バスルームから戻ると、希子はまだ熟睡の中にいた。隆志の足音に気付いたのか、メグが顔を上げる。昼光の下で見ると、子猫ではなさそうだ。発達障害の猫なのかもしれない。
自分の頬に笑みが浮かんでいることに気付く。
シャワーの陰で漏らした嗚咽の余韻はもうない。そこに希子がいること、その横にメグがいること、そんな光景が休日の午後の陽だまりの中にあること。
あるべき処にあるべき存在がある安心感。そんな独りよがりの家庭観が意味のないものだと改めて思い知らせて以来、住空間や家具や持ち物との馴れ合いのような関係は築かないように意識してきたつもりだったが……。
家庭の崩壊の原因は未だにはっきりとしない。“慣れてはいけないことに慣れてしまった結果じゃないの?お互いが”。紗栄子はそう言った。“そうだね”と応えたが、意味するところが飲み込めていたわけではない。
こうして希子とメグを見ていて自然に湧いてきた微笑みは、希子とメグとの関係とは無縁かもしれない。生命がそこにある。自分と共に同じ空間にある。それを実感できる喜びが頬に漏れ出たのかもしれない。
ある処にあって欲しい。いつも感じることができるように。と願うことは、希子によれば執着だ。唾棄すべきものだ。だが、今この瞬間、希子とメグの存在は愛おしく、リビングに溢れる光は輝いている。この瞬間が続くことを願ってはいけないのだろうか。
……………………………………
手塚の身勝手な仮説を聞いてから1カ月以上が経った。
手塚とは学校で会うこともなく、“ブラック&ホワイト”への誘いの電話も絶えてなかった。
隆志は、手塚の仮説が着実に現実のものとなっていると思っていた。手塚は退学し、もう印刷会社の跡を継いでいることだろう。新事業に手を染め始めているかもしれない。
会いたい想いが募っていたナオミからの連絡も、なかった。
そんな10月初旬。初めての秋風を窓に感じた夜、ナオミから遂に電話があった。
「これから行っていい?」
1カ月余りの時間を一気に吹き飛ばす明るい声だった。
「いいですよ。で、いつ頃……」
「今、銭湯の前の公衆電話」
「え、え~~~!ちょっと待ってください。ちょっと……」
「片付けなくていいよ。じゃあね」
見られてはならないものを毛布の下に突っ込み、敷布団ごと丸めた。
「もう着いちゃった~~~」
2分もしないうちに、部屋のドアがそっと開けられる。
「あ、こんばんは~~」
語尾が掠れる。
「酒持ってきたよ~~」
手には一升瓶がぶら下げられている。隆志はそのボーイッシュな印象に一瞬戸惑う。
髪は短く刈られ、化粧はほとんどない。スカイブルーのポロシャツにピンクのトレーナーを重ね、ボトムスはスリムジーンズ。初めてアパートの前に現れた時とは大いに異なるその姿は、環境の変化によるものか、心境の変化によるものなのか。
「ビックリした?」
少年になった頭を撫でながらナオミが微笑む。
「いやあ、別人かと……」
「それは誉め言葉と取っておこう!」
ナオミは部屋を見回し、「秋が来たんだなあ、って感じね」と言いながら、一升瓶を隆志に手渡す。
「コップで、いいですか?」
コップと一升瓶をテーブルに置く。ナオミは以前座った場所で足を投げ出している。
コップ2個に並々と酒を注ぐ。ナオミは斜め座りに座り直し、コップをそっと持ち上げる。
「こぼれちゃうじゃない」
口を近づけ少しすすり、コップを掲げる。
「乾杯!」
まだ置かれたままの隆志のコップに自分のコップを重ねると、半分ほどを一息で飲む。
隆志はソファ代わりの布団に腰かけ、その様子を見ている。ナオミの指先と爪が紫に染まっていることに気付く。“染織から染色へ”。ナオミは夢へと歩み出しているようだ。耳に以前あったピアスはない。
「さて、前回の話の続き……覚えてる?」
「覚えてますよ、ほぼ」
「じゃあ、話は早い。隆志君の言ってた“定型”って言葉だけど、言い換えると“ポリシー”?」
「“ポリシー”?……うん。そうかもしれない。……でもちょっと……」
「違和感がある?」
「“定型”化された言葉を“定型”化された意味で使う方が楽だし伝わりやすい。世の中に常套句がはびこっているのはそういう理由からでしょ?でも、常套句は頭まで“定型”化させる。……ポリシーとは少し意味のような気がする」
ナオミはテーブルに両手を付く。一言一句を正確に理解しようとしているように見える。
「権威ある人が使い始め、その意味と価値を社会が認めた言葉や文章は、やがてそれがまるで予め存在していたものかのように使われ始める。残念なことに、そんな言葉やそんな言葉で規定された概念や思想は、個々の人間の問題は解決できないし、救いにもならない」
「ポリシーって言葉もそんな言葉の一つ?」
「はっきりと解説されないまま、価値ある言葉のように使われているという……」
「そうかあ。日本語化せずにそのまま使ってるしね」
ナオミは一升瓶に手を延ばす。
「大丈夫ですか?2杯目ですよ」
「秋は日本酒だねえ。今夜はこれ、飲み切っちゃおうぜ」
隆志の空いたコップにも並々と注ぎ、ナオミは笑ってみせる。
「親や近所の大人や教師たちから聞かされた色々な言葉を抱え込んでいる間に、子供は子供なりにポリシーのようなものに行き着いた。それが、B君の中に出来上がった“定型”。言葉にするだけの語彙もなく、定型化されたといってもまだブヨブヨとして固まり切っていない危ういものだった」
「なるほど!だから、A君の拳や担任の言葉で破裂した」
「でも、B君のブヨブヨした“定型”がそのまま固まってしまえばよかったとも言えない。子供だから起きてしまったこととも言えない……」
「常套句はすぐ陳腐化し、常識は簡単に非常識化する……」
隆志とナオミは同時に黙り込む。次に語るべきことがわかっているはずなのに、手がかりがつかめない。
「実はね」
数秒間の沈黙を破ったのはナオミだった。
「ここに来る前に、もう飲んでるの」
「やっぱり!そんな気がした」
「ワンカップ2杯だけ」
「そんなに!?じゃ、もう止めた方がいいんじゃ……」
三杯目にいこうと一升瓶を握るナオミの手を押さえる。
「わざわざ買ってきたんだよ、一緒に飲もうと思って。邪魔しちゃダメ!」
中腰になって一升瓶を引き寄せる。隆志は覚悟を決める。ナオミが酔ってしまわないうちに、話すべきことを話すことにする。
「手塚さんと話しました」
「うん。知ってる」
「手塚さんから?」
「そう。だから私も“隆志君のアパートに行ったことあるよ”って」
「手塚さんは?」
「彼のポリシー、わかるでしょ?」
「説明はできないけど、なんとなく感覚的には」
「でしょ?だって、それがポリシーというものだから」
「手塚さんとナオミさんとの関係がどういうものか、ということだったら、僕なりに説明できますけど」
「よし。じゃ、説明してもらおうじゃないの」
ナオミはテーブルに頬杖を突く。隆志はコップを空ける。すかさず、酒が注がれる。
「タイプが違う。違うから引き寄せ合う。というのがスタートで……」
隆志の分析が始まる。ナオミは笑顔を絶やさない。
“論理の人”と“感覚の人”との出会いは刺激的だった。“論理の人”のストイックに人の行動や心理の真実を追い求めていく姿勢と、その口から発せられる未知の言葉は“感覚の人”には刺激的だった。“感覚の人”は聞き惚れた。教師と生徒のような関係だった。
やがて生徒は成長し、教師の知識と見識の多くは書物がもたらしたものであることを知ることになる。
生徒は書物を読み漁る。教師から与えられたものを、書物たちは、時には称賛し、時には補完し、時には否定した。“感覚の人”は少しずつ自分の言葉を持ち始め、教師と生徒の関係は微妙な質変化を見せ始める。
時間が経過し、“二人だけの閉ざされた教室”から、教師と生徒共に卒業せざるを得なくなる。一足早く卒業した生徒は自分回帰の道を歩み始める。遅れた教師は“言葉の人”であることを捨て……。
「よくできました!」
ナオミは手を叩いて座り直す。
「実によくできてるけど、ありふれたお話だよね。大学生同士の同棲の始まりと終わりのお話。巷に転がるようにあるお話。男の言葉と女のフェロモンの出会いがあって……」
ナオミが口ごもる。
「結婚はしないんですか?」
「しないことになるのかな?」
「まだ決定ではない?」
「すべては私の手の内にあるんだ、って手塚君は言うんだけどね……でもね」
“同棲相手……だった”と言った頃は固まりつつあると思っていた手塚との別れの決意は、消えたのか。ナオミは揺れている。
「手塚さん、プロポーズしたんでしょ?」
「うん」
「ナオミさんを失いたくないから……」
「それは二次的な目的。一次的な目的は、手塚君自身の退学と会社を引継ぐことが肯定されること。“それでいいと思うよ”って、自分の選択の正当性を私に認められること」
「手塚さんは自分を認めてくれる存在として、ナオミさんを必要としている……」
「自分を立派に映してくれる姿見のようなもの、かな?」
「だからこそ、大切……」
「あ、私、酔ってる?」
ナオミの一升瓶に延ばした手が虚空を掴む。酔っていることは疑いないが、話に影響は見られない。
「酔ってます!」
隆志は、ナオミがなおも引き寄せようとする一升瓶をテーブルから下ろし、股の間に挟む。
「先に言葉ありきって、やっぱり嫌だ、私!」
ナオミが叫ぶ。
「言葉に実体を持たせようとするより、実体を言葉化する方がいい?」
「そんなに難しいことか?一緒にいることが」
「結婚となるとねえ」
「同棲と何が違う?ねえ、何が?何か特別?」
「手塚さんは、ナオミさんとの関係をきちんとしたいだけで。結婚したって、ナオミさんはナオミさんのままでいいって。何をしてもいい。やりたいことをさせてあげたい、って」
「それだ!隆志君がもう一つ言ったこと。私が気になってること。ほら。思い出して」
「今僕が言ったことと関係が?」
「ある!ある、ある、ある」
「………………あっ!」
「やったあ!思い出したな」
「“非所有の所有”かなあ」
「それだ!しっかり説明して」
自由は保証されている。監視する者も見当たらない。しかし、所有されている。
見えない柵を自分で作り、ありもしない鎖を自分で感じ、存在しない看視者を目に見る。
所有されている者たちは自主的に居場所を決め行動範囲を設定し、逸脱することなく留まる。
それを可能にしているのは所有者の存在そのものと言葉。望む者は自ら進んで所有者を選び、服従することなく被所有者となる。まるでそれが唯一無二の正しい選択であり、そこが選ばれた最高の安寧の場所であるかのように。
「そうそう。そんな感じ。で、結婚はそんなもんだって」
「それは言ってない。結婚もそうなりがちだ、とは言ったような気がするけど。もっと言いたかったのは、“非所有の所有”を志向する人は最強の独占欲の持ち主だってことだった」
「その通りだ、と私は思った。その通りになるという予感がした。真理や完璧を求めるエネルギーは独占欲だから。一緒に暮らしてる時は感じなかったけど、感じないほど広大な独占欲にくるまれてたのかもしれない、と思った」
「だから……」
「結婚は断った~~~」
股の間の一升瓶に、酒は残り少ない。出かける前に飲んだというワンカップ2本を含め、5合くらいをナオミは飲んでいるだろう。限界は近い……。
「ナオミさん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃな~~~い」
「送りましょうか?」
「手助けはいらない!一人で帰る」
「家はどこなんですか?」
「恥ずかしながら、手塚君の部屋」
二人の間でどういう約束が交わされたのかはわからない。ただ、ナオミの言葉通りだとすれば電車で2駅。最終電車まではまだ少し時間があるが、一人で帰せる状態ではない。
「送ります」
ナオミに腕を延ばす。酔い潰れているようには見えない。
「じゃ、送ってもらおうかな~~」
立ち上がることはできたが、ふらついている。タクシーの方がいいかもしれない。
となると、駅とは逆方向、幹線道路まで辿り着かなくてはならない。
「さ、行きますよ」
ナオミの腕を肩に回し、ジーンズのループに指を掛ける。
「よし、行くか~~」
ナオミの呂律がややあやしい。急に立ち上がったせいか、酔いが回ったように見える。
アパートの玄関まで連れ出し、上がり框に並んで腰を下ろす。
「ナオミさん、靴は?」
「それ~~」
顎で指し示す先に雪駄。
「これ?」
手に取り、ナオミの酔眼の前に差し出す。
「それだ~~」
取ろうとする手を押さえ、履かせる。まだ履き慣れていないせいか、鼻緒に指が通らない。突っかけた状態で表へと連れ出す。
肩を組み、ジーンズのループに通した指に力を込める。引き上げながら歩き始めた。
ナオミの片足から雪駄が外れる。一歩後ろに残された片方の雪駄を、しかし、拾い上げる術がない。下がることは難しく、しゃがむことなどできそうもない。
「ちょっとここに座っててください。大丈夫ですか?すぐ来ますからね」
アパート前に停められた自転車の荷台にナオミを腰掛けさせる。
急いで雪駄を拾い上げ、引き返す。ナオミの上半身が揺らいでいる。歩かせることは最早難しそうだ。
「おんぶしますよ」
ナオミの耳に告げ、雪駄を爪先から外す。
「わ~~い。おんぶだ~~」
満面の笑みで両手を高く上げる。その手を両肩に導く。
「行くよ~~」
ナオミを背負う。思ったよりも軽い。
一歩ずつ、慎重に歩み始める。幹線道路まで、なんとか行けそうな気がする。
数歩でナオミの体がずり落ちそうなる。立ち止まり、体勢を立て直す。
ナオミの両腕を首に巻き尻を下から支えて、再び歩き始める。
しばらくすると、首に巻いた腕に力がこもった。前屈みの目を上げる。前方に“ブラック&ホワイト”の電飾看板がある。
「……………」
背中に小さな揺れを感じる。
「ナオミさん、大丈夫?」
精一杯首を後ろに回すと、顔を肩に押し付けているナオミのショートカットの頭があった。微かなフローラルの香りがした。声を押し殺し泣いているようだ。
「ナオミさん」
あやすように背中をゆすり、小さく声を掛ける。ナオミの嗚咽が一瞬止まる。
「ナオミさん………」
もう一度声を掛ける。首に回した腕に力がこもる。ナオミの息が首に吐き出される。
歩みを進める。 “ブラック&ホワイト”の前を通り過ぎる。
「て…づか…くん」
ナオミの声がする。息苦しくなる。目的地点まで20m。足を速める。
幹線道路に到着。ナオミの嗚咽は止まっている。
「ごめんね」
背中から下ろし肩を組むと、ナオミが微笑む。通り過ぎる車のライトが目元の涙を照らす。
「化粧してこなくてよかった」
隆志は言葉もなく目を逸らす。
「ね、よかったよね、隆志君」
ナオミはそう言って隆志を揺する。
空車のタクシーを止め、ナオミの手を肩からほどく。
「大丈夫ですか?」
脇を支えたまま顔を覗き込む。ふらつく足を踏ん張り、ナオミはくるりと隆志に体を向ける。
タクシーのドアは開いている。
「気を付けて」
ドアの端を押さえる。
「ありがとうね、今夜は」
タクシーに乗る直前、ナオミが頬にキスした。
ドアが閉まる。ナオミの顔が窓に貼りつく。
「ありがとう」
ナオミの口がそう言ったように見えた。
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