■本殿■
(21st July 2008)
★安天皇社★ 香川県高松市屋島東町557-1
・祭は安天皇。
・平宗盛の建てた屋島の安天皇内裏蹟に建てられたという。
■鳥居■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/70/1e2513f779c0fe9f748c75e0d38a0247.jpg)
■鳥居、拜殿■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/4f/8b4587a72622bbb6b06dfc8a829232e7.jpg)
■本殿■
(21st July 2008)
■大場光親墓■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/51/baa9db68f33da062e644cecb24b65293.jpg)
・詳細不明。
■源平の合戰で亡くなった將兵たちの供養塔■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/30/b2bcf87b3efa15e35a8d760a9b844164.jpg)
((コメント))
2008年7月21日
安天皇は、一應、公式には長門壇ノ浦まで行き、あちらで命を落とされたことになっているのだが、何故ここで祀られているのであろうか、と思っていたら、ここは行宮の内裏蹟であったらしい。つかのであったであろうが。平家が逃げ去った後、源氏の將兵が燒き払ったらしく、その後に社が建てられたそうだ。このとき、安天皇は、御年八であったらしい。小學一、二年生だよ・・・そう思うと、過酷な人生だ。
ちなみに、行宮後に建てられた社ということである種「メモリアル」的な社であるために御氣などは感じられない。
いわゆる、屋島合戰の史蹟である。しかし、源義經軍は、この戰で平家方の非戰鬪員である水夫を射殺して機動力を奪い、攻めるというルール違反を犯し、まったく、大將にはふさわしくない人であることがわかる。水夫とは一般市民で、戰には關わっていないのだから・・・ま、そういう彼の報告がなされていたから、後に、朝も救おうとしなかったのかもしれない。
ところで、 社殿に鄰接するような非常に中途半端な位置に、大場光親という人の墓があったが、誰だかわからない。謎である。もしかしたら、大庭景親の子息なのであろうか?
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/79/1c3347469f8802028baf8d95ed749cec.jpg)
★安天皇社★ 香川県高松市屋島東町557-1
・祭は安天皇。
・平宗盛の建てた屋島の安天皇内裏蹟に建てられたという。
■鳥居■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/70/1e2513f779c0fe9f748c75e0d38a0247.jpg)
■鳥居、拜殿■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/4f/8b4587a72622bbb6b06dfc8a829232e7.jpg)
■本殿■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/9b/b117a8fa9a0f585b014897b675270874.jpg)
■大場光親墓■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/51/baa9db68f33da062e644cecb24b65293.jpg)
・詳細不明。
■源平の合戰で亡くなった將兵たちの供養塔■
(21st July 2008)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/30/b2bcf87b3efa15e35a8d760a9b844164.jpg)
((コメント))
2008年7月21日
安天皇は、一應、公式には長門壇ノ浦まで行き、あちらで命を落とされたことになっているのだが、何故ここで祀られているのであろうか、と思っていたら、ここは行宮の内裏蹟であったらしい。つかのであったであろうが。平家が逃げ去った後、源氏の將兵が燒き払ったらしく、その後に社が建てられたそうだ。このとき、安天皇は、御年八であったらしい。小學一、二年生だよ・・・そう思うと、過酷な人生だ。
ちなみに、行宮後に建てられた社ということである種「メモリアル」的な社であるために御氣などは感じられない。
いわゆる、屋島合戰の史蹟である。しかし、源義經軍は、この戰で平家方の非戰鬪員である水夫を射殺して機動力を奪い、攻めるというルール違反を犯し、まったく、大將にはふさわしくない人であることがわかる。水夫とは一般市民で、戰には關わっていないのだから・・・ま、そういう彼の報告がなされていたから、後に、朝も救おうとしなかったのかもしれない。
ところで、 社殿に鄰接するような非常に中途半端な位置に、大場光親という人の墓があったが、誰だかわからない。謎である。もしかしたら、大庭景親の子息なのであろうか?