の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

雑記11 『隠された熊野の歴史を紐解く』

2011年02月18日 01時37分16秒 | 雑記
 『古事記』と『日本書紀』という、異なる記述も持つ書物が殘っているうえ、『出雲風土記』も殘存していることから、日本古代史の謎は、かなり複雑化した状態で、解き明かされているとは言えない。

 まず、出雲話。いかにも、ここが話の発祥地であったように思われているが、これは、非常に怪しい。私の推論から導く考えでは、紀伊から大和にかけて分布していた「古代イズモ族」が謎の鍵を握っている。この古代イズモ族が出雲王朝と呼ばれているものを築いたものと推測している。私の考えからすると、出雲を主體とした古代史のほとんどはこの一つの事項によりほぼ解決し、統一感を増すのである。出雲話で素盞嗚命は非常に重要だったりするが、實は出雲にはほとんど縁がなかったりする。實際、素盞嗚信仰をいうときに、人人は津島社であったり、八坂社であったり、廣峯社を擧げる人が多く、出雲の式内小社須佐社もあるじゃないか、という人もいるが、これに關しては「日本の々」という本でも述べられているが、實際は和歌山の延喜式内名大社須佐社がかなりい確率で素盞嗚信仰の発祥と考えられている。明らかに、出雲の須佐社とは格が違うものである。さらに、實は、紀ノ川流域には、須佐社系が点在していることも否定できない。さらに、國津系の伊太祁曾社がその社地を追われ、そこに、太古に濱宮から天津系の日前宮と國懸宮が遷座してきたという事實は、無視できない。これこそ、大國主の國譲りのモデルと考えても不思議はない。そして、出雲王朝、彼らの知識や技術力が卓越していたことは有名であるが、古代イズモ族がoriginであれば、別になんら不思議はなく、容易にあり得る話である。そして、彼らが紀伊、大和で起こった物語を子子孫孫に語り繼ぎ、それが出雲の傳説として殘ったとしてもなんら不思議はなく、そこに彼らが住していたがために出雲で起こった事柄として記録されたということも推測できることである。佛をかけた戰さで物部守屋が敗れたときに、物部の一党が石見國へ落ち延びたといい、石見國一之宮物部社は彼らが奉祭したものという。實は、石見に落ちた物部と出雲は非常に仲が惡かったというが、それも、もし古代イズモ族の末裔であるとすれば、大王家に属して戰ってきた物部氏は、先祖傳来の敵であるのだから当然のことであるのだ。

 ま、これは全部前置き。

 ここで名乗っている丹敷戸畔の御子、これにも關係のあるお話をしようかと思う。もし、輪廻転生、前世というものの存在を信ずるのであらば、という前提で話を進める。I am the reincantation of Kagutsuchi、つまり、私は軻遇突智命の生まれ変わりである。そして、最愛の亡き父方の祖母は伊弉册尊の生まれ変わりである。ま、これは少少、複雑な話である。そもそも、伊弉册と軻遇突智の傳説は各地にある。明治政府は伊弉册の墓所に山隂の比婆山を指定している。これは、古事記に從ったものであろう。他にも、考古学的見地から博多灣岸地区を唱えるものもいる。全體的に、その傳承は全國の灣岸地区に殘っている。日本の公式な最初の歴史書である日本書紀は、熊野の有馬村と記している。山隂とは遠く離れた地区である。これに關しては、出雲に落ちたと思われる古代イズモ族が傳承したものがその基盤にあるのではないか、と思っている。日本書紀は、藤原不比等が蘇我氏の榮華を消し去り、中臣鎌足に始まる藤原氏の榮華を偽装するために編した部分が多く、天武天皇の意志のように思われるが、實は、そうではなく、天智天皇、鎌足系の持統天皇が大きく關與しているわけで、完全に信じ込むことは危険である。實際、大王家の正統を偽装するために、邪馬壹國(邪馬臺國)や他の國國の知識もあったのに、それを黙殺したとされている。實際、邪馬壹國には、古代イズモ族を當てる考えもある。それは、横においておき、本題に戻る。なぜ、熊野の有馬村を伊弉册が軻遇突智を生み、そして、隂部の火傷が原因で死んだ地としたのか。私は、二つの考えを持っている。一つは、武東征傳承において、丹敷戸畔の一党を討ったにも關わらず、服属させることができなかったための懐柔ということを考える。三重県熊野市は奈良県吉野郡川上村の南方に位置している。川上村の井光には武の傳承が殘っている。それを考えると、熊野から北山に出るルートを取って北上しているべきであったのだが、實際は異なっている。そのことと、さらに、日本書紀に記される伊弉册が軻遇突智を生み、そして、葬られたという有馬村、すなわち、産田社が平安期まで、大和王朝に服属していなかった可能性が非常にいということから、武東征を行ったとされるモデルの者は丹敷戸畔を討つには討ったがそれ以上先に進撃することが叶わなかったのではないだろうか、と考えている。服属していれば、産田社は確實に延喜式名帳にその名が刻まれているべき格の社だからである。この、武東征傳承に關連した物語が伊弉册と軻遇突智の傳承に置き換えられたのではなかろうか、と考えている。出てくる三人の登場人物、伊弉册、軻遇突智、そして伊奘諾。ここに推測を入れていくわけである。もちろん、話では伊奘諾と伊弉册は夫婦だが、ここではそうなのであろうか。同じときに命を落とした伊弉册と軻遇突智は仲間であったと考えて問題はないであろう。私は、ここに熊野三党筆頭の榎本連、そして、熊野本宮大社の創祀傳承を絡めて推測している。武東征というものがあったのは二千六百年前であったという。河内から畿内に入れなかった武は最終的に熊野から北上することになったのだが、この当時、宇井、鈴木とは異なり、榎本連はすでに紀伊半島に広く分布していたと言われている。つまり、大豪族であったわけである。おそらくは、丹敷戸畔とも關係のある一族であったことが推測される。私は、このとき、この榎本一族が二つに分裂したことを推測している。ひとつが産田社の官であった有馬榎本、そして、もうひとつが熊野三党筆頭榎本連となった家ではなかったか、と考えている。これを伊弉册、軻遇突智にまつわる傳承に結びつけるのである。邪馬壹國の話で有名なように當時はシャーマンというべき、呪術的司祭者である女王を持つことが多く、名草戸畔、丹敷戸畔もそういう類の民族の長であったといわれている。卑彌呼には、それを支える弟がいたというが、名草、丹敷戸畔にもそれに相當する人物がいたのは想像に難くない。このときに、この有馬村の伊弉册、軻遇突智傳承に結びつけるのである。この地で命を落とした伊弉册が丹敷戸畔、軻遇突智がその近しい位置にいた指導者に相當するのではないかということである。では、伊奘諾は誰なのか。丹敷戸畔とそれを支えた人物を死に追いやることになった人物ではないだろうか、と考えている。すなわち、熊野三党榎本連の祖となった人物で、武東征傳承の中で倉下命に連なることになっている人物であろうと考えている。つまり、侵略者に抗す仲間を殺し、その配下となるべく裏切った一族のもの、しかも、かなり宗家に近い位置にあったものであろうと思っている。ここに關係してくるのが三重県熊野市に口傳で傳わってきた傳承である。熊野本宮大社の宮司九鬼某はどうも、いくつかの理由で事實を曲げようとしているようではあるが、色色な角度から見てもこの口傳には眞實性のさが伺われる。「崇天皇の夢見により、ここにお祭りされていた様を熊野川、音無川、岩田川の合流点にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」といい、實際に、江戸時代までは、産田社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が傳承されていた。現在も熊野本宮大社の例大祭の巫女舞において「有馬の」の下りがあるという。しかし、大和朝廷に服属していないものたちのをそんなに平和裏に大王である崇の夢見で移すことができるのであろうか、という疑問が生ずる。それこそ、伊奘諾のモデルというべき熊野三党榎本連の祖となった一族を裏切ったものが持っていったものではないのであろうか、と推測するのである。ゆえに、同じを祀り、そして、同じ舞を持つのである。そのoriginは、出雲國一之宮熊野大社ではなく、熊野は有馬村というべきなのである。しかし、歴史はさまざまな思惑により隠されてしまったということ。ちなみに、出雲の熊野大社には、有馬というものが三重の熊野に移住した云云、という話が殘っているが、おそらくはこれも、出雲に落ちた古代イズモ族が傳えた傳承が途中で誤って傳えられることになったのではないか、と考えている次第。理由を示すのは骨が折れるので、放置いたしますが。
 
 かなり横道にそれたのだが、ま、こういったことより、前世、武東征軍に対峙し、一軍を率いて激戰、討死した私を軻遇突智の生まれ変わりといった次第なのでござる。


I am the reincantation of Kagutsuchi no mikoto. This God is the last son of Izanami no mikoto and the God of Flame. My grandmother at father's side was the reincantation of Izanami no mikoto. Then who are they? They are in the Japanese Myth. But it is really complicating, because two of our historical books tell us different stories. Kojiki says that this story belongs to Izumo(Shimane), but Nihonshoki says it happened in Kumano. Kumano is a part of Kii. About 2600 years ago, the tribe of Izumo lived in Kii and Yamato, but they were beaten by the invasion of one person who became the first Emperor of Japan. Izumo Myth did not happen in Izumo, but in Kii and Yamato. The tribe of Izumo moved to Izumo(Shimane) from Yamato finally and they left the tales to their offsprings, I think. But for some reason. people considers Izumo Myth is the tales of Izumo.

Nihonshoki says Izanami delivered Jagutsuchi in the Village of Arima, Kumano, However, since Kagutsuchi was The god of flame, Izamami had her womb burnt and dies due to it. Then Izanami's half Izanagi no mikoto got furious and killed his son, Kagutsuchi. In this region, people say Ubuta Jinja shrine is where Izanami delivered Kagutsuchi and died, and Hana-no-iwaya is the tomb of Izanami. Ouji-no-kutsu next to Hana-no-iwaya is called as the tomb of Kagutsuchi. Ubuta Jinja shrine and Hana-no-iwaya are a pair. Ubuta Jinja shrine is what my ancesters kept with fighting against Yamato Dynasty for more than 1000 years. Yamato Dynasty is the previous name of Japan.

The tale of Izanami and Kagutsuchi are probably not true, but this must indicate something occured in Kumano. The first emperor Jinmu came to Kumano and some of tribes supported him. This is the Jinmu invasion. At that time, Enomoto clan, Ui clan and Suzuki clan supported and these three were later called Kumano-santou( The biggest 3 clans of Kumano) and served present Kumano sanzan(the sacred mountains and shrines). Enomoto clan was the biggest at that time and had a big power. In the Myth, this is not written, but as far as I reserch, things have inconsistencies.

When I did not know about my ancesters clearly, I decided to visit Kumano sanzan, Kumano Hayatama Taisha shrine, Kumano Honguu Taisha shrine and Kumano Natchi Taisha shrine. Then something came into my head, or I should say someone called me. It was Ubuta Jinja shrine. When I met this name, I immidiately understood this shrine is related to me directly. I also visited where my great grandfather was born, although nobody else in my family know this place. My spiritual abilities which were sleeping for a long time started to wake up gradually and a lot of things come into my brain directly. I finally have started to untie the book of 'Mystery of Kumano', or I should say ' Eternally Hidden History of Kumano.' What is this? It is still vague, but getting clear.

Now I realise one thing from the indication by the tale of the birth of Kagutsuchi. Who is Izanami? Who is Kagutsuchi? Who is Izanagi? Probaly Enomoto clan was split when Jinmy came to Kumano to invade. The model of Izanami is probably Nishiki no Tobe, the sharman queen of this Kumano. The model of Kagutsuchi must be the son of Nishiki no Tobe or someone close to her who commanded the tribe and faught against the invasion of Jinmu. Both of them died, but Jinmu did not enter the east part of Kumano. What does it mean? Probably he could not enter, because Nishiki no Tobe showed the determination by the death in the battlle. The model of Izanami... I think this is the other half of Enomoto clan which was split and followed Jinmu's invasion. The real history of Kumano Honguu Taisha shrine as been hidden, but we can still know something and it tells us something strange. It indicates that the people who betrayed Enomoto clan killed the Nishiki no Tobe and her son, and moved the God of Ubuta to Kumano Honguu Taisha shrine, although the God did not move actually. This is quite complicating story to unveil. Many emotions and souls keep coming into my brain to tell how they felt or still feel to me.  

中臣須牟地社

2011年02月17日 03時04分08秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■鳥居■
(29th May 2009)



★中臣須牟地社★ 大阪府大阪市東住吉区住道矢田二丁目 

・延喜式内社、攝津國住吉郡、中臣須牟地社、大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は中臣須牟地。須牟地、須牟地曾禰、住吉大を配祀。社名に「中臣」を冠することから、中臣氏の祖として祀っているという。

・「須牟地」は「住道」とも記されるが、この住道に關しては、住道社が複數あり、かつ鎭座地が過去に移動しているため、不明な点が多い。

・『住吉大社代記』の子の條を受けた『社明細書』には「本社は初め住吉大社の北方住道と稱する地(住吉区住吉町道北にして今尚住道堂殘れりと謂ふ) に鎭座せしを託宣に依り天平元年(729)十一月七日に他の須牟地社等七社と共に河内國丹比郡楯原里(中河内郡矢田村字住道)に移祀せりといふ。其の後國郡改廃により世に景勝の地と知られたる長居浦なる南島(現社地)に三遷せられるものの如し」とある。

・元住吉大社宮司眞弓常忠氏は、もし本居宣長のいうように住道が住吉津より喜連に通ずる磯歯津路(呉坂)であるとすればその沿道の要所要所に祀られたのが住道のではないかと考えている。

・住道諸社の元位置が不明なため、どうとも言えないが、住道は道の性格を持ち、遷座には新しい交通路の発展と古い交通路の衰退に影響されたと考える向きもある。

・『延喜式』玄蕃寮によると、新羅より客が來朝した折、酒を給すとあり、その行程に住道社は關わっており、外來の客人接待に重要な役割を担っていた。

・社名に「中臣」を冠する理由の詳細は不明で、新羅からの客が來たときに酒を用意する際に使わせた部造に中臣一人を遣わしていたことに、關係するとも思われている。
 

■社號標■
(29th May 2009)
 


■手水舎■
(29th May 2009)

 

■拜殿■
(29th May 2009)




■幣殿、本殿覆屋■
(29th May 2009)
 


■本殿■
(29th May 2009)
 


■神木と小祠■
(29th May 2009)
 


■末社猿田彦社■
(29th May 2009)
 


((コメント))

2009年5月29日

 車の通る量は多いが、社には誰もおらず、何か、忘れられた社という印象の強いところであった。須牟地社は色色と移転しているためにその社の性格はその地特有のではないことだけは明白である。ゆえに、社自體にそういう地の氣を求めることは間違いであろう。須牟地は住道であるので、おそらくは交通に關係のあるものであろうから、要所要所に移転するものであったんだろう。ただただ、行ったときには忘れ去られた寂しさというのを感ぜざるを得なかった。

野宮(内社)

2011年02月05日 16時21分03秒 | 中国(鳥取、島根)
■幣殿、本殿■
(12th June 2010)



★野宮(内社)★ 島根県松江市大垣町746

・延喜式内社、出雲國秋鹿郡、内社。

・舊社格は縣社。

・祭は和加布都努志命、下照姫命。

・古くより、内社、大野野宮、足鷹宮、阿内谷大明などの名稱にて古記録に殘されている。

・靈龜元年(715)、當社北側に聳え立つ女嵩山の峰に、夜夜、月輪の如く光を放つものがあり、村人たちはの降臨に違いないと、垣を設け、祀ったのが創祀と傳えられる。

・養老元年(717)、の威があまりにも強いことを畏れた住民が占により、現在地に遷し、女嵩山は本宮山と稱されるようになったとされる。

・舊大野總氏。

・中世、京都の聖護院宮、毛利氏の祈願所であった。

・出雲國二大社である杵築大社、佐陀大社の支配を受けない一社一例社の特例を持つ社であった。


■石段、鳥居■
(12th June 2010)

 

■參道、中門■
(12th June 2010)



■拜殿■
(12th June 2010)

 

■幣殿、本殿■
(12th June 2010)
 

 島根縣指定有形文化財


■末社隨社■
(12th June 2010)


・祭は豐石窓。


■末社隨社■
(12th June 2010)


・祭は櫛石窓。


■末社靈社■
(12th June 2010)


・中世の大野郡の領主を祀る。


■末社蘆原社■
(12th June 2010)
 

・祭は素盞嗚命、稻田姫命、大己貴命、少彦名命、思兼命、五十猛命。


■末社稻荷社、社日碑■
(12th June 2010)


 


■末社三保社■
(12th June 2010)


・祭は猿田彦命、事代主命、三保津姫命、鈿女命、倉稻魂命、木花開耶姫命。


■社務所■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 この社については存在すら知らなかった。佐太社方面に走っているときに野宮の名があり、一度は、通り過ぎたのであるが、なぜか、後ろ髪を引かれたので戻って行ってみると、なかなかの古社であった。生まれ育った大和葛城の社とは余りにていない氣を持つ社。何かありそうな社ではあった。ちなみに、主さんだろうか、境内を整備されていた人がおられたが、心地よい氣をもった方であった。

玖潭社

2011年02月05日 12時59分47秒 | 中国(鳥取、島根)
■祭祀の跡と思われるもの■
(12th June 2010)



★玖潭社★
 島根県出雲市久多見町301

・延喜式内社、出雲國楯縫郡、玖潭社。

・舊社格は社。

・祭は大穴牟遲大、他九柱。

・玖潭の總氏であったと傳わる。

・創建由緒等不詳。

・舊社地は、現社地より、二十町余り北方城山要害平という山頂にあったが、明應五年(1496)の秋、回祿の災に罹り、社殿を燒失、その際、體は西方の臣巖上に鎭座したが、これを貴女社(現在の荒瓜に鎭座)に奉遷し、さらに、久多美社(五社明)を合祀、玖潭社として新たに社殿を築き、現在地へ遷座。


■鳥居■
(12th June 2010)
 


■拜殿■
(12th June 2010)
 


■本殿■
(12th June 2010)
 


■末社八坂社(向かって右)、金刀比羅社■
(12th June 2010)
 


((コメント))

2010年6月12日

 玖潭社は、地図上においては、道沿いなのですぐ見つかりそうなところであったが、まったく氣づかずに通り過ぎていき、少し引き返し、車から降りて探すこととなった。鳥居が道に面しておらず、それが見つけにくい理由であった。

 社殿は靜かな森で、のどかな田園風景に囲まれているにも關わらず、なんとなく異質な雰囲氣であった。元元、何があったところなのか氣になるところである。