の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

足柄社

2010年04月26日 21時38分57秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拜殿■
(12th May 2009)



★足柄社★ 神奈川県南足柄市苅野

・舊社格は郷社。

・祭は瓊瓊杵尊と日本武尊。江戸時代以前は瓊瓊杵尊一柱を祀っており、明治以後、戦後まで日本武尊一柱を祀っていた。

・足柄郡十八ヶ村の氏。

・社傳によると、日本武尊が足柄峠を越えようとしたとき、樹木や草が生い茂り、前に進むことが出来ず、道に迷っているときに、白鹿が導くように尊の前方を走ったので、その白鹿に従って進み、ついに難所の足柄峠を越えることができたといい、この白鹿は足柄明の化身と考え、祀ったことに始まるという。

・『古事記』景行天皇の条には「悉に荒夫琉蝦夷等を言向け、亦山河の荒ぶる等を乎和して還り上幸す時に、足柄之坂本(現南足柄市関本)に到りまして御粮食す処に、其の坂の白き鹿に化りて来立ちき。爾其の咋遺の蒜の片端以て待ち打ちたまひしかば、其の目に中りて打ち殺さへたりき」とある。ただし、『日本書紀』では信濃國の山としている。

・『新編相模國風土記稿』には、「其後矢倉ヶ嶽(今も舊地に小祠を残す)に遷座せしかば、是より今の號を称す。」「應永の頃(1394-1412)は、既に矢倉沢に移せしなるべし。」「祭は瓊瓊杵尊、體木像を置く。」「相殿に明、淺間の二座を祀る。郡中十八村の鎮守なり云々」とある。

・戰前は矢倉社と称した。

・別当寺は弘齋寺であった。

・矢倉沢には江戸時代、箱根裏關の一つであった矢倉沢關跡があり、当社は典型的な峠のであったと考えられる。


■參道■
(12th May 2009)



■拜殿■
(12th May 2009)


 南足柄市指定文化財

■本殿■
(12th May 2009)


 南足柄市指定文化財


((コメント))

2009年5月12日

 この社は延喜式名帳に記載されていないが相模の古社の一つであり、古事記にも足柄明の話が見えるくらいである。

 なかなか、市の文化財だけあり、社殿は立派なものであり、重厚な印象であった。個人的には、社自体にいい印象を感じた。

玉列社

2010年04月26日 02時26分48秒 | 近畿(奈良)
■本殿■
(18th May 2008)
 


★玉列社★ 奈良県桜井市大字慈恩寺383

・延喜式内社、大和國城上郡、玉烈社。

・舊社格は村社。

・祭は玉列王子。天照大御、春日大を配祀。

・明治十年(1877)、官幣大社である大和國一之宮大社攝社となる。

・創建年代不詳。

・宮寺であった慈恩寺の絵図によると、現社殿の位置に春日社があり、玉列社は祓戸社の近くに鎭座していたらしい。

・江戸時代は玉椿大明と稱した。


■鳥居、社號標■
(18th May 2008)
 


■手水舎■
(18th May 2008)
 


■參道■
(18th May 2008)



■拜殿■
(18th May 2008)
 


■本殿■
(18th May 2008)
 


■誕生石■
(18th May 2008)
 


■末社祓戸社■
(18th May 2008)
 


■末社愛宕社(左)、猿田彦社(中)、金山彦社(右)■
(18th May 2008)
 


((コメント))

2008年5月18日

 玉列社であるが、參道はなかなかいい感じである。ま、鎭座地が、三輪山の麓であり、そちらを体とするような向きで、現在は祀られているところから、祭が誰か、と言うのに関係なく、三輪山の氣を分けられている形だ。ま、時間があれば、この周辺を歩き周り、色々と探すと、何か出てきそうなところである。来る価値はあるでしょう。

刺田比古社

2010年04月26日 02時24分03秒 | 近畿(三重、和歌山)
■拜殿■
(8th December 2007)



★刺田比古社★ 和歌山県和歌山市片岡町2-9

・延喜式内社、紀伊國名草郡、刺田比古社。

・舊社格は縣社。

・祭は道臣命(大伴氏祖)、大伴佐氐比古命(道臣命十世孫)。

・「刺田比古」という社名のことであるが、記紀を間違った読み方などをして、誤った解釈を多く後世に残すことになった國学者本居宣長は、根拠のない都合
のいい解釈をし、「刺田」を「刺國」の誤りだとして大國主命の父にあたる刺國彦命を祀る社と捉えている。そのために『紀伊國名所図會』や『紀伊續風土記』はこの説に従うという事態にまで発展している。そもそも、この近辺には大國主命を祀る社が数多く、名を誤ることは考えにくい。『和歌山縣史』(大正三年)引用の刺田比古社史によると、「刺田比古」は「サデヒコ」と読むべきだとしている。祭の佐弖比古命の表記違いの名が、次第に本来の読みを失ったことによるのではないかと推測している。『明治社誌料』などは、この説を踏襲したと思われる。それに対し、『甲斐國一之宮淺間社誌』(昭和五十四年)に掲載されている「古屋家家譜」。淺間社の社家で、大伴氏の流れを汲むという家柄だが、そこに、刺田比古命というのは道臣命の父であり、しかも道臣命は「生紀伊國名草郡片岡之地」とあり、片岡の里に生まれたと傳えている。他の大伴系図とは異なるのであるが、後世の偽造にあわずにこれが唯一の眞實を傳える系図かも知れない。そうなると、刺田比古社は本来はさらに一代の祖先刺田比古命を祀った社であると考えられる。

・佐氐比古命二十世の裔大伴武持が岡の里に住むに及び、大伴氏発祥であるこの地に祖、祖靈を祭祀したのが創祀という。

・天正年中、豐臣秀吉が和歌山城を築くにあたり本城鎭護の神として尊び、大伴の後裔岡本左介を社司とした。

・元和年中、徳川宣が紀州入城すると、城の守護たるこの社を崇敬し、社殿を修築し社寶を奉献、更に領地を寄進し、宮司を別当職として松生院に居住させた。

・八代將軍吉宗誕生の時、主岡本周防守長諄が仮親となったことから、吉宗より特別に崇敬をうけた。それより、「徳川吉宗公拾い親」ともいわれる。

・主岡本長刻より代々三年に一度上東し將軍に拜謁し、代替、繼目等の際は江戸にて拜謁する例となった。

・通称岡の宮。


■鳥居■
(8th December 2007)



■手水舎■
(8th December 2007)



■參道■
(28th April 2009)



■拜殿■
(8th December 2007)

(28th April 2009)
 


■本殿■
(28th April 2009)



■末社群■
(8th December 2007)



■末社辨財天社■
(28th April 2009)


 祭神は市杵島姫命。


■末社楠龍発達社■
(28th April 2009)



■末社金刀比羅社および宇須賣社(一殿)■
(28th April 2009)


 金刀比羅神社に大物主命、宇須賣神社に宇須賣命を祀る。


■『紀伊國名所図會』岡の宮の図■
(28th April 2009)
 


((コメント))

2007年12月8日

 以前二回とも和歌山城に行った時に地図を持っていなかった為か、発見できずにいた刺田比古社へついに到着。ここは、一般には江戸幕府八代将軍徳川吉宗の拾い親で知られているのであるが、特にその辺りにはまったく興味のない自分としては、行くには別の事情があった。大伴大連の祖を祀っている事から一般に大伴氏の氏として知られているのであるが、ここはまた大伴氏の一族といわれる紀伊國に広く分布した榎本連の氏でもあるのだ。大伴氏の氏がここにあり、大伴氏の没落を考えると、この地は大伴氏には重要な地方であって、榎本連というのは大伴の有力な位置にいたのではないのか、と思うわけだ。だから、熊野でも、古代では新宮別当が多かったのに鈴木、宇井の陰に隠れていったのもこの大伴の没落と関係があるのかもしれない。

 ところで、結婚式のあと宮司さんが話しかけてくれたのでしばし話をしてきた。表向きは大伴しか名を出していないのであるが、榎本連の祖である事も承知されているので、名を言った時に「おっ」という反応があった。宮司さんの先祖もまた有名な人で、今は岡本であるが、元は岡という名を名乗り、ゲーム「信長の野望」にも出てくる雑賀五人衆の一人で鉄砲の名手といわれ、本願寺の戦では織田信長に重傷を負わせた狙撃部隊を率いた大将であったといわれる岡吉正の長男の家系だそうだ。時に長男は出家していたために弟が跡を繼ぎ、長男は本家をはばかり、岡本としたそうだ。でも、由緒をよむと元々は岡本氏だったように思う。ちなみに、宮司さんは、和歌山出身の俳優で有名な小林稔侍さんの高校の同級生だそうで、今年の正月の特番であった「徳川吉宗」をするに当たって他の俳優とともに来られて話もされたそうだ。


2009年4月28日

 思うところがあり、刺田比古社へ再び參ってきた。二度目である。おそらく、これが最後になるとは思うけれど。今回来てことさら思うが、名草と比べると、距離的には非常に近いのに氣が全く違う種類のもののように感じ、非常に軽い。実際のところ、境内に隣接して古墳があり、本来、祀っていた対象が、道臣命の父刺田比古命であるとすれば、を感じて、お告げを聞いて、その地に創建とかではないであろうから、古代より祀られたる社とはやはり異なるものなのであろう。

須牟地社

2010年04月25日 03時05分24秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■境内■
(1st April 2009)



★須牟地社★ 大阪府大阪市住吉区長居西2-1-4

・延喜式内社、攝津國住吉郡、須牟地社、鍬靫。

・主祭は産靈大、手力男命、天兒屋根命。天日鷲命、大己貴命、宇賀魂命、少名彦命、素盞嗚命、住吉大を配祀。

・「須牟地」は「住道」とも記されるが、この住道に関しては、住道社が複数あり、かつ鎮座地が過去に移動しているため、不明な点が多い。

・『住吉大社代記』の子の条を受けた『社明細書』には「本社は初め住吉大社の北方住道と称する地(住吉区住吉町道北にして今尚住道堂残れりと謂ふ)に鎭座せしを託宣に依り天平元年(729)十一月七日に他の須牟地社等七社と共に河内國丹比郡楯原里(中河内郡矢田村字住道)に移祀せりといふ。其の後國郡改廃により世に景勝の地と知られたる長居浦なる南島(現社地)に三遷せられるものの如し」とある。

・元住吉大社宮司眞弓常忠氏は、もし本居宣長のいうように住道が住吉津より喜連に通ずる磯歯津路(呉坂)であるとすればその沿道の要所要所に祀られたのが住道の々ではないかといい、須牟地社がかつて所在したと伝えられる天山の地を「四極山」と考定している。

・住道諸社の元位置が不明なため、どうとも言えないが、住道は道の性格を持ち、遷座には新しい交通路の発展と古い交通路の衰退に影響されたと考える向きもある。

・『延喜式』玄蕃寮によると、新羅より客が來朝した折、酒を給すとあり、その行程に住道社は関わっており、外来の客人接待に重要な役割をになっていた。

・慶長年間、兵火にかかったが、豐臣の浪人多賀谷氏他四名の協力、元和四年八月二十一日再建されたとのこと。

・江戸時代中期、並河誠所の式内社比定以前は三宮と呼ばれた。


■社號標と木々■
(1st April 2009)



■鳥居と正門■
(1st April 2009)



■木と參道■
(1st April 2009)



■拜殿■
(1st April 2009)



■本殿■
(1st April 2009)



■須牟地社碑■
(1st April 2009)


 大阪市指定文化財

 元文元年(1736)九月、儒学者並河誠所の考証に基づき、所在が紛れていた式内社に比定された社二十社に設置された標石のうち、市内に所在する四基の一つ。


■末社農社■
(1st April 2009)


 大己貴命を祀る。今の長居墓地東北百メートル三つの池の中央に土塀をめぐらし一本の松の木の下に社があった。


((コメント))

2009年4月1日

 境内は木も少なく狭いのであるが、残っている木々がいい氣を出しており、社独特の空間を作り出しているといえる。々しいというべきかどうかはいえないが、何か特別なものを感じるところである。その地の氣というよりは、木々の氣によるものだと感じる。

東京大宮

2010年04月25日 02時56分53秒 | 関東(埼玉、東京、神奈川)
■拜殿■
(28th November 2009)


★東京大宮★ 東京都千代田区富士見二丁目4番1号

・祭は天照皇大、豐受大。天之御中主、高御産巣日、神御産巣日、倭比賣命を相殿に祀る。

・明治五年(1872)に開設された宮司庁東京出張所(伊勢宮事務機関である宮司庁と東京の教部省との連絡のための出張所)、および、翌年その構内に開設された東京宮教会(伊勢宮の教導機関である宮教院東京支部)の両所にあった殿を継承し、明治十三年(1880)四月十七日、有楽町の大隈重信邸跡に落成した皇大宮遙拜殿が当社の起源。

・当時の明治政府が目指していた祭政一致、大教宣布の一環として作られたもの。

・明治十五年(1882)一月、明治政府の社と宗教活動は分離するという方針転換により伊勢宮も宮司庁と宮教院を分離することになり、皇大宮遙拜殿は宮教院に属し、同年五月、宮教院が道宮派に改稱する際に、当社も大宮祠と改称。

・当初、所在地名から日比谷大宮と呼ばれていた。

・大正十二年(1923)の關東大震災で社殿を焼失し、昭和三年(1928)、現在地に再建、遷座して、以降は飯田橋大宮と呼ばれるようになったが、社としての形式ではなかった。

・第二次世界大戦後の昭和二十一年(1946)四月、宗教法人東京大宮として再発足。

・明治三十三年(1900)五月十日、日本で最初の前結婚式といわれる、明治天皇第三皇子の明宮嘉仁親王(後の大正天皇)と九條公爵家令嬢の九條節子(後の貞明皇后)との御結婚の儀が宮中三殿に於いて執り行われた。

・縁結びで知られる。


■鳥居、社號標■
(28th November 2009)



■拜殿■
(28th November 2009)



■末社飯富稻荷社■
(28th November 2009)


・祭は稻荷大、大地主大。


((コメント))

2009年11月28日

 大正天皇が結婚式をしたところだというので、勝手に大きなところをイメージしていたのだが、予想に反して非常に小さなところであり驚いた。さすがに、縁結びで知られるので、女の子の数が尋常ではなかった。殆んどが、恋御籤をひいていたようだった。

 東京大宮は、パワースポットとしても知られているらしいけど、はっきり言って、「はぁ?」という言葉以外は出てこないところであった。これが、パワースポットなら、熊野や吉野、葛城、桜井の殆んどの古社はすんごいパワースポットということになる。天性の光の御子には、全く轟きませぬ。