仮名日記

ネタと雑感

やすいはなし(俺のケンカは勇ましい)

2006年11月26日 | 文化
 平成12年の日比谷野外大音楽堂公演以来、年に一度は鳥肌実(公式サイトにリンク。音注意)の講演会に足を運ぶことにしています。今年は九段会館公演にでも行ってやろうと思っていましたが、のんびり構えているうちにチケットが完売していた。どういうことだ。世の中狂っている。ともあれ、慌てて11月22日の横浜教育会館公演のチケットを取って突撃してきました。それにしても、この会場名は公演内容と激しくミスマッチ。
(ネタバレのため、これから観に行こうという人は以下を読まない方がいいかも知れませんが、その人達には一点だけお伝えしておきたい。最近の鳥肌は「覚束ない」を口癖にしているようなので、何回これを口にするか数えてみるといいよ。)

 照明が落ちて真っ暗な中、終戦の玉音放送が大音量で流れたりする演出のあと、菊の紋付き羽織袴で本人登場。最近太りだしたために、いつもの玉砕スーツは尻の部分が真っ二つに裂けたとのこと。「今井メロをひっぱたいて参りました」という今時どうかというようなツカミで講演開始。メモすら取っていなかったので、必ずしも正確ではありませんが、とりあえず当日のネタを書き出してみます。
[北朝鮮の核実験]
 「今年はジェンキンスのネタ一本でイけると思ったのに、あのチリチリパーマの既知外のおかげでネタを全部書き直さなければいけなかった」と憤る。ミサイルにはミサイル、対抗して日本も核武装すべきだと口走り、60万人といわれるニートを人間核弾頭としてあの国に命中させてやろうとぶち上げる。
[小泉前首相]
 今年の靖國神社公式参拝について、よくやったと喜びつつ60点と評価。今後もあの、空気を読まずにパフォーマンスを繰り広げて周囲をドン引きさせるキャラクターでいやがらせを続けて欲しいと言う。例えば南京の抗日記念館に行き「30万人?もっと殺してもよかったんじゃないかな」「100人斬り、かっこいいね」とか。さらに、小泉を中心に右は櫻井よし子から左は土井たか子まで、政治好きの著名人を九段会館に集めて『九段寄せ』を催したいという。尖閣諸島で大門軍団が中国人を虐殺した挙げ句、ハマコーがブッシュを始末してイベントをシメるという訳の判らない妄想を繰り広げた。
[日の丸・君が代]
 さきの東京都教委通達違憲判決について「アカのアカによるアカのための裁判」と切り捨て。その上で、日の丸の赤は血の赤、君が代の「君」とは天皇のことだ、それでこそ日本の国旗・国歌にふさわしい、と言い放つ。君が代の歌詞が判りにくいのがいけない、と言って披露した新歌詞が「裕仁天皇は偉大な指導者。皇居に向かって敬礼だ。東条英機も偉い」云々というもの。
[創価学会]
 新宿紀伊國屋書店の外壁に、でかでかと学会関連本の宣伝幕がかかっていたことに恐懼。「人類の三大危機とはエイズ・鳥インフルエンザ・創価学会です」「地球温暖化ならぬ地球仏壇化ですよ」「信濃町に行ってヒュンダイ自動車を叩き壊してきました」など、例の如し。
[戦争映画・テレビドラマ]
 人間魚雷回天を題材にしたテレビドラマ『僕たちの戦争』に、「特攻隊員が現代の若者と同じわけがない、お国のために喜んで死んでいったに決まっている」と毒づく。映画『男たちの大和』は反戦腑抜け映画で、その主題歌を歌った長渕剛には「おまえが眼を閉じておれ」。『父親たちの星条旗/硫黄島からの手紙』には、「日米双方の視点などはいらない、純粋に日本軍からの視点のみで映画を作りたい」として、その映画内容の妄想を語り始めたが、失速。ネタが飛んだのだろうか。
 この合い間に、ポリネシアン・セックスに最近はまっているだの、自分は本当は右翼じゃない、民族派のゴリッとしたイメージが受けると思ったのが間違いだった、普通にテレビに出たかっただの、新聞に広告も出してもらえない、唯一ノリノリだったのが産経新聞で、その右翼ぶりにこっちがドン引きしただの、2ちゃんねるでだけメジャー並みの叩かれ方をしている、自分はもはやネットアイドルと化している、などの与太話が差し挟まれる。
 講演の後、恒例にするつもりらしい映像(ビデオ)ネタのスクリーン上映。昨年は確か、靖國神社に軽の街宣車で乗り付けて参拝する様子を撮影したものだったが、今回は、新アイテムらしき、霊柩車と暴走族を合わせたような装飾を施した三輪バイクで夜の街中をひた走る姿がメインだった。
 その次は、これも恒例となった歌謡(?)ショー。黄色いTシャツにブリーフ一丁で、金正日・池田大作・麻原彰晃ら(あと一人が思い出せない、誰だったっけ)のパネルを横に従え、『世界に一つだけの花』の替え歌(「アジアの片隅に並んだ、いろんな国にむかついた」)を歌ったり、『あしたのジョー』の主題歌をバックに金正日のパネルをどつきまわしたり、ラートで舞台を横切ったりといった、あのキャラクターが無ければ持たないような寒いものが続く。
 以上ではっきりしたシメもなく幕。かつてより安定感は増したものの、相変わらずの「覚束なさ」が顔を出します。それも芸風として昇華しつつあるのかも知れないが、少しばかり狎れてきて緩くなっているようにも思われた。天才と紙一重の既知外芸人のイメージも大切にしないといけないだろうに。

 それから、冗談めかしていたけれど「北朝鮮はもうネタにできない、あのチリチリパーマのやることの方がよっぽどキている」という発言に、彼の迷いが表れているようでした。今回の講演タイトルは『死ね!今こそ お国のために』だが、今や総理大臣その人が同じようなメッセージを発し、支配政党がそのように国の仕組みを作り替えようとしています。もはやギャグがギャグとして通じなくなってきている。以前にも、演説芸を真顔で「そのとおり!」と受け止められてどうしようもなくなった、と本人が言っていましたが、これは彼にとって危機的な状況なのではないか。
 鳥肌実のスタイルは、公共の場では禁忌とされている事柄を、ことさらに極端化・戯画化して放言することによって、日常的価値観を揺さぶり転倒させる快感をもたらすというものです。しかもその禁忌は、みんなが知っている程度のものでなければ通じない。そうして選ばれたのが民族派右翼的言辞であり、創価学会批判であり、境界例的言動であり、ドぎつい下ネタでありましたが、この国のナショナリズムの顕在化に伴って、彼にとって主軸であった右翼ネタは多数派の常識の範囲内に取り込まれつつあります。禁忌だった領域が侵食された結果として、ネタの破壊力はどんどん目減りしていっている。「みんなが知っている禁忌」が最初から抱えていたリスクでもありましたが、「政治的常識」の方が、彼の方にこれほど早く歩み寄ってくるとは予想外のことだったでしょう。
 ナショナリズムが根強く抜きがたいものだからか、総じてイデオロギーとは移ろいやすい脆いものだからか、あるいは両方かも知れないけれど、鳥肌の右翼ネタだけならば、テレビで見られる日もじきにやってくるかも知れません。そんな時が来たとして、彼にとってそれが本意だったかどうか、尋ねてみたいものでございます。

やすいはなし(若い命が真っ赤に燃えて)

2006年11月24日 | 文化
 新聞の死亡記事で漫画家の石川賢氏逝去を知り、思わず「あっ」と声を上げた。享年58歳。いかにも早すぎる。
 最初に氏の名前と作品とを結びつけて認識したのは、「テレビマガジン」の別冊付録で読んだ『快傑シャッフル』だと思う。発行は1976年らしいので、もはや現物は手元に無いが、たしか巻末に自画像付きの作者自己紹介のページがあり、股間を矢印で指して「金二両」と説明書きがあったっけ。我ながら下らないことを良く憶えているな。
 くどいようだが現物が無いので、記憶だけで書き進めるけれど、空手の達人で忍者の末裔の青年が主人公だった。本名は忘れた。表向きはぐうたらで昼行灯の空手の師範だが、その実は悪の組織と暗闘を続ける正義の怪盗。忍術を現代的にアレンジしてトランプのカードを武器としており、ビジュアルにマジシャンの要素も加わる。
 これが記憶に残っているのは、こんなイカれた漫画に初めて触れた衝撃のためだろう。全3話の小品ながら、石川賢的要素が明確に表れていた。悪人達は言うに及ばず、主人公のシャッフルも容赦ない暴力で相手を血みどろにする。投げカードで肉を切り骨を断ち、ひとおもいに殺してくれと哀訴する悪人は、逆に慈悲も無くその場に置き去り。彼には組織の処罰=残酷な死が待っている。悪も正義もアナーキーなまでの過剰さを備えており、主人公が悪に勝利するのは正義だからではなく、より過剰なエネルギーを持ち合わせているから。この、当時のアニメ・特撮のヒーローもののコードを明らかに踏み外した世界にヤられたのだ。
 思えば、氏の漫画の主人公は必ずこの過剰さを持っていたのではないか。ありあまるパワーの赴くままに行動し、それゆえに自分自身に疑いを抱くことは露ほどもない(永井豪の主人公が人並みに悩み苦しんで見せるのとは対照的)。そのうえで沈毅かつ鋭利な智恵深さを備えているか、途方もなく破れかぶれで後先を考えない躁的なドアホか、この二種類のキャラクターが主人公の二大典型だった。このような主人公以外に、剥き出しの凶暴さが横溢する石川賢世界を切り開いて進むことはできない。
 もっとも、主人公が常に状況を強力に先導・牽引していく構成にする必要はないわけだが、そうせざるを得ないところが石川賢の石川賢たる所以なのだろう。どの登場人物よりも力を入れて描くべき主人公が、過剰さにおいて他に劣るなどということがあってはならない。これはもはや作劇法のパターン化というより、作者の生理の成せる業というべきかも知れない。
 結局のところ、最も過剰なのは石川賢本人だったということだ。この過剰さに任せて、あまりにも多くのもの・大きすぎるものを注ぎ込んでしまったために、作品が破裂する=未完に終わることが多かったことも宜なるかな。