昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との4泊5日     ④

2017年10月11日 | 日記

天使との4泊5日     ④

 

バスルームから戻ると、希子はまだ熟睡の中にいた。隆志の足音にメグが顔を上げる。昼光の下で見ると、もう子猫ではなさそうだ。

そこに希子がいる、その横にメグがいる、そんな光景が休日の午後の陽だまりの中にあることに、自然と笑みが漏れる。

家庭を存在し継続させていくことができるのは、“あるべき処にあるべき存在がある安心感”。そんな独りよがりの家庭観が意味のないものだと改めて思い知らせて以来、住空間や家具や持ち物との馴れ合いのような関係は築かないように意識してきたつもりだった。が、今、希子とメグと陽だまりの光景に感じる安心感と喜びは否定することはできない。

こうして希子とメグを見ていて自然に湧いてくる微笑みは、希子とメグとの関係とは無縁かもしれない。生命がそこにある。自分と共に同じ空間にある。それを実感できる喜びが頬に漏れ出たものなのではないか。

 

「慣れてはいけないことに慣れてしまった結果じゃないの?お互いが」

離婚の話し合いを始めた時、紗栄子はそう言った。

その意味するところは理解できたが、それを離婚の原因とすることには抵抗があった。

“愛しい存在はあるべき処にあって欲しい。いつも感じることができるように”と願うことは、希子に言わせると“それは執着だ。廃棄すべきものだ”ということにでもなるのだろう。だが、“愛しい存在はあるべき処にあって欲しい。いつも感じることができるように”と願うことが忌まわしいことだとは、どうしても思えない。やがて“慣れてしまう”可能性が高く、それが継続を困難にすることがあるとしても、だ。

今この瞬間、希子とメグの存在は愛おしく、リビングに溢れる光は輝いている。この瞬間が続くことを願ってはいけないなんて…………

 

手塚の身勝手な退学の動機を聞いてから1カ月以上が経った。

その間、手塚とは学校で会うこともなく、“ブラック&ホワイト”への誘いの電話も絶えてなかった。

隆志は、もう手塚は退学し印刷会社を継いでいる、新事業に手を染め始めているかもしれない、と思っていた。

そんな10月初旬。ナオミから電話が着た。

「これから行っていい?」

1カ月余りの時間を一気に吹き飛ばすような明るい声だった。

「いいですよ。で、いつ頃……」

「今、銭湯の前の公衆電話」

「え、え~~~!ちょっと待ってください。ちょっと……」

「片付けなくていいよ。じゃあね」

見られてはならないものを毛布の下に突っ込み、敷布団ごと丸めた。

「もう着いちゃった~~~」

2分もしないうちに、部屋のドアがそっと開けられる。

「あ、こんばんは~~」

語尾が掠れる。

「酒持ってきたよ~~」

手には一升瓶がぶら下げられている。隆志はその印象の変化に一瞬戸惑う。

髪は短く刈られ、化粧はほとんどない。スカイブルーのポロシャツにピンクのトレーナーを重ね、ボトムスはスリムジーンズ。

初めてアパートの前に現れた時とは大きく異なるボーイッシュなイメージは、環境の変化によるものか、心境の変化によるものなのか。

「ビックリした?」

少年になった頭を撫でながらナオミが微笑む。

「いやあ、別人かと……」

「それは誉め言葉と取っておこう!」

部屋を見回し、一升瓶を隆志に手渡す。

「秋が来たんだなあ、って感じね」

以前座った場所で足を投げ出す。

「コップで、いいですか?」

コップと一升瓶をテーブルに置く。

コップ2個に並々と酒を注ぐ。ナオミは斜めに座り直し、コップをそっと持ち上げる。

「こぼれちゃうじゃない」

口を近づけて少しすすり、コップを掲げる。

「乾杯!」

まだ置かれたままの隆志のコップに自分のコップを重ねると、半分ほどを一息で飲む。

隆志はソファ代わりの布団に腰かけ、その様子を見ている。ナオミの指先と爪が紫に染まっている。

“染色を始めたい”という夢へ、ナオミは歩み出しているようだ。耳に以前あったピアスはない。

「さて、前回の話の続きだけど……覚えてる?」

「覚えてますよ」

「じゃあ、話は早い。隆志君の言ってた定型って言葉だけど、言い換えるとポリシー?」

「ポリシー?……うん。そうかもしれない……でもちょっと……」

「違和感がある?」

「ありますね。ポリシーって、意味が日本語化されないまま使われているカタカナ言葉の一つのような気がする」

ナオミはテーブルに両手を付く。

「誰もはっきりと解説しないまま、価値ある言葉のように使われている言葉ってこと?」

「日本語にされていない言葉や日本語にしにくい言葉って怪しい。権威ある人が使い始め、やがてそれがまるで予め存在していたものかのように使われ始めるカタカナ言葉やそんな言葉で規定される概念や思想は、残念なことに、個々の人間の問題は解決できないし、救いにもならない。使う人の権威主張の小道具のようにしか思えない時もあるくらい」

「それ、わかるような気がする。言葉で本当に救われたことってないような気がするんだ、私」

ナオミは一升瓶に手を延ばす。

「大丈夫ですか?もう2杯目ですよ。ピッチ、早過ぎません?」

「秋は日本酒だねえ。今夜はこれ、飲み切っちゃおうぜ」

ナオミは隆志の空いたコップにも並々と注ぐ。少し溢れたが、気にする様子はない。

「隆志君が残念に思ってるB君が持っていたのは、じゃあ、ポリシーじゃないんだね?」

「うん。僕は定型と言いたいな。親や近所の大人や教師たちから聞かされた色々な言葉を抱え込んでいる間に、子供は子供なりにある確信のようなものに行き着く。それが、B君が持つようになった定型。言葉にするだけの語彙もなく、定型といってもまだブヨブヨとして固まり切っていない危ういもの」

「なるほど。だから、A君の拳や担任の言葉に簡単に破壊された」

「でも、B君のブヨブヨした定型がそのまま固まってしまえばよかったかというと、そうとも言い切れない」

「常套句や常識だって簡単に陳腐化するくらいだからね。少年が抱える定型なんてブヨブヨしたものであろうが固まったものであろうが、やがて本人に捨て去られる運命のものかもしれないものね」

ナオミはそう言って首を垂れる。そのまま数秒間の沈黙が訪れる。

「実はね」

ナオミが首を上げる。悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。

「ここに来る前に、もう飲んでるの」

「やっぱり!そんな気がした」

「ワンカップ2杯だけ」

「そんなに!?じゃ、もう止めた方がいいんじゃ……」

3杯目にいこうと一升瓶を握るナオミの手を押さえる。

「わざわざ買ってきたんだよ、一緒に飲もうと思って。邪魔しちゃダメ!」

ナオミは中腰になり、力ずくで一升瓶を引き寄せようとする。

「手塚さんと話しました」

一升瓶を両手で押さえたまま、隆志はナオミを見つめる。

「うん。知ってる」

ナオミに驚いた様子はない。

「手塚さんから聞いたんですか?」

「そう。だから私も“隆志君のアパートに行ったことあるよ”って」

「それを聞いて手塚さんは?」

「普通だったよ。彼のポリシー、わかるでしょ?」

「説明はできないけど、なんとなく」

「でしょ?だって、それがポリシーというものだから。ね」

「手塚さんのポリシーは説明できなくても、手塚さんとナオミさんとの関係がどういうものか、ということだったら、僕なりに説明できますけど」

「いいねえ。よし。じゃ、説明してもらおうじゃないの」

ナオミはテーブルに頬杖を突く。隆志はコップを空ける。すかさず、酒が注がれる。

「タイプが違う。違うから引き寄せ合う。というのがスタート……」

隆志の分析が始まる。ナオミは笑顔を絶やさない。

 

“言葉の民”と“感性の民”との出会いは刺激的だった。“言葉の民”のストイックに人の行動や心理の実体を追い求めていく姿勢と、その口から発せられる未知の言葉は“感性の民”には刺激的だった。“感性の民”はいつも聞き惚れた。二人はまるで、教師と生徒のような関係だった。

やがて生徒は成長し、教師の知識と見識の多くは書物がもたらしたものであることを知ることになる。

生徒は書物を読み漁る。“感性の民”は少しずつ自分の言葉を持つようになる。それにつれて、教師と生徒の関係は微妙な質変化を見せ始める。

生徒の卒業の日が訪れる。二人だけの閉ざされた教室には教師が取り残される。卒業した生徒は教師の影響を残しつつも、自分本来の姿を見つめ直し始める……。

 

「よくできました!」

ナオミは手を叩いて座り直す。

「実によくできてるけど、実はありふれたお話だよね。大学生同士の同棲が始まり終わる、巷に転がってるようなお話。男の言葉と女のフェロモンの出会いがあって……」

突然口をつぐむ。俯く肩が少し揺れたような気がする。

「結婚はしないんですか?」

「しないことになるのかな?」

「まだ決定ではない?」

「すべては私の手の内にある、って手塚君は言うんだけどね……でもね」

「手塚さん、プロポーズしたんでしょ?」

「うん」

「ナオミさんを失いたくないんですよ、手塚さんは」

「だとは思う。でも、それはきっと二次的な目的。一次的な目的は、手塚君自身の退学と会社を引継ぐことの正当化。“それでいいと思うよ”って、自分の選択の正当性を私に認められうこと。そして、私にずっと応援し続けてもらうこと」

「手塚さんは自分を認めてくれる存在として、ナオミさんを必要としているのでは?」

「自分を立派に映してくれる姿見のようなものとして、じゃない?」

「だからこそ大切」

「姿見だって、姿見が欲しいよ~~」

ナオミの一升瓶に延ばした手が虚空を掴む。

隆志は一升瓶を既にテーブルから下ろしている。

「“先に言葉ありき”って、嫌だ!」

ナオミが叫ぶ。

「言葉に実体を持たせようとするより、実体を言葉化する方がいい?」

「そんなに難しいことか?一緒にいることが。お互い困った時は肩を貸すってことじゃダメか?」

「結婚となると……」

「同棲と何が違う?ねえ、何が?結婚て特別?」

「手塚さんは、ナオミさんとの関係をきちんとしたいだけで。結婚したって、ナオミさんはナオミさんのままでいいって。何をしてもいい、やりたいことをさせてあげたい、って」

「それだ!それだよ、隆志君がもう一つ言ったこと。私が気になってること。ほら。思い出して!」

「今僕が言ったことと関係が?」

「ある!ある、ある、ある」

「………………あっ!」

「やったあ!思い出したな」

「“非所有の所有”かなあ」

「それだ!もう一度、しっかり説明して」

 

自由は保証されている。監視する者も見当たらない。しかし、所有されている。

被所有者たちは自主的に居場所を決め行動範囲を設定し、逸脱することなく留まる。

見えない柵を自分で思い描き、ありもしない枷を自らにかけ、繋がれてもいない鎖の長さを行動範囲と決め、存在してもいない看守の目を気に掛ける。

それを可能にしているのは所有者の言葉と存在そのもの。言葉に魅せられ存在を畏敬し、自ら進んで所有者に服従することなく従属し、被所有者となる。まるでそれが唯一無二の正しい選択であり、そこが選ばれた最高の安寧の場所であるかのように。

 

「そうそう。そんな感じ。で、結婚はそういうものだって、隆志君、言わなかった?」

「それは言ってない。結婚はそうなりがちだ、とは言ったような気がするけど。でも、本当に言いたかったのは、“非所有の所有”を望む人は最強の独占欲の持ち主だってこと」

「その通りよ。手塚君との結婚に感じた嫌な予感を言葉にすると、きっとそうなる。真理や完璧を求めるエネルギーの源だって強い独占欲かもしれない。一緒に暮らしてた時は感じなかったけど。感じないほど強大な独占欲にくるまれていたのかもしれないし」

「一緒に暮らし“てた”って?」

「結婚は断った~~~」

一升瓶に、酒は残り少ない。来る前に飲んだというワンカップ2本を含めると、ナオミは既に相当量を飲んでいることになる。限界は近い……。

「ナオミさん、大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃな~~~い」

「送りましょうか?」

「手助けはいらない!一人で帰る」

「家はどこなんですか?」

「恥ずかしながら、まだ手塚君の部屋」

「でも、結婚は断った……」

隆志は言葉の続きを飲み込む。ナオミは酔い潰れかかっている。一人で帰せる状態ではない。手塚のマンションは電車で2つ目の駅近く。遠くはない。タクシーで帰した方がよさそうだ。

「送ります!」

ナオミに腕を延ばす。

「じゃ、送ってもらおうかな~~」

立ち上がることはできたが、ふらついている。

「さ、行きますよ」

ナオミの腕を肩に回し、ジーンズのループに指を掛ける。駅とは逆方向、幹線道路までなんとか辿り着かなくてはならない。

「よし、行くか~~」

呂律があやしい。立ち上がった途端、酔いがさらに回ったように見える。

「ナオミさん、靴は?」

アパートの玄関まで連れ出し、上がり框に腰を下ろさせる。

「それ~~」

顎で指し示す先にあるのは雪駄。

「これ?」

手に取り、ナオミの酔眼の前に突き出す。

「それだ~~」

雪駄を取ろうとする手が揺れる。足を取り、履かせる。まだ履き慣れていないせいか、鼻緒に指が通らない。両足とも突っかけた状態で表へと連れ出す。

肩を組み、ジーンズのループに通した指に力を込める。腰を引き上げながら歩き始める。

数歩も行かないうちに、ナオミの片足から雪駄が外れる。後ろに残された雪駄を、しかし、拾い上げる術がない。下がることは難しく、しゃがむことなどできそうもない。

「ちょっとここに座っててください。大丈夫ですか?すぐ来ますからね」

アパート前に停められた自転車の荷台にナオミを腰掛けさせる。

急いで雪駄を拾い上げ、引き返す。ナオミの上半身が揺らいでいる。歩かせることは最早難しそうだ。

「おんぶしますよ」

ナオミの耳に告げ、もう一方の雪駄も爪先から外す。

「わ~~い。おんぶだ~~」

満面の笑みで両手を高く上げる。その手を両肩に導く。

「行くよ~~」

ナオミを背負う。思ったよりも軽い。

一歩ずつ、慎重に歩み始める。が、数歩でずり落ちそうなる。立ち止まり、ナオミの両腕を首に巻き尻を下から支える。幹線道路まで、なんとかこのまま行けそうだ。

しばらくすると、首に巻いた腕に力がこもる。前屈みの目を上げると、前方に“ブラック&ホワイト”の電飾看板。

「……………」

背中に小さな揺れを感じる。

「ナオミさん、大丈夫?」

精一杯首を後ろに回す。ナオミのショートカットの頭が肩に押し付けられている。微かなフローラルの香りがする。

「ナオミさん」

あやすように背中をゆする。ナオミの嗚咽が一瞬止まる。

「ナオミさん………」

もう一度声を掛ける。首に回した腕に力がこもる。重い吐息が首筋に吹きかかる。

“ブラック&ホワイト”を通り過ぎる。

「て…づか…くん」

ナオミの嗚咽交じりの呟きが、隆志の胸を締め付ける。足を速め、幹線道路まで残り20mを急ぐ。

到着する。背中からナオミを下ろし肩を抱く。通り過ぎる車のライトが表情を照らし出す。微笑む目元に涙が光っている。

「ごめんね………化粧してこなくてよかった~~」

隆志はナオミから目を逸らす。

「ね、よかったよね、隆志君」

ナオミは隆志の肩を揺する。

タクシーを止め、ナオミの手を肩からほどく。

「大丈夫ですか?」

脇を支え顔を覗き込む。ナオミはくるりと隆志に体を向ける。タクシーのドアは開いている。

「気を付けて」

ドアの端を隆志の手が押さえる。

「ありがとうね」

乗車直前、ナオミは隆志の頬にキスをする。

ドアが閉まる。ナオミの顔が窓に貼りつく。タクシーが出て行く。ナオミの口が何かを告げるように動くのが見える………。それが、ナオミとの最後の瞬間だった。

 


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