コロナの記事を書きながら、私はわりに平気な方だけど「これが同調圧力というものか」というのは確かに感じる。
就中、こんな日本中で信じられていることに疑問を書くのは、それはメリメリと強い。
書き始めた4月の最初の頃なんて「コロナを恐れないなんて人に非ず」くらいの空気だったもんね。
それでちょっと思い出した。
以前書いた「バリ活VSユル活」の記事で、バリ活組からチョイス組に言われた
「あれもこれもやってから言え」「ラクしてたくせに」
みたいな言葉には甘んじることもあったけど、いやいやそれは種類が違うだけと思う。
ユル活というより、それなりの活動家でありながら活動をチョイスするには、少なからずの同調圧力やら空気やらは跳ねのけることはやらなければならなかった。
あれもこれもやらなかったわけでも、ラクをしていたわけでもなくて、苦労の種類が違ったんだと思う。
以前、「怖いの種類」という記事を書いたけど、S活動にも種類があった。
簡単にいえば
おかしなことをやる大変さと、
おかしいなことを「おかしいと言えない空気の中で、おかしいと言ってやらない大変さ」?
適材適所なだけだったと思う。