の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

天野屋利兵衞墓所 / 天野屋利兵衛墓所

2014年07月28日 02時56分02秒 | 歴史上人物の墓所
■天野屋利兵衞墓■
(24th April 2009)



★天野屋利兵衞墓所★ 京都府京都市北区大将軍川端町2 地藏院境内

・赤穗藩お出入りの大坂商人と一般に傳えられる。

・義に厚く吉良邸討ち入りの支援をしたと傳わるが、赤穗とのつながりは確認されていない。

・『仮名手本忠臣藏』の天川屋儀兵衞のモデルで、元祿事件の際、赤穗浪士のため武具を調達し、のち自首して追放されたとされるが、證據はない。

・當時天野屋は岡山池田家、熊本細川家の御用を調達していたが、淺野家との經濟的な關係はないという。


((コメント))

2009年4月24日

 特に興味はなかったが、旅の通り道、石標に義商天野屋利兵衞墓があることが書かれていたので、少し立ち寄ることに。どちらかというと、赤穗事件の大石良雄たちが取った逆恨み的殺人事件には「義」というものは感じられないので、義商という言葉にも否定的である。

義民島田富重墓所 / 義民島田富重郎墓所

2014年07月28日 02時53分13秒 | 歴史上人物の墓所
■義民島田富重墓所■
(15th March 2012)
 


★義民島田富重墓所★  山梨県笛吹市石和町松本615

 笛吹市史蹟

・山梨郡松本村の名主。

・文久三年(1863)、長百姓となり信望を集めたが、明治五年(1872)、政府が布告した大小切稅法を巡り起きた騒動に際しその先頭に立ち、徒党强訴、暴動の科で絞首刑となった。

・明治二十二年(1889)、憲法發布記念大赦で罪を除かれ復權。


((コメント))

2012年3月15日

 各地にある、義民の墓所のひとつ。何處の地であろうとも、正しき訴えをしたとしても、身分差別のために死を賜るわけであるから、皮肉なものである。それが、江戶時代の姿なんだな。

熊野本宮大社 / 熊野本宮大社

2014年07月28日 02時41分00秒 | 近畿(三重、和歌山)
■鳥居■
(6th October 2007)



★熊野本宮大社★ 和歌山県田辺市本宮町本宮

 世界遺產

・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、熊野坐社、名大社。

・舊社格は官幣大社。

・第一殿は西御前といい、熊野牟須美大、事解之男(千手觀音)を祀る。

・第二殿は中御前といい、速玉之男(藥師如來)を祀る。

・第三殿は證誠殿といい、家美御子大(阿彌陀如來)を祀る。主祭。鎌倉時代に一遍上人が參籠し、託を受け、時宗を開いたという。

・第四殿は若宮といい、 天照大(十一面觀音)を祀る。

・中四社、下四社は舊社地鎭座時代、明治二十二年(1889)の大洪水で流出し、現在は舊社地大齋原の石祠にて祀られている。

・『熊野權現金剛藏王寶殿造功日記』により、少なくとも治四年(1090)には舊社地大齋原に社殿が存在したことが確認できる。

・現在は畦道を歩いて大齋原に行けるが、元元、熊野川の中洲にあたり、島に通じる橋は一切なく、上皇や貴族をはじめ、武士、庶民にいたるまで參詣者はすべて熊野川と音無川の流を徒渉して社地に入ることが原則であり、「ぬれわらじの入堂」と言われた。

・創建年代は不詳であるが、古書はすべて崇天皇の御代としている。

・『熊野畧記』によると、熊野權現は武天皇戌午十二月晦の夜半、インドの摩伽陀國より飛んで鎭西の彥山にとどまり、やがて四國の石鎚山に、次いで淡路の遊鶴峰に、さらに紀伊の無漏の切目に移り、續いて熊野の倉に、最後に阿須賀社の北の石淵に降臨、そこに鎭祭された。その後、家美御子大のみが熊野川上流の音無川、岩田川の合流點の櫟木に天下り、崇天皇の御代に社殿が創建されたという。傳說の域は出ない。

・熊野川の水への信仰と見るほうが妥當。

・出雲國一之宮熊野大社よりの勸請と言う說が定說化しているが根據が全くない。

・熊野に傳わる口傳には「崇天皇の夢見により、產田にお祭りされていた樣を熊野川、音無川、岩田川の合流點にある中洲に遷したのが、熊野本宮大社の始まり」といい、實際に、江戶時代までは產田社と熊野本宮大社では、同じ巫女舞が傳承されていた。現在も熊野本宮大社の例大祭の巫女舞において「有馬の」の下りがあるという。

・早くから佛習合形態(兩部道)をとり、吉野修驗と熊野修驗が結びついて以降、その地理的位置から修驗者の根據地として熊野三山の中で最も重視されるようになったが、江戶中期の明和年に唯一道(佛分離形態)に改めた。

・唯一道への轉換の際、社僧の大半は官に轉向したが、以後も彼らを特に「長床山伏」と稱した。


■鳥居■
(14th September 2008)
 
(13th March 2009)

(1st January 2012)



■參道■
(13th March 2009)
 
(1st January 2012)
 


■功靈社■
(6th October 2007)

(13th March 2009)
 

・戰爭で命を落とされた我我の先輩たちを祀る。

■末社祓戶社■
(13th March 2009)
 


■手水舍■
(6th October 2007)
 


■門■
(6th October 2007)
 
(13th March 2009)
 


■奉納額■
(6th October 2007)
 


■上四社本殿(第一殿、第二殿相殿)■
(6th October 2007)


 
(14th September 2008)
 
(13th March 2009)

 


■上四社本殿(向かって左から第三殿、第四殿)■
(6th October 2007)

(14th September 2008)
 
(13th March 2009)

(1st January 2012)
 


■上四社本殿(第三殿)■
(6th October 2007)

(13th March 2009)
 
(1st January 2012)
 


■上四社本殿(第四殿)■
(6th October 2007)

(13th March 2009)
 
(1st January 2012)
 

 國重要文化財(上四社本殿三棟)

・洪水のため、舊社地の社殿が流された折に生き殘り、遷座となったもの。


■滿山社■
(6th October 2007)

(13th March 2009)
 
(1st January 2012)

 

・八百萬のを祀る。


■官幣大社熊野本宮大社社號標■
(6th October 2007)
 


■祈禱殿■
(6th October 2007)



((コメント))

2007年10月6日

 本宮の感想は、なんか、樣のいない抜け殻のような社で何も感じないし、やっていることがエゴイスティックで淺慮なので、氣分が惡くなるような大社。建物だけの話になれば、屋根といい、形は好みではある。でも、社はそれだけだと駄目だからね。しさがまったくない社。

2008年9月14日

 十一時ごろに熊野本宮大社に到著。個人的には、先祖との色色な歷史的な經緯もあり、非常に嫌いなところであるが、世界遺產であるし、兩親が行ったことないといっていたので、コースに入れた。

 ま、相變わらず、境内に入ると、その社側の醜い姿勢が顯著で吐き氣がする。熊野の中でももっとも、欲でどろどろとしているところだ。氣もほとんどなく、殘り香程度であるし、いずれは、野心だけの社になりそうだ。

2009年3月13日

 ポーランドの友人の歸國前の案内も兼ねていたので、個人的には好きではないが世界遺產ということで立ち寄ることにした。雨が少しきつくなってきていたこともあり、參拜客は少なかった。雨で社殿が濡れており、檜皮葺の屋根が美しく見えていた。

2012年1月1日

 大齋原のあと、熊野本宮大社の現社地へも行ってみる。相變わらず卑しい氣が漂う。正月の初詣に際し、アルバイトを雇っているのはわかるが、若者に著させる衣裝にも氣を使うべきであろう。白い服を上にまとえばなんでもいいというわけではない。そのようなものを通して、お守りにしろ、破魔矢にしろ買う者に對して失礼極まりないといえる。さらにいけていないことに、上四社本殿第一殿第二殿合殿の屋根を修復中ということで、隱されていたのが頂けない。

熊野速玉大社 / 熊野速玉大社

2014年07月28日 02時20分32秒 | 近畿(三重、和歌山)
■拜殿■
(14th September 2008)



★熊野速玉大社★ 和歌山県新宮市新宮1

 世界遺產

・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、熊野早玉社、大。

・舊社格は官幣大社。

・祭は熊野速玉大、熊野夫須美大。現在、本宮や那智と相互に主祭を勸請し合い、三所權現として祭り、さらに熊野に祭られる他のを五所王子、四所明とし、合わせ祀る。

上四社

 第一殿  速玉宮  熊野速玉大(伊奘諾尊、藥師如來)
 第二殿  結宮   熊野夫須美大(伊弉册尊、千手觀音)
 第三殿  證誠殿  家津美御子命(阿彌陀如來)、國常立命
 第四殿  若宮   天照大(十一面觀音)

中四社

 第五殿  禪地宮  天忍穗耳命(地藏菩薩)
 第六殿  聖宮   瓊瓊杵命(龍樹菩薩)
 第七殿  兒宮   彥火火出見命(如意輪觀音)
 第八殿  子守宮  鸕鷀草葺不合命(聖觀音)

下四社

 第九殿  一萬宮  豐斟淳命(文殊菩薩)
      十萬宮  國狹槌命(普賢菩薩)
 第十殿  勸請宮  埿土煮命(釋迦如來)
 第十一殿 飛行宮  大斗之道命(不動明王)
 第十二殿 米持宮  面足命(毘沙門天)

・全國熊野社總本宮。

・通稱「熊野新宮」。

・古くは熊野十二所權現と呼ばれ、明治の佛分離の後、熊野皇大宮、熊野早玉社を經て、熊野速玉大社の名稱となった。

・明治十六年(1883)、熊野河原の打ち上げ花火が飛び火し、紀伊藩主が天保七年(1836)より十九年かけて建てた壯麗な社殿が全燒した。

・創立年代は不詳。

・熊野最古の緣起とされる『熊野權現御垂迹緣起』によると、熊野權現は唐の天臺山から飛行して日本國鎭西の日子山に八角の水晶の姿で降臨し、五年後に伊豫國の石鉄の峯に遷り、六年後に淡路の遊鶴の峯へ、さらに六年後に紀伊國牟婁郡切部山の西の玉那木の淵の松の木の下に降臨した。そして、五十七年を經て熊野新宮の南の藏の峯に天降り、六十一年後に新宮の東の阿須賀の社の北の石淵の谷に遷って結、速玉と家津御子の二宇の社に祀られたという。

・『熊野畧記』によると、熊野權現は武天皇戌午十二月晦の夜半、インドの摩伽陀國より飛んで鎭西の彥山にとどまり、やがて四國の石鎚山に、次いで淡路の遊鶴峰に、さらに紀伊の無勞漏の切目に移り、續いて熊野の倉に、最後に阿須賀社の北の石淵に降臨、そこに鎭祭されたという。

・景行天皇五十八年(128)に現在地に奉遷したという。

・「新宮」の名稱について、熊野速玉大社の公式見解としては、元宮とする倉社に對して新しく宮を作ったので新宮と號したとしているが、一般に社殿は體山や磐座に背を向け、拜すように建てられるものであるが、全く、元宮としている倉社を拜すように建てられておらず、また、例大祭に關して、馬渡御式は主祭、御舟祭は準主祭の祭といわれながら、倉社には無緣の祭であり、その主張は疑わしい。

・地理的な關係からも倉信仰と速玉信仰は別のものであった可能性がい。祭事の性質からも、おそらくは熊野川に關係する水信仰であると考えられる。

・中央の正史や古記錄においては常に新宮、本宮の順に記されていることから、中央政府には新宮のほうが重要視されていたと考えられる。

・中世、熊野詣が流行った折、後白河上皇三十三度、後鳥上皇二十九度、鳥上皇二十三度、白河上皇十二度、待賢門院九度、修明門院六度、美門院、七條院が四度、建春門院、八條院が三度、後嵯峨上皇、道法法親王が二度、宇多上皇、花山法皇、崇上皇、龜山上皇、殷富門院、承明門院、隂明門院、大宮院、東二條院、玄輝門院、道助法親王が一度參詣されている。


■橋、社號標、鳥居■
(14th September 2008)
 
(13th March 2009)

(9th April 2009)


(1st January 2012)



■手水舍■
(1st January 2012)
 


■門■
(14th September 2008)

(13th March 2009)

(9th April 2009)
 
(1st January 2012)
 


■拜殿■
(14th September 2008)
 
(13th March 2009)
 
 
 
(9th April 2009)


(1st January 2012)


 


■本殿(結宮、速玉宮)■
(14th September 2008)
 


■中四社本殿■
(13th March 2009)
 
(9th April 2009)


(1st January 2012)




■下四社本殿■
(13th March 2009)

(9th April 2009)
 
(1st January 2012)
 


■社殿■
(9th April 2009)
 
(1st January 2012)
 


■末社新宮社■
(13th March 2009)

(9th April 2009)
 


■末社熊野惠比壽社■
(13th March 2009)  
 



■參詣皇族一覽■
(13th March 2009)
 


■末社八咫烏社(向かって右)、鑰宮手力男社■
(14th September 2008)

(13th March 2009)
 


(八咫烏社)

・祭は建角見命。

(鑰宮手力男社)

・延喜式内社、紀伊國牟婁郡、天手力男社、論社。
・祭は天之手力男命。
・舊社地不明。


■木なぎ■
(13th March 2009)
 
(9th April 2009)
 


■熊野川■
(9th April 2009)



■御舟島■
(9th April 2009)
 


((コメント))

2008年9月14日

 三重県熊野市にある「かんぽの宿熊野」に宿泊の予定であったので新宮まで下り、そこから、國道四十二號線で海岸線を北上する予定であったのだが、その近くに、世界遺產である熊野速玉大社が鎭座しており、兩親が行ったことない、というので立ち寄ることにした。

 熊野三山の中では、一番心地よいところである。私の先祖の產田社とは因緣ある柄ではあるが。


2009年3月13日

 少し小雨が降っている中、參拜。境内で詣で餅を購入。熊野本宮と違い、ここで、販賣されているおばさんは非常に愛想がよく、本宮の店のものには見習って欲しいくらいであった。

2009年4月9日

 もう何度目になるか覺えていない。多分、四回目と思う。緣があると思ってきたが、實際のところ、何らかの緣があるところだが、世で言われている產田有馬氏の出自の說は多分、違っていると思われるので、どちらかというと、敵對していたところなのだろう。ま、それでも、武東征以前での一族の可能性もあるからなんともいえないのだけど。

 ま、何で、今回、新宮にまた行ったか、というと、重要な位置づけであるはずの御舟島に行きそびれていたために、それを見るために行ったのである。ま、個人的に感想としては、イマイチで、やはり、周りが開發に晒されると何もかも失われていくのだな、という思いであった。

細川忠興およびガラシャ墓所

2014年07月27日 05時00分39秒 | 歴史上人物の墓所
■細川忠興及びガラシャ墓所■
(24th April 2009)
 


★細川忠興及びガラシャ墓所★ 京都府京都市北区紫野大徳寺町73-1 臨濟宗大寺派本山大寺塔頭桐院境内

・細川忠興が生前愛好したというこの石燈籠を墓石としたという。

・鎌倉時代の作で、元元、千利休祕藏。

・「天下一」という稱をもつ燈籠であったが、豐臣秀吉と忠興の兩雄から請われたため、利休は故意に裏面の三分の一を欠き、壊れ物だと言い、秀吉の要望を退けたという。

・千利休切腹の際、利休は改めてこれを忠興に贈ったといわれる。


((コメント))

2009年4月24日

 今宮社に行く途中大寺の中を通っていると、桐院が公開しているとあり、愛する明智光秀の三女細川ガラシャの墓があるとのことで、立ち寄ることとした。ちなみに、尊敬する石田三成の墓のある寺院は公開しておらず殘念な限りである。