の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

國片主社 / 国片主神社

2013年10月30日 20時49分25秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■本殿■
(16th June 2011)



★國片主社★ 長崎県壱岐市芦辺町国分東触766

・延喜式内社、壹岐嶋壹岐郡、國片主社。

・舊社格は村社。

・祭は少彥名命。菅原道眞を配祀。

・古來、國分天と呼ばれ、唐土から石舟に乘ってやって來た唐田天を祀っていたが、天滿宮との混同により、國分天滿宮となった、とされる。

・當初、唐田天が天手長比賣社に比定されていたが、延寶の橘三喜による式内社査定により、國片主社に比定され、現在に到る。しかし、比定の根拠は示されておらず、當社が國片主社であるという根拠はない。

・壹岐七社の一社。


■鳥居■
(16th June 2011)

 


■拜殿■
(16th June 2011)




■幣殿■
(16th June 2011)



■本殿■
(16th June 2011)



■末社■
(16th June 2011)




■石額■
(16th June 2011)



■燈籠■
(16th June 2011)




((コメント))

2011年6月16日

 國分寺蹟の近くに鎭座。壹岐七社として、古來、崇敬篤い社ということなので、おそらくはいずれかの式内社であることには、ほぼ違いはないと思われるが、橘三喜が國片主社に比定した理由を殘していない爲にどうともいえないのが實情であろう。ただ、國分寺が置かれたということは、國府の近くであろうと思われるので、もう少し、何か確固たる物が殘っていてもよいように思うのだが。

 ところで、なぜか、壹岐の社では、本殿覆い屋が多いので、なんか本殿が見れる當社で、久久に社らしい建物を感じた。

兵主社 / 兵主神社

2013年10月30日 20時18分55秒 | 九州(福岡、佐賀、長崎、大分)
■拜殿、本殿覆い屋■
(16th June 2011)
 


★兵主社★ 長崎県壱岐市芦辺町深江本村触1616

・舊社格は村社。

・祭は素盞嗚尊、大己貴、事代主。

・創建年代由等不詳。

・舊號は日吉山王權現。

・延寶の式内社調査に當たった橘三喜は、所在不明の兵主社に苦慮した結果、勝本の聖母社を兵主社と査定し、その石額を新調し、當社を聖母社と査定し、聖母社の石額を外して、これを掲げしめた。ところが、延寶七年(1679)、箱崎八幡宮の祀官吉野末が、聖母社祀官後見として、その措置の非なるを陳べ、舊に復されんことを藩に嘆願、藩もその非を認め、當社に掲げた聖母社の石額を外し、聖母社に返還させた。問題は、その代わりに、再調査もせずして、聖母社に掲げられた新調の兵主社の石額を當社に掲げ、現在に至るという不祥事を起こしている。ゆえに、當社が延喜式内名大社である兵主社という根拠はない。


■鳥居■
(16th June 2011)



■參道■
(16th June 2011)



■拜殿■
(16th June 2011)
 


■本殿■
(16th June 2011)

 


■本殿後ろの石羣と磐座■
(16th June 2011)


 
 


■末社■
(16th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月16日

 境内案内などにはそれこそ、格を示すためか、延喜式内名大社とあるのだが、現實問題、誰がどう考えても正當な査定ではなく、ゆえに、當社が兵主社である根拠は皆無なのである。社自體が古いのかどうかは、また別の話である。なかなか石が多いところ。本殿の眞後ろは石が組まれており、土の中に磐の存在が見られ、登ったところにも磐がある。ただ、古代からの香りは感じない。

阿蘇比命陵墓

2013年10月30日 17時46分21秒 | 歴史上人物の墓所
■阿蘇比命陵墓■
(18th June 2011)


★阿蘇比命陵墓★ 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1 阿蘇社境内

・現在の阿蘇社の祭の一柱で、延喜式内社肥後國阿蘇郡阿蘇比社の祭。

・健磐龍命の妻に當たる。


((コメント))

2011年6月18日

 阿蘇比社の祭の陵墓とされる。健磐龍命陵墓と同樣、小さな墓所であるが、本當の墓なのか氣になるところである。

健磐龍命陵墓

2013年10月30日 17時35分39秒 | 歴史上人物の墓所
■健磐龍命陵墓■
(18th June 2011)



★健磐龍命陵墓★ 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1 阿蘇社境内

・日本話に登場する人物で、阿蘇社主祭。

・人皇第二代綏天皇の同母兄である八井耳命の子。

・阿蘇山のとしての性格も持つ。

・武天皇の命令により九州統治のために派遣された。

・伯父である彥八井耳命が居る森の草部に寄る。そこで彥八井耳命(草部吉見)の娘である阿蘇媛命と出會う。ここで共に阿蘇の開拓に努め、留まっているうちに阿蘇媛と仲良くなり、妻として迎えることになった。

・健磐龍命が草部から阿蘇へ向かう途中、外輪山から西を眺めると滿滿たる湖水がカルデラの中にあるのを見、その廣大さに感心し、水を流して田畑にすることを思いついた。湖水を流れ出るように外輪山の一部を力まかせに蹴ったが破れなかったが、そこは山が二重になっていて最も厚いところであった。以後、その場所は「二重峠」と呼ばれるようになった。次に別の場所を蹴ると見事に蹴破ることに成功。外輪山に穴が開いて湖水の水が流れ出し、作物ができる平野が生まれた。ここが今の立野火口である。「立野」の地名は、蹴った時に力餘って尻餠をついた命が、「もう立てぬ」と言われたためだけと傳えられている。また、蹴破ったところからは、湖水が一氣に西の方に流れ出て、數匹の鹿が流されてしまい、以後「數鹿流が瀧」と呼ばれるようになった。


((コメント))

2011年6月18日

 阿蘇社の境内にある。祭の陵墓である。玉垣に圍まれているが中に何か埋められているのであろうか。

阿蘇社 / 阿蘇神社

2013年10月30日 17時11分13秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■樓門■
(18th June 2011)



★阿蘇社★ 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1

・延喜式内社、肥後國阿蘇郡、健磐龍命社、名大。

・延喜式内社、肥後國阿蘇郡、阿蘇比社。

・舊社格は官幣大社。

・祭は阿蘇十二明。一の殿に一宮の健磐龍命、三宮の國龍、五宮の彥御子、七宮の新彥、九宮の若彥を、二の神殿に二宮の阿蘇比命、四宮の比御子、六宮の若比、八宮の新比、十宮の彌比を、殿に十一宮の國造速瓶玉、十二宮の金凝、および全國式内社祭三千百三十二座を祀る。

 

・肥後國一之宮。

・一宮祭建磐龍命は、本來は阿蘇火山のと考えられる。

・全國に約四百五十社ある阿蘇社の總本社。

・現在の二の殿が、肥後國二の宮阿蘇比社に當たる。

・孝靈天皇九年六月(281)、健磐龍命の子で初代阿蘇國造に任じられた國造速瓶玉命(阿蘇都比古命)が兩親を祀ったのに始まるという。

・『隋書』倭國傳には、『阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接するもの、俗以て異となし、因って禱祭を行う」とあり、土地の人人は、早くから阿蘇火山の靈異に對し禱祭を行っており、特に火口部の「石」が對象となっていたことが注目される。古代においては、立石が信仰の對象にされることが少なくないことを考慮すると、「タケイワタツ」とは「健磐立」が本義であった可能性が考えられる。

・「健磐立」より「健磐龍」と變化していくのは、單なる火山信仰より、「水」の性質を求めていったためであると推測される。

・『釋日本紀』が引く『肥後國風土記』逸文には、「頂に靈しき沼あり」と靈池の記載が見られ、『三代實錄』にも靈池の信仰が述べられている。

・阿蘇國造速瓶玉命とその后である雨宮媛命の陵とされる上御倉古墳、下御倉古墳と阿蘇の中嶽を結ぶ直線上のほぼ中ほどに阿蘇社が位置している。また、其の直線上に迎平古墳羣も竝び、それらのことから、阿蘇國造が阿蘇山の祭祀と關わりがあり、その遙拜所として設けた祭祀場が、阿蘇社になったことを物語る。

・肥後國一之宮とされて崇敬を受け、廣大な社領を有していたが、豐臣秀吉の九州征伐の際に社領を沒收され、後に改めて三百町の社地が寄進された。

・阿蘇山中嶽に奧宮山上社が鎭座。

・全國的にも珍しい參道で拜殿のほうに向いていない。參道の南には阿蘇火口、北には國造社が位置している。


■樓門■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・嘉永二年(1849)の建築。
・三一戸二階二重門、入母屋造、一階正面軒唐破風付、銅板葺。


■拜殿■
(18th June 2011)

 



■一の殿■
(18th June 2011)

 

 國重要文化財

・天保十一年(1830)の建築。
・桁行五、梁二、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、軒唐破風付向拜三間、銅板葺。
・拜殿に向かって左に位置する。


■二の殿■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・天保十三年(1832)の建築。
・桁行五、梁二、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、軒唐破風付向拜三、銅板葺。
・拜殿に向かって右に位置する。


■殿■
(18th June 2011)

 

 國重要文化財

・天保十四年(1833)の建築。
・三社流造、正面千鳥破風付、銅板葺。
・拜殿の眞後ろに位置する。


■願かけ石■
(18th June 2011)

 


■還御門■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・嘉永元年(1848)の建築。
・四脚門、切妻造、銅板葺。


■幸門■
(18th June 2011)


 國重要文化財

・嘉永元年(1848)の建築。
・四脚門、切妻造、銅板葺。


■末社北門守社■
(18th June 2011)


・祭は豐磐門戸、櫛磐門戸。


■木■
(18th June 2011)



■岩■
(18th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月18日

 二度目の訪問。阿蘇社に着いたときは、雨がかなり强い時帶であった。梅雨時ということも有り、また、特に集中豪雨が來ていたのだから、當然のことではあるが、最初から決めていた日程での九州旅行であることも踏まえると、ある種、龍からのメッセージであるように受け止めれる樣な氣がする。

 現在は十二のが祀られているが、本來は健磐龍一座であるはず、もしくは、肥後國二之宮になっている阿蘇比社の阿蘇比一座との二殿が中心なのであるが、拜殿から拜禮をすれば、正面には諸殿があり、十一宮に祀られる本社は國造社にある速瓶玉を拜す形になる。いつの頃からこの形式を持っているのかわからないが、一の殿、二の殿が肥後國一之宮、二之宮であるにも關わらず、不可思議なことであるが、これは、やはり、阿蘇氏が國造社を最重要視していたことを物語るのであろうか。