昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第二章“とっちゃんの宵山”(短期集中再掲載)  1.京都新聞北山橋東詰販売所……とっちゃんとの出会い

2012年09月21日 | 日記

玄関ガラス扉を開けて正面、2階へと続く階段の下から3段目に、とっちゃんは大股開きで座っていた。タバコを挟んだ人差し指と中指を鼻の穴に突っ込み、入り口に向かってVサインをしているように見えた。

「ごめんくださ~い」。ちょっとひるんだ僕は、ぺこりと頭を下げ、小声で挨拶をした。

するととっちゃんは、フィルター部分まですっぽり口の中に納まっていたタバコを引き抜いた。ジュポンと音がしたような気がした。

タバコが抜けた口から煙をぶーと吐き出すと、「おっちゃ~~~ん。お客さんやで~~~」と奥の方に向かって叫んだ。向き直った顔は、人懐っこく笑っていた。

それが、とっちゃんとの初対面。1年余りの付き合いの始まりだった。

 

その年、1969年。10代終わりの年を迎えていた僕は、目標を見定める心の蓄えもないまま、“今、何を為すべきか?”を突きつけられているような思いだけが募り、ただ右往左往していた。

踏ん切りだ!決意だ!などと寝転がったまま想うだけではいけないと、自立への道へと飛び出した。しかし、“自立なくして自律なし!”とノートに大書し、潔く飛び出した直後には、もう途方に暮れていた。

外に出ていきなり浴びた春爛漫の日差しは、茫洋として掴みどころのない“これからの僕”を象徴しているかのようだった。

次第に“まあ、いいか。帰って寝るか”に傾いていく心を情けない思いで見つめながら鴨川の堤防を北上。そろそろ引き返そうと思った北山橋のたもとで見つけたのが“京都新聞販売所”の看板だった。小学生の時から新聞配達の経験がある僕には、馴染み深い看板だった。

入り口に近付いてみると、“新聞配達員募集中!”の貼り紙。これだ!これこそ、巡り合わせというものだ!と玄関を開けたのだった。

 

「なんや、とっちゃん!大きな声はあかん言うてるやろ、いつも。もう~!」と、小太りのおっちゃんが奥から出てきた。歩くと汗ばむほどの陽気とはいえ、クレープのシャツにステテコという姿に、僕は思わず顔をそむけた。

「なに?」と一瞬ギロリと僕に向けられたおっちゃんの大きな目は、すぐに柔らかくなった。「配達?したいん?」と、カウンターに手を掛ける。とっちゃんものそりと階段を離れ、近付いてくる。横に来てみると、身長165㎝くらい。僕より少し小さい。身を低くして見上げるように観察の態勢に入った顔の、顎のしゃくれがやけに気になる。

「そうなんです。大丈夫でしょうか?」と応えると、おっちゃんよりも早くとっちゃんが「ええんちゃう?なあ、おっちゃん」と反応する。

「とっちゃんは、黙っとき!」。おっちゃんにたしなめられるが、とっちゃんは蛙の面にションベンの風情。のそりと、階段に戻っていく。

途中でほとんどフィルター部分を残すのみとなっていたタバコの灰を落として叱られ、首をすくめる。下から3段目に腰を落ち着けたとっちゃんを確認し、おっちゃんはカウンターから少し身を乗り出す。

何か言いたげな風情に、おっちゃんに耳を寄せると「ちょっとな、遅れてるんや。気にせんといてや」と指先だけをそっと頭へ向けて苦笑して見せた。「いえいえ、大丈夫です」と言い、思わずとっちゃんの方に目をやろうとすると、おっちゃんは小さく首を横に振り、「見たらあかん。見んといたって」と小声で言った。

 

僕の注意を逸らしながら、簡単な面接終了。「住み込み?通い?どっちでも好きなようにして。どっち?…そうか~。通いやな。ほな、説明しょうか」と、カウンター下から地図を取り出した。

広げると、すすっととっちゃんが近付いてくる。メモを覗き込み、「おっちゃん、これなんて読むんや?」と僕の名前を指差す。「柿本さん、言う人や」とおっちゃんが面倒臭そうに答えると、「ガキガキか~」と僕をにやりと下から見上げる。

「ほれ!ここ、ここ」と言うおっちゃんの方に向き直ると、広げた地図の赤線で区切られたエリアの一つを指差している。植物園の南側、そこそこ広い一角だ。

「広いやろ~。お屋敷ばっかりやからなあ。ま、すぐ慣れるやろ。全部で、210部かな?ま、後はカズさんに聞いて。…カズさんは、配達先を全部知ってる人やから、な」。

あまりのトントン拍子に、茫然と「はい」「は~」を繰り返していると、顎の下からとっちゃんが「一番しんどいとこやな~~」と小声でにやつく。聞きとがめたおっちゃんに、振り向きざま「あほ言いなや。いらんこと言うたらあかん。あっち行っとき」と叱られ、首をすくめて階段の定位置に戻って行った。

「お屋敷ばっかりやからなあ。ちょっとしんどいかもわからへんけど、その分、他のとこよりちょっとだけ給料よくしてあるから。な、気にせんといて。まったく!とっちゃんの言うことあんまり聞かんといてな」

おっちゃんのやや焦り気味のフォローに、むしろとっちゃんの言ったことの正しさを感じつつ、「いえいえ、大丈夫です。是非、お願いします」と僕は、京都新聞北山橋東詰販売所の“通い”の配達員となった。

給料は、23,000円。下鴨神社近くの下宿代5,000円を含め、生活費は17,000~20,000円で事足りるため、十分な額だった。

 

スーパーカブに乗って販売所に帰ってきたカズさんは、30代前半。中肉中背で、人との距離をわきまえた大人の顔は浅黒く、汗で光っていた。

「一週間は一緒に回ってあげるし、心配せんでええから。意外と早く憶えるもんやから、な。とっちゃんは、時間かかったのお。なあ、とっちゃん」。

うふぇ、うふぇと笑った後「1ヶ月やったかなあ、カズさん」ととっちゃんが言うと「あほか!2ヶ月やろ!いや、3ヶ月やったかなあ…」と、カズさん。

「せやけど、とっちゃんのエライとこは、憶えてしまうと絶対失敗せえへんことやなあ。なあ、とっちゃん」と、フォローも忘れない。

「こないだかて、…雨の日や、なあカズさん。……」。お客さんからの朝刊欠配のクレームに、「絶対!配った」と言い張り、おっちゃんの再配達の指示を頑として聞き入れなかったとっちゃん。二人をなだめたカズさんがスーパーカブで駆けつけると、ビニール袋に入れられた新聞がポスト下の庭草の中に落ちていた、という。

とっちゃんが誇らしげに語る間、カズさんは「そうや。……せやったなあ」と相槌を打ちながら微笑んでいたが、終わると「ええから、そこに座っとき」と、興奮気味に立ち上がりこちらに来ようとするとっちゃんを制し、「こないだ言うても、去年の梅雨の頃のことやけどな」と、僕の耳元で言って笑った。

 

朝5時半に来ること。チラシを入れる作業があること。チラシが多い時は、予めカズさんが束ねておいてくれること。自転車が1台貸与されること。給料日のこと。……。手慣れた簡潔な説明を聞き、店の前に並んでいる黒い自転車の中の1台の鍵を受け取った。

「明日から来んの?せやったら、明日はちょっと早めにしょうかあ。5時、な」ということになり、僕は自転車で下宿に帰った。お昼の鴨川の堤防の風が爽やかだった。

                                  Kakky(柿本)

次回は、明日9月22日(土)です。

注:第一章はドキュメンタリーです。第二章は経験が元になっています。第三章は、経験を元にしていますが、ほぼ創作です。 人名は、第一章以外、すべて架空のものです。 “昭和少年漂流記”は、第四章か第五章で終わります。


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