の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

金峯社

2010年11月28日 14時05分36秒 | 近畿(奈良)
■源義經隠れ塔■
(10th October 2007)
 


★金峯神社★ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651

 世界遺産

・延喜式内社、大和國吉野郡、金峯社、名大、月次相嘗新嘗。

・舊社格は社。

・祭は金山毘古。当社では、金鉱を護持する地主として崇め、また、伊奘冉が悶熱(かれ)悩んで火の軻遇突智を産み、その際の嘔吐物から生まれたであることから「かれなやむ」を「枯れ悩む」の意とし、生物の枯死を防ぎ虫毒を除くをして、古來崇敬される。

・金精明、愛染の宮と呼ばれる。

・創祀年代は不明。林道春の社詳説には、古今皇代図説の記事を引いて「宣化天皇の三年和州金峯山に明出現、安閑天皇の靈と稱す」とあるが、詳かでない。吉野八社明の隨一であり、恐らく創祀は奈良以前にさかのぼると思われる。

・『文實録』仁壽二年(852)十一月九日條に「大和國金峯に特に從三位を加える」、翌三年五月十日條に「大和國金峯を以って名大社に預かる」などの記述が殘る。

・金峯山修験の興隆と佛習合思想の隆昌に伴い、平安時代から鎌倉時代にかけて當社付近に幾多の寺社堂塔が建立され、多くの僧俗の修行場となった。

・明治以前には金峯山寺藏王堂を口の宮、當社を奥の宮と稱したという。

・古代人の抱いた山への秘感などから、この山が黄金の産地に違いないという推測が生まれ、いつの間にか事實のように傳承されることになり、皇圓の『扶桑略記』の「道賢上人冥途記」では金峯山上は金色まばゆい黄金淨土の世界として描かれるにいたった。この地に、金鉱守護のとして金山毘古が祀られた所以という。

・聖武天皇が大佛鑄造のための金を求めたとも言われるが、藏王權現からここの金は彌勒出世のとき述べ敷くためのものだからと斷られ、その代わりに近江國で祈願するように言われ、ついに陸奥國で砂金産出の報を受けたという内容のことが『東大寺要録』に残る。

・吉野山には、金峯社、吉野水分社、勝手社の三つの古社があり、青根ヶ峯(吉野山の奥)に比定される芳野水分峯の神として包攝されていたが、金山毘古、天水分命、大山祇命の三靈として時の推移とともに分化し、それぞれ奉拜に便利な位置に勧請されたと考えられ、金峯社は山の地主との認識から水分峯に最も近い吉野の山の位置に祀られたと考えられている。

・『榮華物語』には藤原道長が詣でたことが記されている。


■修行門(一の鳥居)■
(6th December 2009)



■二の鳥居■
(10th October 2007)
 
(6th December 2009)



■拜殿■
(10th October 2007)

 

■本殿■
(10th October 2007)

(6th December 2009)



((コメント))

2007年10月10日

 源義經隠れ塔で知られるが、果たしてこれが平安末期から鎌倉時代にかけて立っていた當時の建物とは思わない。それに、もしそうであったらば、國寶か國重要文化財であるはずだからね。まあ、いずれにせよ、鎌倉殿より追討される立場になったときにこの辺りに來たのは、靜御前が中千本でとらわれていることからも確實である。傳承では、義經一行が三日ほどこの近辺に潜んだとの事。

 そして、さらに百メートル弱歩くと金峯山寺藏王堂奥の院といわれる金峯社が建つ。ここは、社務所が数年前に放火され全燒したが今は再建している。反對に同時期に全燒させられた勝手社はいまだに再建の目処が未だに立っていない。義經憎しの犯行なのか?


2009年12月6日

 久しぶりの金峯社。相変わらず、奥千本は寒い。いつもは殆んど訪れる人も少ないが、この日は何故か、最初に初老の夫婦、そして、二十代のカップル、最後にはなんと白人の男性二人と遭遇。さすが、世界遺産に含まれるだけあるというべきか。社自體は、あいも変わらず、奥千本の水と自然の香りを境内に漂わせているところである。

六孫王社

2010年11月28日 13時58分25秒 | 近畿(滋賀、京都)
■參道■
(16th January 2008)



★六孫王社★ 京都府京都市南区壬生川通八条角

・祭は源經基。

・社名は、清和天皇の六の宮であった貞純親王の子供で、天皇の孫であったことから、六孫王と呼ばれた經基王にちなむが、この呼び名は非常に不自然であり、また、經基王が生まれたとき父貞純親王が死んでいたにも関わらず、同父母からさらに弟經生王の存在が「尊卑分脈」に記され、その出自は謎である。孫に当たる河内守源信の殘した願文では、その出自は清和天皇の第一皇子陽成天皇の子元平親王の皇子に当たるとされる。

・社地は、源經基の邸宅「八條亭」の跡地という。

・多田社、壺井八幡宮と共に「源氏三社」の一つと言われている。

・應和元年(961)、經基は臨終に際し、「死後は龍となって邸内の池に住み、子孫の繁榮を祈るから、この地に葬るように」と遺言したといい嫡子の満仲は現社地に經基の墓所を建立し、その前に社殿を造営した。現在も、石積みの廟が殘っているという。しかし、經基と満仲の年齢的な問題、經基は少なくとも勇敢と呼ぶには程遠い人物であったことなどもあり、この由緒には大きな疑問が付きまとう。

・鎌倉時代、源實朝の妻の本覚尼がこの地に遍照心院(大通寺)を建立し、當社はその鎭守社とされた。

・中世、戰乱などにより社殿を失い、經基の墓所だけが殘されたが、元禄十三年(1700)、清和源氏末裔を自稱する川家の江戸幕府により社殿の再興が進められ、翌年には、正一位の階と權現号を授けられた。


■鳥居、參道■
(16th January 2008)



■唐門■
(16th January 2008)



■拜殿■
(16th January 2008)



((コメント))

2008年1月16日

 東寺北總門から少し西に行ったところに六孫王社が鎭座。二度目の訪問。拜まないので參拜とは書かない。暗くなってきており人はおらず、寂しい雰囲氣。境内は唐門から奥に入れず、拜殿まではいけないので、本殿もあるらしいが目にすることが出來ない。まあ、社というよりは、東照宮などのように、源氏の祖を祀っているというものなので、社という名の廟だという認識で見ている。

冨士御室淺間社

2010年11月28日 13時55分34秒 | 中部(新潟、長野、山梨)
■里宮拜殿■
(9th June 2008)



★冨士御室淺間社★ 山梨県南都留郡富士河口湖町

・舊社格は縣社。

・祭は木花咲耶姫命。

・通穪小室淺間明。

・文武天皇三年(699)に藤原義忠によって創建されたと伝えられ、富士山周辺では最古の社といわれる。

・「御室」という名は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことに由來するという。

・元元、富士山二合目にあったが、天徳二年(958)に、村上天皇によって氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建されたという。

・中世の修験道や近世の富士講と結びつき榮えたという。

・戰國時代は、武田信虎や晴信(信玄)により保護されたという。

・武田信玄による北條氏政に嫁いだ長女黄梅院の安産を祈願して奉納した願文が知られている。

・四月二十九日には流鏑馬事が行われるが、これは天慶三年(940)の藤原秀が平將門の乱を鎭定した帰りの戦勝を祝いの御禮祭で流鏑馬を奉納したことから始まるといい、現在は武田流流鏑馬事として行われている。

・昭和四十九年に富士二合目から本宮が里宮に移転となった。


■里宮拜殿■
(9th June 2008)
 


■里宮幣殿、本殿■
(9th June 2008)



■本宮門■
(9th June 2008)



■本宮本殿■
(9th June 2008)


 國重要文化財

・一間社入母屋造、向拜唐破風で、透かし掘りの彫刻が特長。
・慶長十七年(1612)に川家の家臣の鳥居成次によって建立。
・富士二合目に以前は本宮があったが、昭和四十九年(1974)に本宮も里宮鎭座地に移転となる。


((コメント))

2008年6月9日

 存在は知っていたが、基本的に淺間社系にさほど思い入れが無かったので行く予定ではなかったが、結局導かれたようである。雨が強くなってきたのであるが、ふと上を見ると、黒い龍が二匹と白い龍が一匹おられた。わしは待ち人であったのかね?

遠江國一之宮小國社

2010年11月27日 19時42分19秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■社殿■
(9th June 2008)



★遠江國一之宮小國神社★ 静岡県周智郡森町一宮字澤3956-1

・延喜式内社、遠江國周智郡、小國社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は、大己貴命。

・「小國」という社名は、出雲の「大國」に対する遠江の美稱であるとされる。

・創建時期は不明だが、社傳によれば、欽明天皇十六年(555)二月十八日、現在地より六キロほど離れた本宮山に靈が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたのに始まるという。このときに正一位の階が授けられたと社傳にはあるが、國史での當社の初見である『續日本後紀』承和七年(840)六月十四日條では、遠江國周智郡の無位の小國天に從五位下を授け奉るという記録があり、六國史終了時の階は從四位上。

・當社を一之宮として記載する史料の最初は、文暦二年(1235)の「当國鎭守小國一宮」という記述であり、江戸時代には「一宮社」と稱した。

・本宮山山頂には奥宮として奥磐戸社が祀られているが、その社域には杉の古木が立ち、眼下には遠江國が一望される。

・事待池のことより、許當麻知社、事任社とも呼ばれた。

・中世以降、朝廷の衰退により勅使が廃れたが、室町時代、戰國時代を通じて祭祀が途断えなかった。

・元龜三年(1572)、甲斐の武田信玄が遠江に侵攻した際、當社職は徳川家康に味方したという。


■一の大鳥居■
(9th June 2008)



■末社飯王子社■
(9th June 2008)


・祭は保食。
・社傳や古老によれば、昔、遠州横須賀地方に毎年、早天長雨のために五穀實らず住民がこぞって一之宮に詣で祈り、豆を捧げたところ村長の靈夢に「瑞殿を横須賀の方に向け保食を飯王子社と稱へ奉らば五穀みのらむ」という託があったらしい。


■參道、橋■
(9th June 2008)

 

■手水舎■
(9th June 2008)
 


■鉾執社■
(9th June 2008)


・社に奉仕された先祖代代の社家人の魂を仰ぎ本社の愈愈の御の御発揚を祈念し、人和樂主家を始めとする社家四十一家の祖先に感謝し社頭の隆昌人後裔の繁榮と加護をを祈念しと人との嚴鉾の中執持の功績を稱へ鉾執社として鎭祭されている。


■參道■
(9th June 2008)



■勅使參道杉竝木■
(9th June 2008)
 

 森町指定文化財

・人皇第二十九代欽明天皇の御代に奇瑞ありて天聴に達し正一位の階を授けられた。
・大寶元年(701)春十八日勅使が參向し十二段の舞樂を奉奏、以來毎年勅使奉幣し舞樂と奉奏せられた當時の勅使參道跡。
・一般參拜者は通行しない。


■事待池と八王子社■
(9th June 2008)
 
 

・祈願に來て、心願が成就すれば鯉を放つということから「事を待つ」ということで事待池となったらしい。
・池の水をいぼに塗るといぼが取れるということで「いぼとり池」ともいうらしい。
・八王子社祭は市杵島媛命、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命、天之菩卑能命、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘賣命、多岐津比賣命。


■全國一宮等合殿社■
(9th June 2008)


・延寶八年(1680)の社記、諸古文書の社頭配置図によると全國一宮等御祭七三柱が境内社として各所に祀られていた。
・明治の初めに本社燒失時または腐朽等により明治十五年(1882)より境内末社八王子社に仮に合祀されたものを平成元年(1989)十二月氏子崇敬者の守護として復興、鎭祭された。


■木「駒止の杉」■
(9th June 2008)



■舞殿■
(9th June 2008)
 


■拜殿■
(9th June 2008)

 


■本殿■
(9th June 2008)
 


((コメント))

2008年6月9日

 午前七時ごろに遠江國一之宮小國社に到着した。土砂降りのせいもあり、まだ薄暗い状態であった。雨にたたきつけられて、足は出だしからびしょびしょ・・・ 傘を差しながら雨に打たれ、參道を本社のほうへと進む。霧が立ち籠もり、幻想的で好きな感じではある。事待池と八王子社周辺はなかなか美しい景色。ただ、雰囲氣は不氣味な感じで晴れ晴れしい氣などは存在しない。實際、雨天ということもあるが、全體に暗い系の氣ではあるも重みがあり、幻想的でいい雰囲氣を社が出しているのがわかる。

 朝早く、激しい雨天のため人は誰もいないと思っていたら、障害を持っているらしき老女が熱心にお祈りをされている最中であった。私が帰るときも、まだ祈り續けられていたが、彼女にのご加護があるように願う。

駿河國一之宮富士山本宮淺間大社

2010年11月27日 19時33分57秒 | 中部(静岡、愛知、岐阜)
■樓門■
(10th June 2008)
 


★駿河國一之宮富士山本宮淺間大社★ 静岡県富士宮市宮町1-1

・延喜式内社、駿河國富士郡、淺間社、名大。

・舊社格は官幣大社。

・祭は木花之佐久夜毘賣命。天津日日子番能邇邇藝命と大山津見命を配祀。本來の祭は富士山の靈「淺間大」で、いつごろからか木花之佐久夜毘賣命と同一視され、定着したという。

・日本國内に千三百余にのぼる淺間社の總本宮で、大宮淺間とも言われる。

・本宮の名稱は、静岡淺間社の舊通稱淺間新宮を踏まえたものであるという。

・富士山の八合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、淺間大社の境内とされ、國との裁判の末、最裁判所が認めた。

・現社地は、式内富知社舊社地と傳えられる。

・第七代孝靈天皇の時に富士山が噴火し國中が荒れ果て、その後、十一代垂仁天皇が富士山の靈「淺間大」を鎭めるために、山宮の地に祀ったのが當社の始まりと伝わり、大同元年(806)、征夷大將軍坂上田村麻呂が勅を奉じ、山宮より、現社地である富知社舊社地へと遷したという。山宮の位置は、富士山表參道を現社地より、五キロメートルほど登った位置にあり、社殿のない磐境であったという。

・中世以降、武家の尊崇篤く、源朝をはじめとして源實朝、北條義時、足利尊氏、武田勝、中村一氏、豐臣秀吉らによる社領寄進、社殿造営と修復などが相次ぎ、川家康も朱印地を安堵、關が原の勝利を謝して慶長四年(1604)に社殿を再建した。


■二の鳥居■
(10th June 2008)



■流鏑馬銅像■
(10th June 2008)



■樓門■
(10th June 2008)



■鉾立石■
(10th June 2008)


・明治以前の春秋の大祭時に、靈を宿した鉾が本宮と山宮のを移動するときの休息時に鉾を安置した石。
・現在は、この石と山宮淺間社參道の二基しか殘っていないという。


■拜殿■
(10th June 2008)



■拜殿、本殿■
(10th June 2008)



■本殿■
(10th June 2008)


 國重要文化財

・川家康が關が原の戦いの勝利の御礼により寄進し造営されたものという。
・豪華なものであったのだが、寛永安政などの大地震のため倒壊し、現存するのは本殿と幣殿、拜殿、樓門のみという。
・『淺間造(二重樓閣造り)』という二階建ての獨特な造りをしている。


■攝社七之宮淺間社■
(10th June 2008)



■攝社三之宮淺間社■
(10th June 2008)



■末社水屋社■
(10th June 2008)



■湧玉池■
(10th June 2008)




 國特別天然記念物

・靈峰富士の雪解け水が溶岩のから川湧き出ている。
・水温は年間を通し、大体、約攝氏十三度。湧水量は一秒間に約3.6キロリットルで、年間ほぼ増減はない。
・昔から富士道者はこの池で身を清めて六根清淨を唱えながら登山する慣わしだという。


■富士山■
(19th May 2009)
 


((コメント))

2008年6月10日

 實際、社そのものには何も感じないというか、御氣のかけらもないのであるが、富士山自体が偉大なのでその靈力が滿ち溢れる感じである。拜殿の中は多少派手な感じではあるが、少し「錢がありますねん」という意思表示に見える。個人的には、卑しさしか感じない。

 現在は立派な鳥居が再建されているのだが、他の宗教はすべて罵倒する権力だけの團体創価學会のクレームにより一度撤去されているのは嘆かわしい限りだ。


2009年5月19日

 本栖湖の畔からしき富士を望む。流石である。