の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

那智御瀧(那智の瀧)

2012年06月02日 21時29分01秒 | 
■那智御瀧■
(6th October 2007)



★那智御瀧★ 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山

 世界遺産

・華嚴瀧、袋田瀧と竝び、日本三名瀑の一。

・華嚴瀧、布曳瀧と竝び、日本三瀧の一。

・落差百三十三メートル。

・熊野那智大社別宮飛瀧社體。

・瀧籠修行の行場として扱われた那智四十八瀧の一の瀧に當たる。


■鳥居■
(13th March 2009)
 

■瀧の姿■
(6th October 2007)
 


(13th March 2009)

 


■飛瀧社遙拜所と體那智御瀧■
(13th March 2009)



■那智御瀧と青岸渡寺■
(13th March 2009)
 


((コメント))

2007年10月6日

 行く前は、いい噂ばかりを聞いていただけに氣もなく、肩を透かされた感じで転倒しそうになった。まあ、風景としてはいい感じではあるが、それだけ。華嚴の方が好き。


2009年3月13日

 熊野三山の熊野那智大社に行くのが目的であったが、もちろん、この大瀧にも行かなくては意味がない。ポーランドは基本的に平野で、瀧はスロバキアなどとの國境のある山脈に一つ小さなのがあるだけであり、瀧を見るのは非常に珍しいために、是非にとポーランドの友人を案内してきた。。

 前回は龍もいなくなっており、カス同然であったのだが、雨のせいなのか、龍が戻ってきていたようであった。寫眞にもくっきりと寫っている。

倉社

2012年06月02日 20時23分48秒 | 近畿(三重、和歌山)
■本殿、ゴトビキ岩、袈裟岩■
(13th March 2009)



★倉社★ 和歌山県新宮市神倉1-13-8

 和歌山縣史跡

・祭は天照大、倉下命。

・熊野速玉大社境外攝社。

・熊野速玉大社の元宮ということになっている。

・體はゴトビキ岩(嚴密には頂部のゴトビキ岩とそれを支える袈裟岩)。

・倉山が當地における熊野權現最初の降臨地と傳承されることから「熊野根本大權現」「熊野速玉大社奥院」と稱された。

・歴史的な創建年代は景行天皇五十八年(128)と考えられているが、話時代にさかのぼる古くからの傳承がある。

・明治三年(1870)の臺風で建物が倒壊、明治四十年(1907)に速玉大社に合祀されたが、大正七年(1918)、ゴトビキ岩の海側の中腹に社殿を建てて復興となった。

・參道の自然石を積み上げた五百三十八の石段は源朝の寄進という。

・ゴトビキ岩は武紀にある「熊野の邑に到り、且ち天磐盾に登る」の天磐盾と考えられている。昭和三十年(1955)、社殿改築の際、現社殿と反對側の袈裟岩基部の穴から袈裟襷文銅鐸の破片大小二十二個が出土し、少なくとも彌生時代後期の祭祀の跡が實證された。

・吉野の山上ヶ岳にある御龜石を北の守護石とするとき、ゴトビキ岩は南の守護石とされる。

・熊野の花乃窟とゴトビキ岩は對に考えられ、花乃窟を隂石、ゴトビキ岩を陽石と見立てて信仰されてきた。

・佛習合時代には、新宮の實質的修験根本道場であった。

・明治の佛分離以前はゴトビキ岩の前面を覆い隠すように十一に七の倉權現の大きな本堂があり、「倉聖堂」「拜殿」と呼ばれたという。内部には愛染不動明王像(倉下命本地佛)と十一面觀音像(天照大本地佛)、秘佛の大天像があった。ゴトビキ岩後方尾根上に一ノ宮天照大、二ノ宮(本社とも)に倉下命を祀っていた。さらに境内社として、滿山社、子安社があり、石段途中に中ノ地藏堂、麓には御供所やかつての本願寺數ヶ寺、妙心寺、華嚴院、寶積院、三學院が「倉本願四ヶ寺」として殘り、倉權現の運營に當たった。

・應永三十四年(1427)、足利義滿側室北野殿の參詣があった。

・天正十六年(1588)には、羽柴秀長の木材奉行によって放火、境内がことごとく燒失した。


■橋■
(13th March 2009)
 


■末社猿田彦社、倉三寶荒社■
(13th March 2009)
 


■朱鳥居■
(13th March 2009)
 


■中ノ地藏堂小祠、火社■
(13th March 2009)
 

・中ノ地藏堂跡。


■自然石の石段■
(13th March 2009)
 


■本殿、ゴトビキ岩、袈裟岩■
(13th March 2009)



■ゴトビキ岩、袈裟岩■
(13th March 2009)
 


■袈裟岩■
(13th March 2009)

 

((コメント))

2009年3月13日

 せっかくなので、雨天で足場が惡かったが日本の古代信仰などもポーランドの知人に見せてあげようと思い、倉山を登った。ブーツのため、石段が非常に危険であり、医師団を必要とする展開になりかけた。ま、駄洒落はおいておいて・・・

 實際、雨で滑るため、袈裟岩を移動するのが危険でゴトビキ岩は触れず、眺めるだけとなってしまった。

 ところで、社殿は意味不明だ。そこまでして、東向きにしたいのか、と思う。社殿の脇にゴトビキ岩があるが、體であるはずのゴトビキ岩を拜する向きに建てられていない。どこ向いて拜むのですか?と聞きたい。非常に抜けだ。