の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

木曾三社社

2011年11月28日 05時43分25秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■拜殿■
(15th May 2009)
 


★木曾三社社★ 群馬県渋川市北橘町下箱田

・舊社格は縣社。

・祭は須佐之男命、彥火火出見命、豐玉姫命、宇氣母智命。

・元暦元年(1184)、木曾義仲が近江國粟津で討死後、義仲の三男と傳えられる義基を伴い、落ちてきた家臣今井、k梨、町田、小野澤、萩原、串淵、諸田等が、義仲が崇敬した信濃國の延喜式内社である筑摩郡の三座岡田、沙田、阿禮社をこの地に勸請して創建したものと傳えられる。

・木曾義基が、藤原氏によりこの地を與えられたことに由來するというが、不明。

・瀧之宮、木曾明とも言う。

・關東管領上杉氏や白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬厚く、田の寄進や社殿の修復が行われた。

・寛政元年(1789)、火災にあい、同六年(1794)に再建、さらに明治二十年代に大改修を受けている。


■一之鳥居■
(15th May 2009)



■社號標■
(15th May 2009)



■二之鳥居■
(15th May 2009)
 


■石段上から見る境内■
(15th May 2009)



■拜殿■
(15th May 2009)

 


■扁額■
(15th May 2009)
 


■本殿■
(15th May 2009)
 


■拜殿、本殿■
(15th May 2009)
 


■木曾氏遺臣の像■
(15th May 2009)
 


■御腰掛岩■
(15th May 2009)
 


■本殿側方付近の末社群■
(15th May 2009)
 


■本殿に向かって右手側の末社群■
(15th May 2009)



■本殿に向かって左側の末社■
(15th May 2009)
 


((コメント))

2009年5月15日

 當初は行くつもりはなかったのであるが、調べると愛する木曾義仲の所縁の社であった爲に、急遽、行くことにした。なかなかいいところであった。富岡市の上野國一之宮の貫前社と同じく下り宮形式で興味深い上、湧き水が豐かで境内の緑がよかった。家臣の石像などは崩れていて何かわからなかったが、四天王の今井さん、楯さんの子孫の方がおられるとは感慨深いものだ。多分、根井さんもいるに違いない。木曾氏も殘ってるみたいだし。でも、鎌倉、室町、戰國、江戸、どのように過ごしてきたのだろうか、興味がある。

 木曾氏遺臣の像はかなり崩壊しており、誰のものかは判別できない。誰だろうか。一般に討死したとされる楯六郎親忠が妻と上野國へ落ちたという説もあり、義基に同行していたとすれば、義仲の四天王でもあったわけであるので、主君の子息を生涯かけて守った可能性もあるので、彼ではないのか、と推測する次第。

 ちなみに、拜殿の扁額には源直方の名があるが、一体、誰なのだろうか。

御祖神社

2011年11月24日 22時56分22秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鳥居■
(16th June 2011)
 


★御祖神社★ 長崎県壱岐市芦辺町諸吉仲触81

・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、御祖神社、名神大、論社。

・舊社格は村社。

・祭神は皇産靈大神、伊射那岐神、伊邪那美神。天日神命(天照皇大神)、天月神命(月讀神)を配祀。

・延寶四年(1676)、平戸藩國學者橘三喜の式内社調査において、御祖神社に査定されたが、それ以前は、熊野權現を稱していた古社である。この査定は、現在、誤りであると考えられている。

・元は熊本という地に鎭座していたという。

 
■鳥居■
(16th June 2011)



■拜殿、本殿■
(16th June 2011)
 


■拜殿■
(16th June 2011)



■本殿■
(16th June 2011)

 


■末社■
(16th June 2011)




■末社小祠■
(16th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月16日

 境内は佛的な香りが強い神社のように感じられた。隣が龍藏寺という寺院なので神宮寺だったのかもしれない。もしかしたら、熊野權現ということで、社僧が祀ってきたのだろうか。

 當社も橘三喜の強引な式内社査定の影響を強く受けた神社であり、おそらくは御祖神社ではないと考えられている。御祖神社である可能性を示すものがないのである。

甲神社

2011年11月24日 22時05分19秒 | 近畿(奈良)
■社號標、鳥居■
(25th January 2010)
 


★甲神社★ 奈良県吉野郡大淀町大字今木小字畑中367

・祭神は大己貴命、素盞嗚命、月讀命、保食命。

・神體は三神像、および、蘇我入鹿の甲と鎧。

・創建由緒等不詳。

・古來、入鹿大明神と稱し、その甲を奉納したという。

・明治時代末まで蘇我入鹿の命日である九月二十三日に祭典を行っていたという。


■拜殿■
(25th January 2010)
 


■本殿、末社■
(25th January 2010)
 

 末社春日神社(手前)は武甕槌命、經津主命、天兒屋根命、比賣命を祀る。末社伊勢神社(奥)は天照大神を祀る。


■神木■
(25th January 2010)



((コメント))

2010年1月25日

 甲神社は國道三〇九號線吉野郡大淀町の今木のバス停の近くに鎭座する。昔は、この近くに丹生川上神社下社の一の鳥居があったと傳えられることより、なんらかの關係があるのかもしれない。さらに、大化の改新前夜に殺害された蘇我入鹿に關わる社でもあるようで、ここに、蘇我氏の謎があるような氣もしないでもない。近くにある允恭天皇皇子坂合彦皇子の墓もあるが、眉輪王とともに、葛城大臣円の館に逃げ込み、そこで燒き殺されたという話もあり、葛城臣の影も少し見える。非常に興味深いところである。いずれにせよ、蘇我入鹿という人の素性と謎を解き明かすことが、日本の古代史についての眞實を暴くことに繋がるのであろう。個人的には、蘇我入鹿が聖太子であると思うのだが。

幣立神宮

2011年11月24日 19時16分44秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■拜殿、本殿■
(June 17th 2011)
 


★幣立神宮★ 熊本県上益城郡山都町大野712

・舊社格は社。

・祭神は神漏岐命、神漏美命、大宇宙大和神、天御中主大神、天照大神。神代七世の大神、天神七代の大神、地神五代の大神、五色神を配祀。

・日ノ宮と稱された。

・竹内文書によると、延喜年間(901-923)に阿蘇大宮司が天照大神を主祭神として祀ったとする。また、元伊勢宮として、祖神を天之御中主とする日の神が祭り、世界の全ての神は天之御中主から生まれたとしている。

・『熊本縣神社誌』によると、延喜元年(901)、阿蘇友成は本社を造替して健磐龍命を配祀奉り、天養元年(1144)には阿蘇友隆が本社を造営して阿蘇両宮を配祀した、とされる。

・『大日本史』に見える「知保の千穗嶺」が當社の所在地であると主張する。

・筑紫の屋根の傳承のように神殿に落ちる雨は東西の海に注いで地球を包むことより、天原日の宮の傳承を持つ國始めの尊宮を自稱する。

・古來天神地祇を祭った神籬が日本一の巨檜として現存していることを主張。

・古史古傳による一説によると、神武天皇の発輦の原点で、皇孫健磐龍命が勅命によって、天神地祇を祭った、とする。

・天神が宇宙界より降った天原といい、太古から天原日の宮と呼ばれ、一世(いせ)の宮と稱される。

・天神の降臨地に生えた檜を、太古から一世内宮(いせうちのみや)と崇め、現在は十代目であるとされる。

・一世外宮(いせそとのみや)と仰がれる神杉を、天御中主尊の手植え六代目と傳える。

・文安二年(1445)、天文十四年(1545)、天正十年(1582)、阿蘇氏の造営があり、現在の社殿は享保十四年(1729)、細川宣紀の改修したものである。


■一之鳥居■
(June 17th 2011)
 


■參道石段■
(June 17th 2011)

 


■二之鳥居■
(June 17th 2011)
 


■手水舎■
(June 17th 2011)
 


■拜殿■
(June 17th 2011)
 


■本殿■
(June 17th 2011)
 


■末社水神宮■
(June 17th 2011)


・祭神は水波能賣神、日子八井命。
・西の御手洗の神。


■末社大野神社■
(June 17th 2011)



・祭神は應神天皇、健磐龍命。
・大野神社が幣立神宮に社の社格が與えられた理由であるという。


■末社東の宮■
(June 17th 2011)


・祭神は風の宮大神、雨の宮大神、火の宮大神。


■天神木「千穗」■
(June 17th 2011)
 


■神代の伊勢一世の大楠「伊勢の内宮」■
(June 17th 2011)


 


■火の玉神木■
(June 17th 2011)
 

・明治三十六年(1903)七月三日、この檜より火が出たので「火の玉神木」という。これは日露開戰の證であった。そこで國起こしの人材が望まれて「人間樹木出生説」が生まれた。現宮司もその一人であるとする。


■東御手洗への參道■
(June 17th 2011)
 


■田■
(June 17th 2011)
 


■東御手洗(水玉池)■
(June 17th 2011)
 


 

・饒速日命が當池の水を持ち全國主要地を淨めた、という。
・秦の始皇帝は「不老不死」の靈藥をこの神水に求めた、とも傳えられる。
・太古より八大龍王鎭まりしところで、北辰妙見大神が祀られる。
・神代、天村雲姫が水を頂いた靈地とされ、この水のかかるところに、西御手洗の主基田を移したので、田迎えと稱され、大嘗祭の由基田の起こりとなっているという。


■末社東御手洗社(水神社)■
(June 17th 2011)

 

・祭神は北辰妙見大神。


■東御手洗源泉■
(June 17th 2011)


 


((コメント))

2011年6月17日

 二度目の幣立神宮。平成二十年(2008)の十一月にも訪問しているが、その折に東御手洗へ行かなかったための訪問である。當社はパワースポットとしてマニアには有名な九州の臍の位置に鎭座する神社であるが、その由緒などには怪しい点が多い。個人的にはほとんどは信用できないことであると考えており、『熊本縣神社誌』からの記述も神社側からの情報であるとすれば、書面どおりに信用することは難しいと思われる。

 遠き昔、阿蘇山が噴火によりその山頂部を失う以前は、一万メートルを越える標であったことが推測されているが、もし、それが人類が生きていた時代であるとすれば、この地より阿蘇の山を拜んでいた可能性は否定できない。南側から太陽の光を受け、さぞ美しく見えたことであろう。そう考えると、あながち日の宮としても惡くはないかも知れぬ。ただ、個人的に神社などから得られる情報については正直なところ、信じることは難しい。この神社の背後には、崇眞光があるとされ、竹内文書が重要と考えられているからであり、この文書は、古史古傳の一つであり、歴史的に信憑性が低いとされている。竹内文書は神代文字による文書、武烈大王の勅命によりの平群眞鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする寫本群と、文字の刻んだ石、鉄剣など、一連の總稱とされるが、まず第一に、古事記、日本書紀の記述と大きく異なっているということで、異端視されているものであり、それ以前に、武烈王朝時代にはカタカナが存在するはずもなく、一般にその二百年は後に生まれた文字であるので、この段階で「武烈大王の勅命によりの平群眞鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳した」ということは僞りとなる。まず、これらの信憑性を求めるためには、竹内文書とされる遺物を科学的に調査し、作成年代の推定が必要である。もちろん、日本國にて行う場合は、内容が内容なので信用できないと考えるならば、海外で調査を受けねばならぬであろう。さらに、内容によっては、遺伝子調査、遺跡、記述にあることを裏付ける物的証拠が複數なければ根拠を示すことは出來ない。故に、非常に神社の主張は疑い多き内容となるのである。

 靈能者や靈感のある人たちは東御手洗に龍がいるというが、それはどうなのであろうか。前回訪問時にも感じたが正直のところ、境内全體に良い氣を感じることはない。むしろ、何かうねるような黒い影が見えるというほうが、個人的には正確な表現であるといえる。東御手洗の水玉池には淨化の力どころか、訪問時はかなり、穢れ、腐敗氣味であり、生き物も死しており、八大龍王どころの話ではなかった。元元、私と八大龍王の關係は良くないが、ここにいるようには感じられない。むしろ別の何か、自分に敵對するものの氣が殘っていると感じるのみであり、前回訪問時と変わりはない状態であった。このことに關しては思うところはあるが、公に書く必要はないことであるので触れないが、哲学レベルで、隔世的に私に受け繼がれた血の中に坐すものとの格が違うからなのであろう。しかし、火の玉神木の説明文には呆れさせられるものである。

血の宮 高家神社

2011年11月24日 19時13分11秒 | 四国(徳島、香川、愛媛、高知)
■本殿■
(21st July 2008)
 


★血の宮 高家神社★ 香川県坂出市高屋町揚北

・祭神は天道根神、崇徳天皇、待賢門院。大鞆和氣尊、息長足姫尊、大己貴神、埴山比賣神、少彦名神、倉稲魂神、大山亂命、木華侖屋姫命、伊弉那伎命、伊弉那美命、豊受大神を配祀。

・古代、高家首の一族がこの地に住み、その祖神天道根神を氏神として祀ったことに始まる。

・讃岐に流刑にされた崇徳天皇が薨去されたとき、棺を白峰に運ぶ途中、雷雨に遭いこの神社で、棺を休めたところ、棺から血が流れた落ちたことから血の宮と呼ばれるようになったという。また、これを機に、崇徳院も合わせ祀られる様になったという。


■鳥居■
(21st July 2008)



■中門■
(21st July 2008)
 


■本殿■
(21st July 2008)
 


((コメント))

2008年7月21日

 崇徳院の陵を目指した道中、「血の宮」というのが目に入ったために、急遽立ち寄ると元々は高家首を祀る神社であったが、事情があり、崇徳院およびその母君である待賢門院を祀っているところであった。血の宮というのは、崇徳院の逸話に関する呼び名であるらしい。保元の乱、平治の乱の頃が好きで本を読み漁り、特に、崇徳院には特別な思いがあるので、立ち寄ってよかったと思う。