昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

第三章:1970~73年 石ころと流れ星   ⑤

2011年04月01日 | 日記

当初は、仕事の充実感って、こういうものなんだろうなあ、と思った。両手に一杯の荷物を持ってなんとかバランスを取っていると、「なんだ~~。まだまだいけるやんけ~~」と気軽に、ぽんとまた乗せられる。それをまたなんとか持ちこたえて運んでいると、ふっと慣れてくる。すると、「なんや~~。もっと運べるんちゃうか~~」と、また荷物を乗せられる……。そうして続く緊張感が、充実感になっているんだと、と思った。

12時半を過ぎると、連日が綱渡りのようだった。フロアで注文を取り、コックに通すと洗い場へ。一つしかないシンクに第一陣のお客さんのお皿や丼を溜まったままにしておくわけにはいかない。洗いながら、来店する人に目を配り、声を掛けてお冷を運ぶ。お会計の人が立ち上がると、間髪入れずにレジへ。その度に、手についた泡を流し、流しの前に掛けてあるタオルで拭く……。一週間で慣れてしまった一連の行動だったが、そこに出前が加わった。電話が鳴ると、「おい!」とすかさずコックが顎を捻る。「電話、濡らしたらあかんで~!」と言われているので、手を拭き受話器を取る。注文をコックに伝え、住所と場所をメモ。洗い場に戻り、カウンターの裏に置いてある地図で場所を確認する。その間にも、お客さんは入ってくる。「なんぼや~~?」「勘定して~~?」の声は掛かってくる。出前をして帰ってくると、「お客さんやぞ~~」「お会計、待ってはるで~~」とコックに言われる……。

しかしそんな状態にさえ、一週間で慣れた。小さく要領を覚え、お客さんに甘えることも覚えた。パタパタと動いている姿に無駄がなくなると、お客さんはある程度待ってくれるものだとわかった。すると、連続している作業に余白ができるようになった。その余白をお客さんとのささやかな会話に使うようになった。自分の店、自分のお客さん、という意識もうっすら芽生えてきた。そして、さらに充実感は増していった。仕事に深さと味わいが生まれてきたようにさえ、感じ始めていた。

6月下旬。梅雨入りしたと思わせる雨が3日続いた夜。閉店後に、またコックにビールをご馳走になった。お客がほとんど手つかずで残した肉団子をつまみに、飲み始めた。僕はきっとねぎらってくれるんだろうなあ、と思った。5月の連休後、2日連続でもらう約束だった休みも、ないままだったし、出前は売上にきっちりと貢献していたからだった。

「明日から、料理を教えたるわ。店を閉めた後、30分くらい、どや?夜中に連れがよう来てるみたいやけど、ええか?」。コックの話は、意外なものだった。

「炒飯、餃子、ラーメン、八宝菜くらいやったら、すぐ覚えられるやろ。そや!八宝菜作れるようになったら、中華丼もできるわ。そんだけできたら、店やってもええくらいやわなあ」。にんまりとしながら、タバコを勧めてくる。

何を求められているのか、どんな期待が込められているのか、僕にはわかりかねた。ただ、中華料理を覚えるということは、とても興味深かった。

「教えてください」。僕は、身を乗り出していた。「よっしゃ~~。ほな、明日からな」とコックは、一本だけ箱から頭を出していたタバコを箱ごとくれた。

翌日夜から、中華料理レッスンは始まった。しかしそれは、予想していたようなものではなかった。まず、コックが手順を説明しながら作る。それを凝視していた僕が、同じ手順で作ってみる。調味料の分量も目分量。出来上がると、コックが食べて一言。たくさん作ってももったいないからということで、それを2回繰り返す。といった具合。1週間もすると、「飲み込み、ええなあ」と、終了してしまった。味付けへのこだわりは、ついぞ聞くこともなかった。

そして数日後、コックの僕に対する1週間の付け焼刃的特訓の意図がわかった。昼寝だった。

2時以降は滅多にないお客だが、店を閉めているわけではないからやってくることもある。多くてせいぜい5名くらいなのだが、それが面倒になったらしかったのだ。

「お前で大丈夫や。作ったって~~」と、呼びに行った僕に背を向けたままコックが言った時、気付いた。卑しい策略だったのだ。

 

*月曜日と金曜日に更新する予定です。つづきをお楽しみに~~。

 

もう2つ、ブログ書いています。

1.60sFACTORYプロデューサー日記(脳出血のこと、リハビリのこと、マーケティングのこと、ペットのこと等あれこれ日記)

 2.60sFACTORY活動日記(オーセンティックなアメリカントラッドのモノ作りや着こなし等々のお話)


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