昭和少年漂流記

破壊、建設、発展と、大きく揺れ動いた昭和という時代。大きな波の中を漂流した少年たちの、いくつかの物語。

天使との4泊5日       ⑤(最終回)

2017年10月12日 | 日記

天使との4泊5日       ⑤(最終回)

 

リビングの床、バスタオルの上に寝転び、晴れ渡った空を遠く眺める。初夏の日が煌いている。暑いくらいだ。南西向きの窓は、これからさらに日差しが強くなるだろう。

リビングの片隅でトイレシートにメグがしゃがんでいる。希子はなんとも無防備な姿で眠っている。

腰にバスタオルを巻き、冷蔵庫に立ち上がる。食料と飲料をチェック。冷凍庫を開けると、買い溜めておいた冷凍食品が重なっている。外出しなくても連休中の食べ物に事欠くことはなさそうだ。

空腹が突然襲ってくる。冷凍ドリアを電子レンジで温め、水を片手に喉に流し込む。

再び窓辺で寝転ぶ。日差しに目を細めると、マンションを購入し紗栄子と二人で賃貸から引っ越してきた夕方、段ボールと段ボールの狭間で抱き合った時の夕日を思い出す。

起業し仕事に忙殺されていた頃、日曜の明け方に帰宅して仮眠を取り、紗栄子とブランチを食べた後も、こうして窓外の景色を見るともなしに目にしていた。

暖かい心地よさにやがてまどろみ目覚めると、心には靄が漂っていた。今まで獲得してきたものがすべて姿を失い靄となってしまっているような気がした。

これまで受けてきた様々な外的衝撃はすべて跳ね返してきた。恐れるほどのものではなかった。しかし、心の中の靄が靄のままであり続けるかもしれないという予感は、得体のしれない恐怖となって時々隆志を襲った。

小学校6年生の時に心に巣食った“もやもや”が、隆志の収穫物を次々と飲み込み膨らんで行っている。それはいつの日か、隆志自身をも内側から飲み込んでいくかもしれない………。

「何食べた?チーズの匂いがするぞ」

突然、背中に裸の胸が押し付けられる。鼻息が頬から鼻先をかすめる。顔を向けようとすると、唇を塞がれた。

希子の体がゆっくりと隆志の上に乗る。メグの鳴き声がする。

「背中痛くない?……ソファに行こうよ」

希子を胸に抱えたまま立ち上がり、ソファへ移動する。希子は両足を腰に、両腕を首に絡めている。

ソファに希子をそっと降ろす。髪をかきあげ、額から鼻先へとキスをする。鼻先で唇を止める。鼻孔一杯に希子の鼻息を吸い込む。

「気に入った?」

「うん。好きだよ、この匂い」

「よかった」

下から希子が強く抱きしめてくる。隆志はさらに強く抱きしめる。

 

「気持ちよかったね」

重なった体をずらし、希子が囁く。片肘を付き、もう一方の指先は隆志の耳朶をまさぐっている。

「こうしてるのが好きなんだ」

「ん?」

「耳朶を触ってると落ち着くんだ」

隆志の胸に頬を乗せ、希子は耳朶をまさぐり続ける。

穏やかな心地よさが沁み込んでくる。

指の動きが次第にゆるやかになっていき、やがて寝息が聞こえ始める。隆志はそのまま、天井を見つめる。心地よい虚脱感が全身を覆っている。夢と現の境目を漂っているようだ。

 

「飯だよ~~」

希子の声に跳ね起きる。

リビングには夕日の斜光が伸びている。テーブルの上にはラーメン丼が二つ。

「ラーメン解凍した」

メグに餌を与えながら、希子が背中で言う。シャワーを浴びたのだろう、バスタオルを胸に巻いている。

「ありがとう」

そそくさとバスタオルを腰に、テーブルに着く。

向かいに座った希子が勢いよくラーメンをすする。空腹だったに違いない。隆志が半分も食べ終わらないうちに、スープまできれいに平らげる。

最後の一本をすすり上げる隆志を待ちかねたかのように、身を乗り出す。

「隆志の昨日の話だけど。気になってることがあってね」

「なに?」

「哲学科を辞めて寿司職人になった先輩が気になってるんだ。どんな人?どうして哲学から寿司へ?」

「知りたい?実は、寿司職人に行き着いた先輩は……」

 

手塚だった。

隆志が大学を卒業して数年が経った年。大学時代の同級生たち数人で開園して間もない東京ディズニーランドへ行った帰りのことだった。

「この寿司屋、隣の魚屋の経営だから安くて旨いぞ」

そう言う友人の誘いで入った寿司屋に手塚はいた。

豆絞りの短髪に白衣。いかにも寿司職人らしい格好の、寿司を握る俯きがちの顔に見覚えがあった。

「テツ!」

数分後、大将の声がした。「へい!」と答える声に聞き覚えがあった。

数日後、一人で訪ねた。ゆっくりと時間を掛けてネタをつまみ、彼と話すチャンスを待った。常連と思しき家族客が勘定を済ませた帰り際に大将と言葉を交わしている隙を狙った。

「手塚さん、ですよね」

皿を洗っていた“テツ”が顔を上げる。

「そうだよ。隆志だろ。この前来た時、気付いてた」

「いつから働いてるんですか、ここで」

「1年……ちょっとかな」

何度か通い、小刻みに継ぎ足すように経緯を聞いた。

あのナオミをタクシーに送った秋、手塚は大学を退学していた。直後に父親の会社を継承。新事業のスタートを急いだが、いくつかのチャレンジは、そのどれもが失敗に終わった。

ならばと印刷の営業に力を注いでもみたが成果はあがらず、ベテランの印刷職人たちの人望をただただ失っていく。

何一つ成果が上げられないまま1年後には自ら職を辞し、父親の紹介で編集プロダクションに入社。PR誌の編集に携わったものの肌に合わず、数か月後には退職することになる。

その後いくつかの会社を転々とした後行き着いたのが、寿司職人への道だった。

 

「どこから話せばいい?」

閉店を待ち、二人並んで腰掛けたバーのカウンター。目の前には思い出のフォアローゼス。手塚の横顔には、以前にはなかった清々しさが感じられる。

「虚無感を感じた、というあたりからではどうでしょう。覚えてます?」

「覚えてるとも。それからのすべての始まりのようなものだから」

「虚無感の発生源は、哲学とナオミさんだと」

「そう言い切ってた?だとしたら、浅薄な分析をしてたもんだなあ。それとも、傲慢の成せる技かな」

「言い切ることができないから、解消もできないって状況だった……」

「複雑な合併症だったんだね、今思うと。にもかかわらず、総合診療医ではなく専門医の見立てに頼ってたようなもんだね。しかも医者を自称しているだけの偽医者に。俺自身のことだけどね」

「退学と就職は合併症の治癒には有効でしたか?」

「君、言ってたよね。新しい可能性で今の現実をひっくり返すようなことをしても…っていうようなこと。退学と就職は、つまるところ、転地療養のようなものにしか過ぎなかった。現実をひっくり返すようなことは起きなかった。しばしの療養にはなりえたが、治療行為には程遠いものだった」

「じゃあ、虚無感は?ずっと抱えたままですか?」

「今でもね。だって、虚無は存在の核をなすものだから。存在というものは、芯まで詰まっているものではないということに気付いたんだ。虚無を覆う被膜、あるいは虚無そのものが存在というものかもしれない」

「手塚さん、変わってませんね。よかった」

「いや、俺は大いに変わった……少なくとも、多少は変わった……なぜだと思う?」

「虚無の正体が存在そのものだと知ったから?」

「だと思ってる。被膜がなくなったら、存在の核である虚無は形を持つことができない。形を持たないまま靄のように漂い拡散していくことになる。風船の中にあることで、空気が形を持つことができるようなるのと一緒。そう思うようになってみると、あの頃、虚無感に襲われていると考えていたこと自体が間違いだと気付いた。俺は、あの頃きっと、自分の存在そのものを覗き込んでいたんだ」

「あの頃だった理由は……」

「ナオミとの距離が生じたこと。観察の対象が自分自身だけになった」

「でも、まだ同棲はしてたはず……」

「だけど、一緒に過ごす時間は激減してたし、毎日抱き合うこともなくなっていた。ずっと一緒にいると、自分の空虚と向き合わってしまわないように、言葉や肌のぬくもりで風船を作っては一緒に膨らませて飛ばしていた。少しずつお互いの虚無を吹き込んだ風船をね」

「単純な言い方をすると、寂しくなった?ナオミさんが就職して」

「そうかもしれない。でも、二人の暮らし方がいつまでも続く種類のものだとは思っていなかった。だから、同棲が終わって感じることになるはずの寂しいという感情には対処しなくてはならないし、できると思ってた。あの頃時々俺を支配した感情は、でも、寂しいという感情とは少し異質だった。だから、これは虚無感というやつだと思ったんだ」

「どうすればよかったんでしょうね、だったら」

「いろんな風船を用意すればよかったんじゃないかなと、今は思ってる。いつの間にか二人の間で定型化された風船ばかりを膨らませていたんじゃないかと。形も名前も品質も異なる様々な風船をお互いが用意し、それぞれが勝手に膨らませたり、一緒に膨らませたり。すぐに破裂しても気にせず……」

「結婚もそんな風船の一つ?」

「俺は結婚を破裂する風船であってはならないと思ってしまった。そのことが、今でもとても残念だ。風船を膨らませるという行為そのものを結婚だと考えることができなかった。まだ、存在の核は虚無だと知らなかったし、同棲という状況から変わっていかなくてはならないという意識も強すぎた」

「ナオミさんは?今、どうされてるんですか?」

手塚の顔が一瞬強張る。

「俺が退学届けを出して帰省し、1か月半マンションを留守にしている間にいなくなっていた」

「1か月半も?ナオミさんを残して?連絡もせず?」

「電話はしてた」

「一体何してたんですか?実家で」

「仕事の準備。取引先への挨拶回りとか……。それと、結婚の準備。住まい探しや家具や家電製品の下見とか……」

「ナオミさんにそのことは?」

「適宜伝えてた。事細かくではないが」

「ナオミさんを呼べばよかったんじゃ?住まい探しも家具選びも風船の一つでしょう」

「仕事があったしね、彼女。それに……ひと月経った頃、ふっと電話に出なくなって」

「その後、消息わかったんですか?」

「よくわからない。染色の勉強は始めたみたいだったけど」

「それは、いつわかったんですか?」

「マンションのバスルームに赤と青の染料の痕跡があった。染色の練習してたんじゃないかなあ。紫に染まった生地が何枚か残ってた」

手塚はナオミに関してそれ以上を語ることはなかった。

 

「手塚さんは、自分の居場所を見つけたことになるのかな」

「なると思う。こんなこと言ってたから」

“子供の頃憧れた風船売りのようにお客さん一人ひとりに寿司を握って渡し、一人ひとりの身体の中心にある虚無、つまり胃袋をしばし満たしてあげる。一貫の寿司の出来不出来も、その中にどれだけ適度の虚無、つまり空気があるかによって決まる。シャリという定型がありながら、ネタは多種多様で無限の可能性を持っている。自分の手触りの中にそんな世界があること、力の加減で世界を変えることができること、などなど。すべてが魅力的で、楽しい”

「シャリが論理体系でネタは言葉ってことかな?相変わらず哲学してるんだね、手塚さん。今度は自律できるのかな?できるといいね………で、ナオミさんのその後は?わからずじまい?」

「残念ながら」

「手塚さんのバスルームに残ってた赤と青の染料の跡と紫に染まった生地、ナオミさんからのメッセージだね」

「メッセージ?」

「彼女の動脈と静脈。熱情と理性。愛と涙かもしれない」

「その両方を、僕は目撃してたのかもしれない。ナオミさんは、その二つの間で揺れてたんだね、きっと」

「情熱と理性どちらか一方に心を完全に寄せてしまうことなんてできない。だから、赤と青を混ぜて自分の色を作ろうとした」

「紫……」

「紫は1色じゃない。他の色と同じ、色数は無限。グレーのようにね」

「グレーだって色だもんね」

「色で風船のバリエーションを作ろうとしたのかなあ、ナオミさん。元気で染色に取り組んでくれてるといいね」

隆志もナオミにはそうあって欲しいと思っている。今現在のナオミがどこでどんな暮らしをしているかは知らない。が、知りたいという欲求も心に消えないまま残っていた。

夕暮れのスクランブル交差点や銀杏の枯葉が舞い落ちる表参道で、前を行くスリムジーンズとピンクのトレーナーの後姿にドキッとさせられたことは一度や二度ではない。

ナオミはきっと居場所を見つけ、情熱と理性の折り合いを付けながら生きているに違いない。しかし、もし居場所をまだ見つけられずにいるとしたら……。

「幸せって、点なんだよ」

沈黙した隆志の指先を、テーブルの向こうから伸ばした手で希子が突く。

「一瞬のものってこと?続くものではないってこと?」

「続かないと嫌?それって……」

「執着だよね。欲深いよね」

「点だって大きいのや小さいのがあるんだから。大きな点だったらよしとしなくちゃ」

希子はテーブルの上を片付け始める。ラーメン丼をシンクに運ぶ背中からバスタオルが落ちる。露わになった背骨の中心に大きな擦り傷の跡がある。古いものか新しいものかはわからない。

「お腹いっぱい」

くるりとこちらを向いて微笑む。

「さ、私たちの居場所に行こう!」

つつっと近寄り、隆志の脇を持ち上げる。立ち上がると、腰のバスタオルが落ちた。

ベッドルームに向かう。ベッドルームのカーテンは開けられ、ベッド脇に脱ぎ捨ててあったはずの下着は片付けられている。

「もっと大きな点を目指そうか」

希子がそう言ってベッドに身体を投げ出す。シーツは新しいものに取り換えられている。

「よ~~し。でっかい点取るぞ~~」

隆志の中を晴れやかな興奮が突き抜ける。開放感が一瞬にして全身を満たす。

隆志は希子の横に倒れ込み、裸の身体を力一杯抱きしめた。

…………………………

翌3日目。隆志と希子はトイレとメグの世話以外、夕方まで一歩もベッドを出なかった。抱き合ったまま眠り、窓外を眺め、思い付くままに言葉を交わした。

「あそこ、ガード下で、よく俺を見つけてくれたね」

「見つけたのはメグ」

「よく俺の部屋に来る気になったね。怖くなかったの?」

「危険センサーは発達してるから。それに、いつも隆志の後ろからついて行ってたでしょ?」

「様子見てたんだ」

「もちろん。危険センサーは若いうちに鍛えておいたから」

「危険な目には逢わなかった?」

「少しはね、遭ったよ。一番危険なのは、勝手に幸せだと思い込んでる時」

「執着に囚われてる時だから……肉体的な危険は?たとえば、背中の……」

「傷跡?あんなの知れてる。心に傷は残らなかった」

…………………………

「隆志、ペット飼ったことある?」

「ううん」

「ペットショップ嫌いなんだ、私。人間がペットを金の力で手に入れようとする場所だから。可愛いからとか人懐っこいからとか言ってペットを選ぶなんて傲慢。本当は逆なのに」

「逆って?」

「選ぶのは動物たち。飼ってもらうためじゃなくて、一緒に暮らす相手としてね。共生できる相手かどうか、自分の好きな距離感を保てる相手かどうか。それを見極めるのは動物的勘だから」

「間違うことはない?」

「“運命の勘”は動物の方が断然優れてる。人間では女」

「“運命の勘”に従って失敗した女性を俺はたくさん知ってるよ。身近にもいたし」

「ははは。本当に勘に従ったのかな?ペットショップのケージから逃げ出すために客に媚びる犬がいたっておかしくない。自由の下でこそ動物的勘は生きるものだから」

「“運命の勘”だってそういうことか。自由じゃないと働かない」

「でも、自由には危険が付きもの。安全を求めなくちゃいけない」

「庇護者?」

「とは限らない。庇護者が必要なのは、自分で自分を守ることができない人。女に限らないよ」

「希子は大丈夫だよね」

「危険センサー磨いてるから。知識と経験もあるしね。でも、基本は自立」

「自立できていないと危険センサーが働かない?」

「そう。だから私、こうしてると、時々猛烈に不安になる。今、危険センサー働いてないぞって」

腕枕した頬を上げ、隆志を見つめる。

「100%身を委ねるってできないんだ」

「できるよ。でも、いつもじゃないし、ずっとでもない」

耳朶をまさぐる指が止まる。

「ずっと触られてると不愉快になったりもするでしょ?」

「俺は構わないけど」

「慣れられるのも嫌なんだけどね」

…………………………

「ナオミさんのこと聞くよ。いい?」

「いいよ」

「彼女の涙を見たことがあるって言ったよね。その時、彼女抱き締めてあげた?」

「ううん」

「なぜ?」

「手塚さんへの愛情が流させた涙だったし、心の隙を突くようなことはしたくなかった」

「嘘。怖かったんだ。傷つきたくなかったんでしょ」

「いや。むしろ傷つけたくないと思って」

「あああ。馬鹿だなあ、コイツ。受信アンテナの性能悪いなあ。ナオミさん、ケージから脱出するチャンスを待っていたのかもしれないじゃない」

「そうかなあ、それはないと思うなあ」

「隆志なら自由にしてくれるって」

「彼女は十分自由な人だったよ」

「自由にふるまって見せてたんじゃない?」

「本当は自由じゃなかった?」

「アンビバレントな執着があったから」

「そこまではなんとも……」

「でも、そのくせ、隆志の中には揺れがある。ナオミさんの痕跡に揺れてる。

問題だぞ~~、これは」

…………………………

4日目。快晴の朝、希子はもうベッドにはいない。開け放ったカーテンの向こう、ベランダには洗濯物。希子のワンピースのようだ。首を廻らせてみるが、姿は見えない。リビングへ入ると、Tシャツの後姿がメグを抱き、開けた窓に向いて立っている。壁の時計は、午前10時。柔らかい風が通っている。

ダイニングテーブルの上には、クロワッサンが数個。レンジではお湯が沸いている。

「クロワッサン、どうしたの?」

「冷凍庫の奥にあったよ」

希子は振り向き、メグを床に下ろす。メグはささっとソファに走っていく。

「新婚の食卓だね」

鍋のお湯にコーンスープの粉末を落としながら、希子が言う。

「本当だね」

隆志の声が弾む。

「こういう典型って、意識していなくてもそうなってしまうから典型なんだろうね」

「確かに、新婚のテーブルかくあるべし、なんて言われたことないような気がする。でも、こうなんだろうなあって思う」

「怖いね。いつの間にか意識は汚染されてるんだね。そして、典型に安心や幸せを求めるようになる」

「考え過ぎない、考え過ぎない。まずはブランチだ」

「そうだね。エネルギー注入をしなくちゃね。今日のために」

希子は隆志の横を通り抜けざま、鼻先にキスをした。ベッドではいつもすぐ近くにあったはずの鼻息の匂いが香り立つ。時には煽情的で、時には心地よい安心を誘う香りだ。

ブランチを早々に終え、二人はベッドルームに戻って行った。

…………………………

「希子は自分の居場所は必要ないの?」

「あるよ」

「どこ?」

「私とメグがいる所」

「定まってはいないんだ」

「私とメグは変わらないから」

「でもメグは……」

「先に死んじゃうって言うのね。なぜ?私かもしれないのに」

「でも、もしメグが先に死んじゃったら?」

「そんなこと、考えても考えなくても同じ。だから考えない。誰かに言われたよ。メグが死んだらすぐに子猫を飼うといいって。それもなし。だって、私が共生してるのはメグとであって猫とじゃないから」

「人との共生は?」

「例えば俺と、って?うん。ない。私の共生センサーが反応していない。ごめんね。欠けてるところも嫌いなところもないんだよ。でも、マイナスがないからといってプラスとは限らないでしょ」

「言葉にならない相性ってものかな?」

「どうなんだろう。体の相性はいいと思うけどね」

「じゃ、半分は合格なのになあ。ちょっと残念。合格するにはどうすればいいんだろう」

「どうもしないこと。偶然の結果を過大評価しちゃだめ。どこでどう知り合ったかって、本当は関係ないことだからね」

「それはそうだけど……」

「仮説を真説だと錯覚しないでね。同じ失敗しちゃうよ~~」

…………………………

4日目の夜。冷凍チャーハンを虚しく食べる二人の食卓に会話はなかった。精気の抜けた体には食欲さえ残り少なく、ほとんどを残したまま食卓を去る。

午後7時。ベッドに並んで倒れ込む。

「祭りの後って感じだね」

希子がポツリと言う。

隆志は黙ったまま、ただ天井を見つめる。頭の芯が茫洋としている。幸せのようであり、不安のようでもある。

ベッドに小さな振動を感じる。メグが飛び乗ってきたらしい。3日目にして初めてのことだ。希子の足元、ベッドの端に丸くなっている。

「コインロッカーだよね」

隆志が呟く。

「なにが?」

「希子の秘密の場所」

「さあ、どうでしょう」

「コインロッカーの中に、通帳や保険証の入った巾着と着替えと数冊の本が入ったバッグがきちんと押し込まれているのが見える」

「サイキックか」

「コインロッカーの使用期限の間、自分の全財産からも自由になるっていう寸法」

「それはいい考えかも」

「住民票は実家。現住所も実家。今は長い長い家出状態。時々バイトして通帳を補填して、そしてまたどこかのコインロッカーを拠点にして……」

「透視か。特殊能力に目覚めた?」

「マタギのような暮らし……」

「狩猟はしてないぞ。定住したいと思う場所に出くわさないだけ」

「だから、厳しく自分を律してるんだね」

「依存が嫌なだけかもよ。場所にも、人にも」

「俺はこれからどうすればいい?って聞きたいところだけど、興味ないよね」

「そんなことない。興味はあるよ。興味はあるけど、関与することじゃないから、聞かれても言うべきことはない」

「俺のお話も、これで終わりだなあ。俺にも、もう言うべきことはないような気がする」

黙ってそっと希子を抱き寄せる。

3日間いつも触れることができた肌がしっとりと濡れている。鼻息はかぐわしい。希子の指が耳朶に触れ、ゆっくりと動き始める。

…………………………

5日目、GW最後の朝、ふらつく足でリビングに向かう。希子の姿を求めている自分に気付く。陽射しのないリビングには、ただただ寂寞とした空気満ちているだけ。ソファもキッチンも、見事に片付けられている分だけ、なおさら空虚だ。

ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろす。卓上の紙片が目に入る。書き置きに違いない。胸が高鳴る。

 

隆志、おはよう。そして、バイバイ。

言うべきこと、一つ見つかったから残しておく。

ナオミさんの“今”に出会ってみたらどう?

思い出だと思っているものが、いつまでも執拗に居座っている執着だったんだと気付かされることだってあるからね。執着は魔物だよ。

もし、ナオミさんの思い出が執着だとわかって、めでたく除去できたとしたら、その頃会えるといいかもね。私も、除染に精を出すからね。

隆志、自立だぞ!

PS:失うことを恐れないでね。幻想だから。本当に得たものなんて何もないんだから。

 

読み終えると、胸深くを痺れが走った。微笑みの上を涙が流れた。

 

“希子は天使だったんだ”と、隆志は思った。

              了

 

*今回で「天使との4泊5日」は終了です。新作は、1か月後くらいからの連載になる予定です。しばらくお待ちください。

                Kakky(柿本)


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