昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との4泊5日   ②

2017年10月09日 | 日記


天使との4泊5日  ②

 

リビングに通す。希子はすぐにメグを移動ハウスから解放。メグは辺りを少し嗅ぎ回り、キッチンから隆志が運んできたトレイの水に口を付ける。

「お腹空いてないかな?」

隆志はメグにしゃがみ込む。と、笑い声がする。見ると、フローリングを撫でる希子の笑顔がある。凭れたソファの上にはストールが丸められている。

「隆志、緊張してない?」

「いや。……うん。少しね」

「リラックスしたら?」

「それはそうだけど……」

「隆志の居場所なんだから」

「まだ慣れてないのかなあ、俺個人の居場所として」

「そうね。一人の暮らしに部屋の空気が馴染んでないような気はする。フローリングの感触もね」

「勘がいいんだね。空気や感触で場所と人との関係がわかるんだ」

「勘だけじゃないよ。隆志が教えてくれてる。緊張感ほどわかりやすく伝わりやすいものってないじゃない」

「でもそれは……」

「私とメグが現れたから?でもそれだけじゃない。自分の場所に迎える安心感をあまり感じないから。まだ部屋が安心を保証してくれてないのかなあ………緊張感なんて身体の外に追い出さなくちゃ」

「どうやって?」

「緊張感も執着が生み出すものの一つ。新しい執着が芽生えてきてるから緊張する。だから、執着を生む原因となっているものときちんと向き合わなくちゃ」

「それが体外に追い出すことに……」

「“お前の正体を見極めてやる”って見つめればいいのよ」

「わかるような、わからないような……」

「ほら。今はどう?メグに水を上げた時と比べて、緊張感、それほどでもないでしょ?」

「うん」

「私と向き合ったから」

「そうかもね。でも、また新しい緊張感が生まれつつあるような気がする」

「それはいいことよ。一歩前進。私も望むところだから、安心して。でも、その前に……」

希子は立ち上がり隆志に背を向ける。と、おもむろにワンピースを脱ぎ始める。

セミロングの黒髪をかき上げてはらりと下ろし、丸めたワンピースを無造作にソファに投げ落とす。

小ざっぱりとしたジーンズとロンTは、希子がガード下にいたことなど想像だにさせない。

「きれいにしてるんだね」

ふと漏らした声に、希子はくるりと振り向く。

「ワンピースは私の衣装だから。脱がないと私もリラックスできないの」

「衣装?」

「外界、特に男を意識した衣装。防具と言ってもいいかな」

「防具?ワンピースが?ジーンズじゃなくて?」

「ワンピースは弱々しく見えるから?そうね。そうイメージしてるわね、ほとんどの男は。でも、それはどうだろう。見たいように見てるだけかもしれないよ」

「確かに男のほとんどはそうかもしれない。俺も含めてだけどね」

「そして、そんなイメージに振り回されてる」

「女らしさとか男らしさって認めないのかな?希子は」

「そんなものあったっけ、て感じ。そんな言葉が存在し価値基準になってることが男女を巡る諸悪の根源かもしれないよ」

「でも、希子が衣装であり防具としてワンピースを利用しているのは、そんな価値基準に合わせて……」

「衣装くらい合わせたからといって価値観まで奪われることはないから。だから衣装なの……防具なの」

「ワンピースと防具って、しかし、どうしてもイメージに適合性がないなあ」

「囚われてるわねえ、隆志も。ワンピースを身に着けたハリネズミをイメージしてみて。男の偏見て女の偏見より傲慢だから、それに合わせる術を持っていないと、かえって危険なの。だから、ワンピースは衣装で防具」

 

一人暮らしを始めた直後に、厄介な嫉妬という感情と向き合わざるを得なかった希子は、女子大でさらに面倒な感情の交錯を経験する。

学業成績という数値化された評価基準で互いの優劣を認識する方法を失った同級生たちは、解き放たれたかのように明るく自由に見える一方で、自分の価値と居場所を見出せない心許なさを感じさせていた。学生同士の何気ない日常会話は通りがかりの挨拶の領域を出るものではなく、学食やカフェで交わす会話は実父の葬式後の女たちの騒めきを思い出させるほど不快なものだった。好奇心は掻き立てられず、ひと時の癒しを得ることも出来なかった。

夏を迎える頃には騒めきは女の色香を漂わせ始め、秋には学校に顔を見せなくなる同級生も現れ始めた。希子はそんな同級生たちの変化をありふれたものだと思おうとした。が、そう思うほどに内側へと傾いていく自身のエネルギーに困惑させられてもいた。そこにはいつも、嫉妬や蔑みといった扱いにくい感情が横たわっていたからだった。

一つをつまみ上げると他も顔を覗かせ、やがて列をなして攻め込んでくる劣悪な感情たち。どこから生まれてくるものなのかと覗き込めば漆黒の中に蠢く影を認めることはできるのだが、その真の正体の何たるかは判然としないままの不快な感情たち。

それらが生命の根源をつかさどる人の欲望と親密に絡み合っているものだとは理解できたが、だからといって容認し受容できるものではなかった。

まるで宙に浮いたメビウスの輪を歩き続けているようだ、と希子は思った。進歩も退歩もないまま同じ地平線を行きつ戻りつしているだけだ。輪を断ち切るか、輪から飛び降りるか、どちらかしかないだろう、と思った。しかし、そのための手段は見つからず、専攻した東洋哲学も役には立ってくれなかった。

「でもね。ある日その時は訪れた。機会を与えてくれたのは男。ありふれた話でしょ。彼は6歳年上の既婚者。初めての男だった。これもありふれた話よね。そして、きっと隆志の頭に今既に浮かんでいるようなお決まりの話が展開していくわけだけど、最後に私が得たものは大きかった……大丈夫?眠いんじゃない?でも、もう少し話をさせてね……20歳になって間もなくからだから、ちょうど1年。彼はたくさんの“初めて”を私に与えてくれた。それはもう刺激的だった。反応の仕方もよくわからないほどだった。そして、一つひとつの経験に目を瞠っている間に1年が過ぎ、目を瞠った経験の一つひとつが慣れ親しんだものになった頃、ふと別れが訪れたの。振られたわけじゃなく、振ったわけでもなかった。終わった、と言った方がいいのかな」

終わりの始まりは、ある夜、彼の行き付けのバーのカウンターだった。フォアローゼスのロックに口を付けた瞬間、ふと父親が頭に浮かんだ。その表情は謹厳実直な性格そのままだった。

隣には想いを寄せているはずの彼の横顔がある。1杯目のグラスを空け終わろうとしている、その横顔には父親の面影の欠片一つない。にもかかわらず、彼への想いに父親への想いなど重ねていないと言い切る自信はない。

希子は初めて、彼に自分の過去の詳細を、実の父親の死から語り始めた。母親の再婚、母親の死、義父の再々婚、そして、大学生としての一人暮らしの始まり……。そこにまで至って、ひと息付いた。

グラスを口に運ぶ手を止めて聞き入っていた彼が、残っていた2杯目を喉に流し込む。希子はその瞬間をとらえ、自分の中で不意に芽生えた義父の新妻に対する嫉妬心について語り始める。彼の喉がゴクリと鳴った。

自分の中にある嫉妬という不愉快な感情と向き合ううちに、同級生たちに違和感を覚え始めたこと。やがて、執着が諸悪の根源ではないかと思い始め、自分の執着心と闘い始めた。すると、宙に浮いたメビウスの輪の上をふわふわと歩いているような、心許なく足掛かりも手掛かりもない日々が訪れた……。

希子は18歳からの2年半余りを総括するように語った。いつもは饒舌な彼は、一言も発することがない。

希子は話の最後を彼への感謝で締めくくろう思った。“まるでマイフェアレディのイライザの気分だった”という台詞も思い付いていた。しかし、実際に口から出てきた言葉はそうではなかった。

「それが堂々巡りをすることになっている道だとわかっても、その道を踏み外すことはできなかった。空中回廊のようなその道から足を踏み外すと、寄る辺のない無限の飛翔体になってしまうようで怖かった。でも、飛翔することの大切さと飛翔の心地よさ、そして何より、飛翔はやがて着地で終わるものだ、ということを貴方は教えてくれた。着地するのが再びメビウスの輪の上であっても、そこに飛翔したことの意味は残る、ということもね。私は執着や無駄な欲望から自分を一時的に解放する術を教えてもらった。私は翔べる女になったの」

すると、彼は「ありがとう」と言った後、セックスの話を始めた。ほとんどは男女それぞれにとってのセックスの効用についてだった。

自分の意図せざる方向へと流れていった彼の話に、希子は戸惑いを隠し切れなかった。が、自らが使用した“飛翔”という言葉が生んだ誤解あるいは拡大解釈だと考え、聞き入るふりをした。しかし、彼は希子の戸惑う表情を見過ごさなかった。

彼は話題を巧みに転換。希子の口から出た“嫉妬”という言葉にスポットを当て、彼女の義父とその妻への想いの分析を始めた。途端、彼の言葉は希子の耳に届いて来なくなった。

希子は口を挟んだ。

「いつもいっぱい話をしてくれたことにも感謝してる。人と人の間には意志を伝えるため以上のたくさんの言葉が必要なものだと教えてもらった」

すると彼は、4杯目の最後の一滴を舌に落としながら意外な反応を口にした。

「男女の会話って、ほとんどが前戯だからね。相手によってツボも違うし、強弱や時間も変える必要がある。もちろん、すべてはお互いのためなんだけど……」

そう言ってグラスを覗き込み、中の氷をカランカランと転がした。

それが、終わりの終わりだった。

「彼は私が“意外と面倒な女なんだ”と気付き、私は私で彼が“心を語り合う対象ではない”と知った。……そういうことかな」

 

隆志は鼻先をくすぐるフローラルの香りで目覚める。なじみ深く懐かしい香りだった。

薄く目を開ける。ベランダ側のサッシに下りたブラインドの隙間からリビングの床に陽が差し込んでいる。正午は過ぎているようだ。まだ眠い。

休日の遅い朝。隣には妻の紗栄子がいて、隣室では小学校に入ったばかりの娘由香がミニコンポで好きなアイドルのCDを……。なんて懐かしく穏やかな朝……………

首を起こす。寝室ではなくリビングだ。目に入ってきたのは、フロアで横になっている黒髪と、肩までをストールでくるんだ女性の身体。フローラルの香りの源でもあった。

ミャーと鳴く声がして、ストールの胸の下あたりから小さな白い塊が現れた。瞬く間に昨夜のことが蘇る。そうだ。メグだ。すべてはこの子猫から始まったのだ。

渋谷ガード下での不思議な希子との出会い。希子によって語られた彼女の過去。意識や価値観の変遷。印象深い言葉や言い回し。それらのほとんどすべてが心に届き、多くは留まっている。少しハスキーな声と抑揚のない喋り方が心地よかった。一緒にいたいと思うようになった。抱きしめたいと思うようになった。声、言葉、価値観、そして肉体……。希子のすべてが心地良く自分の中に溶け込んでくるだろう、と思った。そして、「14人目の男になりたくないか?」と言われた。彼女も想いはきっと同じだったに違いない。

タクシーに乗った。部屋に入った。希子は何かを感じ取っていた。メグもそうだ。いや、メグが感じ取った何かが彼女に伝播しているようにも見えた。

彼女の初めての男の話も聞いた。興味深い話だった。そして……しかし、その後の記憶がない。話の中途で眠ってしまったのだろうか。しかし、だとすれば床に眠る彼女の髪から漂ってくるこのフローラルの香りは……。紗栄子が残していったシャンプーの香り……

肘をつき半身を起こす。希子の横顔を覗き込む。陽の光の中で眠るその横顔は、深く小さな寝息を立てている。

執着心と闘い、依存を嫌い、ひたすら真の自立を求め続けてきた希子が、今安らぎの中で眠っているように見える……

そっと起き上がる。ストールに重ねるように被せられているバスタオルの端から希子の裸の膝が覗いている。

バスルームへと向かう。裸になりシャワーの前に立つ。バスタブ脇の手摺に掛けられた下着が目に入ってくる。一瞬躊躇したが、バスルームを出てハンガーを手に取り、掛ける。

シャワーノズルを手にバスタブに足を入れ、コックを捻る。水が勢いよく下半身に襲いかかる。ウッと小さく声が出る。と、追いかけるように嗚咽が込み上げてくる。

何故だ?何が悲しい?自分に問い掛けてみるが、悲しいことなどない。しかし、嗚咽は止まりそうにもない。

湯へと変わっていく水を頭から被った。額から口へと流れる湯音に紛れさせ、声を出して泣いた。

そこに希子がいるから。3カ月間絶えて人のいなかった場所に希子がいるから。やがてはまた消えていく存在が今そこにあるから。だから、寂寥感が募っているのかもしれない。3カ月の間、一人きりの寂しさを感じる瞬間は何度かあったが、ここまで強いものはなかった。

紗栄子との別れは突然訪れたものではない。悔いが残るような別れ方でもなかった。執着はないかと問われればないとは言えないが、それは紗栄子と由香を対象としたものではないような気がする。

であるなら、今のこの寂寥感はどこからやってきたというのだ。しかも、こいつには懐かしい匂いがある。この数十年の間何度か出現してきた曲者のような気もする。閉じ込めることはできず、かと言って、開放し拡散させ消し去ってしまうこともできなかった、厄介な寂寥感だ。

温度設定が高くなっていたのか、湯が熱い。嗚咽が消える。寂寥感も洗い流されていく。この感覚も懐かしい。最初はずっと以前、まだ若い頃だったはずだ。

バスルームを出て、棚のバスタオルを手に取る。体を拭き頭から被り、リビングへと静かに戻る。入り口から首を延ばす。希子はまだ熟睡しているように見える。

その瞬間、隆志の頭に記憶が蘇る。そうだ。ナオミだ。20歳の夏のことだ。

 

最初にナオミを部屋に迎えたのは暑い夜だった。隆志は20歳。大学2年生の夏休みを、引っ越したばかりのアパートで過ごしていた。

コンコンと窓を叩く音がする。アパートは一階、窓は表通りに抜ける路地に面している。人一人がやっと通れるくらいの狭い路地で、野良猫が入り込んできたことはあったが、もちろん野良猫が窓を叩くはずもない。

時間は夜10時。絞っていたラジカセの音量をさらに絞り窓を開けた。するとそこには、一人の若い女性がしゃがみ込んでいた。一週間前に初めて会ったばかりの女性だった。先輩に呼ばれて駆け付けたスナックで先輩を挟んで座り、二人の話を聞きながら随分飲んだ。名前は憶えていない。

「あれ?!こんばんは」

「こんばんは。びっくりした?ごめんね。入口混んでたから」

「ここだとまずいんで、玄関に回ってもらえます?」

玄関に急ぐと、もう彼女は玄関正面に半身を夜の闇にして立っていた。瞬間移動したのかと思った。

「こんばんは。さっきまで人が一杯いたんだよ、ここ。消えちゃったね」

玄関で履き物を下駄箱に入れる旧式の木造アパート。風呂は付いていない。近くの銭湯に駆け込みで行こうとする住人で少しは混んでいたのかもしれない。

「あの……」

「急用でも何でもないのよ。ちょっと話をさせてもらえばなあ、と思って」

「僕とですか?」

「そう」

「じゃ、ちょっと待っててもらえます?着替えて来ますから」

「いい、いい。わざわざ着替えなくても。変な格好でもないし」

隆志のパジャマ代わりのバーミューダを指さす。

「でも……」

「それより、上がっていい?」

「あ、どうぞどうぞ」

女性は足首に巻いたシューズの白い紐を解き始める。紐と言うよりリボンか。初めて目にするシューズだ。バレエシューズのような気がする。

彼女がリボンを解く背中にポニーテールが垂れ、微かに揺れる。後れ毛が横顔を隠している。

「これ、持って入るね」

シューズを手に顔を上げる。縦スリット入りの生成りのTシャツ。胸元が揺れる。ペールピンクのスリムパンツが前を行く。

「そこ?」

玄関から左側2つ目、開いたままのドアを指さす。隆志を振り向く表情は、2歳年上のはずなのに、あどけなく感じる。

「あら、意外と片付いてる」

ベッドと机、組み立て棚、パイプハンガーラック、一人用冷蔵庫。部屋に入ると、隅から隅まで母親のような目で見まわす。

パタパタと小さな折り畳みテーブルを広げる。彼女はストンとその前に座り、シューズを差し出す。

「そこのラックにこのリボンをくくり付けて。………ありがとう。ほら、下駄箱いらずでしょ?」

「これ、バレエのシューズですか?」

「そうだよ。チャコットって知らない?渋谷にあるんだけど」

「いや。チャコちゃんなら……」

「ハハハ、それはドラマ。チャコットはバレエ用品の専門店。そこで買ったの。普段用にね。トウシューズ」

「爪先?」

「そう!硬くて、平たくなってて。だから、爪先で立てるというわけ」

「で、また、それをなぜ……」

「普段用にしたのかって?いつも、手塚君がさ、私のこと爪先立つほど背伸びしてるって言うから。じゃ、本当に爪先立ってやろうと思って」

「手塚さんの…」

「そう。同棲相手。……だった、と言った方が正確かなあ。ナオミだよ」

手塚は理学部から文学部に転部してきた先輩。隆志は英文学科、手塚は哲学科と科は違ったが、友人を介して仲良くなった。

実家が裕福で仕送りの多かった手塚の行き付けの一軒、“ブラック&ホワイト”は私鉄の駅から徒歩10分ほどの隆志のアパートからさらに2~3分先のビルの1階にある。

隆志は手塚からしばしば“ブラック&ホワイト”に誘われた。呼び出しの電話は気まぐれで、4日連続のこともあったが、一カ月以上ないこともあった。時間は決まって夜9時以降。まれに0時を回ってからということもあった。

「確か一週間前……」

「そう。覚えててくれたんだ。うれしいなあ。“ブラック&ホワイト”で、ね」

「1時間以上でしたか、随分話し込んでましたよね」

「暗い雰囲気でね。真面目な話をしてたの。話す量は手塚君9対私1だけどさ」

「飲み物でも。あ、ビール切れてたかな?コーラでもいいですか?」

「うん。ありがとう」

隆志は立ち上がり冷蔵庫から缶コーラを取り出す。1本を開け、ナオミに手渡す。

「コーラの季節だね~~」

ナオミは一気にコーラを喉に流し込む。缶の口と京子の唇の間から、コーラが泡の筋を引く。ナオミはそれを拭おうともしない。喉を鳴らしてほとんどを飲み干す。一筋のコーラが、顎を伝いTシャツの上に落ちていく。

隆志は口を付けただけのコーラをテーブルの上に置く。大きく開けた窓から入ってくる外気はごくわずか。女の香りが部屋をゆっくりと満たしていく。

「お酒でも買ってきましょうか?」

そう言い目を上げると、眉間に皺を寄せたナオミが手を上げ隆志を制しながら、小さくゲップを漏らした。口元に当てた指の間から、コーラの匂いが漂ってくる。

「ごめん。はしたないねえ」

そう言った瞬間、もっと大きなゲップが漏れる。二人は目を見合わせて笑う。

ひとしきり笑った後、ナオミはゆっくりと真顔に戻った。

「あの時、私と話したこと覚えてる?」

隆志にはっきりとした記憶はない。なにしろ、3人でフォアローゼスを1本以上空けていた。手塚は酔い潰れていたようだったし、隆志も帰ってくるまでの記憶が怪しい。ナオミに興味はあったが、手塚を挟んでいた。話したとしてもごくわずかの間のことだろう。

「手塚さんが間にいたし……」

「手塚君、カウンターに突っ伏して寝ちゃったから」

「じゃ、手塚さんの頭越しに?」

「そう。それなりに話したよ。え~~と」

「隆志でいいですよ」

「隆志君も酔ってたみたいだけど。でも、楽しかったよ」

「僕、余計なこと言ったんでしょう、どうせ」

「確かに」

「やっぱりだ」

「でも、私は論理的にシェイプアップされた話は苦手。寄り道だらけの話の方が好きよ」

「枝葉が伸びすぎると木は育たない、という話もありますよ」

「いいの、いいの。枝葉の乏しい森では森林浴なんかできないでしょ」

「僕は一体どんなことを口走ったんですか?」

「聞きたい?聞きたいよね。だって私、その話をするために来たんだもんね」

ナオミは、居住まいを正した。

「まず、君は“定型の罠”って言葉を使った。その言葉について聞きたいな」

「どんな話題の時に使った言葉でしょう。話題が惹起させた言葉かもしれないですね」

「それははっきりしない。でも、話題に対応して浮かんできた言葉だとは思わなかった」

「じゃ、せめて“定型の罠”って言葉を僕が使う直前、ナオミさんがどんな話をしていたかだけでも……」

「覚えてない」

「困ったなあ……しかし、そんなに気になりましたか、“定型の罠”って言葉」

「気になった言葉をないがしろにしないことにしてるんだ、私。気になった理由を自分の中に見つけたいし、自分の中で見つけることが出来なかったら、気になった言葉を使った人にその言葉を使った背景を教えてもらって自分の中に取り込まなくちゃいけないし」

「言葉を大切にしてるんですね」

「ううん。そうでもないよ。バラバラと降ってくる水滴を雨だと認識するようなもんでしょ、言葉って。たった一つのことを伝えるためにたくさんの言葉を使わなくちゃいけない時がある。でも稀に、たった一つの言葉でも、そこにいろんな意味や時間や経験が練り込まれている場合もあるでしょ」

「思考や経験が一つの言葉に収斂されていくという……」

「そう。あるいは収斂と言うよりも“降りて来る”というような。啓示は特別な人だけが受ける権利を持っているものじゃなくて、誰にでも訪れる可能性のあるものだし」

「それは同意します。でも、そこまでの……」

「言葉じゃない、と言いたいんだよね、“定型の罠”は。そうかもしれない。でも、いいんだ、そうであっても。私にとっての価値は私が判定するから」

「わかりました。確かに、僕が気に入ってる言葉なんですよね、“定型の罠”って。ただ、言葉にもTPOがあって、色んな衣装を纏っていたりする。骨格は変わらなくても年を重ねると肉付きが変わったりするし、顔付なんて化粧次第だし……」

「もうもう、いいから。本当は、どんな場面でどんな意図を持ってその言葉を使ったのか、隆志君、君、覚えてるな。だから、改めて私を目の前にすると言いにくい……」

「そんなことはありません。本当です。誤解があってはならないと思っただけで」

「人は己を以て人を量るって言うじゃない?言葉もそう。基本的に誤解なんてない。人が自分の想定通りの解釈をしてくれてないと判断した時に“誤解だ!”って騒いだりするけど……。二人の間にどちらかが出した言葉をお互いがどう思うか、どう判断するか、それぞれから見える側面を語り合う。それが会話ってものでしょ? “定型化の罠”を題材にして会話する、ってことでいいんじゃない?」

「わかりました。じゃ、誤解を恐れずに……。まずは、僕の体験から」

隆志は順を追って語り始めた。

 


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