■拜殿■
(15th May 2009)
★木曾三社社★ 群馬県渋川市北橘町下箱田
・舊社格は縣社。
・祭は須佐之男命、彥火火出見命、豐玉姫命、宇氣母智命。
・元暦元年(1184)、木曾義仲が近江國粟津で討死後、義仲の三男と傳えられる義基を伴い、落ちてきた家臣今井、k梨、町田、小野澤、萩原、串淵、諸田等が、義仲が崇敬した信濃國の延喜式内社である筑摩郡の三座岡田、沙田、阿禮社をこの地に勸請して創建したものと傳えられる。
・木曾義基が、藤原氏によりこの地を與えられたことに由來するというが、不明。
・瀧之宮、木曾明とも言う。
・關東管領上杉氏や白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬厚く、田の寄進や社殿の修復が行われた。
・寛政元年(1789)、火災にあい、同六年(1794)に再建、さらに明治二十年代に大改修を受けている。
■一之鳥居■
(15th May 2009)
■社號標■
(15th May 2009)
■二之鳥居■
(15th May 2009)
■石段上から見る境内■
(15th May 2009)
■拜殿■
(15th May 2009)
■扁額■
(15th May 2009)
■本殿■
(15th May 2009)
■拜殿、本殿■
(15th May 2009)
■木曾氏遺臣の像■
(15th May 2009)
■御腰掛岩■
(15th May 2009)
■本殿側方付近の末社群■
(15th May 2009)
■本殿に向かって右手側の末社群■
(15th May 2009)
■本殿に向かって左側の末社■
(15th May 2009)
((コメント))
2009年5月15日
當初は行くつもりはなかったのであるが、調べると愛する木曾義仲の所縁の社であった爲に、急遽、行くことにした。なかなかいいところであった。富岡市の上野國一之宮の貫前社と同じく下り宮形式で興味深い上、湧き水が豐かで境内の緑がよかった。家臣の石像などは崩れていて何かわからなかったが、四天王の今井さん、楯さんの子孫の方がおられるとは感慨深いものだ。多分、根井さんもいるに違いない。木曾氏も殘ってるみたいだし。でも、鎌倉、室町、戰國、江戸、どのように過ごしてきたのだろうか、興味がある。
木曾氏遺臣の像はかなり崩壊しており、誰のものかは判別できない。誰だろうか。一般に討死したとされる楯六郎親忠が妻と上野國へ落ちたという説もあり、義基に同行していたとすれば、義仲の四天王でもあったわけであるので、主君の子息を生涯かけて守った可能性もあるので、彼ではないのか、と推測する次第。
ちなみに、拜殿の扁額には源直方の名があるが、一体、誰なのだろうか。
(15th May 2009)
★木曾三社社★ 群馬県渋川市北橘町下箱田
・舊社格は縣社。
・祭は須佐之男命、彥火火出見命、豐玉姫命、宇氣母智命。
・元暦元年(1184)、木曾義仲が近江國粟津で討死後、義仲の三男と傳えられる義基を伴い、落ちてきた家臣今井、k梨、町田、小野澤、萩原、串淵、諸田等が、義仲が崇敬した信濃國の延喜式内社である筑摩郡の三座岡田、沙田、阿禮社をこの地に勸請して創建したものと傳えられる。
・木曾義基が、藤原氏によりこの地を與えられたことに由來するというが、不明。
・瀧之宮、木曾明とも言う。
・關東管領上杉氏や白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬厚く、田の寄進や社殿の修復が行われた。
・寛政元年(1789)、火災にあい、同六年(1794)に再建、さらに明治二十年代に大改修を受けている。
■一之鳥居■
(15th May 2009)
■社號標■
(15th May 2009)
■二之鳥居■
(15th May 2009)
■石段上から見る境内■
(15th May 2009)
■拜殿■
(15th May 2009)
■扁額■
(15th May 2009)
■本殿■
(15th May 2009)
■拜殿、本殿■
(15th May 2009)
■木曾氏遺臣の像■
(15th May 2009)
■御腰掛岩■
(15th May 2009)
■本殿側方付近の末社群■
(15th May 2009)
■本殿に向かって右手側の末社群■
(15th May 2009)
■本殿に向かって左側の末社■
(15th May 2009)
((コメント))
2009年5月15日
當初は行くつもりはなかったのであるが、調べると愛する木曾義仲の所縁の社であった爲に、急遽、行くことにした。なかなかいいところであった。富岡市の上野國一之宮の貫前社と同じく下り宮形式で興味深い上、湧き水が豐かで境内の緑がよかった。家臣の石像などは崩れていて何かわからなかったが、四天王の今井さん、楯さんの子孫の方がおられるとは感慨深いものだ。多分、根井さんもいるに違いない。木曾氏も殘ってるみたいだし。でも、鎌倉、室町、戰國、江戸、どのように過ごしてきたのだろうか、興味がある。
木曾氏遺臣の像はかなり崩壊しており、誰のものかは判別できない。誰だろうか。一般に討死したとされる楯六郎親忠が妻と上野國へ落ちたという説もあり、義基に同行していたとすれば、義仲の四天王でもあったわけであるので、主君の子息を生涯かけて守った可能性もあるので、彼ではないのか、と推測する次第。
ちなみに、拜殿の扁額には源直方の名があるが、一体、誰なのだろうか。