の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

College Street United Church

2014年08月20日 07時35分43秒 | 海外の聖地
■玄関■
(11th December 2013)
 


★College Street United Church★ 454 College Street, Toronto, ON, Canada

・1884年に創建。

・カナダ合同教会に属す。

・1925年に、カナダにおけるプロテスタント教派の中から、メソジスト、会衆派、および長老派教会の3分の2が合同して、カナダ合同教会が創設され、国会を通過した。


((コメント))

2013年12月11日

 Buthurst Street/College Streetの交差点にあるUnited Churchは入り口の戸の上にステンドグラスがあり、なかなかのところのように思う。閉まっていて入れなが、おそらく中もステンドグラスがあるのだろうと思う。しかし、教会という感じがしない。

天滿社 / 天満神社

2014年08月19日 03時00分57秒 | 近畿(奈良)
■拜殿■
(7th March 2013)
 


★天滿社★ 奈良県御所市冨田字出走

・祭は大倭帶日子國押入尊、菅原道眞。

・創建由等不明。


■遠景■
(7th March 2013)
 


■一之鳥居、社號標■
(7th March 2013)
 


■二之鳥居、拜殿■
(7th March 2013)
 


■本殿■
(7th March 2013)
 

・末社は五十鈴社、春日社、白鳥社(竝びは不明)。 


((コメント))

2013年3月7日

 琴彈原の日本武尊の墓所の近くに鎭座。祭の大倭帶日子國押入尊を大倭帶日子、國押入尊と二つに分けて考えている人たちがいるようであるが違いである。祭の大倭帶日子國押入尊とは、人皇第六代孝安天皇のことである。これがおそらく當社の主祭であり、菅原道眞は、後に廢れていた當社に、後に勸請されたものであり、各地の天滿社よくみられる流れであったことが推測される。御所は、もう少し研究する必要がある地のようである。個人的には、この鎭座地の小さな丘陵が圓墳ではないかと思っている。だれが眠っているのかは知らないが。

阿禮社奧社 / 阿礼神社奥社

2014年08月17日 03時17分26秒 | 中部(新潟、長野、山梨)
■鳥居■
(16th March 2012)



★阿禮社奧社★ 長野県塩尻市大字塩尻町字明神平

・延喜式内社、信濃國筑摩郡、阿禮社。

・舊社格は縣社。

・祭は素盞嗚命。

・『延喜式』の古寫本に「アレイ」「アレ」の二訓あるが、『信府統記』は「素盞嗚尊、出雲國簸ノ川上ノ大蛇ヲ斬リ平ヶ給ヒ、ソレヨリ信濃國鹽川上荒彥山ノ惡鬼ヲモ寶劔ヲ以テ擊チ鎭メ給ヒシ故ニ、劔ノニ依テ荒井大平ナリト云フ意ヲ、中比ニ和訓シテ所ノ名トシ、阿禮平ト稱ス、此尊則此嶺ニ化現マシマシシトナリ」と記している。

・かつて、奧社は五百砥山(醫王堂山)にあったがのちに現社地の柿澤の明平に遷されたという。五百砥登山が困難であるため、明平と舊蹟地五百砥山の中の原である御湯ヶ原にて遙拜式行ったといい、現在もこの原の一端に碑を立てて保存し、毎年五月一日、五百砥山祭のとき、碑前にて修祓の式を行うのを例とすると云う。

・仁壽元年(851)、この地に流行した疫病が明の効驗によって鎭まったとの傳えもあるが、年代等の眞僞は不明であるが、この明は素盞嗚と考えられる。

・古來、武運長久のと知られ、崇敬を受けている。大同二年(807)、坂上田村磨が敕命を奉じ、安曇郡有明山の兇賊を討つ時、戰勝祈願をし、また、治承四年(1180)、木曾次源義仲は當社にて必勝祈願後、鹽尻の豪族や諏訪一族に擧兵を要請したという。また、義仲は木曾柏原の城中に分靈社を建て奉齋。義仲沒落のとき、遺臣今井、梨の一族の者たちは社を上野國に奉遷したといい、今の羣馬縣澁川市鎭座の舊縣社木曾三社社に祀られる。


■社號標■
(16th March 2012)
 


■鳥居■
(16th March 2012)
 


■拜殿■
(16th March 2012)
 


■本殿■
(16th March 2012)
 


■木木■
(16th March 2012)
 


((コメント))

2012年3月16日

 國道二十號線と長野道が交差する近くの道沿いに鎭座。社前に車を停めれる廣い空があるのであるが、現在、封鎖されており、どうも、ここで何らかの問題があったことを示唆するような掲示が見られており、殘念である。

 現在の社地は道に面していることで簡單に行けるためにありがたみもなく、また、社地も狹いために、寂しい限りではあるが、實際、山を步いて登った時代を想像するとなかなか惡くなかったのであろうな、という思いを抱かずにおれなかった。

物部守屋墓所

2014年08月17日 01時45分30秒 | 歴史上人物の墓所
■物部守屋墓所■
(18th Febrary 2009)



★物部守屋墓所★ 大阪府八尾市東太子2丁目

・佛をかけて、聖太子、蘇我馬子と戰い、敗死したとされる物部弓削大連守屋の墓所。

・玉垣には、大和一之宮大社、春日大社、河内一之宮枚岡社、泉殿宮、石見國一之宮物部社、樣樣な道府縣の社廰、北海道宮、片埜社、信濃國一之宮諏訪大社、尾張國一之宮眞田社、乃木社、龍田大社、東京大宮、宗像大社、恩智社、木曾御嶽社、多賀大社、太宰府天滿宮、熊野那智大社、富岡八幡宮、伏見稻荷大社、石水八幡宮、近江宮、北野天滿宮、四條畷社、山城國一之宮賀茂別雷、御祖兩社、もちろん石上宮など大阪府下の社だけでなく、全國の錚錚たるたる社の名が刻まれる。


■玉垣■
(30th June 2008)




((コメント))

2008年6月30日

 不氣味なことに、その目と鼻の先には下の太子と呼ばれる大聖勝軍寺まであるのに、ひっそりと建つ。說明板などは一切なく、ただ、ひっそりと建つ。それこそ、物部弓削大連守屋の墓所といわれているところであり、社(道)の象徴としての寄進が玉垣に竝ぶ名前なのだろう。

 聖太子と蘇我馬子に無念にも敗れ命を落とした物部の當時のボスとも言える大連であった守屋。彼の墓であれば、無論、史蹟として扱い、觀光のためにも說明などを書いた案内板を置いとけばいいものであるのに、聖太子にはばからねばならぬのであろうか?

 父は、昔この近辺の支所で仕事をしていたためにこの地に何か近寄りがたい不氣味というか、恐ろしいというか、威壓する氣を感じていたようであるが、私はまったく何も感じることもなく、むしろ吸い寄せられるように向かい合っている。物部守屋の名に關するさまざまな史蹟は不氣味な雰圍氣のところが多いのであるが、なぜか、私はそれでもいつも行かねばならぬ何かを感じ、山の中であろうと入っていき、向かい合って歸ってくるのである。父方の先祖をたどれば大伴連という說もある。もちろん、物部連とも血緣にあったこともあると思われる。それが理由であれば、父もそのように扱われねばならぬのであるが、どうも、どこに行っても、私だけが特別に扱われているようである。もしかして、物部守屋の生まれ變わり? と思ったりし始めている。

2009年2月18日

 大阪から八尾周邊まで步いていたときに、ルートにあったので再び立ち寄る。何も變わらず、ただ、二月なのに暑い日ざしを受けるのみ。

サムハラ社 / サムハラ神社

2014年08月17日 01時34分39秒 | 近畿(大阪、兵庫)
■社號標■
(6th June 2012)



★サムハラ社★ 大阪府大阪市西区立売堀2-5-26

・祭は天御中主大、產巢日大、產巢日大。サムハラは三の總稱。

・奧の院が美作加茂にある。岡山県津山市加茂町中原899に鎭座の金刀比羅社の脇に鎭座する。

・昭和十年(1935)に萬年筆業界の先驅者で田中大元堂を經營していた田中富三が出身地の岡山縣苫田郡西加茂村(現在の津山市加茂町)にて舊い小祠の荒廢を嘆き、再興したのが本社の起源というが、翌年、岡山縣から無許可社で商品廣告しているとして自主撤去を求められ撤去に至る。

・戰後、祠は再建、社は大阪中之島の豐國社鄰接地に自費にて建立。

・昭和三十六年(1961)、現在地へ移築遷宮。

・サムハラは無傷無病、延命長壽のとして知られ、印西東大寺、雷山千如寺大悲王院など各地の寺社のお守りの呪文に使用されているという。


■鳥居■
(6th June 2012)
 


■手水舍■
(6th June 2012)
 


■拜殿■
(6th June 2012)





■本殿■
(6th June 2012)



((コメント))

2012年6月6日

 以前から氣になっていたサムハラ社へ行ってみた。滯在しているに數名參拜に來ていたところを見ると、地元の人たちの崇敬も篤いのであろう。個人的には感じるものはないところ、というか、異風な氣を感じるところであったが、大陸からの逸話、つまり紀元前の中國の曾子もあることから考えると、本來、大和にある元のではないのであろう。