昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章“石ころと流れ星”(短期集中再掲載)   34.不信と不安とゆらめきの〝ディキシー”

2013年02月27日 | 日記

不信と不安とゆらめきの〝ディキシー”

 

グラスを柳田に掲げて傾けた奈緒子の首筋が赤く染まっている。ダウンライトの光に、赤らんだ横顔もやけに大人びている。奈緒子のグラスの先には、柳田の端正な笑顔がある。奈緒子に送り返す視線が、意味ありげに思えてならない。

目を奈緒子に戻すと、小さく「おかえり~」ともう一度言って、僕のグラスにグラスを重ねてくる。「結構飲んだみたいやねえ。……長かったもんねえ」と応じるが、遅れてやって来た歓迎されざる客のような気分だ。

「忙しかったの?」

「うん。すごい客やったわ。なんでやろう、今日に限って」

なじられているわけでもないのに、言い訳めいてしまう。

「楽しい人ね、柳田君て。いっぱい話聞いてもらったよ」

“柳田君?!”と聞き返しそうになるのを押しとどめ、「よかったね」と言おうとしたが、喉がかすれてしまい、言葉にならない。急にこみ上げてきた腹立たしさを咳き込んで誤魔化し、一気にグラスをあおった。“嫉妬だ!”と思った。

それまで経験したことのない感情ではなかったが、経験したことのない激しさだった。行き先を見つけられない戸惑いと怒りが僕自身に向かって押し寄せてくる予感がした。

「どうする?ずっとここでいい?」

逃げ出したくて、奈緒子に訊いてみる。

「うん。ここ、落ち着くよ~~。謙ちゃんが選んだ店だし、ママも柳田君もやさしいし」

「よかった。じゃ、ゆっくりしようか」

“井戸水、井戸水”と二度念じ、腰を落ち着けようとする。奈緒子に話しかけねば、と頭を巡らしてみるが、これといった話題が浮かんでこない。

続けざまに二杯あおり、奈緒子の“Big Boy”に関する質問に答えるが、何を訊かれどう答えたか、答えた直後には消えていく。

二杯目を空け終わると、「ピッチ速いですねえ」と柳田が目の前にやってきた。にこやかな表情が勝ち誇っているように見える。

「飲むで~~。今夜は」

柳田を見上げるように吐き出した自分の言葉の卑屈な響きに驚く。身悶えしたい衝動をポケットの煙草をまさぐることで抑え、僕はそのまま立ち上がった。

「ちょっとタバコ買ってくるわ」

奈緒子に耳打ちして、席を立つ。後ろから「タバコならありますよ~~」という柳田の声が聞こえてきたが、聞こえないふりをして店を飛び出した。

通りかかった学生グループにぶつかりそうになり、立ち止まる。突然悲しくなってくる。この突然のうろたえぶりは一体どうしたというんだ。覚悟や期待や準備が、一瞬垣間見た光景で吹き飛ばされてしまうなんて。

急に増えたように思えるカップルの波をかき分け、タバコの自販機に向かった。年の瀬の冷たい空気に触れても、頭の芯の熱っぽさが惨めだ。

コトンと受け皿に落ちてきたハイライトを取り上げようと身を屈める。身を起こし振り向くと、路地が見渡せた。奈緒子を“ディキシー”に案内した時の景色と変わらない景色が、そこにはあった。

わずか数時間で何が変わったというんだ、と思った。が、その直後には、一瞬で人は変われるんだという思いが浮かんできた。

思い起こせば、奈緒子との始まりはすべて一瞬のことだったではないか。これまでの奈緒子との時間を思い出してみても、一瞬一瞬が浮かんでくるだけだ。一瞬の積み重ねを“ずっと”とお互いが思い込んでいるだけかもしれないではないか。ということは……

“ディキシー”の扉に手を掛け一瞬立ち止まり、息を整えて勢いよく開けた。せめてこれからの一瞬一瞬を楽しく過ごそう、と走るようにカウンターに向かう。

「あ!帰ってきた、帰ってきた~~」

奈緒子の声がした。彼女の笑顔と柳田の笑顔が並んでこちらを見ている。気持ちを切り替えようとした出鼻を挫かれ、勢い込んだ足が止まる。

席に戻り落ち着こうと、用意されていた三杯目に手を伸ばす。指先が小さく震える。二人が目を留めほぼ同時に「寒かった?」と訊いてくる。

大袈裟に身震いし「寒かった~~~」と言ってみせたが、指先の震えが寒さによるものではないことは、二人とも見抜いているように思えてならない。喉の渇きも手伝って、三杯目も一気に飲み干す。

「大丈夫~?」

グラスを置いた手を奈緒子が撫でる。

「大丈夫!」

手を引き抜くと、今度は肩に触れてきた。

「何かあったの?なんか、変よ、今日」

肩から背中へ撫でながら、奈緒子の手が下りてくる。ただそれだけのことがうれしく、身震いをしてしまう。

「寒かったんだね~」

2~3度撫でた手を放し、奈緒子は突然吹き出した。驚きと気恥しさに目を向けると、柳田も笑っている。

「なに?なんなの?」

奈緒子に詰め寄らんばかりに、僕は笑った理由を問い質そうとする。ひどくプライドが傷つけられた気分だ。

「ほら!あったのに、タバコ」

目の前に突き出された奈緒子の手には、ほとんど丸ごと一箱のハイライトがあった。

「あれ?それ…」

胸のポケットに手をやると、買ったばかりのハイライトに触れる。

「じゃ、それ……」

出したタバコを前に置くと、柳田が近付いてきた。

「タバコ、落としてたんですよ」

言われて思い出そうとするが、心当たりがない。

「いや。ポケットにはなかったんやけどなあ」

中腰になり、もう一度ジーンズのポケットに手を入れてみたが、タバコに触れた記憶はない。

「さっき、タバコ買いに行くって立った時、下を見たらあったよ、これ」

奈緒子が持つハイライトが目の前に突き出される。

「私は名前を呼んだし、柳田君は“タバコありますよ~~”って言ってくれたのに、気づいてくれないんだもん。ねえ、柳田君」

「えろう急いではりましたねえ。よほど喫いたかったんやろねえ、言うて笑ってたんですよ」

「せっかちなんだね、謙ちゃんて」

思い出し笑いを含んだ口をグラスにつけながら、奈緒子が横目で僕を見る。僕は、二人から見た僕の後姿とその無様さを想像し、情けなくなる。独りよがりの醜態だと思った。

奈緒子から目を逸らし、僕は空いたグラスを柳田君に突き出た。自販機に向かい帰るまでの感傷や憤りや戸惑いが、まるで根拠のないものだったような気がして俯くと、目を上げることができなくなっていた。

しかし、さらにもう一杯を空ける頃には、僕が“Big Boy”から駆け付けた時の奈緒子と柳田の姿、奈緒子のグラスを掲げた時の表情、“柳田君”と呼ぶ時に込められているように思われる感情、そして柳田の端正な顔立ちと姿態を重ね合わせ、僕の中に湧き出した“タバコを急いで買いに行くほど取り乱した思い”は、無理もないことだと思うようになっていた。

そしてそれは、奈緒子の僕に対する想いのあやふやさと、それがたやすく変容する危険性を孕んだものであることを示しているのだと思った。いや、もはや変容してしまったのかもしれない、とさえ思えた。

“きちんと学生をする”ことやその暮らしの一端を話しながら、そんな思いを胸の中で何度も転がしているうちに、それはやがて暗い雲のように僕を覆っていった。

そして、暗雲を取り払おうと飲み続け、遂に僕は正体を失くしてしまっていた。

次回は、3月3日頃を予定しています。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、ほとんど架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。

*第一章:親父への旅 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/84e40eba50c5c6bd4d7e26c8e00c71f7

*第二章;とっちゃんの宵山 http://blog.goo.ne.jp/kakiyan241022/e/f5931a90785ef7c8de01d9563c634981


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