昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との4泊5日

2017年10月08日 | 日記

*これまでの連載に加筆修正をして完成させたものです。

最終決定のタイトルは「天使との4泊5日」です。

本日より、5日連続で掲載します。

かなり変わっていると思います。改めてお読みください。

 

天使との4泊5日  ①

 

GW最後の朝。カーテンの開け放たれた東南の窓に初夏の日差しが眩しい。

隆志は瞼の裏を白く照らされ、ベッドを転々とする。両手がシーツの上を探るが、この2日間必ずたどり着くことができた肌には行きあたらない。不意を突かれたように起き上がり、辺りを見回す。希子はいない。メグの姿もない。

足元では扇風機が虚しくスレ音を立てている。ダイニングの方に目をやると、開かれたドアに朝の光が届きドアノブをテカらせている。

すべてが、希子が消え去ったことを表している。

ベッドに半身を起こす。口には出さなくとも、お互いの気持は別れることで決まっていた。暗黙の同意を小さな仕草や何気ない言葉のやり取りの中で確認し合っていた。しかし、自らの身体から発する熱気と呼気以外に生命のゆらめきのない、今この瞬間の空間は、まるで二人の別れが見えない力に強要された不意の出来事であるかのように思わせた。

綿毛布を手繰り寄せ、汗に濡れた胸を拭う。微かに希子の匂いがする。ほとんど抱き合って過ごした三日間、胸にいつも満ちていた匂いだ。二人はこのまま同じ匂いで結ばれた一つの生命体になってしまうのではないか。そんな錯覚を覚えてしまうほどだった。

しかし、三日目が終わる頃にはそんな至福の時間もやや色褪せていた。

「今気が付いたんだけど、希子、薄くなったね」

「何が?……あっ、私の匂いでしょ?」

「何故匂いのことだと思ったの?」

「隆志の匂い薄くなってるって、私も思ってたから」

「嗅覚は疲れやすいから、印象が薄くなったのかなあ」

「私のセンサーもそう言ってる。けど、嗅覚を使う気持が弱くなったとも考えられる……飽きたってわけじゃないけど」

「希子には特殊なセンサーがあるんだもんね」

「うん。外付けセンサーもあるからね」

希子の足元からミャーと鳴く声が聞こえる。

「メグはお気に入りの匂いを見つけるのが得意。特に私のね。趣味が似てるの」

「そう言えば、最初に俺に興味を示したのもメグだったね」

 

会社の部下とバーに立ち寄った帰りだった。ハチ公前で部下と別れ、吸い寄せられるようにガード下へと向かった。

バーで耳にしたオールドジャズに心が学生時代に引き戻された直後だった。まっすぐ帰路につく気にはなれなかった。ガード下の暗い空洞が過去への懐かしい抜け道のように思えた。

宮益坂を上がり渋谷郵便局の手前を左折すれば、かつての事務所へと向かう。行きつけだったスナックはまだあるのだろうか。足はその方角へと向かっている。

ガード下、中間点にさしかかると、白い物体が足元に転がってきた。足を止め目を下ろすと、白い物体はミャーと声を上げた。子猫だった。とりたてて猫が好きというわけでもないが、足に頭を摺り寄せる姿が可愛く、しゃがみこんだ。子猫に手を延ばした瞬間、通りすがりの黒い影が後ろから腰にぶつかる。

「ごめんなさい」

女性の声が壁際の闇から聞こえてきた。それが希子だった。倒れそうになって地面についた手の下をくぐり抜け、子猫は彼女の元へ走り寄った。

「大丈夫ですか?」

闇の中から声がして、希子は人影として現れた。しゃがみこんだままの隆志を覗き込み、もう一度「大丈夫ですか?」と言った。胸に抱かれた子猫ももう一度、ミャーと鳴いた。

立ち上がり正面から向き合った。

不思議な光景だった。浮浪者さえ見かけることのなくなったガード下、それも壁の闇から忽然と現れてきた女性。身ぎれいなワンピース姿だけでも十分に驚きに値するのに、年齢が30代にしか見えないことにはさらに驚かされた。

「大丈夫ですよ」

「メグって言うんです」

言葉が重なった。

「メグさん?」

隆志が聞き返すと、希子は微笑みながら胸にした子猫を撫でた。

「この子がね」

「あ、ごめんなさい。この子メグって言うんだ」

メグの頭を撫でようと手を延ばした。が、触れたのは希子の指先だった。

それをきっかけに、互いに自己紹介をした。希子は名前しか名乗らなかった。

「希望の希と子で、希子と言います」

本名ではないかもしれない。が、だとしても不思議ではない。場所とシチュエーションがあまりにも特殊だ。苗字を口にはしにくい事情があったとしても不思議ではない。

「隆志です」

同じく名前だけの自己紹介を返す。50代中盤の男には似つかわしくない自己紹介に、50代中盤の男らしくもない含羞の色が漂う。

数人の若いグループが通りかかる。メグを真ん中に抱え込むようにして、二人揃って壁際に退避した。希子の指定席なのか段ボールが敷かれ、その上にペーパートレイが置かれている。行き交う人達の目を避け、段ボールの上に座り込む。

闇の中に身を置くと、そこはたちまち、二人とメグだけの空間になった。希子はメグを撫でながら、時々隆志に目を向けてくる。

隆志の目に映るのは、通り過ぎる人々の脚ばかり。表情も服装もわからない、脚だけの人たちは人としての存在感を失い、ただの景色となっている。

「落ち着くでしょ?ここ」

希子が微笑む。

「ちょっと出かけてきますね」

隆志はそう言って立ち上がる。口にしてみると、いかにも今置かれている状況には不釣り合いな言葉だ。

「ビールでも、と思って……」

「ありがとう。行ってらっしゃい」

希子も、居間を訪ねてきた親友を送り出す顔で応じる。

コンビニで、ビールのロング缶2本に助六寿司とメグのためのフードを購入。帰ってくると、どこに保管してあったのか、希子はストールにくるまっていた。

「お帰り」

上げた表情に微かに疲れが滲んでいるような気がした。

缶ビールを差し出す。同時に喉に流し込み、フウと息を吐く。

「よかったら、こんな処に子猫…メグちゃんと一緒にいる事情、話してくれる?」

不躾な質問だとは知りつつ、思い切って口にする。バーボンの勢いもあった。オールドジャズの余韻がまだ残ってもいた。しかし、希子への関心がそれらを上回っていた。

「構わないけど……つまらない話よ」

希子はビールとメグを下に置き稲荷寿司を一つ口にして、静かに身の上を語り始めた。メグが一声鳴いて隆志の膝にやってきた。

 

希子は5歳の頃、父親を亡くした。死出の旅に出る父親の白い横顔を覚えている。

小学校5年生になった春、母親が再婚。同時に、母親の実家から新居に引っ越す。

新しい学校と新しい父親に慣れることはできたが、新しい住まいの匂いには馴染めなかった。

「ほら、希子の部屋よ」

母親が嬉々としてドアを開けた瞬間襲い掛かってきた匂いは、特に我慢ならなかった。

その部屋で中学、高校を過ごし、父親の強い勧めで自宅通学が可能な女子大へ進学。父親に門限を午後6時と決められたが、午前8時に家を出て帰宅するまでの10時間を手に入れた喜びは大きかった。初めて五感が外界に向かって開かれた気がした。

最初の夏休みを迎える直前、母親が倒れた。父親の勤務先の銀行に電話で知らせが入った時にはもはや危篤状態で、父親が駆け付けると同時に息を引き取った。脳卒中。42歳だった。驚きは大きかったが、母親が眠るベッドサイドで感じた悲しみは予期したほどではなかった。むしろ、父親と二人きりにされてしまう恨めしさの方が勝っていた。

暮らしはガラリと変わった。希子にはすぐ、家事の負担が重くのしかかってきた。掃除・洗濯はさして苦にならなかったが、炊事には閉口した。希子に料理経験はなく、センスが元々欠如していることもすぐに思い知らされた。父親と二人で着く食卓に会話はなくなった。

数週間後、希子は父親への意識の切り替えを図る。父親を家族と思わず同居人と思うようにする、あるいは衣食住を提供してくれる得難い大家と考えるようにする……が、起居を共にした8年分の愛情が邪魔をした。父親を直視したくない、という気持が心の底奥深くにあることも自覚させられた。

 

「つまんないでしょ?こんな話」

突然言葉を切り、希子は隆志を見つめる。

「そんなことないよ。大変だったんだね」

握りしめているビールの空き缶を希子の手からそっと抜き取ろうとする。と、希子の握力が抗う。

「今、妄想の領域に入りつつあるでしょ、頭が」

「え?!そんなことないよ」

「私がこの話をした男13名は全員、同じ妄想してたよ。指摘するとみんな、“してなんかいないよ”って言うんだけど、後から問い質すと白状した」

隆志の手から奪い返した空き缶を見つめながら希子は言う。

「じゃ、正直に言う。君とお父さんの間にその後起きたであろうことを、少しは妄想したかもしれない」

「ほらね。みんなどうして同じストーリーを思い描くんだろう。まるでそうなることが良きことでもあるかのように。男女が二人でいると、その二人の必然は“寝る”ってことなの?たとえそれが後妻の連れ子が対象であっても?だとしたら、まるでそれが初歩的な公式みたいだね、男にとっての」

「希子はそうじゃなかったんだね?」

「うん。私は例外だと思う?」

「そうじゃない。事実を確認しただけ」

「ごめんね、意地悪言ったかな。でも、事実なんてそんなにキリっとしたものじゃないし、淡々としてもいないし、そう複雑なものでもないよね。揺らめいているのは、いつも心だけ。心の揺れが、事実の縁取りや彩りをぼんやりさせる…」

「…………」

隆志の希子への関心が増していく。この娘は一筋縄ではいかない。

「いずれにしろ、父親とは何もなし。正確に言うと、父親が再々婚するまではね」

 

大学1年生の冬、師走に入ってすぐ、父親はお見合いをする。勤務する銀行の支店長から勧められてのことだった。若い義娘との二人っきりの暮らしは不道徳、と老婆心を働かせた支店長の偏見を希子は感じた。が、父親は父親で焦りがあったのか、話はすぐに決まった。即答に近かった。

クリスマス明け早々には、もう新妻は転居してきた。39歳、寝具店の二女と自己紹介したが、名乗ったはずの名前は覚えることができなかった。

彼女が持ち込んだ雑駁な活気は瞬時に家を満たした。彼女は家事に長けていた。彼女の目は家の隅々にまで及び、希子の部屋では妖しい光も帯びた。

家庭内の空気は、ほどなく平穏を取り戻す。しかし、父親を中心とした三人の構図が落ち着きを見せるとともに、新妻の醸し出す香りに家中が支配され始める。

とりわけ希子を悩ませたのが、とげ立つほど甘い匂いが家中に漂い始め、ついには自室にまで忍び込んできたことだった。タフでしぶといその匂いはたちまち希子の部屋を占領した。

もはや猶予はないと思った。この家を出よう。と、希子は思った。

もっともらしい理由を並べ上げ、父親に自立のための資金援助を願い出た。すると、まるで予期していたかのように、希子の名前の通帳が差し出された。100万円入っていた。

「時々残高を確認して、あまりにも少なくなっていたら足しておくけど、無茶な使い方をしている痕跡が見えたらストップする」

父親の言葉は心強かったが、新妻の差し金かもしれない、そんなことをさせてなるものか、と思った。

希子は家を出た。20歳の春だった。

 

「ここまでって、割とありふれてるでしょ?」

希子の話が中断する。彼女が語った彼女の過去はわかりやすく、その時々の想いの端々までが伝わってくる。

「ありふれてるかなあ。そうは思わないけど」

「私の過去に“ありふれてる”って言葉を与えることに抵抗があるから?自分の人生をスペシャルなものと思いたいなんて考え、わたしにはないから安心して。99.99%の人は特別じゃなくて、ただ個別の人生を歩んでいるだけでしょ。決して特別じゃない。特別感を感じたいだけ。特別だって思うことのほとんどすべては錯覚なのよ。錯覚って、錯覚と自覚できない限りは実感だものね」

淀みない希子の言葉に、隆志は胸の中で目を瞠る。13人の男たち一人ひとりとの経験と語らいが希子の感性と知性を磨き上げていったのだろうか。それとも、13人の男たちの経験や知性を彼女は余すことなく飲み込み吸収してきたのだろうか。

「質問していいかな」

「どうぞ」

「君、大学では何を学んだの?」

「そうきたか。聞きたいのね、それを。いいわよ。でも、その前に。“君”は止めよう。“希子”にして。いい?」

「了解」

「私が行った女子大は仏教系で、専攻したのは東洋哲学。納得できた?」

「納得というか、少し理解が深まったかもしれない」

「嘘!納得したかったんでしょ?隆志さん…私も隆志って呼び捨てにしていい?…じゃ、隆志。理解って言うけど、隆志の中の常識と整合させたかったんでしょ?私の話し方や言葉に学問の痕跡を見たかった。そうだとしたら安心できる?私が隆志よりも若く、女だから。でもそれ、偏見かもしれないよ」

「偏見は……ないとは言えないけど」

「偏見のない人っている?偏見のない人って、私は知識欲も考える習慣もない人だと思ってる。ある教授…大好きだった教授なんだけど…が言ってた。“知的好奇心に不純物はつきものだ。不純物は偏見の温床になる。除去しなくてはならない”って。その言葉、ずっと頭に残ってる」

「俺も似たような言葉をある先輩から聞かされたよ」

「なんて言ったの?」

「“知識の不良在庫は適宜廃棄されなくてはならない”ってね……こんなことも言ってたなあ。“新旧を判断基準にしてはならない。新しいものにはまがい物が多い”って」

「わあ、その先輩興味あるなあ。どんな人だったの?」

「理学部から文学部に転部して哲学を専攻してた。4年生の時、ふっと消えたけど」

「消えた?」

「消えた。2年後に見つけたけどね」

「どこで?何してた?」

「寿司握ってた。すっかり板についててびっくりした」

「いいなあ、好きだなあ、私、その先輩、そういう転身のし方も。その先輩、哲学に幻滅したのかなあ」

「哲学に幻滅したと言うより、大学生であることに飽き飽きしたんじゃないかなあ……そんなことより、通帳を受け取って、で、希子はどうしたの?自立したわけ?」

「形の上ではね。でも、住まいって不思議なものね。場所であって場所じゃないのね。引っ越した後も…ワンルームマンションに引っ越したんだけど…まとわりついてくるのね」

まず二日間窓を開け放し、マンションまで付いてきた甘い匂いを除去した。次いで、一輪挿しと一本の生花を買って来た。自分の部屋がやっと少しだけ自分の匂いに染まり始めた。と思った矢先、新たな問題が生じた。父親への恋しさが突如として募ってきたのだ。

「どう表現すればいいか、今でもわからない……」

複雑だった。父親を父親として見たことはなかった。父親の何たるかを考えたこともなく、父親にはかくあって欲しいという願望を抱いた覚えもなかった。

かといって単なる初老の男として見ていたわけではなく、もちろん“一人の男”として気に留めていたわけでもない。なのに恋しい。

「恋しいという言葉が適切じゃないのかも。もっと複雑な……」

「そういう気がするでしょうね。私も自分の感情に色々な言葉を当てはめてみたんだけど、だけど、でも結局行き着いたのは恋しいって言葉だった。それと……」

「それと?」

「父親を恋しく思ってる自分に気付いた翌日、その時を待ってたかのように新妻がやって来た。ドアを開けた瞬間、匂いで新妻とわかった。でも、不思議だったのは、さほど嫌悪を感じなかったこと。あれだけ嫌な匂いだったはずなのに。さらに意外だったのはその直後、“部屋にあった忘れ物を持って行くようにって言われたのよ”って言葉を聞いた時、嫌悪感よりももっともっと厄介な感情が湧いてきたことだった」

「怒り?」

「怒りは厄介じゃないでしょ、支配的ではあるけど。……嫉妬。嫉妬だったのよ、驚くことに」

「意外だった?」

「うん。でも、意外だけど、すぐ納得できた。新妻が、持ってきたペーパーバッグを“ここに置いていい?”と言ってしゃがんだの。ワンピースから背中が見えた。肉付きがよくて艶めかしい背中だった。その時、“家の中で父親の目に映る女性はこの人だけになったんだな”って実感した。暗くて鈍いのに痛みのある感情だった。それって嫉妬でしょ?きっと私、新妻がやって来た瞬間から嫉妬してたんだって、その時初めて思った。執着している人が奪われた時、奪った人に抱く感情が嫉妬でしょ?私はきっと、奪われたと思いたくなくて、そんな風に思ってしまうと自分を卑しく感じてしまいそうで、嫉妬してる自覚なしに自立を望むようになったのかもしれないって、その時気付かされた」

「すごいね、希子。そんな風に自己分析できたんだ」

「すごくないよ。20歳の時から今までかけて、やっと言葉にできるようになったんだから。自分の感情が生まれた環境やそれが育っていく過程を、ただぼんやりと眺めているのって身体に悪いから、自分自身にくらい説明できるようにならないとね。東洋哲学を選んだのだって、自分の中に湧いた嫉妬という毒虫をきちんと駆除したいと思ったからなんだ」

「駆除はできたの?」

「それは無理。成虫はやっつけられるけど、卵まで完全に駆除するのは無理。人の感情って嫉妬にとって居心地のいい環境みたいだからね。餌も多いみたいだし」

「成虫だけでも駆除できるようになったら、それだけでも心が身軽にならない?」

「嫉妬に関してはね、多少は身軽になれたかもしれない。でも、嫉妬だけじゃないから、人の心を棲家にしてる虫は。駆除方法だって虫によって違うし。苦手な虫が特定できて、そいつの弱点を知って、それからやっと駆除方法の開発だから、手間がかかるよね」

「希子が発見した、嫉妬って虫の効果的な駆除方法は?」

「執着を根絶すること。嫉妬という虫の大好物だから」

「執着の根絶って難しくない?」

「確かに。難しかった……と言うか、今でも悪戦苦闘してる。いつのまにか執着を根絶することに執着してるという、ホント馬鹿々々しい状況に陥ってたりしてね。執着の種には事欠かないし……」

「執着なしに恋なんてできないしねえ」

「………」

希子の表情が曇ったような気がした。もう午前1時はとっくに回っている。ガード下の人通りはほとんど途絶え、通り抜けていくクルマの数も少なくなっている。スクランブル交差点あたりから聞こえていた騒めきも、もうない。

隆志はすっかり酔いの醒めた頭で、これからのことを考え始めている。別れるにしても隆志が望んでいるようになるにしても、ぎごちない方法はとりたくない。二人の間に些細な煩わしささえ残したくない。

覚醒したまま心地よさに囚われていく、まるで催眠効果のあるような言葉の連続に、隆志は希子にすっかり魅せられている。このまま二度と会えなくなるようなことだけは避けたい。

「恋って、突然言霊となって襲いかかってくると思わない?恋という言葉を口にすると、口にした者同士の間で事実になっていくような……」

希子がしばしの沈黙を破る。

「そうかもね。禁断の言葉かもしれない。事実に言葉が冠せられるというよりも、言葉が事実化していくような……」

「………よし!じゃ、こんな言葉はどうだ。隆志、君は私の14人目の男になる気はある?」

「う、うん」

「よし!じゃ、行こう!」

「え?!行こうって?どこへ?」

「隆志の部屋だよ」

「え?!俺の?この年の男が一人暮らしだとでも思ってるの?」

「違うの?そうなんでしょ?」

「いや、確かに……3カ月前からそうではあるけど……でも、どうしてわかったの?」

「メグが教えてくれた」

メグは隆志の膝を離れ希子の膝に戻っている。メグを撫でる希子の目には慈しみ以上の色が差している。二つの命が飼い主と飼い猫の関係を超え一つの生命体を織りなしているかのようだ。

「よし、じゃあ、メグを連れて俺の部屋に行こう」

隆志は立ち上がる。希子は壁際に手を延ばし、ランチボックス様のものを取り出す。希子の話の中に出てきた通帳を始めとする貴重品のいくつかが入ってでもいるのだろうか。

「持ち物、それだけ?」

「ううん。これはメグの移動ハウス」

「希子の物は?」

「秘密の場所にね、少しはあるよ。いつも持ち歩いてると危険でしょ?執着も生まれるし」

「その秘密の場所、安全なの?離れても大丈夫?」

「安全だよ。安全じゃないと気になるでしょ?気になると……」

「執着が生まれるか……。じゃ、いいね」

 

タクシー乗場に向かう。

立ち上がった希子は思いの外背が高い。170cm近くありそうだ。青のワンピースと思っていたが、実はレイヤード。ワンピースの下にジーンズを身に着けている。メグの移動ハウスを手にして前を行く姿は、郊外の新興住宅街を闊歩するヤンママに見えなくもないくらいだ。

希子の後ろからガード下を抜け出る。異世界へワープしたかのような違和感がある。メグを膝にした希子と話した暗い空間が、むしろ、本来の居場所だったような気がする。

タクシー乗場までのわずかな距離を希子のペースで歩く。希子は振り向かない。

タクシー乗場には10人ばかりの列。いつもの週末より少ない気がする。GW直前の週末、金曜日深夜2時過ぎ。もうすぐ高速道路の下りは混み始めるだろうが、今ならマンションには30分程度で到着できるだろう。

タクシーに乗ると顔を窓外に向けたまま、希子はさりげなく、隆志の膝に手を載せた。

「窓の外眺めるの、好き?」

ポツリと言う。

「タクシーの窓だったら雨の夜かなあ」

「そうかあ。いつもと同じ景色がいつもとは違って見えるもんね。初めて見る景色よりも好き?」

「そうかも。心に残るほどのものはあまりないような気がするね」

「初めてだから刺激的だとも限らないし。安心感の持てる見慣れた景色に新たな発見が次々と足し算されると感動は深くなっていく」

「たった一つの思い出であっても、重層化されたものは味わい深いよね」

膝に置かれた希子の手に力が少し加わる。

甲州街道東府中駅入り口を過ぎる。隆志の身体と意識はガード下の世界から完全な離脱を果たしている。希子は沈黙を続けている。キャリーバッグの中でメグは静かだ。隆志の日常への道程は、彼女たちにとっては非日常への道程。トキメキと不安、どちらがより強く心を占めているのだろうか。

タクシーを止める。府中駅徒歩15分のマンション。多くが都心で働く住人たちの帰宅ラッシュ時は集蛾灯を思わせるエントランスの照明が、今は宿の灯火のようだ。

タクシーを降りた希子は言葉もなく、12階建てを見上げたまま動かない。手にしたメグの移動ハウスがふと小さく揺れた。

「どうぞ」

自動ドアを入り手招きをする。声に唾液が絡む。

「どうぞ」

もう一度言ってエレベーターに先に乗る。行き先は7階。

701号室。3LDK68平米。再婚をきっかけに購入した1室は、今では一人には広すぎる。

到着し鍵を開け振り向くと、メグの移動ハウスを胸に隆志の背中越しに中を窺う希子の目があった。

 


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