の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

七郎社

2013年05月16日 00時49分37秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■本殿■
(16th June 2011)



★七社★ 長崎県壱岐市石田町池田西触1094-2

・舊社格は村社。

・祭は素盞嗚命、他四柱。

・江戸時代に、平戸藩からやってきた檢地の役人を正傳庵で接待したのであるが、この役人の馬を見張っていた七と言うものが長い宴のに眠りに落ち、その隙に馬が逃げ、稻を食べたことで、奉行は七を激しく叩きのめした。これに怒った七は、馬を殺して、自害して果てたと傳わる。これ以後、この周邊には、靈魂が現れ、周圍の人を惱まし、また、蹄のない牛や馬が生まれたり、不吉なことが續いたといい、村人たちは、七や馬のせいだと考えて、社を建てて、祀った、という。


■遠景■
(16th June 2011)
 


■鳥居■
(16th June 2011)



■拜殿■
(16th June 2011)



■寶篋印形供養塔■
(16th June 2011)


 壱岐市指定文化財

・天保四年(1833)八月の建立。
・七を祀る供養塔という。


((コメント))

2011年6月16日

 檢地の役人さんを持て成す宴の時の失敗が原因で最終的に自害することになった七さんを祀るために建てられた社らしいが、祭に關しては、長崎県社廰壹岐支部のところでは、素盞嗚命外四柱とあるだけで、詳しくはわからない。建立の經緯から、七も含まれているのであろう。を祀ると言うよりは、祟りを恐れる、靈を鎭めるという鎭魂系の社であることだけは違いない。大國玉社でも氣になっていたが、七社でも、參道兩脇に丸石が置かれていた。壹岐特有の祭祀方法なのであろうか。

鼻白瀧

2013年05月03日 01時28分06秒 | 
■鼻白瀧近くより■
(6th October 2007)



★鼻白瀧★ 和歌山県新宮市熊城山本

・そのむかし、鼻が白いうなぎが住んでいたことから鼻白瀧と名付けられるようになった。

・落差八十数メートルの豪快な瀧。


■瀧の姿■
(6th October 2007)
 


 

■遠景■
(14th September 2008)
 
(9th April 2009)
 


((コメント))

2007年10月6日

 なかなか、美しく心地よい瀧であった。

2008年9月14日

 瀞峽の後は、新宮熊野速玉大社を目指す途上にあったが、鼻白瀧に入る林道が通行制限をしていなかったので立ち寄ることにした。今回は、少し離れたところから瀧の全景を見た。

2009年4月9日

 ここに來るのは三囘目。名前はダサいが、美しい瀧であるのでここを通りかかるたびに立ち寄ってしまうところである。個人的には、かなり好みの瀧である。

小川月社

2013年05月03日 01時24分04秒 | 近畿(滋賀、京都)
■境内遠景■
(22nd May 2010)



★小川月社★ 京都府亀岡市馬路町月読16

・延喜式内社、丹波國桑田郡、小川月社、名大。

・舊社格は村社。

・祭は月讀命。

・創建年代は不詳。

・當社は大堰川の東岸に鎭座しているが、大堰川を挾んだ西方、千代川町に小川という字名があり、『和名抄』に見える「桑田郡小川」に當たるとされる。

・大堰川沿いには他に松尾系の社があるので、下流の松尾大社攝社葛野坐月讀社との關係が示唆され、大堰川を遡る形で秦氏による開發が進み、それにともなって創祀されたと考えられている。

・氏子總代保管の「丹波國桑田郡小川月社之事」という年不明の文書に、伊勢兩宮が丹後國與謝郡に遷座した時の末社であるとも、丹波國に鎭座していた時の末社であるともし、「代よりの舊地なり」と記す。また、出雲大宮の鎭座よりも古く、同社と同等の社で桑田郡「第二之大社也」とも記す。

・應仁年(1467-69)に大堰川の洪水によって社地を流失、以後、小祠として祀られるようになったと傳えられる。

・たびたびの大堰川の洪水により、流路が変わっているため、鎭座地も遷っているといわれる。

・社傳によれば、北條時が廻國の途中に參拜し、家臣人見次貞村という者に社守護を命じ、長らく人見家が三十代にわたって奉仕してきたが、その後、氏子總代が維持經營にあたるようになったという。


■境内遠景■
(22nd May 2010)



■拜殿■
(22nd May 2010)


・出雲大宮の拜殿を移築したという。


■本殿覆い屋■
(22nd May 2010)



((コメント))

2010年5月22日

 丹波國一之宮出雲大宮の近くにある、月讀を祀る延喜式内名大社小川月社へ行った。現在は、麦畑の最中にポツリとたつ小祠であり、名大社の面影はない。風景はのどかであるが、その社の氣は寂しさを感じさせるものである。

津の宮社

2013年05月03日 01時16分47秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■社殿覆い屋■
(16th June 2011)
 


★津の宮社★ 長崎県壱岐市石田町池田西触19

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、津社、論社。

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、國津社、論社。

・舊社格は無格社。

・祭は彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、玉依比賣命。

・『壹岐國續風土記』には、「津宮大明、在津宮、所祭葺不合命、玉依姬命也、石祠云云」とある。

・『壹岐名勝圖誌』に、「前畧、比說よくもかなへり、そは此所當國筑前大宰府の管下たりし頃より當所は其の津泊なりし事明らけし、近來年貢運送の津も此津最初なりという中葉まで社の前まで入江にして船泊りなりしかどやうやうにうづまりて今は水田となれり、今又地理を見るに大社にても建べき所にて既にむかしより津宮と里の名にすといい傳えければ式の津社なりし事うたがうぺからず。」とあり。


■鳥居■
(16th June 2011)
 


■石祠■
(16th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月16日

 非常にわかりにくいところで、二度、通り過ぎたが鳥居を何とか見つけ訪問と相成る。『延喜式』名帳の壹岐嶋石田郡津社もしくは國津社の論社と言うことである。國津社の說は、壹岐の國府に近いため、と言う說であるが、實際、國府蹟が興社付近と推定されていることもある上、國府の遺蹟が発見されていないこともあり、國府に近いかどうかを論ずる根拠に缺けるところにひとつ疑問を感じる。津社ということになれば、仮に、『壹岐名勝圖誌』や『壹岐國續風土記』の記述に僞りや誤りがなければ、津社ということになるが、所詮、江戸時代に文書であり、かつ、延寶の式内社認定に影響がないとも言い切れないために、丸呑みにするわけにもいかず、非常に難しいように思われる。ただ、現國津社を物部布都社と仮定し、現津社を津社とみなし、こちらを國津社としたいが、根拠なく、非常に難しい。

 正直、地理的にも、やはり、津社というほうが正當のように思う。

六請社

2013年05月03日 01時08分49秒 | 近畿(滋賀、京都)
■鳥居■
(24th April 2009)



★六請社★ 京都府京都市北区等持院中町


・祭は伊勢大御、石水大、賀茂大、松尾大、稻荷大、春日大。

・古來、衣笠山麓に鎭座していた爲、衣笠御靈、衣笠岳御靈とも呼ばれ、その山に鎭まる先人の靈を合せ祀ったのに始まるとされる。

・昔は開拓の祖を天照國照または大國御魂と呼んでいたが、その天照國照がいつしか、天照大ら六柱を勸請して六請というようになった。

・足利氏の等持院創建以後、その鎭守社として境内に祀られたが、佛分離の時、現社地へ遷座したという。


■拜殿■
(24th April 2009)



■本殿■
(24th April 2009)
 


■末社力石大明■
(24th April 2009)



((コメント))

2009年4月24日

 堀河天皇火葬から、住吉大伴社へ行く途中に、地圖で見つけたので立ち寄ることにした。閑靜な住宅地の狹に鎭座。特に感ずるものは少ない。等持院の鎭守であったためか、道というよりは佛教系の香りも强いところである。