■水分社宮銘の燈篭■
(20th November 2008)
★都祁山口社★ 奈良県奈良市都祁小山戸640
・延喜式内社、大和國山邊郡、都祁山口社、大、月次新嘗の論社の一。
・祭は大山祇、大國主。
・この地には本來、都祁水分社が鎭座していたと傳わり、御社尾は水分降臨地であり、水分社上宮とも呼ばる。實際、そう銘される燈籠も殘る。都祁水分社の由緒が正しければ、当社と祭は同じであらねばいけないが、異なった祭が記載されて殘っていたことから、都祁山口社の論社としては異論がある。
・山口神社とは、山の口に鎮座するのが常であるが、この地はそれにふさわしくなく、その意味合いから石上神宮の南に鎮座する都祁山口神社の方がふさわしく考えられ、都祁水分神社元宮もしくは本宮というのが正しいと思われる。
・『式内社調査報告第三巻』で、石崎正雄氏は「広大忌祭祝詞の『倭國能六御縣乃山口坐皇』と云ふ場合の山邊御縣の山口に坐すが、都祁山口と同一であるとすれば、都祁の山の入口にあり、御縣の周辺の此の地に鎭祭されてあっても不自然ではない」と述べ、天理市杣之内鎭座の都祁山口社が式内社である可能性を示唆している。
■鳥居■
(20th November 2008)
■參道■
(20th November 2008)
■拜殿■
(20th November 2008)
■本殿■
(20th November 2008)
■御社尾參道■
(20th November 2008)
■都祁直靈石■
(20th November 2008)
■御社尾、磐座■
(20th November 2008)
水分が降臨したと傳わり、水分社上宮と呼ばれている。この地区には、古代祭祀跡が複数個見つかっているらしい。(20/11/2008)
■森■
(20th November 2008)
((コメント))
2009年11月20日
一つの主要目的地都祁山口社を探した。昭交社の県別マップル道路地図奈良県を參考にしたがはっきり言って、地図が間違っていたために同じところを何度も徘徊するはめとなり、あきらめて、桜井に向かう途中に、発見し、立ち寄った。
ま、山の氣があり、惡くはないかな、と思う。都祁水分社の元宮であるが、現在の水分社とは、氣の質が異なる。だが、こちらが、おそらく、本當の水分社の氣を持つところであろう。鎭座地は山の口ではなく、一般に延喜式内大社都祁山口社の論社として有力なようではあるが、、天禄二年(971)の段階で延喜式内大社都祁水分社が當地に鎭座していたのであるから、延喜五年(905)より延長五年(927)に作成され、途中訂正などもあるも、康保四年(967)に施行された延喜式の名帳に記されている都祁山口社が當社であるというには矛盾がある。しかも、遷座の話は聞かない。
延喜式名帳にある大社都祁山口社であることは有り得ない、といえる。
(20th November 2008)
★都祁山口社★ 奈良県奈良市都祁小山戸640
・延喜式内社、大和國山邊郡、都祁山口社、大、月次新嘗の論社の一。
・祭は大山祇、大國主。
・この地には本來、都祁水分社が鎭座していたと傳わり、御社尾は水分降臨地であり、水分社上宮とも呼ばる。實際、そう銘される燈籠も殘る。都祁水分社の由緒が正しければ、当社と祭は同じであらねばいけないが、異なった祭が記載されて殘っていたことから、都祁山口社の論社としては異論がある。
・山口神社とは、山の口に鎮座するのが常であるが、この地はそれにふさわしくなく、その意味合いから石上神宮の南に鎮座する都祁山口神社の方がふさわしく考えられ、都祁水分神社元宮もしくは本宮というのが正しいと思われる。
・『式内社調査報告第三巻』で、石崎正雄氏は「広大忌祭祝詞の『倭國能六御縣乃山口坐皇』と云ふ場合の山邊御縣の山口に坐すが、都祁山口と同一であるとすれば、都祁の山の入口にあり、御縣の周辺の此の地に鎭祭されてあっても不自然ではない」と述べ、天理市杣之内鎭座の都祁山口社が式内社である可能性を示唆している。
■鳥居■
(20th November 2008)
■參道■
(20th November 2008)
■拜殿■
(20th November 2008)
■本殿■
(20th November 2008)
■御社尾參道■
(20th November 2008)
■都祁直靈石■
(20th November 2008)
■御社尾、磐座■
(20th November 2008)
水分が降臨したと傳わり、水分社上宮と呼ばれている。この地区には、古代祭祀跡が複数個見つかっているらしい。(20/11/2008)
■森■
(20th November 2008)
((コメント))
2009年11月20日
一つの主要目的地都祁山口社を探した。昭交社の県別マップル道路地図奈良県を參考にしたがはっきり言って、地図が間違っていたために同じところを何度も徘徊するはめとなり、あきらめて、桜井に向かう途中に、発見し、立ち寄った。
ま、山の氣があり、惡くはないかな、と思う。都祁水分社の元宮であるが、現在の水分社とは、氣の質が異なる。だが、こちらが、おそらく、本當の水分社の氣を持つところであろう。鎭座地は山の口ではなく、一般に延喜式内大社都祁山口社の論社として有力なようではあるが、、天禄二年(971)の段階で延喜式内大社都祁水分社が當地に鎭座していたのであるから、延喜五年(905)より延長五年(927)に作成され、途中訂正などもあるも、康保四年(967)に施行された延喜式の名帳に記されている都祁山口社が當社であるというには矛盾がある。しかも、遷座の話は聞かない。
延喜式名帳にある大社都祁山口社であることは有り得ない、といえる。