の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

津社

2012年04月28日 14時13分54秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鳥居■
(16th June 2011)
 


★津社★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町半城牛方触684

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、津社、論社。
 
・舊社格は村社。

・祭は彥波瀲武鸕鷀草葺不合尊、彥火火出見尊、豐玉比命、玉依比賣命、日本磐餘彦命。素盞嗚尊、大己貴命を配祀。配祀は、牛社の合祀による。

・津ノ上山の山頂付近に鎭座。

・弘仁二年(811)の創祀と傳えられる。


■拜殿■
(16th June 2011)
 


■拜殿、本殿■
(16th June 2011)
 


■石塔■
(16th June 2011)

 


((コメント))

2011年6月16日

 延喜式内社津社に比定されたゆえ、津社となっているようである。元は津上大明。鎭座の山は奈備型の山であり、祭祀があることは想像に難くない。式内社の壹岐郡角上社について、延喜式では「つのかみ」と讀むことが記されているにも關わらず、式内社の査定において、「とかみ」とし、「とかみ」山の「とかみ」社を當てているのだが、個人的には、「つのかみ」とし、當社がそれに當たると思っている。津社に關しては、論社として名が上がっている中で考えると、津之宮社と考えれるのかもしれない。

 ところで、山の形などはいいのであるが、特に境内に何かを感じ、思うことはなかった。形骸化しているように感じる。

壹岐國一之宮天手長男社

2012年04月28日 14時02分15秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■鉢形嶺遠景■
(16th June 2011)
 


★壹岐國一之宮天手長男社★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町田中触730
 
・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、天手長男社、名大、論社。

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、天手長比賣社、名大、論社、合祀。

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、物部布都社、論社、合祀。

・舊社格は村社。

・祭は天忍穗耳尊、天手力男命、天鈿女命。仁天皇、仲哀天皇、日本武尊、比賣大、栲幡千千姫尊、稚日女尊、木花開耶姫命、豐玉姫命、玉依姫命、布都主命を配祀。栲幡千千姫尊、稚日女尊、木花開耶姫命、豐玉姫命、玉依姫命は天手長比賣社、布都主命は物部布都社を合祀したことによる。

・本來の名は天手長男、天手長比賣と考えられるが、この名は他國に例がなく、壹岐固有のであり、おそらく壹岐の古族、壹岐直、卜部の祀った祭であったと思われる。

・『宗像大菩薩御縁起』によると、功皇后の新羅征討に際して、宗像のが大いに奮戰して武勲を輝かしたというが、その時、「御手長」を振り下げ、振り上げして敵を翻弄したとあり、帰還後、これを沖ノ島に立て置かれたという。この「御手長」というのは「異國征伐ノ御旗竿也」と註されている。さらにこのとき、金崎(宗像郡鐘崎)の織幡大明は赤白二流の旗を織って、宗像大明の「御手長」につけたということから、田中卓氏氏は、宗像ののうち、沖ノ島のは壹岐の手長のを祀ったもので金崎の織幡も本來は壹岐にあったと考察した。ところで、織幡社の社家が古來壹岐氏であった。

・天手長比賣社、物部布都社の論社に加え、若宮社、寶滿社、粟島社を合祀。

・舊石田郡物部にある鉢形嶺に鎭座し、そのたたずまいはカンナビ山の典型である。おそらく古代の祭祀があったことが推測され、式内社のいずれかである可能性は強い。

・鉢形嶺の山頂部に經塚があり、延寶四年(1676)にここより発掘された國の重要文化財でもある石造彌勒如來坐像には延久三年(1071)の銘文があり、「日本國壹岐嶋物部鉢形嶺」に奉納したと刻されており、彌勒像の胎中に法華經を入れ、埋葬したもので、全國でも類例がないといわれている。これは山に經塚が営まれたものとすれば、壹岐、對馬を通じて、佛習合を示す最も古い資料となり得る。

・平戸藩の國學者橘三喜は、「たながお」の社名より田中触に、その所在地を求め、現社地に比定したというが、近年の研究では、芦辺町の興社が式内天手長男社とみなしており、「興」は「こふ」であり、「国府」であるとし、一之宮であると考えられている。

・橘三喜による延寶の式内社査定以前は若宮といい、田中若宮四所の明であり、天手長男神社の由緒を示すものではない。

・合祀されている天手長比賣社については、橘三喜による天手長男社と同樣の理由による比定であり、本來の手長比賣社の所在地は不明である。

・合祀された物部布都社については、橘三喜の査定であるが田中触が物部村に所属していたことによるとされる。『社考』は、「物部大屋の辻に社もなく祭るものもなき所に石祠を据へて木鏡を納め、式内物部布都社を勸請す。物部の社號と物部の地名とによりて之に擬したるものならむ」と橘三喜の式内社査定を批判している。物部布都社の本來の所在地に關しては、近年の研究では、渡良浦の國津社とされている。


■一之鳥居■
(16th June 2011)



■參道■
(16th June 2011)
 


■二之鳥居■
(16th June 2011)
 


■三之鳥居■
(16th June 2011)
 


■拜殿■
(16th June 2011)
 


■拜殿、本殿覆い屋■
(16th June 2011)
 


■石祠■
(16th June 2011)
 


■境内の石塚■
(16th June 2011)
 


■手水鉢■
(16th June 2011)
 


■木■
(16th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月16日

 とりあえず、一應、表向き壹岐國一之宮の天手長男社を訪問。ある意味、メインの訪問先であったといえる。正直、何も感じなかった。行った時間が惡かったのもあるが、一之宮としての格を感じることはない。ただ、田を挾み、天手長比賣社跡地があるが、そこと一組で何らかの祭祀があった樣には思われる。おそらくは、不明になっている式内社の一つではあろう。壹岐を周っていて思うが、式内社に關しては混迷の一言に尽きる。

國津社

2012年04月28日 13時46分18秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■二之鳥居■ 
(16th June 2011)
 


★國津社★ 長崎県壱岐市郷ノ浦町渡良浦1148 

 壹岐市史跡

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、國津社、論社。

・延喜式内社、壹岐嶋石田郡、物部布都社、論社。

・舊社格は村社。

・祭は足名槌命、手名槌命、奇稻田姫命。武甕槌を配祀。

・舊號は青波加大明、荒波加大明。

・渡良浦氏。

・威が嚴格で、近海を航行する船は帆を下げて敬意を表さねばならず、これを怠った船には、罰覿面に下ったという。

・延寶の式内社調査において橘三喜が國津社に比定。

・『式内社調査報告』では當社を物部布都社とし、津之宮社を國津社に比定している。國の津として優通(いんつ)港は良港であり、『魏志倭人傳』にある「南北市糶」と記され、南北駅家の址を考えると港のほとりに國津社が鎭座するのは當然と山口麻太郎氏は考えている。


■一之鳥居、燈籠■
(16th June 2011)
 


■鳥居脇の大石■
(16th June 2011)



■二之鳥居■
(16th June 2011)
 


■木■
(16th June 2011)



■拜殿■
(16th June 2011)
 


■本殿■
(16th June 2011)
 


■石■
(16th June 2011)
 


■磐境跡■
(16th June 2011)

 


■石祠■
(16th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月16日

 壹岐嶋で最後の訪問地となった國津社。橘三喜の査定にはところどころ問題があるとされており、當社についても明らかではない。今は所在不明であった物部布都社とする説が有力らしい。物部關連の社と考えた場合、幾つかの社と通じるものはないわけでもないが、それは先住民の祭祀ゆえのことであろう。

 社殿に背を向けて右手に少しこんもりしたところがあり、そこに磐境の跡が見られ、その周りには石橋と水の流れの跡がある。磐境の中心部はおそらく水が湧いていたことが推測される。古代より祭祀があったであろう事は境内に殘る幾つかの跡より確實と言ってよい。渡良浦が物部に含まれたことも物部布都社の根拠なのであろうが、どうともいえない。ただ、惡くない社である。もし、壹岐に行くことがあれば再び行くであろう地の一つである。