の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

平群坐紀氏社

2012年08月11日 13時26分21秒 | 近畿(奈良)
■鳥居■
(19th January 2009)

 

★平群坐紀氏社★ 奈良県生駒郡平群町上庄3

・延喜式内社、大和國平群郡、平群坐紀氏社、名大、月次新嘗。

・舊社格は村社。

・祭は都久宿禰(平群木菟宿禰)、天兒屋根命。天照大、八幡大を配祀。『社要錄』は紀直祖歟、『大和志料』は祭不詳、『名帳考證』に紀武内宿禰命とあり、本來の祭は不明であるが、紀氏祖であろうと思われる。

・上庄、椣原、西向の氏。

・近世には「辻の宮」または「椿の宮」とも称された。「椿の宮」と呼ばれたことからも、元元、現在地より二キロメートルほど南の「椿井」にあったものと見られている。

・『類聚國史』によると、天長元年(824)八月二十一日、紀百繼、末成らの奏聞により幣帛の例に預かり、『日本紀略』には、天長六年(829)四月十六日、山城國愛宕郡の丘一處が百繼に下賜されて地となった、という記載がある。貞觀十二年(870)の「某長解寫」に、「平群東條一平群里」十三坪、十四坪の地が石川眞主から紀春世に賣却されたとあり、その保證刀禰のなかに紀氏世、本男の名が見える。また、この文書はこの土地の南に接して「紀氏地」があったことを記す。紀百繼、末成、春世、氏世、本男が紀氏のいかなる系統に属するかは不明であるが、大字三里にある三里古墳が和歌山の紀ノ川沿岸に分布する石棚を持つ古墳と同形式のものといわれているため、紀伊の紀氏の系統ではないかと推測されている。

・平群の地から龍田川を南下すれば斑鳩であり、富雄川、葛城川とも合流。 大和川にも近く、水運の紀臣が難波津、住吉への水路も支配しようとしていたことが考えられる。


■拜殿■
(19th January 2009)



■本殿■
(19th January 2009)

 

■末社春日社■
(19th January 2009)



((コメント))

2009年1月19日

 紀氏社。古代には大勢力を持っていた紀伊國造家でもあった紀臣の社。名前からすると、紀氏の祖を祀る最重要社のように思うが、それにしては規模が小さすぎる。とはいえ、藤原の春日社、物部の石上宮のような大社が紀氏には見られない。實際のところは、國懸宮が本當の紀氏の社だとは思うが。この社は名大社ということであるが、これは、政戰で敗れて沒落した紀氏の長谷雄が『延喜式』編纂に關わったのが大きな理由だと思われる。そうすると、かなり紀氏にとっては重要な位置づけであった可能性もある。まあ、このあたりは謎である。しかし、何も感じない社であった、と言わざるをえない。

吉備内親王墓所

2012年08月11日 12時05分53秒 | 天皇陵、皇族墓所
■入り口■
(19th January 2009)



★吉備内親王墓所★ 奈良県生駒郡平群町大字梨本

・長屋王の妃。

・草壁皇子と元明天皇の次女。文武天皇、元正天皇の姉妹に當たる。

・根拠のない密告による長屋王謀反の咎による自殺に際し、三人の子、膳夫王、葛木王、鉤取王とともに縊死。


■吉備内親王墓所■
(19th January 2009)
 


((コメント))

2009年1月19日

 長屋王の墓所より少し山手にその妃であった吉備内親王の墓所があったので行ってきた。同日にお亡くなりになったのだから、夫婦と三人の王子も同じ場所に葬ってあげればよかったのにと思う。