の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

伊佐須美社

2011年06月30日 20時19分50秒 | 東北(岩手、宮城、福島)
■東參道■
(14th June 2008)

 

★伊佐須美社★ 福島県大沼郡会津美里町字宮林甲4377

・延喜式内社、陸奥國會津郡、伊佐須美社、名大。

・舊社格は國幣中社。

・祭は、伊弉諾尊、伊弉冉尊。大毘古命、建沼河別命を配祀。

・陸奥國二之宮。

・會津總鎭守。

・社傳では、崇天皇十年(紀元前88)、四道將軍大毘古命と建沼河別命の親子が蝦夷を平定するため北陸道と東海道に派遣された折、出會った土地を「會津」と名付け、奥越の境の天津嶽山頂に、國家鎭護のため奉齋したのが當社の始まりであり、のちに博士山、明嶽と移転を繰り返し、欽明天皇十三年(552)に天原と呼ばれる田南原に遷座、さらに、同二十一年(560)、現在地の東原に社殿造営の上、奉遷、大毘古命、建沼河別命を合祀し、今日に至る。

・舊社地のあった博士山、明嶽に発する宮川の作る扇状地に鎭座する田の地があり、この廣大な水田地帶のなかに形成された豐かな地であり、伊佐須美のは田を潤す水分のであり、また、同時に豐穰をもたらす「産靈」のでもあるとされる。

・『河沼社誌』で戸内康雄は「伊は接頭語、佐は早苗、須美は齋く」の意味であるという説を示している。

・『會津風土記』によると、體は諾册二を同體にきざんだ四寸八分の像であったと言う。

・會津地方には古くより、磐梯山を遙拜する信仰があり、磐梯山を祀る猪苗代の磐椅社のほうが當社より格上であったとされるが、律令制の整備に伴い代表的な中央である伊奘諾、伊弉册二が當社に勸請されたため、两社の地位が逆転したと言う説がある。

・當社の御田植祭は日本三大御田植祭の一つと知られる。

・「全国一の宮会」認定の岩代國一之宮(新一之宮)である。


■朱鳥居■
(14th June 2008)

 

■隨門■
(14th June 2008)
 

・御簾が下げられており、本當はこれより中に入らず、ここから參拜をしなければいけないという。西門も東門も同樣となっている。現在はそれを知らぬ外部のものたちのために入れるように脇の扉を開けているという。


■拜殿■
(14th June 2008)



■本殿■
(14th June 2008)
 


■薄墨櫻■
(14th June 2008)


 会津美里町天然記念物


■飛龍の藤■
(14th June 2008)
 

 福島縣天然記念物


■天海僧正手植檜■
(14th June 2008)

 
 福島縣天然記念物


■鉄燈籠■
(14th June 2008)

 


■境内社會津大國魂社■
(14th June 2008)

 

・祭は會津大國魂。


■末社■
(14th June 2008)


・交通安全の社。


■社叢■
(14th June 2008)

 

 会津美里町天然記念物


((コメント))

2008年6月14日

 伊佐須美社であるが、元元、陸奥國二之宮で、今は「全国一の宮会」において岩代國で新一の宮として扱われているところである。本來は、門に御簾が下がり、そこから内には入らず、その場所で參拜すべきであるそうだが、知らぬものがほとんどのため、脇の門を開け、中に入れるようにしているとか。

 建物はいい感じであるが、御氣はあまりしない。とはいえ、私を呼んでくださったので、何かあるのかもしれない。そもそも、この日、會津に來ずに一氣に北上する予定だったので、岩手宮城大地震の震源地に近い方面に向かうはだったのだが、、ふと、やはり、蝦夷に行く前に會津に行こうとふとよぎり、地震の影響がないところに行くこととなったわけである。私は守られているのかもしれない。産田と同じ伊奘冉尊が呼んでくれたのだろう。と、いうことにしておく。

 しかし、天海僧正手植檜って、天海さん、本当に會津に來たのだろうか。

石切劔箭社

2011年06月28日 05時35分20秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■隨門■
(16th December 2008)



★石切劔箭社★ 大阪府東大阪市東石切町一丁目1-1

・延喜式内社、河内國河内郡、石切劔箭命社二座。

・舊社格は村社。

・祭は宇摩志摩治命(可美眞手命)。

・上之宮が元は本社であったというが、現在は下之宮である當社が本社となっている。

・石切劔箭命社の二座、上之宮一座、下之宮一座なのか、どちらかに二座であったのかは不明。

・室町時代に社殿及び寶庫が兵火にかかり燒失し、社傳等は不明。

・上之宮背後の宮山と呼ばれる山腹の平坦地は當社飛地境内地となっており、土器などが多數出土し、かつては燈籠や手水鉢も存在したという。

・上之宮、下之宮ともに創建より鎭座地は変わっていない。

・天文五年(1536)に當社社家木積氏の祖藤原行春大人の記した『遺書傳來記』によると、よると、武天皇二年(紀元前659)、天から十種の瑞寶を賜り、天磐船に乗って河内の哮峯に降臨した饒速日命を宮山に祀り、さらに崇天皇の御代、下之社に可美眞手命が祀られたと記されている。

・明治五年(1872)六月、上之宮を下之宮に合祀、十二月二十五日に再び、分離した。明治四十年(1907)十一月、再び、下之宮に上之宮を合祀。昭和四十七年(1972)、上之宮舊社地に上之宮を再建。

・哮峯は一般に生駒山のことといわれているが、生駒山麓の下之宮(現本社)、山腹の上之宮、宮山を結んだ線のほぼ延長線上に生駒山頂があり、宮山が生駒山に降臨した祖降臨の地として祭祀が行われた地と推定される。

・「武天皇蹴上石」という靈石を體とする。


■參道■
(16th December 2008)



■鳥居■
(16th December 2008)

 

■手水舎■
(16th December 2008)
 


■拜殿■
(16th December 2008)



■本殿■
(16th December 2008)



■木■
(16th December 2008)
 


■末社水社■
(16th December 2008)


・祭は罔象女、天水分。


((コメント))

2008年12月16日

 隂氣臭いというか、怪しげな參道というか、門前町を歩いて、遂に石切劔箭社本社に到着。以前より、心地よいといういい噂と、どんよりしていて氣分が惡くなるという對極の噂を聞いていたのであるが、その地に遂にやってきたのであった。自分的には、余り心地が良いところではなかったので後者というべきか。社云云というよりは、この一帶を全體に包み込む氣が吐き氣を催すようなところであった。まあ、合わないのであろう。人の參拜が多くて、その欲望が渦巻いているのも原因であろう。

 ところで、物部守屋一党が滅亡したためか、物部氏本宗の氏が實は明らかではないのであるが、おそらく、傳承からは當社に違いない。大伴氏の刺田比古社的な位置づけかと思われる。石上宮はもっと別の意味合いのあったところで、元元、物部中心で、大伴、佐伯も關わっていたのだから、物部の社というよりは朝廷のものであったという可能性もあるゆえ。

櫻葉社

2011年06月25日 15時40分26秒 | 近畿(奈良)
■境内遠景■
(27th February 2009)



★櫻葉社★ 奈良県宇陀市菟田野区東郷

・祭は天照皇大。

・明大明、櫻葉大宮ともいう。

・社傳によると、慶長十八年(1590)、東村の田園が荒廃し、村民が困窮したとき、隣村の宇賀志の村長藤村秀貞が郡司の命により、東村に來、その再興を計らんと村の巽の地、東南に山く森あり、西北は土地平らで前に流れる川があり、後ろは清水湧き出る靈地で伊勢の大の鎭座地と似ているということで天照皇大を祀ることになったという。

・背後には芳野城跡がある。


■石鳥居■
(27th February 2009)



■朱鳥居■
(27th February 2009)
 


■本殿■
(27th February 2009)

 


■木■
(27th February 2009)
 


((コメント))

2009年2月27日

 芳野川の流れる近くの水の綺麗なところで、自然の香りの濃いいいところである。惜しむらくは祭が天照ということだけか。

王子社

2011年06月25日 15時25分39秒 | 近畿(滋賀、京都)
■本殿、向かって左に末社夫荒社■
(24th April 2009)



★王子社★ 京都府京都市右京区宇多野福王子町52

・延喜式内社、山城國葛野郡、深川社、論社。

・舊社格は村社。

・祭は班子皇后。光孝天皇の女御で宇多天皇の母。

・創祀年代不詳。

・往古は深川社と稱していたが、應仁の乱で燒失。その後、寛永二十一年(1644)、川家光と覚深法親王が社殿を造営、班子女王の陵墓が付近にあったことから皇后を祀り、王子社となったという。

・班子皇后が仁和寺を開いた宇多天皇の母でもあることから、仁和寺の守護として尊崇された。

(末社夫荒社(向かって本殿の左))

・延喜式内社、山城國葛野郡、深川社、論社。

・祭は夫荒。

・洛北の氷室から御所宮中へ氷を運ぶ役夫が當地で力尽き、息絶えたために祀られたものという。


■鳥居■
(24th April 2009)


 國重要文化財


■拜殿■
(24th April 2009)


 國重要文化財


■本殿■
(24th April 2009)



 國重要文化財


((コメント))

2009年4月24日

 長い、一日徒歩の旅の最終地。流石の私も疲労困憊状態であった。延喜式内社ということで行ったが、とても小さな境内であり、その古社としての姿は見られなかった。社殿が重要文化財というのは、おそらく、御室仁和寺とともに、社殿が造営されたことによるのであろう。ま、土地の氣を感じない社というのは、京都らしいので、こんなものだろう。

御靈社

2011年06月03日 02時35分06秒 | 近畿(奈良)
■社號標と鳥居■
(13th March 2009)



★御靈社★ 奈良県五條市中之

・舊社格は村社。

・祭は井上内親王。

・別名田宮。

・嘉禎四年(1238)二月、吉原、牧野の爭論により靈安寺の御靈社より分祀したと傳えられる。


■拜殿■
(13th March 2009)
 


■本殿■
(13th March 2009)


 國重要文化財(両脇殿含む)

・文明四年(1472)のもの。
・春日造で屋根は厚板段葺であるが、昭和五十五年の解體修理以前は檜瓦葺であったのを現寸引付図によって文化廰の手で建立當初の姿に復元させたのが現本殿。


■左脇殿(早良社)■
(13th March 2009)


・祭は早良親王(崇道天皇)。


■右脇殿(他戸社)■
(13th March 2009)


・祭は他戸親王。


■末社■
(13th March 2009)



((コメント))

2009年3月13日

 日本文化、道を勉強しているポーランド人女性を連れて、本殿が國重要文化財の中之の御靈社を訪問。文化財ということで喜んでいたようである。歴史にも少し知識があったので、祭の井上内親王や桓武天皇についても少し説明し、この五條に御靈系の社が多いことも話をして差し上げた。

 社に關しては、特別な氣を感じたりすることはないが、宮司さんがよく、清掃などをしており、境内が綺麗なために好感が持てるところである。