今思えば、Sというところは「空気」で動く権化みたいなところだった。
殊更「ガッガイ活動には功徳がある」がその代表選手だったと思う。
今回は、よく宗門系のアンチがいう「そんなの御書のどこに書いてあるんだよ?」について答えましょうか。
どこかというと空気ですよ。空気の何ページから何ページまでよ。
空気に書いてあるのよ( ̄∇ ̄)
どこかというと空気ですよ。空気の何ページから何ページまでよ。
空気に書いてあるのよ( ̄∇ ̄)
以前、現役S支部長であられる鯛焼きさんのブログに書いたけど、
組織上の運営のためのあれこれは、私は信仰とは別の、一般でいうボランティアの意識で受けていた。
が、殆ど全てと言っていい人は「それもこれも、無料無辺の功徳がある信仰」とか「そうしないと宿命転換できない信仰」と思っていた。
Sにはそういう不文律があったからである。
そう、Sが大好きなはずの明確な文証にはないけど、空気でそうなっていた。
何かに明確に書いてあるとか書いてないと熱弁したところで、そんなのは「空気」に比べたらゴミみたいなもんだった。
何度もいうように「空気」が最強なのである。
ピクリとも動かないそんな空気に何を言っても無駄なので、これに関しては私は一人淡々と「いやいや、これはボランティア精神」で通した。
私の中ではそうだった。
ボランティアだから無理をせず、できないことは断ったけど、できることは手を挙げた。見返りは考えなかった。
ただSの場合は(少なくとも私の経験では)、ノーということはわりとラクに通った。
こういうと「地獄に堕ちると脅された」とか「二乗根性とイヤミを言われた」とか言う人もいるけど、空気に逆らう以上それはどこでもあるんじゃないだろうか。
今回コロナ問題を「空気」に逆らって書いたら、同じようにイヤミも脅しもあったけど、Sよりよほどイジワルだったよ。
空気は一人では変えられないけど、それが時間と共にだんだん大きくなっていったら、また変わっていく。
最初は少数でも、やがて大勢が賛同して「集団」になると空気が生まれるんだと思う。
良くも悪くも、それが空気なのかもね。