の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

丹生川上社下社 / 丹生川上神社下社

2015年10月20日 07時03分44秒 | 近畿(奈良)
■二の鳥居■
(1st January 2010)



★丹生川上社下社★ 奈良県吉野郡下市町長谷1-1

・舊社格は官幣大社。但し、丹生川上社下社との二社合一、後、中社も含め三社合一にて。

・祭は闇龗。大正時代に東吉野の蟻通社が古代の丹生川上社とされたとき、下社の祭は龗から闇龗とされた。

・下社の舊稱の「丹生大明」は、現在は丹生都比賣社の祭である丹生都比賣のことであるとする說があるという。

・日本話では、產みにおいて伊邪那岐が迦具土を斬り殺した際に生まれたとする。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、劍の柄に溜つた血から闇御津とともに闇龗が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土を斬って生じた三柱ののうちの一柱が龗であるとする。龗は龍の古語であり、龍は水や雨を司るとして信仰されていた。「闇」は谷を、「」は山の上を指す言葉である。

・周邊から、繩文時代の遺蹟などが見つけられている。

・一の鳥居は大淀町今木に、二の鳥居は下市町善城に、三の鳥居は廣橋にあったと云われる。

・本殿背後の丹生山山頂の平坦地東寄りに古代祭祀蹟とおぼしく、長徑三十センチ、短徑十五センチ大の丹生川岸にある泥片岩、又は自然石二十六個で圍まれた矩形の石羣が殘っているという。


●丹生川上社●

 上社 吉野郡川上村字宮の平
 中社 吉野郡東吉野村小
 下社 吉野郡下市町長谷

・延喜式内社、大和國吉野郡、丹生川上社、名大の論社が三社あり、明治政府により、色色な經緯があり上、中、下社とされた。
・『延喜式』名帳によると、雨師社と號されたとある。
・卜部兼倶撰といわれる『二十二社注式』に、人皇第四十代天武天皇白鳳四年(675)に創建とある。「人聲聞えざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ」との託により、丹生川の川上に雨水のを祀ったのに始まると傳わる。
・貴布禰社とともに祈雨、止雨の靈驗がいとされ、朝廷から厚い崇敬を受けた。
・仁安二年(1167)、大倭歳繁が國衙の命で注進した『大倭社注進狀』によると、丹生川上のに奉幣のとき大和社の主が敕使に隨行すると『延喜式』に定められているのは、大和社の別宮であるから、とされており、實際、吉田兼倶撰といわれる『二十二社注式』には、天武天皇の白鳳乙亥(四)年 (675)に垂迹し、大和社の別宮になったと記される。
・大和社末社雨師明(現龗社)のタカクラオカミを移した社と傳承も殘る。
・丹生川上社下社の社前を流れる丹生川は芳野水分峯に源を發し、その水域には古代寺院の堂原寺蹟や丹生川上の雨師を祀る大日川の丹生社、宇智の式内社丹生川社などの社が點在している。これが、下社を式内社丹生川上社とする有力な根據の一つとなる。
・丹生川上社の所在について、林羅山は『本朝社考』にて、所在不明としているが、白井宗因が『社啓蒙』『社便覽』において「下市之傍山中丹生村」にあるとして以來、『大和志』、度會延經の『名帳考證』などの書すべてが現在の下社に比定し、これにより明治四年(1871)、式内社として官幣大社に列した。
・『類聚三代格』平七年(895)の太政官符が大和國丹生川上雨師社界地の禁制の事として、社地の「東限を鹽匂、西限は板波瀧、南限は大山峯、北限は豬鼻瀧」としていることから、明治七年(1874)、現下社の少宮司江藤正澄は同社がこの四至に合致しないと稱し、北限の豬鼻瀧は小川内萩原村の瀧であると說き、川上村迫所在の社を式内社に比定、下社を口の宮、後者を奧の宮とした。明治二十九年(1896)、内務大臣告示にて口の宮が下社、奧の宮を上社とし、上社も官幣大社に列した。
・大正四年(1915)、森口奈良吉は『丹生川上社考』を著し、太政官符の四至の東限鹽匂が大豆生の鹽和田、西限板波瀧が小川村と國栖村との境界付近のイトサミの轉訛、南限大山峯は小川村と川上村境界にある南方の峯、北限豬鼻瀧は小川村萩原下と考證し、新たに小川村の蟻通社を式内社に比定した。さらに傍證とし、同社の祭木造が藤原期初期のものである事、丹生社銘を持つ弘長三年(1263)の石燈籠があること、『春日大社文書』の宇陀郡田地帳に「雨師庄、田五町、吉野郡小河雨師明領」とあること、前出の太政官符にいう、供御にことよせてたびたび地を汚し崇りを受けた「國栖戸百姓竝浪人」の住地に近接していることを擧げ、内務省考證官の實地調査を求めた。その結果、認められた。
・大正十一年(1922)、蟻通社が内務省告示により丹生川上社中社とし、官幣大社に列され、同時に祭加の形で上、中、下三社を合一、中社を中心的社と定め、社務所を置いた。
・丹生川上社への祈雨、止雨の奉幣遣使の記錄は室町期以後、衰退し、ついに社地の所在不明とまでなった。


■一の鳥居■
(18th February 2003)

(1st January 2010)



■境内■
(1st January 2010)



■二の鳥居■
(18th February 2003)



■拜殿■
(18th February 2003)

(1st January 2010)
 


■末社■
(18th February 2003)

 

((コメント))
2003年2月18日

 國道三〇九號線を走っていると、下市町で立派な社を發見し、立ち寄ることにした。丹生川上社との出會いになった瞬であった。雨ということもあるが、莊嚴な雰圍氣をもつ印象が强かった。

2010年1月1日

 初詣に丹生川上社下社へと向かった。出立は午後二時。御所から大淀に入る邊りから雪が降り始め、下市に到る頃には結構、雪も强く降り始めてきていた。夜中ということであまり車が走っておらず、1時弱で到著となった。行くと、どんどの周りに地元の担當の人たちが座って、番をしていた。

 寫眞を撮るべく、三脚を用意して境内に行き、拜殿の前にいたときに參拜に來られたおばさんが話しかけてこられたのでしばらく話をした。地元の方だそうで、徹夜で社の番にいなければいけないとのことだった。さすがに、地元の人のためか、丹生川上社を名乘る三社についてもよくご存知であった。

 ちなみに社殿の前に立ったときだが、本殿へ続く階段の方針からなんとなく鬼のような姿が見えたのだが、それが水の樣なのだろうか。


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