、言葉を理解できないほどの愚昧さでなければ、甚だしい不誠実さの表れとしか思えない。集会を開催するとウヨクが宿泊客と周辺住民・施設に危険・不安をもたらすおそれがあり、ホテルとしてはそれを避けたいから会場の使用を断った、と説明したのではなかったのか。それをまさに「右翼団体等をおそれて解約した」というのではないだろうか。いかに安全・安心を守るため、という言葉で飾ろうとも、ウヨクの暴力に屈したことには変わりがない(両事情は同時に成立しうる)。ホテル側にそうせざるを得ない事情があり、故意・過失がなかったとしても、客観的な状況は「ウヨクの不当な暴力の勝利」そのものである。あるいは、ここにホテル側の真意を読みとるべきかも知れない。ウヨクが怖いんじゃない=悪いのはウヨクではない、ウヨクに睨まれるような集会をする日教組が悪いんだ、という認識を。
 上記のようにホテル側の主張が歪む理由は、そこにウヨクの責任への言及が欠落しているからだ、とすでに書いた。最大にして最重要の論点を外してしまっているのだから、バランスを失うのは当たり前だ。では、なぜそれができなかったのか。
 ホテル側としては、日教組にゴネられたおかげでえらい迷惑だ、あることないこと難癖つけてやらなきゃ気が済まねえ、と頭に血が上っており、この際ウヨクのことなんぞかまっちゃいられねえや、というところなのかも知れない。
 しかし、ウヨクの妨害行為がもたらす結果についてあれほど注目し強調しながら、あたかも天災の如く扱うのは不自然としかいいようがなく、意図的に言及を避けたと見るべきだ。そのもっとも判りやすい理由は、単純に「ウヨクが怖い」ということに尽きる。怖い怖いウヨクの街宣活動からせっかく逃れたというのに、ここで「みんなウヨクが悪いんだ」などと口走れば元の木阿弥である。だから、予想される被害についてはむやみと念入りに述べたてても、それをもたらすウヨクがいかに極悪非道・凶暴無慙であるかという倫理的・道義的な非難をするわけにはいかなかったのだ。
 また、「ウヨクが怖い」ということは、必然的にホテルにはウヨクの攻撃に抗して顧客を守る意志・能力がないことを意味する。「当社はコンプライアンス体制の確立を経営の最重要課題の一つとして捉え経営改革を進めております」などと大見得を切りながら、実態は、ウヨクの暴力に怯えて顧客を見捨てざるを得ないような、哀れで脆弱で怯懦な会社であることを認めることもできなかったのだろう。
 そしてもう一つ考えられる要素は、そもそもホテル側は日教組の活動をまったく尊重しておらず、むしろ妨害をしてやりたいという意図である。したがって、ウヨクを喜ばせることに何ら良心の呵責もなく、その暴力を責める気持ちもない、むしろ日教組の集会を不意にした喜びを分かち合いたい、ということだったかも知れない。「敵の敵は味方」ともいうことだし、ウヨクの悪口なんてもってのほかだったおそれもある。
 結局のところホテル側の主張には、真意を糊塗するための嘘=虚偽が含まれていると見るべきだ。本心を隠し、なおかつ自己を正当化しようとしているのであり、一言でいえば「偽善」なのである。
 前回も書いたように、日教組がホテルばかりを非難し、ウヨクの責任を問わなかったのは、独善のあまりに本来の敵を見誤ったものと思われる(さらに言えば、ホテル側の使用拒否によって、日教組側には現に不利益が生じており、ホテル側を直接に批判する必然性もある)。独善に陥ることはたしかに誤りであり鼻持ちならないが、見せかけの正しさを装い、他者を犠牲にして省みない偽善は、さらに悪質で有害だろう。

やすいはなし(STOP!_その1)

2008年03月12日 | 社会
 さーて、今回も「典型的な『どっちもどっち』論」を展開いたしますよ。

 日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会のための会場使用を、プリンスホテル新高輪が予約を受けた後で一方的に解約した問題について、2月26日、ホテル側が会見を開きました。基本的にこれまでの主張(2008/2/5付「今回の日本教職員組合様に対する対応について当社の考え方」(PDF))の繰り返しで、会場使用拒否は宿泊客の安全・安心確保や周辺住民・施設への被害防止を目的とした正当なものと述べ、責任を認める言葉や謝罪はいっさい無かったようである。かえって、予約の段階でウヨクの妨害行為について十分に説明しなかったのは「異常」であると日教組側を非難し、会場使用を認める裁判所決定も「正しいとは思っていない」と言い切った(2008/2/26付「日本教職員組合様に対する対応についての記者会見におけるご説明文」(PDF))。この頑なな態度を見るに、ホテル側の日教組に対する特別な悪意・反感・嫌悪は明らかであると思う。
 会場使用の契約をした以上、ホテル側は日教組側に対してそれを果たす義務がある。契約を一方的に解約したホテル側の行為を正当というには、教研集会を開催した場合に起こると予想される被害が甚大で、しかもその発生の蓋然性が相当に高いこと、ホテルには被害発生を防ぐ義務があるが、それを果たす手だてが無かったこと、簡単にいえば、ホテル側として今回の事態は不可抗力であったことが立証されなければならない。そのためには、日教組側の落ち度を言い立てるだけでは根拠薄弱で、被害をもたらす張本人すなわちウヨクの責任と、その被害(のおそれ)に対応するホテル側の責任を論じる必要がある。
 前回も書いたけれども、この問題における諸悪の根元はウヨクの街宣活動と称する迷惑行為である。ホテル側が種々様々並べ上げた、宿泊客への危険・不安も、ホテル周辺の地域への多大な迷惑・被害も、日教組の集会自体ではなく、呼ばれもしないのにやってくるウヨクがもたらすものだ。ウヨクが来るおそれさえなければ、集会は何事もなく開けたはずである。にもかかわらず、ホテル側は日教組とその主張を容れた裁判所の責任は追及しても、彼らが守ろうとしている宿泊客や周辺住民・施設を脅かすウヨクに対しては、どういうわけか一言も批判をしていない。街宣活動は誰の責任も問えないような天変地異ではなく、まさしくウヨクによる人災なのだから、事態の根本的な原因がどこにあるのかは容易に言い当てられるし、ホテル側の責任の範囲を明確にするためにも必要な作業であるはずなのに。
 このような偏り・欠落を抱えているために、彼らの主張は支離滅裂なものになっている。
 「教職員の組合の集会として、学校や病院、住宅が集まる高輪での開催の現実性や入試に甚大な被害を及ぼす可能性を考慮していただきたかった」というが、くどいようだが迷惑行為をするのはウヨクであって、日教組にその影響を考慮する責任を負わせるのは順序が間違っている。そのような責任を日教組側に期待するのであれば、逆に、集会を開催した場合のホテル側の負担を日教組は期待してもよいのではないか。この言い分には、契約をした自己の責任をできるだけ軽く見積もろうとするホテル側の無責任で甘ったれた態度が透けて見える。
 宿泊客のみならず、周辺住民・施設の安全・安心を守ることを自己の責任と位置付け、直接契約した相手方への責任より重視するのも不可解だ。周辺住民・施設の利益を強調することにより、宿泊客の安全・安心との合わせ技で日教組側への契約責任を覆せると考えているようだが、その前に、両者の利益を調整するために、日教組に会場を使用させつつ、ウヨクの妨害行為を回避し宿泊客らの安全・安心も守ることができないかを検討すべきだろう。その結果、日教組・警察等との連携をもってしても、ホテル側の努力によっては危険を回避できないという結論に至ったならば、「苦渋の選択」として使用拒否もやむを得ないということになる。ところが、ホテル側が日教組や警察と必要な警備についての協議を自発的に行なった形跡はなく(日教組と警察に対しては、打ち合わせを事前に申し入れて欲しかったといっているのに)、むしろ、ウヨクが来ると聞いて安易に使用拒否という結論に跳びついたように見える。
 また、憲法で保障される集会の自由は守られねばならないが、人々が平穏な生活を営む権利も基本的人権として憲法上守られなくてはならないとする一方で、会見では「憲法論議をするつもりはない」と詳しく説明しなかったことも論旨が一貫しておらず、憲法の都合の良い部分だけをつまみ食いした印象が強い。ここで憲法の「基本的人権」を持ち出すのは、2月5日の文書で、「『集会の自由』は基本的には国家、公的機関との関係において保障されたものであり、民間にその会場提供を強制するものではございません」としている(これ自体は「憲法論議」の上で原則として間違っていない)こととも矛盾する。いったい憲法上の人権を彼らはどうしたいのか。この案件において考慮したいのか、したくないのか。
(続く)