の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

菊池社

2011年08月25日 22時02分21秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■菊池武光公像■ 
(17th June 2011)
  


★菊池社★ 熊本県菊池市隈府1257

・舊社格は別格官幣社。

・祭は菊池武時、菊池武重、菊池武光。

・建武中興十五社のうちの一。

・菊池氏の一族二十六柱を配祀。

・菊池城跡に鎭座。

・慶應四年(1868)、熊本藩主の分家、長岡護美の建言により、明治天皇が熊本藩に菊池氏を顯賞し祭祀を行うよう命じたことにより創建。


■一之鳥居■
(17th June 2011)



■參道■
(17th June 2011)
 


■二之鳥居■
(17th June 2011)
 


■參道石段■
(17th June 2011)
 


■手水舎■
(17th June 2011)
 


■門■
(17th June 2011)



■拜殿■
(17th June 2011)




■本殿■ 
(17th June 2011)
 


■攝社城山社■
(17th June 2011)

 


■菊池武時公像■
(17th June 2011)
 


越中國一之宮社

2011年08月22日 00時15分28秒 | 中部(富山、石川、福井)
■一の鳥居■
(22nd June 2008)



★越中國一之宮社★ 富山県南砺市高瀬291

 南砺市史跡

・延喜式内社、越中國礪波郡、社。

・舊社格は國幣小社。

・祭は大己貴命。天活玉命、五十猛命を配祀。併せて、礪波郡内の氏と越中國内の式内社三十四座のを祀る。

・創建年代、由緒等不詳。景行天皇の御代ともいわれる。

・天武天皇御代、當社へ勅使を遣わされ、その後、光仁天皇寶龜十一年(780)に從五位に、更に清和天皇貞觀元年(859)に正三位、治承四年(1180)に正一位に列されると共に多くの社領荘園があり、皇室の御領にもなったことがある。

・佛混淆の社であり、三百坊の勸學院を擁していた。

・中世、越中國の一向宗徒が光城主の石黒氏を滅ぼし、その領地にあった當社は一向宗徒の支配下に入った。その際、一部の職が雄山社に転じている。その後も、両社の關係は續き、現在、宮司は兼任。

・江戸時代になると崇敬心の厚い加賀藩主の保護により威は昂揚した。


■參道■
(22nd June 2008)



■手水舎■
(22nd June 2008)



■手水鉢内の國史跡高遺跡で発掘された木材の一部■
(22nd June 2008)



■二の鳥居■
(22nd June 2008)



■拜殿■
(22nd June 2008)




■本殿■
(22nd June 2008)



((コメント)) 

2008年6月22日

 雨天の午後五時半と到着が遅かったので、若干暗くなってきていて、何となく重い感があった。期待していたのとは違うどっしりした印象である。雄山社と通じるものがあるのを感じた。手水はユニークで、手水鉢の中には國史跡の遺跡で発掘された木材の一部が沈められている。乾燥すると崩れるので水中に置いているらしい。

甲波宿禰社

2011年08月22日 00時07分53秒 | 関東(栃木、茨城、千葉、群馬)
■拜殿■
(15th May 2009)



★甲波宿禰社★ 群馬県渋川市川島字南大塚1287

・延喜式内社、上野國群馬郡、甲波宿禰社、論社。

・舊社格は社。

・祭は速秋津彦、速秋津姫。大山祇、譽田別、大物主、倉稻魂、水波之賣を配祀。

・上野國四之宮。

・社名の「かわすくね」は「川」の「直根」で「川の本流」を意味するという。

・祖母島の武内社を甲波宿禰社とすると、吾妻川に沿って、川島、祖母島、箱島が三社竝立していたことが考えられ、筑前國宗像大社、住吉社などの水、海を祀る社との共通点が推測される。

・創建由緒等不詳。

・『續日本紀』承和十三年(846)に、無位から從五位下に叙され、『文實録』嘉祥三年(850)に官社に列せられている。元慶四年(880)には從四位下にまで昇っている。

・天明三年(1783)、淺間山の大噴火により溶岩が川を堰き止めた折に、洪水により完全に流出したという。

・この地区には大豪族の存在は見受けられず、國司が特に天災地変を恐れて祭祀を執行したことにはじまったことが推察されている。


■社號標■
(15th May 2009)
 

 
■參道■
(15th May 2009)
 


■鳥居■
(15th May 2009)
 


■拜殿■
(15th May 2009)
 


■扁額■
(15th May 2009)
 


■本殿■
(15th May 2009)
 


■末社石祠群■
(15th May 2009)
 


■末社明社■
(15th May 2009)
 


■末社諏訪社■
(15th May 2009)



((コメント))

2009年5月15日

 三社竝立の説が唱えられていたりするようであるが、『上野國名帳の研究』で尾崎博士、さらに、社系のホームページでは知られている玄松子氏が、丹生川上社を引き合いに出しているようであるが、いささかそこには疑問が伴う。宗像であったり、住吉に關しては同意できるが、丹生川上社の三社に關しては事情が異なる。丹生川上社は、廃れてどれかわからずに三社を次次に比定していったために、三社が生まれただけのことであり、そもそも、三社が互いの分祀であったりするわけではなかった。

 社は、綺麗なところであったが、どうしても奈良出身のため、地元の社を基準に考えてしまうので、殘念ながらどうしてもイマイチにしか思えない。

薄野一目社

2011年08月21日 21時16分35秒 | 九州(宮崎、熊本、鹿児島、沖縄)
■二之鳥居、隨門■
(17th June 2011)
 


★薄野一目社★ 熊本県山鹿市久原字薄野

・舊社格は村社。

・祭は天目一箇。

・創建年代不詳。

・社傳によると、繼體天皇四年(510)十一月、天山の主若山連の後裔吉田氏が祀ったとされる。

・古くは山鹿市の中心部の杉山という地に「目一箇男」を祀っていたという傳承が殘る。

・傳承によると、往古舊三玉村蒲生の不動岩と舊三嶽村彦嶽權現が首引きをした時、この地にあってわが子の首引を案じていた母の目に首引きの大綱の端が當たり一目をうしなわれたので、その母を祀って一ツ目社と稱するようになったという。

・口碑では、杉山よりこの地に遷されたと言うが、社の近くの池畔に鉄滓の出るところがあり、この地も古い時代の採鉱、冶金に縁由がある。この池は夜止命の池といい、「此池水滿レバ世間豐榮シ水涸レバ世上困衰スト云、此池ニ水晶アリト云モ實ヲ知ラズ」と傳える。

・社地周辺の山に舊銅山があり、峠を越えた深倉の鍛冶屋敷というところから鉄滓が出る事實があることから、周囲に銅山労働者が住みついて、天目一箇を祀る人たちの信仰がすでにあった可能性が示唆される。

・周辺の山には、往古、修験道の中心となった巨石の磐座を中心に十六坊があったという。

・久原の北西にある震嶽を天山といい、一目社の祭祀は「天山ノ主祭之」と言い傳えるなど、周辺の山と深い繋がりを持つ。

・本居宣長によると、當時、肥後各地の樂歌に、鍛冶、冶金のを祀る一目社のことが歌われていたという。


■鳥居■
(17th June 2011)
 


■池■
(17th June 2011)


 
■二之鳥居、隨門■
(17th June 2011)



■隨門■
(17th June 2011)
 


■一目社域石碑■
(17th June 2011)
 


■拜殿■
(17th June 2011)

 


■拜殿、本殿■
(17th June 2011)
 


■本殿■
(17th June 2011)

 


■末社熊野坐社■
(17th June 2011)
 


■末社木幡社、稻荷社、天滿宮■
(17th June 2011)
 


■本殿背後の山■
(17th June 2011)
 


■世止命池■
(17th June 2011)


 

■水田■
(17th June 2011)
 


((コメント))

2011年6月17日

「日本の神々」に載っている山鹿の一目社を目指した。一應、公道ではあるが、狹い道で、行き過ぎないように愼重に運転していると、道沿いに石鳥居が見えてきたために無事到着。大きな池と、周囲にはのどかな田園があり、その中に人人を見守るように鎭座している。美しく、のどかで優しい感じの社であるが、その優しさの裏には、やはり古代ののもつ「畏怖」させる力の存在を感じさせてくれる。興味深い社である。

國王社

2011年08月20日 16時53分18秒 | 近畿(奈良)
■本殿と境内社(全五殿)■
(13th March 2009)



★國王社★ 奈良県吉野郡十津川村上野地

・祭は長慶天皇。

・南朝文中二年(1373)創祀という。長慶天皇自害、水葬の際、御首が流れてきたのを祀ったことに創祀とすると傳えられてきているが、おそらくは、長慶天皇の勅願宮として建てられたのが創祀であろうと思われる。


■國道沿いの鳥居■
(13th March 2009)

 

■正面鳥居■
(13th March 2009)

 

■拜殿、本殿■
(13th March 2009)
 


■本殿■
(13th March 2009)
 


■南帝陵御首塚■
(13th March 2009)


・この地に潜居していた人皇第九十八代長慶天皇が北朝勢に追われ、無念にも天河五色谷で自害された。時に應永元年(1394)であったという。遺体は水葬されたが、數日後、河津平の淵に御首が現れ、里人が長慶天皇の勅願宮河津國王社の傍に奉葬したという。
・のちに、御首塚は頭の様として崇め奉られるようになった。長慶天皇が優れた文学者であったことに由來するのかもしれない。


((コメント))

2009年3月13日

 谷のつり橋を過ぎて、國道を熊野新宮方面へ走るとカーブの先に國王社の看板が見える。氣になっていたのであるが、一度も行っておらず、調べると長慶天皇に關係のあるところであるということであったので、寄ってみた。

 本來、十津川という地は隣接する周囲の村とも一線を隔し、獨特な特殊な文化の中で過ごしてきている地区である。この十津川には、寺を建てることは許されず、社も玉置社のみとされ、それが十津川村で唯一の信仰であったところである。明治以前は、死者は式で祀っていたのもそのためである。そういう文化の村に、長慶天皇關係の社がいくつかあるのである。これは、非常に注目しなければいけない事柄である。

 文中二年(1373)の鎭座というが、祭が長慶天皇であるのであれば、勅願宮として建てたときの祭は消されたのであろうか。玉置のか、天河弁財天か、住吉のであったのだろうか。海はないが、熊野水軍の力を背景にしていた時代であったらば、水の戦住吉であったのかもしれない。だが、それは事實であったのであろうか。年号が文中ではなく元中の間違いであったらば、やはり、祭は長慶天皇であり、その魂を鎭めるために建てられたのかも知れないと思うわけである。

 國王社が勅願宮であったと『大和誌』にあるそうだが、實は別に社の歴史などで信用できない記述があったことから、正直信できかねるのである。

 ただ、十津川の人々たちは、六百年來、長慶天皇の在位を確信し、奉祀してきている事實がある。