の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

菅原院天滿宮社

2011年04月23日 20時40分14秒 | 近畿(滋賀、京都)
■本殿■
(24th April 2009)



★菅原院天滿宮社★ 京都府京都市上京区堀松町406

・祭は菅原道眞、菅原是善、菅原公。

・境内は菅原道眞の曾祖父古人の邸宅「菅原院」のあったところとされる。

・菅原道眞生誕の地を稱するが、他に複数あることより、眞僞は不明。

 
■社號標■
(24th April 2009)
 


■鳥居■
(24th April 2009)

 

■道眞産湯の井■
(24th April 2009)

 

■菅家邸址石碑■
(24th April 2009)
 

■末社梅丸大、和融稻荷■
(24th April 2009)


 

((コメント))

2009年4月24日

 まずは、京都御所の西側に鎭座の護王社を目指すと途中、菅原院天滿宮社が鎭座しているもの見付け、立ち寄った次第。一応、菅原道眞生誕の地を名乗る地の一つのようである。奈良市西大寺の近くや、吉野町にも生誕地を名乗る地区があり、謎の多い人である。

 社はこじんまりとした寂しいところであった。

雑記13 『赤城社』

2011年04月09日 16時59分12秒 | 雑記

・群馬縣内に多く赤城社の分社が存在するが、赤城山を通る南中線の東半分は大己貴命、西半分は豐城入彦命を祭とする傾向がある。これは明治初年まで赤城社には東宮と西宮が存在し、職、社家も二派あったためと推測されている。

・『道集』によると、まず赤城山頂の大沼、小沼を格化し、次いで大沼を千手觀音、小沼を虚空藏菩薩として古代からの二所明とし、これに赤城山の中央火口丘である地蔵岳を地藏菩薩として加え、あわせて三所明としたという。

・勢多郡粕川村月田字近戸、同村深津字近戸に近戸社が鎭座するが、近戸は赤城社の近戸(里宮)であり、両社とも赤城社と同じ祭を祀り、虚空藏菩薩を本地佛とする。この近戸社が赤城社の西宮につながり、東宮は年を經て加わったと見られる地藏菩薩に關わる。

・赤城社の本源については、赤城山頂の富士見村大洞の舊社の赤城社とする説、三夜沢の舊縣社の赤城社とする説、前橋市二之宮町鎭座の舊社の二宮赤城社とする説があり、確定されていない。

・『上野國交替實録帳』などの記録より、かなり大きな社域を有し、七年に一度の修築制度があり、寺院を見習った大建築の社であったことが推定される。

・前橋市二之宮町鎭座の舊社二宮赤城社は現在も豐かな社叢を持ち、付近には肥沃な農地が広がり、かつて、ここが本社とされていたこともあるという。

・赤城信仰に關わる事のひとつに幸があるが、三月および十二月の初辰の日、粕川村月田の近戸社を經由して三夜沢と二之宮の間を輿が往復をするのであるが、民俗學的見地より、山のが里に下り、田のとなり、収穫が終わった後、山に帰ることを意味すると考えられている。

・三夜沢の赤城社(現本社)の背後にある荒山の尾根に「櫃石」という巨石があり、磐座の形態を取る古代祭祀遺跡で天津籬とは異なる社成立以前の自然崇拜遺跡という。ところで、この櫃石は、三夜沢の赤城社からは北方よりやや西より1.2キロの位置にあり、二宮赤城社からは眞北に位置している。古代の社の位置關係などは、非常に意味があり、かつ、非常に正確であったことを考えると、二宮赤城社の位置づけは非常に重要で、本源である可能性は非常にいと思われる。

・赤城と日光の山のの傳説に次のようなものがある。
「昔、二荒山と赤城山のが中禅寺湖を下野國のものが、上野國のものだと言い合い、ついに戰いとなってしまった。はじめは赤城の側が優勢であったが、二荒のは鹿島のの助言によって小野猿麻呂という弓の名人の加勢を得、反撃に転じた。二荒のは蛇の姿になり、赤城のは百足に姿を変えて戰ったが、赤城のは猿麻呂に左眼を射抜かれて、ほうほうのていで逃げ帰った。この戰場が今の日光中禪寺湖畔の戰場ヶ原であり、赤城のが負った手傷を癒した湯が老温泉であるという。」
 この傳説にちなみ、日光二荒山社では、年に一度、赤城山に向かって矢をいる事を續けている。

赤城社(大洞)舊社地

2011年04月09日 16時46分18秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■鳥居■
(15th May 2009)

 

★赤城社(大洞)★ 群馬県前橋市富士見町赤城山

・延喜式内社、上野國勢多郡、赤城社、名大、論社。

・舊社格は社。

・祭は赤城大明、豐城入彦命、磐筒男命、磐筒女命、經津主命。大山祇、川家康を配祀。

・赤城社元宮を稱す。

・昭和四十年(1965)に現在地に遷座。


■玉垣■
(15th May 2009)


 
■延喜式内社赤城社元宮跡地石碑■
(15th May 2009)

 

■舊拜殿■
(15th May 2009)



■辨財天■
(15th May 2009)

 

■舊木■
(15th May 2009)


 
■大沼■
(15th May 2009)



((コメント))

2009年5月15日

 大沼を挾んで見合う形で舊社地跡が殘っているので行ってきた。まだ、拜殿や鳥居、玉垣が殘されていた。特に、感ずるものはないが、以前は、近くにバンガローやスケートなどのリゾートらしきものもあるので、榮えていた地なのかもしれない。

赤城社(大洞)

2011年04月09日 16時24分21秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■遠景■
(15th May 2009)



★赤城社(大洞)★ 群馬県前橋市富士見町赤城山

・延喜式内社、上野國勢多郡、赤城社、名大、論社。

・舊社格は社。

・祭は赤城大明、豐城入彦命、磐筒男命、磐筒女命、經津主命。大山祇、川家康を配祀。

・赤城社元宮を稱す。

・昭和四十年(1965)に現在地に遷座。


■棧橋■
(15th May 2009)



■鳥居、社號標■
(15th May 2009)



■拜殿■
(15th May 2009)




■本殿■ 
(15th May 2009)

 

■小鳥が島の多寶塔■
(15th May 2009)


 群馬縣指定文化財

・經塚。
・以前は小鳥が島の中央にあったのを社殿建造のために現在地に移転したという。
・應永五年(1372)の銘がある。


■大沼■
(15th May 2009)


 正面の湖畔の右側の木木の色が違う、やや深緑の地点が舊社地。


((コメント))

2009年5月15日

 三夜沢から人一人見かけることのないまま山を登り續け、到着。午前六時二十二分に境内に入った。凍てつくような寒さだが、こんなに寒いと思っていなかったので半袖しかない・・・ ということで、走って周ることになった。

 この赤城社は延喜式内社赤城社の元宮を稱しているらしいが、境内を周って感じたのは、元宮というのはあり得ないであろうという思いである。まず、ここのは山のではない。明らかに山のの氣はない。水のの氣がある。思うに、この社は赤城山ではなく、大沼の水を祀る社ではなかったであろうか。その後、鎭座しているのが赤城山山頂付近であったために元宮と稱するようになったのであろう。

 個人的な見解としては、櫃石に始まり、おそらく、それを拜む里宮が二宮赤城社というのが正しいであろう、ということ。

 ここは、かなり、人人によって、元宮といわれてるだけの安っぽい氣を感じただけである。