の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

皇大宮別宮伊雑宮

2010年06月28日 00時38分05秒 | 近畿(三重、和歌山)
■本殿■
(13th October 2008)



★皇大宮別宮伊雑宮★ 三重県志摩市磯部町上之郷

・皇大宮別宮。

・延喜式内大社伊射波社に比定する説があるが、延喜式神名帳においては皇大宮に入っており、正しくはない。

・祭は天照大御御魂。

・延暦二十三年(804)の『皇太宮儀式帳』及び延長五年の『延喜太宮式』に記載があることから、それ以前より存在したとされる。

・天照大の遙宮と呼ばれる。

・伊勢國外唯一の別宮で、また田を持つ唯一の別宮でもある。

・十社ある皇大宮別宮の中では、荒祭宮、月讀宮、瀧原宮に次ぐ順位である。

・平安時代末期の治承寿永の乱のとき、伊勢平氏の地盤であった伊勢國への源氏勢の侵攻が予想され、伊勢志摩両國を平家が守護していたとき、源氏方についた紀伊の熊野三山の勢力の攻撃を受け、本殿を破壊され寶を奪われたという。

・江戸時代、鳥羽藩主内藤氏より領を取り戻すため、人たちは伊雑宮を尊貴なる社と喧伝するようになり、明暦四年(1658)、朝廷に上申するが、「伊雑皇大宮は日本最初の宮で、のちに内宮ができ、ついで外宮が鎭座した」という、伊勢三宮説を創案し、伊雑宮のを天照大、内宮を瓊瓊杵尊、外宮を月讀尊といい、『伊雑宮舊記』を偽造、内宮、外宮は分家と主張し、深刻な本家争いが生じ、ついには、主だった人たち四十七人が伊勢志摩両國より追放となっている。この後も、偽作などが続き、しばらく揉め続けている。


■鳥居■
(13th October 2008)



■本殿■
(13th October 2008)



■社殿正面に祀られている石■
(13th October 2008)



■磯部の御田■
(13th October 2008)



((コメント))

2008年10月13日

 別に、伊雑宮が一之宮とは全く思ってはいないが、なぜか、全國一の宮会に入っている経緯もあり、行った。基本的に、伊勢宮がかなり嫌いであるし、むしろ敵と思っているので。その別宮であるからね。

 しかし、全国一の宮会に入っていることも不思議であるし、世間が延喜式内大社伊射波社の論社にしているのが理解不能である。なぜならば、伊雑宮は、延喜式において、皇大宮に含められ、平安時代の『延喜太宮式』において、「天照大の遙宮」とされている。すでにこの地位にある別宮が『延喜式』名帳に記載される場合、何がしの「宮」と記載され、「社」とは言わないのである。

 世の人の脳みそには風穴が開いてるのではないか、というような理解レベルである。そして、皇大宮と豐受大宮は、一之宮よりも格上であるのだから、その別宮も一宮となることもまたありえないのである。つまり、志摩國においても伊雑宮は別格であるはずで、一之宮ではないはずなのである。されど、一之宮を稱しているところに愚を感ぜざるを得ない。

 江戸時代の世に騒動を引き起こした偽作である伊勢三宮説を作ったくらいであるので、一之宮も名乗ろうとするエゴイスティックな姿勢も十分想像範囲内である。

 正直、このような社や宮に行くと、心身が汚れる思いだ。

雑記10 『イザナギとイザナミ』

2010年06月28日 00時33分04秒 | 雑記
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   伊邪那岐命・伊邪那美命(古事記)
   伊奘諾尊 ・伊奘冉尊 (日本書紀)

 神話で最初に登場する夫婦神であり、数々の国土と多くの神を生させた創造神です。名前の「イザ」は「誘(いざな)う」 を意味し、「キ」が男性、「ミ」が女性を表し、互いに惹かれ合う結婚の神とされています。
   
 『古事記』によると、神世七代の最後に高天原に現れた二神は、天つ神(高天原に最初に出現した神)より「国生み」「神生み」の命を受けました。まず、「国生み」では天空に架かる天浮橋(あめのうきはし)に立ち、二神が協力し、矛で海をかき回して日本列島となる大八島国などの島々を生み、続いて「神生み」では森羅万象を象徴する多くの神を誕生させました。これによって地上は万物が生成され、限りなく豊かな土地になったと考えられます。 そして、神生み最後に火の神・迦具土(カグツチ)を生んだイザナミ命は出産のときに火傷をして、それがもとで死んでしまい、黄泉の国(死後の世界)へと去ってしまいます。夫であるイザナギ命はとても悲しみ、イザナミ命を連れ戻すため、黄泉の国へ行きますが、そこで死後のイザナミ命の醜悪な姿を見ると、絶縁を言い渡し、逃げ帰りました。この行いに怒ったイザナミ命は、「これからは人間を1日に1000人殺す」と言い、これに対しイザナギ命は「それならば私は1日に1500人の人間を生む」と応え、このことから人間の生と死の起源になったとされています。
   
 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギ命は、日向(宮崎県)の海で禊(みそぎ)をして、黄泉の国で受けた穢れを洗い流しました。そのとき生まれたのが、アマテラス大神・ツキヨミ命・スサノオ命の三貴子と呼ばれる神様です。これが禊の原点になります。川や海に入ったり、滝に打たれたりする本格的な禊から、神社参拝の際に手水舎で手を洗い、口をすすぐことも禊となります。
   
 以上のことから、イザナギ命・イザナミ命は国家泰平・家内安全・開運厄除・良縁・夫婦円満など幅広いご神徳のもと、全国の多賀神社・白山神社・三峯神社などのご祭神としてお祀 りされています。

  ~■□ 氷川だより~赤坂氷川神社 第4号 □■引用~

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 話やいろいろなことの勉強にはなりますのでありがたいですが・・・

 伊奘諾尊は、伊奘冉尊が火の軻遇突智を産んだことにより、それが原因で死んだので、怒り猛り、生まれたすぐの軻遇突智を殺し、伊奘冉尊は上の中にあるように一日千人の人を殺す、 と・・・

 そこには慈悲の心も存在せず、醜悪な姿しか見られない。この一つのことだけを取り上げてみても、國家泰平、家内安全、開運厄除、良縁、夫婦円滿は矛盾しているようにしか見えない。

 日本のとは、一體、何者なのだ。

雑記9 『「本宮」と「新宮」について』

2010年06月28日 00時28分48秒 | 雑記
 現在、紀伊熊野にて通稱化されている「本宮」と「新宮」と言う名稱でありますが、一般には「本宮(=もとみや)」に対する「新宮」と信じられています。これは、本宮側のみの主張となっております。新宮側としては、元宮とする倉社に對して新しく宮を作ったので新宮と號したと主張しており、實際、そう記す古書も少なくありません。されど、新宮の速玉大社の社殿は倉のほうを拜まず、また、大切な祭事に倉が出ず、御舟島が關わることもまた、疑問符がつくのでございます。

 實際のところ、本宮の主張する「本宮」を「もとぐう」とした上での「新宮」というものの根拠を示す資料は今のところ全く存在していないのでございます。また、熊野の縁起でもある『熊野略記』や『御垂跡縁起』での三所權現の遍歴は新宮のほうの創立が古いことを示していると考えることもできるのでございます。その上、新宮境内の各所より、繩文前期末、中期、晩期の土器片も発見されており、かつて攝社であった阿須賀社境内からも彌生時代の遺構が見つかっている事實もございます。武東征の傳承に出る熊野の邑にも比定されているのが新宮。少なくとも、遺跡などからも、かなり古くから熊野の中心として繁榮していたことは想像に難くありません。また、古代、古文書から、中央政府からは新宮のほうがかなり重要視されていたことがわかっております。名を並べる場合、新宮のほうが前に書かれているのが常でございました。これらを考えるとき、新宮のほうが、古い聖地としての可能性がく思われるのでございます。

「本宮」と「新宮」の名稱に關しては、吉野修験と熊野修験が結びついた経緯から地理的に本宮が中心となり、さらに、宇多上皇に始まる皇族の数数の熊野御幸の影響で、創祀などの經緯に關わらず、修験の中心へと変遷していった本宮が第一かのように人々の意識に植え付けられ、平安時代にいまの「本宮」、「新宮」という名前が生まれたというのが、實際のところではないか、と思うわけなのでございます。

雑記8 『聖戰という名の侵略戰争-武東征-』

2010年06月28日 00時24分34秒 | 雑記
 實際問題、武東征自體は、侵略戰争です。

 大和の先住民、いわゆる土蜘蛛と呼ばれた民族、長髓彦と呼ばれた民族たちは殺されました。出雲の國譲りも、現實問題、出雲國風土記が殘っているために島根縣の話と思われていますが、紀伊大和両國に出雲が殘っており、古代イズモ族という民族が存在していたこともわかっています。おそらく、出雲國風土記は武王朝に駆逐されたイズモ族の生き殘りの方が殘した、大和、紀伊で起こった傳承の記録であろうと推測します。一説には、國譲りとは、紀伊國一之宮である伊太祁曾社(國津系)の社地と日前宮(天津系)の社地が入れ替わっているという謎の出来事がありますが、ここにイズモ族が關わっており、この社地交換こそが、出雲の國譲りの元話であるという説もあります。その場合、全然、平和裏に行われてはいないです。なぜならば、乗っ取りだからですね。

 いずれにせよ、奈良盆地に住む、足と手が長いために土蜘蛛と呼ばれた人(ユダヤ系の白人と言われてますが)たちは根絶やしにされてますし、卑弥呼のように呪術系の支配者であった紀伊の名草戸畔、熊野の丹敷戸畔たちも武の侵略によって、殺されています。武東征というものは、それまで平和に暮らしていた人々を根絶やしにして、侵略して乱してきたものであり、聖戰とは、よくも言ったものだ、と憤りさえ覚えるものです。ま、平安時代の坂上田村麻呂たちが蝦夷を攻めて、大墓公阿弖流爲たちの平和に自由に暮らしていた民族を征服に行ったのと同じようなことですから、結局、彼らは同じことをずっと繰り返すのです。

 別に、今の帝や皇族の方々を憎むわけでもなく、好意をむしろ持っているほうではありますが、帝や皇族の方々が武東征にどのような認識を持ってるのか、どのように洗脳されているのか、知りたく思うものです。

雑記7 『元出雲』

2010年06月28日 00時24分08秒 | 雑記
 江戸時代までは、出雲神社といえばこの出雲大宮のことを指していたそうです。ちなみに皆さんの知っている出雲大社は、明治時代に至るまで杵築大社という名稱でした。故に、杵築社というものが世間にたくさんありますが、それは昔の出雲大社から勧請された社ですね。

 祭の大國主命は出雲大社より勧請されたといわれていますが、出雲大社自體、この出雲大宮より勧請されたという説があり、『丹波國風土記』には、「元明天皇和銅年中、大國主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述も殘っております。丹波の風土記にある記述がが後期の創作であったとしても、非常に興味深い記述であると思われるのです。が、おそらく、この説が書かれているということは、そういうことが傳承されていた可能性が高いことが推測されます。それに、明治まで社號が、こちらが「出雲」で、出雲國のほうが「杵築」であったというのも無視できない事實なのです。それに、『出雲國風土記』ほど疑わしきものはございません。大體において、出雲大社が元であるならば、江戸時代における両社の名稱は辻褄が合いません。

 丹波の出雲大宮と出雲の出雲大社。

 紀伊の熊野速玉大社、本宮大社、那智大社と出雲の熊野大社(上社は熊野三山と祭が同じだった)。

 疑わしき出雲國である。