の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

花乃窟社 / 花乃窟神社

2014年11月08日 05時48分40秒 | 近畿(三重、和歌山)
■花の岩屋■
(14th September 2008)



★花乃窟社★ 三重県熊野市有馬町上地130

 國史蹟、世界遺產(熊野參詣道)

・祭は伊弉册尊、軻遇突智尊。

・明治時代に社の位格を與えられたが、元元、明治期までは地元の人人は、產田社を氏、花乃岩屋を陵として祀っていた。地元の人の話によると、明治政府が佛分離を示すのに利用され社とされたということである。

・社號標には「日本最古花の窟社」とあるが、社となったのは明治期であり、正しくなく、むしろ、陵である。

・『日本書紀』に、伊弉册尊は軻遇突智尊(火の)の出產時に隂部を燒かれて死に、「紀伊國熊野の有馬村」に埋葬され、以來、近鄰の住人たちは、季節の花を供えて伊弉册尊を祀ったと記されているが、その葬地とされる。

・花乃窟の名稱は「花を供えて祀った岩屋」ということによるものであるという。

・花乃窟と呼ばれるさ七十メートルの巨岩壁に伊弉册尊の靈が宿るとする。

・王子乃窟(聖乃窟)と呼ばれるさ十二メートルの巨岩には軻遇突智命の靈が宿るとされる。

・一說には、產田社が伊弉册尊の墓所、花乃窟が軻遇突智命の墓所とも傳えられる。

・「お綱かけ事」が行われることで知られるが、土地の口碑によると、この祭禮には毎年朝廷から錦の幡が贈られていたが、あるとき、運ぶ途中、舟が熊野川の洪水によって破れて流され、そのため祭日にに合わず、繩で幡の形を作り、その後は錦の幡の下賜も絕え、繩の幡に代えられるようになったというが、眞僞のほど、いつの時代の頃の話なのかは不明。

・花乃窟は巨大な隂石に見立てられており、新宮市倉社のゴトビキ岩が陽石に見立てられ、對をなすとされている。

・那智の補陀落山寺を中心に水葬の習俗があったことが傳えられており、五來重氏は、那智沖の綱切島まで使者を運び、そこで水葬する風習があったのではないかと言われている。さらに、尾畑喜一氏は紀伊國田邊の蹟の浦に「人捨場」と呼ばれる海岸があったことを報告されている。このような水葬の習俗を考えたとき、常世と國土との架け橋を示すのがお綱かけ事となっていると考えることも出來る。

・『熊野市史』には、地元研究者の說として、古代人が太陽を迎えた場所ではないかとする說、死者の魂が甦る依り代であるという說、岩の窪みが女隂系であることから地母に見立てて信仰されていたという說を載せている。

・地元の人の話では、韓國の統一會はこの地を、彼らの始まりの地として崇拜しているという。

・花の岩屋の「ハナ」の語源に關しては說ある。ひとつは、伊弉册陵に古代より、花を供えて、お祭りしてきたためであるという說、岩屋の上のほうに目や鼻のような窪みや出っ張りがあるのだが、そこの鼻から取られたという說、數字の一をハングルでは「ハナ」といい、朝鮮民族がこの地に渡來したことに始まり、その最初の意味で「ハナ」といったという說など、いろいろある。

・鳥居の近くは、以前は川であったという。


■鳥居、社號標■
(9th April 2009)
 
(20th March 2010)
 
(1st January 2012)
 


■參道■
(13th March 2009)

(1st January 2012)

 
 
 

■手水舍近くの木■
(20th March 2010)
 


■手水舍■
(9th April 2009)
 


■石「受けの」■
(20th March 2010)

(1st January 2012)
 

・祭は豐受大。
・花の岩屋の「女隂」に対する男の性のシンボルのひとつである睾丸と見たてている。


■花の岩屋■
(13th March 2009)
 
(9th April 2009)

 
(1st January 2012)
 
 


■本來の體(拜所)■
(20th March 2010)

 
(1st January 2012)



・花の岩屋が明治時代に社となる以前に、拜まれていたところ。
・割れ目が磐の上のほうまで續き、女隂の象徴として祀られていた。
・社となったとき、體が女隂であると、あまりにも生生しいということで現在の形となったという。
・參道のほぼ正面にある。


■王子乃窟(聖乃窟)■
(14th September 2008)

(9th April 2009)
 
(20th March 2010)
 
(1st January 2012)

 


■「花の岩屋」石碑■
(9th April 2009)
 
(20th March 2010)


・享保八年(1723)、紀伊川家六代目藩主川宗直奉納。
・この石は、樟の化石であり、熊本縣產。阿蘇山の噴火の結果できた化石という。經緯としては、產田社棟梁であった有馬產田氏に堀内家から入婿し、後を强引に繼いだとされる堀内氏善が、新宮別當職を繼ぎ、後に關が原合戰にて、西軍に屬したため、所領沒收の上、熊本に流されることになったのであるが、紀州藩初代藩主川宣の正室瑤林院が肥後熊本藩主加藤正の娘であった事から、この立石を取り寄せることになったという。しかし、熊本藩加藤家の改易などいろいろな經緯があったことから、この立石が和歌山に屆けられるのには何十年もかかったという。


■浦島草■
(20th March 2010)


・花の先から出る蔓が、浦島太が釣りをしている姿に見えるということでこの名がついたという。


((コメント))

2008年9月14日

 花乃窟は、一應、『日本書紀』で言うところの伊弉册と軻遇突智の墓ということになっている。入り口には大層に「日本最古花の窟社」と銘された社號標を立てているが、實際、『延喜式』名帳にその名はなく、古代よりその名は知られていたにも關わらず、社として考えられていたとは思われない。また、本來、その社としての格としては、『延喜式』名帳に記されてしかるべき產田社も記されていないことから、『延喜式』が編纂された時代には、この地は大和朝廷に完全に支配されていなかった可能性が非常にい。ま、いずれにせよ、明治時代になり、明治政府が餘計なことをするまでは、この地は墓と見做されていたことだけは事實である。社などを周ると、明治政府が宗に色々な餘計なことをしているのに出會うが、壬申戸籍を作ったという汚點のような政策もあるし、信仰や傳統文化もかなり破壊したように感じる。個人的には、明治維新政府が嫌いで、實際、「維新」ではなく、政治主權の乘っ取りと考えているので憎惡の對象である。

2009年3月13日

 世界遺產の一部であることからポーランド人の友人を案内。社號標に「日本最古」と書かれていることを話し、實はそうではないことを說明してあげたりしたのだが、なかなか興味深い話であったらしい。しかし、こういう社號標を作ると眞に受ける馬鹿が多いから、怖いものだ。

2009年4月9日

 產田社の次は時があったので、花乃窟にも立ち寄った。軻遇突智のモデルになったであろう人と自分に何らかの緣を感じるので、再び行ってみたのである。ま、答えなんぞは、永遠にわからないものなのだが。

2010年3月20日

 朝、少し遅めに奈良を出立。目的は產田社にカナダより歸國後の最初の挨拶である。熊野市に入って、花乃窟へ行くべきかどうか、と惱んでいたのだが、せっかくなので立ち寄ってきたのだが、そのおかげで新たな情報を得ることができた。

 寫眞を撮って、境内に入り、拜殿をくぐると老齡の男性が手招きをするので、最初は、まあ、知っていることばかり聞かされるのか、と思っていたのだが、いくつか、私が言葉を言ったところで、ちょっと詳しいと思ってくれたのか、普通の案内ではあまり話をしないことを話し始めてくれた。その中で、元元、花の岩屋という大きな磐を拜む場所が現在のところとは異なるということをえていただくことになった。それは、現在の拜所殻數メートルほど離れたところにある縦に長く走る割れたような線のところであった。そして、知っている地元の人なのか、そこにもいくつか、白い石を置いて、お參りしている人がいることが見てとれた。

 ところで、丹敷戸畔の話も出てきたのだが、「ニシキ」という言葉が殘るところは、最終的に北海道に行ったアイヌ民族が住んでいたところとされているようで、この近邊もそうではなかったか、という說もあるとのことであった。そういう面では、この花の岩屋は、私の思ったことと同じく、丹敷戸畔を祀ると考えることもできる、ということであった。そう考えると、アイヌもエミシも同系ということになるのか。

 この後、しばらく茶屋の前で地元のおばちゃんたちとも話すことになったのだが、やはり、地元の人としては、花乃窟ではなく、產田社にもっと人に參って欲しい、といい、それをどうにかしたい、といわれていた。產田社は謎が多く、戰火で文書が消失しているために、何もわからないというべき狀態のため、地元の人としては、打つ手がなかなか思い浮かばないのかもしれない。ただ、實は、ちょっと、產田社の御體を追及したい私としては、いろいろと訊ねてみると產田川を登ったところにある池川集落のほうにマナイタ石というところがあるとえてくださった。ここが、奧宮ではないのだろうか、と思わざるを得ない。マナイタは眞名井戸と書くので、明らかに水である龍を守っていると考えて差し支えはなく、產田川のといっても良いであろう。

 實は、產田社の次に大馬社へも行こうと思っていたのでそこの話も尋ねると、いろいろとえてくれた。一般には坂上田村麻呂の鬼退治後に、鎭座と思われているが、實はそれ以前より、齋と忌の氏族により祀られており、大麻社といったらしい、と聞いた。齋と忌はすなわち、忌部氏(齋部氏)である。忌部も海人族であり、阿波、安房だけでなく、紀伊半島でもそれなりの勢力を持っていたのである。大麻社という名前からは、阿波國一之宮大麻比古社に繫がり、なるほど、忌部に繋がるのである。ちなみに、この近くには、熊野市井戸町というところがあるが、これは合倂による地名だそうで、井土(イツチ)と戸の合倂で生まれた地名であるそうだが、このイツチというのは、齋(いつき)の住す地という意味だ、ということで、こういうことを考えると、丹敷戸畔で語られるこの地域の先住民は、イズモ族、土蜘蛛族、アイヌ族、海人族などいろいろな民族が共存していたことが、容易に推測され、そこに武東征の名で入ってきたものたちが、共存という思想を持たない獨裁思想の人たちであったことが推測されるというものである。これは後に、中臣鎌足に始まる藤原氏のようであり、彼らは、一切、他族を殿上に入れようとしなかった一族であることから、その民族の性格が見てとれる。想像するよりも凄慘な大戰爭だったに違いない。

 ところで、エビスの話も出てきて、蛭子と戎の違いを話し、西宮社と美保社が各各の總本宮だということをおばちゃんたちにえてあげた。ちなみに、戎は「エビス」すなわち「夷」なのである。よそ者という意味だが、美保社は出雲大社と對で考えられることから、やはり、イズモ族のことではないのだろうか、と思わざるを得ない。

 結局、予定より長話をして立ち去ることになり、内社と烏止野社は諦めることになった。

2012年1月1日

 產田社の次に參拜。產田社に向かう途上、花乃窟のを通ったときは、駐車場にも車が停められないくらいであったが、少し、時を外すと少し空いてきており、ゆっくりと參ることが出來た。境内參道を步いている時に、うどんを振舞われていたのであるが、參拜前に配るのはあまりよろしくないとおもうので、少し考えられたほうがよいと思う。心意氣はいいのだが・・・

 しかし、九月の臺風のダメージが强く殘っており、三月の訪問時に案内に來てくれた老人やまないた樣についての情報を下さった、產田社の掃除をして下さっていたというおばさんたちと話をした茶屋や鳥居前の駐車場がごっそりと無くなっている事には、正直、衝擊を受けた。